2-1:新生活始まり
目の前にあるのは竜の大きな指と爪。そしてさらに上を見上げてみれば、もの凄く不機嫌そうな顔がそこにある。一夜明けても竜の美しさに遜色は無い。けれど今は少しだけ疲れたようにも見て取れた。
「あのー」
「まったく、何故わらわがこんな雑事に気をやらねばならぬのじゃ」
「すみません」
「わらわは子守りは苦手じゃというに……」
さっきからブツブツと独り言を呟いている竜に向かって、指の隙間から口腕を出して振りかざす。かなり大仰なアピールにも関わらず、竜の瞳はここではない彼方を見つめている。ついでに言えば独り言も加速しているような気がした。
「そもそもがじゃ。何故いままで帰還されなかったのじゃ。こんな状態になってから今更。それに……を連れてくるにしてもコレでは……」
「あのー!」
「さっきから煩いわ! それでなくとも、わらわはぬしの寝言の所為でまったく寝ておらんのじゃぞ!」
そうして掌の中でむぎゅりと体を潰される。何故か起き抜けに仕掛けられた往復ビンタとアイアンクローよりは衝撃はないけれど、その威力を十分体に叩き込まれたあとではちょっとばかり怖い。
「そ、それはすみませんでした」
「ふん。まあよい。で、今度はなんじゃ? また怖くて眠れないとか泣き言をいうつもりなら張っ倒すぞえ」
え?! そ、そんなこと言ったのか。流石にこれには恥ずかしさを覚えて徐々に顔が熱くなった。それを抑えながら、私は竜を見上げる。昨日みたいに躊躇したら、また何かされるかもしれないし。
「昨夜は聞くのを忘れたんですが……あの、貴方のお名前は?」
竜と呼ぶのも、貴方と呼ぶのもなんとも味気ない。
先程からずっと気になっていたことだ。やっと聞けたと安堵した矢先、しかし竜はもの凄くかったるそうに石の台座に体を預けると、ため息を付いてしまった。
「…………わらわの名はサフィーアじゃ。ついでに言えばこの領土を統括する女王でもあるのう」
サラリと告げられた重要事項に目を丸くする。女王って国のトップに位置するあの女王? アルファベットの付く特殊性愛嗜好の方ではないよね?
「じ、女王様!? え? 陛下って呼んだ方がいいですか?」
「……好きに呼べ。ぬしと話していると頭のネジが緩みそうになるわ」
「え? なんでですか?」
こっちはいつ握りつぶされるかと緊張して身構えているというのに。
「解らぬならそれでいい。わらわが相手してもいいが、ぬしを一から躾けるのは流石に骨が折れそうじゃの。しばしの間、別の者からこの城について教えてもらえ。上には暇なのが一杯いるじゃろうからの」
そういうと女王は大きな体を動かして、壁にある何かを押した。こちらからは視点が高すぎて見えない。けれどそれを押した途端、警報のようなものが鳴り響く。
呼び鈴のようなものだろうか。しかし私は人を呼ばれると聞いてある不安を思い出した。
「……あのー。私この姿で出ていって、食べられたりしないでしょうか」
「ああ、それはあるじゃろうな」
「えッ?!」
あまりにもあっさりと肯定されて面食らう。この姿でまた人の前にのこのこと出て行って、問答無用で切りつけられるという自体はもう御免だというのに。しかし女王はこちらの不安にも気がつかず、事も無げに告げる。
「だが今ならば平気じゃ。匂いはある程度抜いたしの」
抜いた? 意味が解らず目先で問うと女王は綺麗な目を細めて笑う。それはそれは美しい笑み。だけれどもその瞬間、背筋に悪寒が走った。
……追求するのやめよう。うん。聞かない方がいいこともあるよねー。
「いまは別の意味で危ないとは思うがの」
「べ、別の意味って?」
「……まあ、その姿なら大丈夫じゃろう。暫く待っておれ」
