3-18:冥夜の宴8
※残酷な描写有り。
闘技場に降り立った女王は、黒い魔獣をその雷で破壊し尽くし、いまだ逃げ切れぬ領民を守っていた。
折角の宴を潰され、なおかつ北の領王としての面子も潰され、その内面は怒り狂っている。たが感情に任せて会場を破壊することなどできない。鬱屈の溜まるような思いをしながら討伐に当たっていた。
この混乱に乗じての二次犯罪を防ぐため、ネブラスカやアクセル達に外のことは任せてある。もう一つだけ気に掛かることがあるが、それには意識をやらず、女王はすぐさま気持ちを切り替えた。
ネブラスカが各所に配置した護衛に目配せし、クロムフォードや黒い魔獣の攻撃が民へ飛散しないよう入り口を囲わせる。全ての入り口が封鎖されたのを確認すると、闘技場にいる黒い合成魔獣をグシャリと踏み潰しながら、騒ぎの原因を睨みつけた。
「御機嫌麗しゅうございます。サフィーア女王陛下。今回の催しは如何でしたかな?」
軽薄な笑みを刻むクロムフォードに、女王はその眦を釣り上げて体の端々に稲光を纏わせる。蒼色の体に反射した光が煌き、その体を美しく見せていた。
「最悪じゃ。自領の民まで無作為に殺しおって何が催しか!」
「あれあれ、随分とお怒りですねえ? お気に召しませんでしたか?」
「たわけ!」
クロムフォードの顔に付けられた黒い仮面。それが女王の咆哮一つで弾き落とされ、床に落ちて粉々になる。そこから見えたのは若い少年の姿だった。
茶色の髪に上下で濃淡の違う紫の瞳。まるで人形のように整った顔立ちには甘さがあり、黙っていれば美少年とも言える美しさがある。幼さの残る容姿に反して身のうちから溢れ出るような妖艶さがあり、その気迫には確かに王としての凄みも持ち合わせていた。
その証拠にクロムフォードは女王から射殺すような視線を諸共せず、地に落ちたシルクハットを掬い上げ楽しげに笑う。
「どうしてこんな事をしたのえ」
「だって生ぬるいじゃないですか。闘技場などではなく、初めから殺し合いにすればいいのですよ。だから弱いものばかりが集まってしまうんです。その証拠に私が創りだした魔獣を誰一人も殺せないじゃないですか。弱く無能の集まりの小競り合いなど見ていても退屈なだけだ」
「約定を忘れたかえ」
領土間での諍いは起こさず、また戦もしない。魔王の決めた理の一つだ。
三領はその昔、数千年にも渡ってお互いの領土を奪い合い、殺し合ってきた歴史があった。血で血を洗うような凄惨な戦いを、当時魔王という役目にすら無かった男が止め、その争いを無理矢理にねじ伏せた。
そして頂点に立った魔王は三領に約定を結ばせ、今後もしも大きな戦を起こした場合、首謀者である王の首と共に、連帯責任として領民の大多数の首を撥ねる。そんな約定を交わした。
そうした約定を結ばされたからこそ、領民達の親睦を深めさせるために過去の王達はあらゆる手段を尽くしてきた。日々の積み重ねによって現在ではついに、領土間の民通しの婚姻まで成されるようにまでなったのである。
あれほどいがみ合ってきた種族がやっと。
過去それに奮闘してきた親世代を知っているからこその感慨深さだ。
そして今の平和な世を楽しめぬ、すでに亡くなった親達に敬意を示すために、女王はこの合同の宴の場を作ったのである。会場に配置した遊びはそのおまけ程度のものだ。
そんな折にこのような暴挙を起こしたクロムフォードを、女王は許せるはずもない。
また領王であるにも関わらず、さっさととんずらした南のヴォルド王にも苛立っていた。どいつもこいつも、と腸煮えくり返る思いで女王は目の色を黒い珠のように光らせていく。
