10:二人の男の思惑
バーガンディは狭間を渡ってコルモ村から離れ、早速ピーチスライムの探査を開始した。
住人からの追加情報によれば、そのピーチスライムは熊のぬいぐるみと一緒に行動しているらしい。
ぬいぐるみとスライム。かなり異色過ぎる組み合わせだが、バーガンディは特に疑問に思うことも無く、高揚した気持ちのままに狭間を渡る。
「ああ、もしもこの探索で魔王様を見つけて目付け役を降りられたら、暫らく長期休暇を取ろう。そして恋人達と館で楽しむんだ……」
夢と妄想を膨らませるバーガンディであったが、ある一点において彼にとっては重大なことを見逃していた。それに気がつくことも無く、コルモの村で削り取った木の枝を嬉しそうに撫で擦る。
「しっかし、本当に良い香りだな」
木の枝に付着した誘うような甘い香り。意識して自制しなければ、バーガンディはその口元から涎を溢れさせていただろう。ジュルリと涎を啜りながら枝に付いた香りを嗅ぎ、すんでのところで持ち直す。
「……危ない。枝を食べるところだった」
香りだけでこの有様。改めてピーチスライムの芳香と影響力の強さに感嘆しつつ、バーガンディは鳥かごへと視線を向ける。途中立ち寄った露店で購入したその籠の中には、この世界のどこにでも生息している下等指定種タンクルルがキイキイと鳴き声を立てていた。
バーガンディはタンクルルの嗅覚を利用し、香りを覚えさせ、ピーチスライムの探索をしようと考えていた。なんとも原始的な捜査法だが、スライムは中心核以外はほとんどが水分なので探査法に感知されにくい。
だがこのタンクルルならば別だ。弱小と言われているスライムの捕食対象であり、長年被食者として生きてきた防衛本能なのか、タンクルルはスライムを感知すると目が赤く発光する特性をもつ。そのまま攻撃態勢に入り、紅い光線を放つのが厄介だが、ピーチスライムを攻撃する前に狭間の中に放りこんでしまえば事は付く。
「ギーッ!」
「よしよし、宰相から逃れる為に、そして僕の幸せの為に頑張ってくれよ」
そうしてバーガンディは己の自由を勝ち取るべく、いままで以上の熱意を持って探査を開始したのである。
*
「ックシュ!」
「風邪ですか、アクセル様。薬を処方しましょうか?」
「……いや。問題ない」
バーガンディが一人喜びの中に居る最中。
その遥か離れた城の執務室では、蛇族の男性と宰相アクセルがテーブルを挟んで話し込んでいた。
会話の途中で鼻先がむず痒くなりくしゃみを立てたのを見て、蛇族の男がすぐに立ち上がる。アクセルはそれを片手で制すと、再び椅子へ座るように促した。
そして僅かにずれた眼鏡を押し上げながら、男からの報告書に目を通す。
魔物の輸出量は相変らず芳しくない。苛立ちを抑える為に己で作り出した一口大の氷をガリガリと噛み砕きながら、暫らく額に寄った皺を伸ばす。
「ラムス。本当にどうにもならんのか?」
「コレばかりはなんとも。せめて合成魔獣が作れればいいのですが。何分材料が足りませんので」
「魔王様が居ないとやはり無理、か」
異界を渡り、外界生物に干渉出来る能力は魔王しか持っていない。
魔王が居た時代に作られた転送魔法により、他魔界への輸出入と、地上にある人間界への移動こそ可能になったが、魔国民が異界を渡るまでには至らない。
異界に渡ろうとした途端、その世界の神によって弾かれ僻地に送られるか、最悪の場合は怒りを買いその場で破裂してしまうのだ。
これまでの経過報告によりそれを良く解っていたアクセルは盛大なため息を付き、失望の後に書類を卓上へと放り投げる。
「お前が今研究している召喚魔法はどうなんだ」
「現時点では魔法自体の安定性がありませんし、ヘタをしたら下等指定種以下の生物が呼び出されてしまいます。それに他界から無謀な召喚を繰り返せば……」
「今後の他界交渉にも影響が出てくる、か。せめて攻撃系の魔獣が増えてくれれば問題ないんだが」
攻撃系の魔獣はこの魔界から他世界にある魔界に輸送され、人間界侵略や神界侵略の為に役立っている。だがいま魔界で輸出可能なのは中等指定種のみ。地道に交配させて増やしている暇も無く、また上等指定魔獣は繁殖力が異常に低い。
それは魔獣の持つ魔力が反発し合い子が定着しにくく、運良く受胎しても今度は子の急成長により、母体が死んでしまう確率が高いからだ。
魔物の全体数が減り、一種に付き数頭しかいない今、危険な交配は避けたいとアクセルは低く唸る。