そうして再び掌の上でコロコロと転がされる。先ほどの言葉に反してその動作は柔らかだ。だから安心して揺らされていたのだけれど。気のせいか、そのうちに体全体をムニムニ揉まれてるような感じがした。
「……あの。サフィーア様」
「なんじゃ」
「……か、体、揉まないでください」
「いいじゃろう。別に減るものでもなし」
いやでもなんか、セクハラ受けてる気分というか。ちょっとくすぐったいんですが。
なんともいえない微妙な感じを体に覚えつつ黙って転がされていると、ほどなくして大きな足音と共に人影のようなものが見えてきた。
駆けつけてきたのは黒い甲冑を来た騎士達。がっちりとした逆三角形の体に真っ黒な鎧、竜の顔を模したフルフェイスの兜を付け、長剣を腰に佩いている。
二十名ほどの騎士が台座の前に立つと、剣を一斉に胸の前に掲げた。けれど気のせいか、その剣先が震えている。
「な、何用にございますか。陛下」
「少し用事を頼もうと思うての。何度も合図を送った筈じゃが、何故到着が遅くなったのえ?」
「……も、申し訳ありません! 城内に鼠が入り込んだため、その処理に追われておりました」
「────捕らえたか?」
「それが警報の鳴った地下通路をくまなく探したのですが、途中で見失いまして……」
ん? 地下通路?
「ほう。それでのこのことこの場にやってきたのかえ?」
「いえ。ネブラスカ様の探査法により、場所までは特定できています。が、その」
「なんじゃ」
「検索の結果、この石碑の間が弾き出されまして……」
その瞬間、苛立ちに揺れていた女王の体がピタリと止まり、冷たい流し目がこちらに向けられる。私はその視線にダラダラと冷や汗をかいた。もしも間違っていなければ、というか目線を向けられた時点で確定というか。
その鼠って、もしかして私ではないのでしょうか……。
「陛下。お許し頂けるのであれば、ここを捜索させて頂きたいのですが」
「その必要はない」
「ですが陛下の身に大事があっては……」
「問題ない。その鼠ならば、わらわが捕らえた」
驚く騎士達にも構わず、女王は閉じていた掌を広げ、私を騎士の前に差し出した。いまの心情を述べるのならば、完全にコソ泥といっていいかもしれない。というか向こうの世界の常識に照らし合わせれば、完全不法侵入者ってことですよね……。そしてこの物々しい雰囲気を見れば、事はかなりの重要レベル。
「……ピーチスライム?!」
「まさか、絶滅した筈では……」
ざわめく騎士達も放って、女王はこちらになんとも楽しげな目線を向ける。その笑みを例えるのなら、猫が獲物を捕まえたときの意地悪な笑み。
……ち、調理場通り越して、処刑とかない、よねぇ……。
おもわず恐怖に体を捩ると、指と爪の檻ががっちりと頭の上で合わさり、完全に逃げ場は無くなった。
「お手を煩わせてしまい申し訳ありません! 即刻処分致しますゆえ!」
「まあ待て。ぬしらに頼むのはこれの処分ではない。今すぐネブラスカを呼べ」
「しかし、そのような不審物を調べもせずに陛下の側に置くなど」
「構わん。早く行くのじゃ」
困惑する騎士達の中から一名が選出され、足早に扉の向こうへ駆けていく。あんな場所に扉があったのかと何の気なしに見送っていると、残った騎士達から鋭い目線が向けられた。
甲冑からはその容貌は見て取れない。けれども射殺さんばかりのその視線にぶるりと体を震わす。
か、完全に不審者扱いされてる……。
「モモコ」
「はいぃッ!!」
「昨夜の勢いはどうしたのじゃ。怯えている暇などないぞえ」
「へ?」
「これからもっと厄介なのが来るのだからの」