「嫌だなぁ。色惚けしている糞ジジイと高慢な糞ババアの意見を聞いて、これでも譲歩してやってんですよ? なのに開いてみりゃ、なんですかこりゃ。ったくばっかばかしいにもほどがある。そんな糞みたいな祭りに付き合わされるこっちの身にもなってくださいよ」
「なんじゃと……」
「────ツマンネえって言ってんだよ。この宴をもっと最高のものにするには、もっといい手があるだろうが」
ガラリと口調の変わったクロムフォードはその美しい顔を陰惨に歪めて笑う。
「いまこそ三王で頂点を決めればいい。無能はすべて殺し、強いものだけの理想の地を作ればいい。今回死んだ奴らはその肥やしだ。どうせ暫くすれば代わりはボコボコ産まれてくんだから構わねえだろ。なあ女王陛下サマ」
「そこまで堕ちたか……」
「堕ちた? ハハハハッ! これから墜ちんのはてめえだ、ババア」
「サフィーア陛下!! 後ろです!」
護衛の一人の叫びが飛び、その触手の一端を幅広の剣で切り捨てる。
しかしすでに女王の体には複数の黒い触手が絡みつき、その行動を制限していた。闘技場の中心に埋まっている黒い魔獣。まるでその中へ引きずり込むかのように更に黒の触手を伸ばし、女王の体を巻き込んでいく。
そして触手の先端を矢尻のように鋭く尖らせると、捉えている女王の体を一斉に突き破ろうとしていた。
「わらわに気安く触れるなッ!」
一手、二手と順に風を切って飛びかかる触手群。それを全てを右の張り手で叩き潰す。びちびちと手の内で暴れるそれに、黒の瞳がキラリと閃いた刹那、稲光が落ちてその触手をすべて焼き焦がした。
女王の爪一つを先端に添えただけで、炭の塊になった触手がぼろりと剥がれ落ちる。けれどもそれはすぐに復元し、沢山の矢尻を作りその的を女王へと定めていた。
護衛はその周りにいる黒い魔獣を括り殺し、それが容易でないとわかると女王に向かって防御魔法を張る。僅かながらもその魔法が女王の体を守り、黒い触手を弾き飛ばす。
女王はすべてを切り裂き、触手に雷を当てていく。
しかし徐々にその攻撃は吸収され、黒い魔獣の体が膨大に膨れ上がる。ぶよぶよと膨張する体と、蓄積されていく稲光に気がついた女王は、背の翼を大きく広げて護衛を後方へと下がらせた。
「退避せよ!」
女王の叫びを機に一気に黒い魔獣から放出された雷。中心から無作為に放出されたその雷の威力は凄まじく、女王のみならず地伝いに周囲の護衛にまで影響を及ぼす。
「ぐッ!!」
「さ、サフィーア陛下ッ! ご、ご無事ですかッ!」
「……わらわの事は気にするでない。ぬしらは後方に下がっておれ」
先ほど放たれた雷の影響か、壁が破壊され瓦礫が作られたその場。土煙の上がるその場に翼をはためかせ、周囲の見通しを良くした女王は、僅かに痛む翼に目を眇めた。先程は気が付かなかったが、大きく広げたあの時、翼にはくっきりと深い傷が付いていた。だがそれにも構わず、女王は更にその爪を閃かせ黒い魔獣を切り裂いていく。
「おもしれえだろ? 学習機能付きでよ。これまでの選手の戦闘を見せただけで、行動を模倣し、攻撃を吸収させるよう強化してある。材料代が大分掛かったけどなぁ。うまくいってよかったぜぇ」
「この……ッ!」
「陛下ッ! 今すぐ離れてください!」
「あーあ。ウゼエおっさんが来ちまった。────やれ、クロスケ」
「オォォオン!」
「させるか!」
叫ぶようなネブラスカの声の方の後、黒い物体が蠢き、体から放たれたのは無数の鋭い針。まるでハリネズミように鋭い棘が女王の体を貫く寸前────。
「ネブラスカ隊長!」
「隊長……ッ!!」
ネブラスカの体が盾になり、その攻撃をすべて弾き落とす。
