2-4:新人と指導教官と3
あれから一日掛け、ネブラスカの監視の元、私は本の化物と戦っていた。
強烈な眠気と闘いながら、この魔界の用語を文字通り体に叩き込まれる。ルビが振ってあるとはいえ翻訳は結構適当なもので、『すみません』が『つぅいまてーん』となっていたり、この魔界特有の特殊用語までは翻訳されていなかった。
そしてネブラスカと話している内に、あちらの世界で使っていた横文字や四字熟語などはここでは通用しないと言うことも判明。
けれどこちらの世界と、あちらの世界での共通部分は結構ある。
一年は365日で四季があり、一日の時間は24時間。数え方や物の単位が同じうえに、本で見る限りでは機械のようなものもあるらしい。
どうして魔界にこんなものがあるのだろうと疑問に体を捩ると、ネブラスカ曰く『全てのものは魔王領から公布されたもの』なのだそうな。
そうして解らない場所はネブラスカに意味を教えてもらい、それでも分からない場合は図を表示させてもらい講義をしてもらう。面倒くさがりながらもネブラスカの説明はとても丁寧だ。
私が覚えたことは女王の好きな香油。お酒の銘柄。美しい鱗の管理、爪の手入れの仕方。仕える相手が女性だからか項目はやはり美容に関しての記述が多かった。
どの栄養がどのように肌に効果があるか丁寧に書き込まれた技術書が何冊も刷られるほど、この領地では化粧品の開発研究が盛んらしく、また開発された美容法・化粧品は女王の認可の元に、一般にも販売されいている。なんという商魂…。
読んでいると確かに面白いのだけれど、やはり短期間に一度に詰め込まれると辟易してしまう。
正直脳が死にそうだ。時折ぐらぐらと回る思考をハリセンでたたき直してもらい、再び読書を続行する。
勿論、いまのいままで寝ることは許されていない。
────そして二日目となる今日。
読書地獄は一度切り上げられ、礼儀作法や女王に対しての適切な接し方についての講義を受けていた。
曰く、陛下よりも先に起き、指定の位置に配置しなければならない。
曰く、陛下のお声がかかるまで部屋の隅でじっとしてなければならない。
曰く、陛下に声を掛けられたらすぐにでも馳せ参じるようにしなければならない。
曰く、陛下の為にいつでも迅速に動けるよう。常日頃から体を鍛えるように努力しろ、以下略。
やはりというべきか、作法云々よりは女王に関する事柄ばかり。
しかし過去何度も接し方を誤り、女王に食べられた侍女が相当数にのぼると聞いた私は、とにかく女王の前でやってはいけない態度について必死で聞いた。ここまで知識を溜め込んだのに、何かやらかしてあっさり食われたら堪ったものではない。
「ああ、そうだ。陛下は最近輸入された酒に特に関心を持たれている。たまに厨房へ足を運ぶ事にもなるだろう。城の順路も把握しておかなくてはな…」
「こ、今度は順路、ですか…」
地下通路を通ったときのような、複雑な道順じゃないだろうな…。もう脳の容量はわずかの隙間しかないというのに。そうでないことを願うしかない。
「あとは昇降機の扱い方。陛下がお使いになるドレスや宝飾品の手入れ。あとは何があったか……」
ネブラスカの言うとおり、覚えるべきことは沢山あった。ネブラスカが初日あれほどに息巻いた理由も解る。三日では到底時間が足りないだろう。
正直、多すぎて自分でも混乱してきているし、教えているネブラスカの目元も怒りから呆れに切り替わっているように見えた。
女王に拝謁する際には規定にそって必ず礼を取ること、そうして教えられてとってみたのだけれど、ネブラスカの反応は悪い。
「なんなのだその礼の取り方は…。右手と左手を横に重ねあわせて頭を下げるだけだろう? それだけで何故そんな珍妙な動作ができるのだ…」
「す、すみません…。これ以上頭を下げると前に転がってしまうので…」
球体というのは意外に重心が取りづらい。一定の角度まで頭を下げると、意思に反して前転してしまうのである。決して笑いを取りに行ってるわけでは無いし、ふざけているつもりもないけれど、ふざけた体はどうしようもなかった。
それでも転がらないように口腕を突き出すため、どうしてもある形になってしまう。
そう、これは完全に土下座だ。礼の取り方としては案外間違っていない気もするけれども、ネブラスカの反応はまったくの無表情という、ある意味でもっとも怖い顔だった。
「謝罪の言葉は”申し訳ありません”だ。……もう少し真面目にやってくれんか?」
丸一日半付き合わされたのにも関わらず、ネブラスカに眠気はないようで、ハリセン捌きにも歪みはない。
私は今まで散々知識を叩き込まれ、ちょっとだけ思考が怪しくなっている。陛下の陛下が陛下で陛下に陛下を。正直半分くらいはネブラスカの叫ぶ「陛下」で洗脳されてるのかもしれない。
正常な判断ができないだけかもしれないけど、奴が次第に二重に見えてきたりもしている。
ペンギンが一匹、ペンギンが二匹。いや鳥だから羽なのか?
