8 捜索者の訪れ
日付が変わって少しした頃だったろうか、悪魔は私に寝るように言って化粧をし始めた。バーへ行くのだと言うが、それは彼なりの気遣いだったのだと思う。寂しく思いながらも、異性とふたりきりはいけないことなのだという教えを思い出して出て行く彼を見送った。
――ベッドは自由に使って構わない。施錠の必要はないので朝になったら俺を待たず家へ帰るように。
それが出がけに彼が言い残した言葉だ。
狭いながらも寝室は確保されており、本棚や書き物机も気持ち程度に据えられている。机上にはメモ書きや老舗の旅行会社の封筒などが乱雑に散らばっていて、彼が作曲したと思われる手書きの譜面にはイニシャルが入っていた。
「B.L……これが彼の本名かしら? そろそろ名前くらい聞けばよかったわ」
この数週間は彼に会いに行く勇気がないことをウジウジ悩んでいたが、それはきっともう大丈夫だ。また後日、時間を作ってバーへ会いに行こう。昼間に一緒にピアノを弾くのもいいし、彼が美味しいと言ったステーン街の鮭のスープを食べに行くのもいい。
この時の私はやっぱりまだ少しだけ子どもで、伯爵家の娘であるという自覚も足りなかったし何もかもがうまく行くという根拠のない自信だけを胸に抱えていた。
横になったベッドは肌触りのいい綿の寝具で。しかし最近王室御用達となった調香師の手による香水、つまり彼の香りが私を包むためどうにも寝付けない。恥ずかしい気持ちを誤魔化すように、二度三度と身体を捩って悪魔へと思いを馳せる。
招待状の件も流行りの装いも高価な香りも、それにこの住まいだって、平民の収入に詳しくない私でさえそう簡単に手に入るものではないとわかる。なんとピアノまであるのだから。そうだ、彼はなぜピアノを弾けるのだろう。平民だって一握りのブルジョワジーでないとレッスンを受けられないはずなのに。一体彼は何者なのかしら。
……と、それ以上は多くを考えることはできなかった。
なんと先ほど出て行ったばかりの悪魔が戻って来たのだ。悪魔だけではない。外の階段を上る足音は複数ある。鍵を開ける金属音が薄暗い室内に響き、ギギギと耳障りな音をたてて扉が開いた。
「どけ!」
攻撃的で荒っぽい誰かの声がして、いくつもの足音が家の中を乱暴に歩き回る。私がベッドを出てドレスのスカートを握り締めながら見つめる扉も、間もなく開いた。
そこにいたのは兄だった。私とは違う翠色の瞳が驚きと呆れとに彩られていく。
「エリカ、なんで……。いや、とにかく帰ろう」
兄の後ろには我が家の従者がふたり。さらに後ろ側にとても背の高いイェルダがいた。
イェルダは美しかった。スパンコールのドレスみたいなアイメイクで、リップスティックを一本まるまる使ってしまったかのような濃厚なルージュの唇で。兄が力任せに私を引きずり歩くのを何も言わずに見つめていた。
痣すらも隠してしまうメイクの下で、彼がどのような顔をしていたのか私にはわからないまま。
馬車の中で兄は彼の家へ至る経緯をぼそりぼそりと話してくれた。
私の言った友人宅で夜会など催されていないとわかったこと。その友人が仮面舞踏会の招待状を譲ったと証言したこと。急ぎ会場である客船へ向かったら、某子爵家の三男が倒れていたこと。さらに彼の証言によって、私と思しき女が何者かとともに馬車で消えたことやその行き先が聖マリアンナ通りのどこかであると発覚したこと。
「お前、アルゴット・フリードン劇場の裏で変なのと会ってたんだろう? だからあの辺りを中心に探してたんだ。そしたらあの……アレがいた」
「アレだなんて言わないで」
じゃあなんて呼べばいいのかと言われても、返す言葉はなかった。イェルダと女性名を伝える気にはならなかったし、かと言って私はそれ以外の名を知らないのだから。
私は彼のことを何も知らないのだと思い知らされて、腹が立って窓の外へと視線を逃がした。
「どうせ嘘をつくならバレない嘘をつけよ。あそこの伯爵夫人は最近まで病に臥せってただろう。そう言えば快気祝いもしないで娘を預けてしまったと、今夜になって大騒ぎだ」
それについては兄の言う通りである。
返事をしないでいると、彼はひとり言のように話を続けた。
「伯爵家のご令嬢が仮面舞踏会の招待状を譲ったのに悪気はないらしい。相手方から謝罪の申し出があったが、『大事に至らなかった』と言ってこの件は終わりだ。双方が口外すれば家名を汚すことになる。触れぬが正解というやつだな」
仮面舞踏会など、本来はその存在に触れることさえタブーなのだろう。家の名を守るためには黙秘が当然であり、本人たちが何も言わない限りは詮索もマナー違反。この件は兄の言う通りこのまま闇に葬り去られることになる。
「問題は子爵家のバカ息子か。いい歳をしてまともな職にも就かず家の金で放蕩三昧。我がソレンソン伯爵家がいかに圧力をかけようとも、バカにはそれが効かないんだ」
そこで言葉を切った兄が私の名を呼んだ。窓から兄へと顔を向けると、翠の瞳が街灯の明かりを受けて煌めく。
「妙な噂が立つ前にお前を片付けることになる。これはお前のやらかしたことだ。覚悟しておけよ」
私の浅慮が招いた事態なのだから私自身が収拾をつけなければならない、という理屈は理解できる。だが、片付けるの意味はわからないままで、曖昧に頷いたのだった。