その体は女王よりも大きく、外殻は棘をすべて折り曲げてしまう程、鎧のように強靭であった。漆を塗ったように光沢のある固い体を持つ真っ赤な竜は、その体をますます岩のよう鋼殻化させ、黒い物体の刺をねじ伏せる。
そして完全に竜体になったネブラスカは、なおも纏わり付こうとする黒い魔獣を、その口から放たれる業火で燃やし尽くす。
「私の愛する陛下に触れおって! 灰と化せッ!!」
「……まだぬしのではない」
呆れたような女王の声にも構わず、吐き出される赤い炎。一部残さず灰になった黒い物体は、生焦げた嫌な匂いをさせながら、その場にプスプスと音を立て燻り出す。
その場にいる黒い魔獣が全て燃やし尽くされ、あっさりと付いたその決着に、何故かクロムフォードは腹を抱えて笑いだした。
その目に見えるのは狂喜。
常人ではありえないその色に、女王もネブラスカも何の感情の色も示さずに静かに睨む。
「ああ! ああ、楽しい! やっぱり上層階の力は迫力が違う! さいっこうの気分だぜえ!」
「そうかえ。────ならばその心のままに死ねッ!」
女王のその張り手一つでクロムフォードの体が吹っ飛ぶ。その体に竜体のままに足を掛け、一息に踏みつぶした。
グシャリという音の後に、足元から流れ落ちるのは蒼い体液。それを最後まで見ること無く、女王はネブラスカを見やる。
「随分とあっさり終わったの」
「そうで御座いますな。だがあの方はこの程度ではやられますまい」
「うむ……」
腐っても東の王。その強さは女王と同等である。しかし強さは別として王としては愚に等しい。その残虐さを知っていたからこそ領土間で牽制しあい、大きな諍いを起こさぬように努めてきた。しかし今回、粗の見えるクロムフォードの襲撃に女王は渋面を示した。
「クロムフォードがこの用な愚を犯すのはいつもの事だがの。……にしても何かが引っかかる。そういえばアクセル達はどうしたのえ?」
思案する女王に、ネブラスカは少しだけバツの悪そうな顔で咳払いをしながら報告を続けた。
「急ぎでしたゆえ、避難誘導の方をアクセル様に。現在の報告によれば魔王領の方々と連携して噴水広場の方に仮の医療施設を設置し、救護に当たっております」
「まったく……。肝心な時で役に立たぬ馬鹿男じゃ」
苛立ち紛れのため息をつく女王に、居心地悪そうに背を丸めたネブラスカ。それを見て女王は更に嘆息を付くと、その体を小さく変化させて闘技場に降り立つ。周囲を見まわし何か異変はないか確認し始めたとき、モモコの事を思い出してその目を閃かせる。
首に付けられた目から周囲の状況を見ようとしたとき、まったくそれが機能していないことを知る。
「どういう事じゃ?」
何度試してさえ真っ暗に染まったままの視界。それに女王は珍しくも少し焦り始めていた。
「ネブラスカ」
「はい、陛下」
「モモコはどこじゃ?」
手繰り寄せるようにその手を閃かせ、目の刻印に集中する。各護衛にも付けられたそれを一つ一つ確かめたとき、その一つに異変を感じ、女王はその額にくっきりと青筋を刻む。
「おのれ……ッ!!」
「陛下。如何されました?」
女王の視界に見えたのは中身を食い荒らされた護衛の姿、そして割れた銀の認識票とチョーカーだった。女王が手のひらに映しだした映像を見たネブラスカは瞬時に青ざめ、しかし表情を引き締めるとぎりりとその歯を食いしばる。
「すぐに捜索に当たります……!」
「待て」
「陛下! しかし……ッ!」
「従え。無論ただでは終わらせん。領民のみならず、わらわの所有物を横からぶん取ったのじゃ。それ相応の礼をせねばの。周囲の状況を記録。警備の亡骸からして、黒い合成魔獣もおそらく外に紛れておるかもしれん。検問を布き可能なら一体捕獲せよ。被害者、死者の身元を確認するのえ。一部残さず詳細にな」