いやあもう、そんな些細な違いなんていいよ。数えられればいいんだよ。
朦朧とする意識の中で、それでも覚えるために体を起こして持ち上げる。残る日数はあと一日のみ。
ああ、でももう駄目かもしれない。全然頭に入ってこない。
「……なんだ? どうしたのだ」
声を掛けられても反応すらできない。とろとろと閉じていく視界の中で、ネブラスカのくるんと丸まった左カールの前髪だけがやけに印象に残っていた。
……女王の側に行きたいなら、そのウ○コロールな髪型は絶対やめた方がいいと思う。
*
目の前にあるのは白いカーテンと真っ白な籠。そしてこちらに背を向けて座る不機嫌そうなネブラスカと────白衣を着たお姉さんがいた。お姉さんは色気たっぷりの厚めの唇を湾曲させると書類に何かを記入している。目に入る足の長さを羨ましく思いながら、暫くぼうっとその足の組み合わせを眺めていた。
そういえば人間に近い体に合うのは、あの集落以来かもしれない。
女王のお陰で匂いが抑えられているから、また襲われる心配はないだろうけれど…。それでも慎重に距離をとって声を掛けた。
「あ、あの…すみません」
声を掛けると女性は振り返り、その肢体をぷるんと揺さぶった。揺さぶられたのは、その白衣に隠されているようでまったく隠れきれない豊満な胸元。褐色の肌がエキゾチックな魅力を醸し出し、右肩口でゆるくまとめられたウエーブヘアが首元からデコルテまでの女性らしいラインを引き立たせる。
艶のある人、というのはこういう姿をいうのだろう。
黙っていても男がわんさか寄ってきそうなその顔と体に、かなり羨ましさを感じた。というか女でもちょっとドキドキ…いやいや、しないしないしない。
「……あら~、気がついたかな~。ええと~……モコモコちゃん?」
「いえ、あの…モコモコでなく桃子です」
「あらあら~。ゴメンナサイ~。モモコちゃんね~」
どうも気の抜ける喋り方の女性は、グラドルになれそうなほど甘い顔立ちですべてに置いて完璧。…なのだけれど、ある一部分だけが異様だった。
なにせ髪の間からは飾りのように可愛らしい白色の花が生えているのである。見方によってはかなり妙な姿になりそうなのにも関わらず、その容姿によって相殺されているから不思議だ。
「あの。ここはどこなのでしょうか?」
「ここは医療施設よ~。アタシはここのお医者さんなの~」
「は~。そうなんですか~」
……おう、語尾が移った。いやそれよりもネブラスカの表情が気になる。
研修中に眠ってしまったなんて、かなり不機嫌になってるかもしれないし。
「あの、ネブラスカさん…」
「……………」
「申し訳ありませんでした。もしも宜しければ続き………を??」
あまりにも反応がないことに不審に思って正面に回り込む。するとネブラスカはこれ以上もなく幸せな表情で、静かに眠っていた。まるで殺気の無くなったネブラスカの寝顔に、不覚にも癒されてしまい慌てて首を振る。これは完全なる気の迷い。
目を開ければ鬼になると、私は身を持って知っている。
ペンギンの愛くるしい寝姿に、囚われそうになった意識を頭を振って取り戻し、私は先程の女性を仰ぎ見た。
「あの、先生」
「あは~。アズラミカよ~。アズって呼んで~」
「うええ、と? あ、アズ先生?」
「はい~。なあに~」
どうも調子が狂う。それでもなんとか流されないように疑問をまとめて、聞いてみることにした。