にやりと笑みを浮かべた女王に、私はさらに震えた。けれど女王は更に楽しそうに微笑んで私をムニムニ揉みまくるものだから、くすぐったくてしょうがない。
「ぬしのその都合の良過ぎるオツムの出来上がりは怪しからんが、この感触だけは認めてやるぞえ」
「ひゃ! やめて下さっ! だ、だからくすぐったいんですってば!」
「……実に怪しからん」
ムニムニムニムニ。際限なく揉まれて堪らず爆笑しそうになった時、石碑の間に怒号が響いた。
「何をやっておられるのですか、陛下!!」
「ようやく来やったかえ」
怒鳴りながら足早に近づいてきた存在。それは黄色の前髪をくるりと左巻きにカールさせた、皇帝ペンギンだった。黒い燕尾服に黒いネクタイ、そしてストライプの幅広なスラックスに身を包み、黄色い嘴を高速で動かしている。
「そのような者と、ち、乳繰り合う姿を臣下に見せるなどッ! なんとはしたなく嘆かわしい!!」
いま聞き捨てならないことを耳にしたような…。たしかチチクリ……。
「それに私というものがありながら、そのような脆弱な雄を召し上げるなど!!」
「……再三に渡って言い聞かせておるはずじゃが、わらわはぬしの物ではない。それにこれは雌じゃ。交配相手にもならぬ」
「そ、そうですか!」
一瞬ぱあっと明るくなる顔は、傍目から見ても可愛らしい。けれども女王の手の中にある私を見留ると、ペンギンは明らかに温度差のある視線をこちらに向けた。
「しかし何故そのような珍奇な軟体生物と戯れておられるので?」
……ペンギンの言い方にちょっとだけ傷付いた。
女王はうなだれる私を更に転がしながら、開いた爪の先で私の頬の部分を引っ張る。自然と顔を上に引っ張られた私は、目の前にいるペンギンとばっちり目が合い、更に居心地が悪くなった。
「ぬしを待っている間、暇つぶしをしていただけじゃ」
「左様でござますか。しかし玩具で遊ぶにせよ、もう少し物は選んだ方が宜しいかと」
「些事なことよ。それよりもぬしに用があるのじゃ」
女王はペンギンの言を目線だけで切り上げると、私を転がしながら言う。
「何用にございましょう?」
「ぬしは常日頃からわらわの為に尽くしたい。そう申しておったのを思い出したじゃが、あれはまだ有効かえ?」
「なんと陛下……ッ! やっと私の愛を受け入れてくださるのですね!」
ペンギンの勢いは留まることを知らない。女王の前で頬をぽっと染めると、嬉しげにくるんと左カールの髪を撫で付けている。女王は傍から見ても解るほどの薄ら笑いを貼りつけながら、ペンギンの言葉に小首を傾げた。
「わらわの命を無事に達成できたのなら考えてやらぬでもない、そう思うての」
「陛下! 私は嬉しゅうございます! かならずや完遂して見せましょう! たとえ針金砂漠の中でも陛下の命令とあれば、全裸で進んでみせましょうぞ!」
何故に全裸……? なにやら変態めいた響きに若干戸惑いつつ、女王を見上げるとなんとも言い形容し難い微妙な笑みをペンギンに向けていた。
「ぬしの心意気だけは、しかと受け取ったぞえ。ならば命を下そう」
「何なりと!!」
「────では、この者を三日以内にわらわの側に侍らせることが可能になるよう、常識及び礼儀作法を叩き込め」
「喜ん……!! ────なんですと」
ペンギンの背後に立つ騎士がざわりと騒ぎ出す。それを目線だけで制すと、女王は美しい笑みを向け、ペンギンの顎を爪さきで掬い上げた。不機嫌だったペンギンの目は、それだけで蕩けたように潤み出す。
「できるであろう? ネブラスカ」
とろんと潤んだ目を向けて女王を見つめるペンギン。そして騎士はその甲冑の奥から、黄色く光る不思議な目をこちらにずっと向けていた。
新章。というよりは四月~の続きからです。