先程の黒い魔獣の攻撃が当たったのだろう。瓦礫の中に埋れ、呻いている護衛を二三人引き上げながら、女王はその顔に僅かな笑みを刻む。
「それと皆よくやった。怪我をした者は速やかに体を休めよ」
「ハ……ッ!」
女王の手から渡された部下を引き取り、その場にいた護衛たちが一斉に女王に一礼し速やかに動き出す。完全に破壊された闘技場の中、その中心にあったクロムフォードの遺骸をも詳細に記録させた。
「やはり別人でしたか……」
「ふん。いい面の皮じゃの。人工的に作った皮膚を張り付かせ、体に蟲を仕込むとは」
蜘蛛に似た黒い蟲が、クロムフォードであった体の端々から逃げるように這い出て来る。それを数匹適当なビンの中に捕獲すると、その体から溢れ出る蟲を電撃で全て殺し尽くした。
「どうされるのですか。陛下」
「領土間での諍いは起こさぬ。それが魔王の決めた理だからの。────だがクロムフォードは必ず領王の座から引きずり落とす」
冷徹なまでの表情を刻んだ女王は、その手の内の中にある映像をぎゅっと握りしめる。その心の内に僅かな焦燥感を抱きながらも、女王としての顔を貼り付け、その場から身を翻した。
*
目隠しされたまま何処かに連れてこられ、固い地の上に投げ出される。顔に張り付く真っ黒な生物は体に害を及ぼすことはなかったけれど、まごまごと動くそれを肌に這わせられると、ぞわりと気持ち悪さが走るのは拭えなかった。
視界を遮られているから余計にそれは顕著で、クロムフォードがすぐ後ろにいるという恐怖感もあって、精神的に疲弊していた。
それでもぎりぎりまで取り乱さなかったのは、リンパギータの存在お陰だろう。こんな所まで一緒に来てしまったことを、心のもう半分では凄く後悔している。早く逃せば良かった、そう思って、けれどどうしようも出来ずに守るように体を丸めた。
「……キュー」
「んッ……んむっ」
鼻からの呼吸が苦しくて咽ると、ようやく口の中まで入り込んでいた触手がずるりと抜け落ち、気持ち悪さにえづく。
咳き込んでいるこちらにも構わず、また別の存在によって抱きとめられ、何処かに引き摺られる。
おそらく私を運んでいるのはあの黒い物体なのだろう。クロムフォードよりは幾分扱いは丁寧だけれど、顔を何度も何度も執拗に撫でられるのが嫌で、首を振って触手から逃れた。
「ゲホッ……一体、何が目的なんですか?」
「あ?」
「……あ、貴方が興味を示していたのは、陛下のはずです。なのに何故私を捕らえて、こんなところまで連れてきたんですか?」
ここがどこなのかは解らない。けれどどうして私を連れてきたのか。そしてこんなことをするのか、それを知る権利くらいはあるはずだ。けれどもクロムフォードは笑うばかりで返答する気もないようだった。
「こ、小間使いなんか誘拐しても、身代金なんて出ないですよ。私の所持金だって、たったの六百トピしかないんですから!」
とはいえ認識票を壊されてしまったので、もう残高0だろうけれど。
怖さを紛らわすように必死で声を張り上げるも、顔に再び触手が押し付けられる。頬から口をやけに丹念になぞられて、でもまた口の中に入り込まれるのは嫌で、歯をがっちり閉じて唸った。
「何言ってんだお前? ウルせえし、ワケ分かんね。つかオレが欲しいのは別のもんだ」
「……べ、別のもの?」
「オレはこんな世界に飽き飽きしてんだよ。毎日毎日反吐が出るほどツマンネえヤツの相手ばかりしてよ。そのツマンネえ毎日の一端を彩るのに必要なのが、今回はお前だっただけだ。蟲経由でお前らの話もずっと聞いてたぜぇ」
あの時一瞬だけ見えた黒い蜘蛛。もしかしてあの時、私に近づいた時からずっと盗聴されていたということか?