「あの、私は一体どういう状態でここに運ばれてきたんでしょうか」
「ああ~。脱水症状よ~」
「だ、脱水?」
「そう~。アナタのスライムっていう体はね~。基本水分で構成されているの~。枯渇すると生命を維持するために休眠状態にはいるのよ~。定期的に水分を補給して~体内に一定の水分を保たないと干乾びて種に戻っちゃうから気をつけてね~」
「種? ってなんですか?」
「あは~。スライムの中心には核があってね~。それを潰されない限りは何度でも再生できるのよ~。植物の種みたいだから~医者の間では種って言われてるの~。干涸らびても水を掛ければ元通りなんてとっても便利よね~」
体をムニムニと揉まれながらそう言われ、驚くよりも体がむず痒くて仕方がなかった。だから女王は核を傷付けなければ、と言ったのか。そして自分の体がどんなに傷付いても元に戻る理由を知って、なんだかちょっとだけ安心した。
……けれど。それはさて置いても。何故、アズラミカはこの体を揉むのだろうか。
「あ、あの、くすぐったいのでやめてください…」
「ええ~。いいじゃないちょっとくらい~。このプニプニ感がいいわねぇ~。陛下はこれがお気に入りなのね~」
「あうあう…!」
「この感触なにかに似てるのよね~。なんだったかしらね~」
「あっひゃひゃひゃひゃっ!!!」
もう我慢ができない。くすぐったさに耐えきれず、慌てて寝ているネブラスカを盾にして、アズラミカから距離を取る。すると彼女はこともあろうに、ネブラスカをぎゅうと抱きしめて馬乗りになった。
「あは~。ネブラスカ様でもいいか~」
「え?」
「プ~ニップニ~」
いいながらネブラスカの燕尾服のボタンを外し、タイをするりと解く。その手際の良さに呆気に取られているうちに、ネブラスカの体は丸裸、いやペンギンだから羽毛だけになってしまった。…ええと。これ以上は止めるべきでしょうか。
「うふふ~。とっても可愛いらしいのに~、陛下はなんで召し上げないのかしらね~」
「あのーそろそろやめておいた方が…」
「ええ~。これからが本番なのに~」
…………本番ってなんですか。
というか相手はペンギンですよ。倫理的にそれはどうなのか。いや、それ以前にできるわけが…。そうして混乱している間にもアズラミカは自分の唇をぺろりと舐め、両の手をわきわきと動かす。むき出しになった褐色の太ももに、ぴったりくっつくペンギンの腹。
お待ちになって下さい。それ以上はアウトです。
「と、とにかくやめて下さい。陛下命の人にそんなことしたら、あらゆる意味で嫌な予感しかしません」
「そうお~? じゃあアナタ揉ませてくれる~」
「…………………う…」
なんだかんだいいつつもネブラスカにはお世話になっているし、女性に寝込みを襲われるなんて屈辱的なことをされたら、止めなかった私もどうなるか分からない。
死ぬわけでもないのだし、くすぐったさくらいならどうにか…耐えられるかもしれない。そうして渋々ながら口腕を差し出すと、アズラミカは嬉しそうに私を抱き寄せて、思う様に揉みまくった。
「あは~。最高の癒しよねぇ~。陛下いいなぁ~」
「あ、あひゃひゃっ!」
「これもう一個欲しいなぁ~。モコモコちゃんいいなぁ~」
「も、モモコッ、れす! あひゃーッ!!」
くすぐりって相当の拷問だったのですね。身を持って知った私は、ネブラスカの目が覚めるまでアズラミカの手によって散々に弄ばれたのだった。