「魔王様が戻ってきて下されば、魔力の循環も正常に戻り、繁殖率も安定するんだがな」
「アクセル様。食料自給率もすでに平均値を下回っております。……いっそのこと監獄にいる者等を処分しては?」
「それは無理だ」
ラムスの提案に眉を顰めたアクセルは嫌そうに鼻を鳴らす。
力関係により構築されている魔界の中では、良識や秩序などあって無いようなものだった。
だが魔王が力によって全ての民を退け、法を制定したことでやっと魔界にも秩序というものが芽生えたのである。
しかし監獄に収容されている罪人を潰して国民の食料として与える。
そんなことをすれば後々他界交渉に影響も出てくるうえ、それがもしも公にされたとすれば、法を盾に取り強者が弱者を己の所有物。いわば食料として囲う可能性も出てくるだろう。
────それも相手の意思など一切関係なく、だ。
それがゆえの否定だったが、ラムスは真摯な瞳を向け訴えた。
「今はそんなことを言っている場合ではありません。これ以上、他魔界からの輸入量が減り続ければ、民衆は今以上に困窮し暴徒化します。最悪の場合、共食いの可能性も出てきます」
「そうは言っても譲れない部分はある。魔王様の定めた律を乱せば、代償を伴うのは知っているだろうが。せめて他界の魔王かそれに順ずる力のある方にお越しいただければいいんだが」
アクセルは口ではそう言いつつも、諦めにも混じった嘆息を付いた。いつもは怜悧な瞳もいまばかりは精彩を欠いている。魔界の為にどんなに手段を尽くそうと、悪い目ばかり出てしまうことに、アクセルは歯噛みしていた。
そんなアクセルにラムスは静かに目蓋を伏せ、蛇の鱗模様が付いた頬を撫で擦る。
「では頼んでみてはどうでしょう」
「一体誰にだ。異界を渡れるのは魔王様だけと……」
しかしアクセルは一人の男の顔を思い浮かべてしまった。
己の側近にしてお目付け役。本当は自分が預かるはずだった赤い目の宝石を、魔王の手から譲り受けた金髪金目の男。そして己が最も腹立たしく思っている男のことを。
「────あのバカ赤鳥に頼めと言うのかッ!」
「時期は早ければ早い方がいいでしょう。バーガンディ様は力こそ魔王様には遥か及びませんが、狭間を渡る能力を御下賜されています。魔道具などで補強すれば異界を渡るのも可能かと。腹立たしいことだと重々承知しておりますが……アクセル様。事はもはや魔界の存続にも関わることなのですよ」
ラムスの真摯な態度と説得に、アクセルはますます額に谷間を刻む。氷を生み出しては口に放り込み、ガリガリと噛み砕く。そうして暫く苛立ちを必死に抑えながら、苦々しくもラムスを見据えた。
「……善処する」
ガリリと響いた鈍い音。しかし氷はすでに溶け、アクセルは怒り出す一歩手前の表情で奥歯を噛み締めていた。
ラムスが退室した後もアクセルは暫くそのままソファに座り、必死に怒りに耐えていた。今現在この場所に破壊出来るものがないというのもあったが、それ以上に己の不甲斐なさに呻いている。
「……私にもっと力があればッ!」
魔王が側にいた時代は、アクセルとてこんなに癇癪を起こすことはなかった。
ある日突然、魔王に権限のすべてを委譲され、戸惑う暇もなく様々な仕事に忙殺され、精神的に疲弊していた。
いまならば、確かに魔王の苦悩もわかる。どうしてこの世界を出奔したのか、その理由も。しかしアクセルの本来の嘆きは別にあるのだ。
「どうして私などにこんな役目を背負わせたのですか……」
それだけがアクセルにとっての一番の悩み。
本当ならば魔王の側で、近衛兵として勤務するのがアクセルの夢であった。だが魔王自身の口から、いずれは帰還すると約束されたからこそ、アクセルはここに留まり、形式的のみの宰相という役割を保っている。
だが悩みを解消出来るはずの主は、一向にアクセルの前に姿を表わすことはない。
────しかしひとつだけならば理由が解っていた。
バーガンディさえいなければ、アクセルはどんな形であれ魔王の側に居られた。
バーガンディさえ堕ちてこなければ────。
「───もしもバカ赤鳥が私の目付け役から任を解かれたら。その時は私の手で縊り殺してやる……!!」
バーガンディの顔を思い出すだけで溢れ出る怒りの感情。
アクセルはやはりあの赤鳥は殺すべき対象だと認識を改める。そうして沈んでいた気持ちを無理矢理に奮い立たせ、バーガンディをいつか殺すために闘志を燃やしていた。
マダオ死亡フラグ