「ピーチスライムで食材で、女王の小間使いで? お前が何処から来たのかどういう存在なのか、あの馬鹿鳥は突っ込んで聞かなかったが、オレはそれを知りたい」
馬鹿鳥。そういわれてもあの場に鳥なんか居なかった。確かに面識のない男性が二人居たけれど、……もしかしてあの医師の方だろうか。
恐怖感が薄れたわけではない。でもまだ喋っている方がマシで、視界が見えないながらもクロムフォードの声のする方を向く。
「知ってどうするんですか?」
「てめえが来たその方法を実行して、向こう側の資源を奪うに決まってんだろ」
「奪うって……」
「お前アホだろ? こんだけの事されて、こんな状況なのに呑気に質問してくるしよ。その危機感ねえ言動からして、余程平和ボケした世の中なんだろうが。なら相当毟り取れそうだろうが」
頬に手を添えられ、視界を覆っていた黒い物体を取り払われる。
目の前にあるのは黒の仮面に包まれた白い輪郭と澄んだ紫の瞳。とても綺麗なのに、けれどその中には狂気しか見えない。真っ暗な真っ暗な汚れた感情。それが視線を通してダイレクトに伝わるような気がして目を逸らす。
「じ、自分で作りだそうとは考えないんですか? 部下と一緒に一から育てるということは考えないのですか?」
「元からあるものを奪えばいい。その方が楽だろうが。それにこれ以上、糞の役にも立たねえような無能なんざいらねえんだよ」
「そんな、いらないだなんて……」
この人に真摯に仕えている人が、その言葉を聞いたらどれだけの思いをするだろう。
少なくとも私は、尊敬している上司にそんなことを言われたら暫くは立ち直れなくなる。けれどもクロムフォードは、口元に笑みを刻んで尚も吐き捨てるように言う。
「つうかな、そんな事はもうどうでもいいんだ。そんな次元はとうに超えてんだよ」
では何を以てして、この人は満足と思うのだろう。
クロムフォードは手に入れた途端に満足して、もっともっとと乞い、また非道を繰り返すのではないだろうか。資源が尽きるまで奪い、その地にいる住人すら無情に淘汰していく。その様まで容易に想像できる。
欲求の上限は底なしに見えて……けれど同時に、後ろにいる人が怖いというよりも愚かに思えてならなくなる。
「……子供みたいですね」
「────んだと」
気がつけばするりと口から抜けだした言葉。
挑発したらいけない。大人しくしていなければとも思うのに、色々なことに我慢ができなくなって、口からするりと抜け落ちる。
「こ、子供みたいって言ったんです」
向こうにいたときの私と同じ。無い物ねだりで我侭で、こちらに来たら何もかも叶うと妄想していた昔の、傲慢な私と似ている部分がある。
もちろん、そんな残虐性まで似ているとは思いたくないけれど。
けれどもその言葉はクロムフォードを怒らせたようで、首を片手でぎりぎりと締められる。
「たかが食材の分際で舐めた口聞くんじゃねえよ」
「……ッ!」
首を締められてはいるけれども、苦しいと感じるだけで痛みはない。核を潰されない限りは死なないから、こんな事はまだ大丈夫。
……怖くない、まだ平気だ。
女王の叱責やシュトルヒの包丁攻撃にだって耐えられた。いままでのことに比べれば、まだ我慢できる。
「……飽きて自分が満足できないからって、領民を犠牲にしてまでこんなことをするなんて、理解できませんし、少なくとも私は付いていけません」
「黙れ」
「部下の人が……無能と思えるのは、貴方のその考え方の所為ではないのですか? 陛下は貴方のように怖い人ですけれど、付いてくる人がいます。尊敬されて信頼されて、陛下の為に尽くそうと動く臣下がいます。それは陛下が臣下一人一人をちゃんと認識していて、恩情を示してくださるからです」
「黙れ」
「性格が曲がってても、嫌味な人でも、どんなに駄目な人でも、……私は本当の意味で無能な人なんていないと思います。陛下のようにちゃんと人を見て、使ってくれる人がいれば、どんな人や物だって『有能』になるんです。少なくとも私はそうでした。貴方は部下にそういう厚意を示したことがありますか?」
「黙れ!!」
「……一緒に頑張ろうと思えた、大事な人がいたことはないんですか?」
その一言を伝えた途端、勢いに任せて体を叩きつけられる。床に当たった瞬間、関節がはずれたような鈍い音がして、確認したいけれど首がよく動かない。
何処かがおかしくなっているかも知れない。けれどもリンパギータをぎゅっと腕の中に押さえ込みながら、クロムフォードから繰り出される攻撃を受けた。
「……うるっせえんだよ。知ったような顔で、知ったような口で、オレに説教たれてんじゃねえよ。自分がどれだけ恵まれてるかも解ってねえ癖に。他から搾取せず、品行方正に生きていれば、誰かが助けてくれる、何もかも上手くいくとでも思ってんのか? ────馬鹿いってんじゃねえぞ」
「ゲホッ!!」
「縋ることしか考えてねえ奴等が、他人の為になにかやるわけねえだろ。楽しようとしか考えてねえ奴に恩情を示す? アホか、無駄な金払うよか世のために殺した方がなんぼかマシだろ」
「アッ……!」
「腹が減って食い物探して地べた這いずったこともねえ、生活の為に他人が顔背けるような汚い事に手を出したこともねえ。ぬくぬくと育ったような奴が、綺麗事語ってんじゃねえよ……!」
攻撃に咳き込んで目が眩む。けれども目を逸らさずに必死に目を開く。その向こうにある顔は残忍で恐ろしい。
けれども紫色の瞳は先程よりも人間味を帯びて、まるで怒っているときの方が正気のようにも見えた。
「……私は、品行方正なわけではありません。むしろ駄目な側の人種です」
「はっ! 今度は開き直りか」
「でも私は……ッ!! 信じてくれている人達を犠牲にしてまで、それを成し遂げることに意味はないと思います。困難があっても一緒に頑張って創り上げた方が、ただ奪うよりも実りがあると思います!」
「ああ、そうかよ。じゃあその青クセえ理想論抱えて、オトモダチと仲良く野垂れ死にしろや」
「ッ!」
色んな所を攻撃されて、何処かがひしゃげる音がして、だんだん上を向いているのが辛くなる。
腕の中にいるリンパギータが黒い目を赤く光らせて、心配そうにこちらを見ている。自分の所為でこうなったとはいえ、リンパギータには申し訳ないことをしてしまった。
あとは何処かに逃がさなくちゃ。マリエッタとランカスタ、あの夫妻にとって大事な大事な、家族みたいな存在だから守りきらないといけない。
「……ああ、しまったしまった。あっさり殺しちまうところだった。ご高説垂れ流してくれたんだから、それ相応の礼をしなくちゃなぁ」
先程の怒りを収め、酷薄に笑うその顔には暖かさの欠片も無い。首から鎖骨、そして肩口へと手を滑らされ、体がぞわっと泡立つ。
「いいこと考えたぜぇ? お前がそこまでいうくらいなんだからよ。目の前にいる飢えた哀れな魔獣にも、ちっーとくらい情をくれてやってもいいよな」
「え……ッ?」
「情だよ。────なあ、そう思うだろクロスケ?」
びゅッと鋭い音が耳の横で鳴り、何かが吹き飛ばされる。
何を飛ばしたのか。体を拘束されながらも体を捻り、その先に見えたのは────誰かの白い腕。
見覚えのあるその腕が誰のものかと瞬時に把握して、血の気が引いていく。
「お前の体を切り売りして、アイツの飢えを凌いでやれよ。お優しいピーチスライムさんならそんなこと簡単だろうが。あ? オトモダチと仲良く共存できる第一歩だぜぇ」
「……う、あ」
思考が上手く定まらない。何故自分の腕が無いのか。そしてそれが飛ばされて目の前に有ることに頭が上手く回らない。
けれどもどんなに否定しても、目の前にあるのは、確かに私から切り離された右腕。
二の腕からすっぱりと無くなった腕の先が転がり、黒い生物の前に放られる。
「だめえッ!!」
それに手を伸ばすも、クロムフォードにぐっと体の上に乗られて動けず、そうしている間に黒い生物はその触手を伸ばし、大きな口に放り込んだ。
私の腕を口の中にいれ、ピンク色の光を放ちながらあっさりと体の中で消化してしまう。目を逸らしたいと思うのに、咀嚼されていく腕。
その閃く色を見た途端、先程までクロムフォードに立ち向かおうとしていた意欲すらも削られていく。
「どうだよ。他人様の役に立つ気分は?」
「────貴方は……」
「なんだよ。お前の綺麗事をもとにしただけだろうがよ」
首から胸、腹や腰、そして足に手を這わされその手がぐっと太股に食い込む。
左足の関節、そこに指をあてられて軽く撫でられた。
「これもこれも、これも……全部お前の理想をもとにしたら無くなる部分だぜぇ? なあ、これもクロスケにやってもいいだろう? お優しいんだから何をされても許してくれるよなぁ?」
体の四肢。それを全部分断されることを想像して、体が再びがくがくと震え出す。
「結局口だけの癖して……。腕一本失ったぐらいでビビってんじゃねえよ。大人しく移動法を言えば助けてやらなくもねえんだからよ」
けれどもその目は笑っていなくて、私が無意識に泣いているのすら楽しそうに見下ろしていた。目の際からこぼれ落ちる涙すら、楽しげに舌を這わせられて吸い取られる。
けれども人の腕を、予告なしに切り離した目の前の人を、信じられるはずもない。
こんな人に、こんな人の為に、何かをしたいなどと思うはずがあるか。
その願いを叶えてあげようと思うはずがあるか。
恐怖に溺れそうになる気持ちを、歯を食いしばって必死になって耐えた。
「……いやっ……です」
「あ?」
「いやです……!! 貴方みたいな人になんか教えません! 貴方みたいな人になんか!」
開いた左手でその手を必死になって掴む。けれども力で圧されて、もう一つの腕すらも奪われそうになった時。
その前に飛び出たのはリンパギータだった。
小さな体の毛を逆立たせ、その目に赤い光を灯す。歯をむき出しにした顔はとても鋭い。
「シャーーーー!!」
「おいおい、なんだよ。いっちょ前に騎士気取りかぁ?」
「り、リンパギータちゃん。駄目……」
抑えなくちゃいけないのに、守らないといけないのに、体が動かない。怖くて動かない。揺れる膝をどうにかしたいのに、クロムフォードに絡め取られていく。
私に覆いかぶさるクロムフォードの体に、ねっとりとまとわりつき始めた黒い物体。それがうねり自在に形を変える。その意図が朧気に解って、震えて消えそうになる声を必死に張り上げた。
「やめてください……っ!」
「なんだ、先に殺してもらいたいならそう言えよ」
「ギィイイイイ!!!」
リンパギータが地を走り飛び上がる、そして滑空しながらクロムフォードの背を目がけて鋭い牙を突き立てた。
けれどクロムフォードは右腕を突き出し、噛まれるのも構わずにその背中を掴むと、リンパギータをぶら下げて繁々と観察する。
「おいおい、弱っちいなぁ。これじゃ頭を潰すだけで終わりじゃねえか」
「やめて!」
「こいつもお前も弱っちくて話になんねえよ。やっぱ先にあっちにすっかなぁ。あの女王と暑苦しい警備隊長を殺した後で、お前らも殺してやるよ」
「やめてえぇッ!!」
パチンと指を鳴らすクロムフォードの合図で、黒い生物が蠢き、その体をひしゃげていく。そして遠くにある森の向こうで、大きな破壊音が聞こえた。
それは真っ黒に染まった生物の巨大な姿。
宴の会場を破壊するほどに巨大化したその体は、宴の会場を囲むようにして触手を蠢かせている。
「オオォォォ……オン」
その周りに一際大きな赤い竜と蒼い竜の姿が見える。
女王とおそらくネブラスカの姿。それを確認して血の気が引いていく。
黒い触手はまるで矢のように周囲に足を伸ばし、女王の体を捉えようとする。それをネブラスカが弾いたものの、次の瞬間────背後に回っていた一本の触手がネブラスカの体を突き刺した。
「ネブラスカ様!!」
体の中心、その部分に突き刺さった黒い触手がうねり、ネブラスカの体が地に落ちていく。ネブラスカの口から吐かれた業火がそれを燃やすも、体は瓦礫の中に落ちてまったく見えなくなった。
……嘘だ。嘘だ。こんなの……。
「アハハハハッ! 最高じゃねえの。女王は仕留められなかったが、あの暑苦しいのはさっさと死んで欲しかったからな」
笑いながらそういう男の神経を疑う。殊更に笑いながら、女王の体に向かってまた指を鳴らすのを見た瞬間、頭の中でブチッと何かが切れるような音がした。
その手にしがみついて、指を鳴らすのを止める。
「なんで……」
「あ?」
「なんでこんなことできるんですかッ!」
背後にいるクロムフォードに恐怖よりも怒りが沸き立ち、睨みつける。どうしようもない憤り、そして嫌悪感に唸る。こんな人に触っているのすら嫌で、けれども指を慣らさないようにその手を拘束した。
するとクロムフォードは笑いながら言う。
「楽しいからに決まってんだろ?」
「私は楽しくなんかないです! こんなの全然楽しくないです!」
「当たり前だろう。オレの高尚な楽しみと、お前の屑みたいな喜びが同等な訳ねえだろ」
「同じじゃなくて結構です! それにそういうは高尚じゃなくて、ただの独り善がりプレイっていうんですよッ!」
本当は今すぐにでも目を逸らしたい。その強い視線に怯みそうになって、けれども今逸らしたら負けな気がして、目の前にいるクロムフォードを精一杯睨む。
何が楽しみだ。何が高尚だ。こんな他を虐げるだけの悪辣な行為が、こんなに非道な行為が。
「貴方は最低です……!」
「そうやっていつまでもキャンキャン騒いでろよ。どうせお前にはなんにも出来ねえんだからよ」
口元に覆いかぶさるのは男の手。その張り付くような感触に嫌気が差して必死になって抵抗する。けれどもますます体を地に押し込められ身動きが取れなくなり、唸って抗議した。
「んぅーーッ!!」
「スライム如きがオレに勝とうなんざ、百年早えんだよ」
体全体で押し留められ、開いた指の先で慣らされた合図。
その瞬間、黒い物体が蠢き、リンパギータの小さな体へとその触手を伸ばした。黒い触手が瞬時に体に絡みつき、リンパギータに手を伸ばす前に絡め取られていく。
「んんーーッ!!!」
「キュー!」
こちらに手を伸ばすリンパギータの小さな姿が真っ黒な触手に絡め取られ、見えなくなる前に、動かない体を必死に伸ばす。口に張り付く手を叩いて、どけたいと思うのに上手くいかない。その手が離れない。
何度も何度も叩いて引っ掻いて抵抗しても、その力には敵わない。私の力ではどうやってもクロムフォードには勝てない。それが悔しくて悔しくて、悲しいのとは違う涙が溢れる。
「ッ!!」
「見てろよ。オトモダチが食われていく様を、その眼でしっかりとな」
頭を掴まれて引きずり倒される。リンパギータが含まれた塊は、まだ黒い物体に取り込まれていない。吸収される前に早く助けないといけない。
誰か、誰か。誰でもいい。
誰かリンパギータを、そして女王とネブラスカを早く。
あの二人を助けて。
私じゃ助けられないから、悔しいけれど私じゃ敵わないから。
私ができることならなんでもするから……!!
『────何かあったら俺を呼べ』
ずっときっかけがなくて呼べなかったあの名前。
いままで遠慮して、我慢して、耐えてきた名前。それを今呼ばなくてどうする。あの人なら助けられる。それができる力を持っている。
口にまとわり付くクロムフォードの手におもいきり噛み付いて、開いた隙間から声を張り上げる。
「熊五郎ーーーー……ッ!!!!」
そうして、あの姿を、はっきりと思い起こして空に向かって叫んだ。