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7 ひと時の幸せ


 伯爵家の馬車は帰していたため……というより、行き先を知られぬよう途中で乗り換えたわけだが、私たちは悪魔の呼んだ一頭立てのキャブリオレに乗り込んだ。いわゆる辻馬車ではあるが、悪魔は一晩まるごと借りていたらしい。彼が額から血を流すのを見て、御者は快く乗車を手伝ってくれた。


 悪魔が御者に伝えたのはアルゴット・フリードン劇場のある聖マリアンナ通りからそう遠くない一角だ。私の記憶が確かであれば、いつ閉店したのだったかそこは以前パン屋だった建物である。通りに面した一階店舗部分は板が打ち付けられていて、悪魔は脇の階段から二階の住居部分へと上がっていく。

 もちろん彼は私に帰るよう言ったが、今夜は友人宅に泊まることになっているのだから無理だと言って一緒に下車した。怪我のせいか彼は私を叱り飛ばす気力もないらしく、舌打ちと溜め息を一度ずつ聞かされただけで彼の部屋へ入る権利を得る。


 部屋へ入るなり私は彼を椅子へ座らせ、怪我の治療という名目で彼の秘密を無理やり暴いてしまった。


「醜い、だろう」


 俯き、銀の髪でどうにか隠そうとする悪魔。

 彼のスパンコールの仮面を取り落とし、呆然とする私。


「いいえ。とても綺麗だわ」


 彼の顔には左目を中心に額の一部と頬骨のあたりまで、青黒い痣があった。あらためて確認すれば爛れて見えたのは色ムラがあるせいだとわかる。けれども全体的にその色は濃く、私たち貴族が普段するような化粧程度では到底隠せやしないだろう。


 私の言葉を否定するように彼は首を横に振り、声を荒げた。


「憐れみなんかもう一生分もらった!」


「憐れみなものですか! 綺麗なものを綺麗と言ってるだけ。肌の色が少し違うだけであなたの美しさは損なわれない。いいえ、むしろこの違いがあるからこそあなたは他の誰より輝いてるのよ」


 本心であった。

 仮面越しに見つめたサファイアは今までに見たどんな青より深く澄んでいて、他者の気持ちに寄り添えるだけ寄り添った微笑みは天使のそれより魅力的だ。


 彼は未だ半信半疑といった様子で私の表情を観察していた。いつも夜を統べる狼のような態度の彼からは想像もつかないほど……必死、に見える。彼の左頬に手を伸ばすと彼は身体を硬直させたが、私の手を払いのけはしなかった。


「誰もが俺をバケモノだとか悪魔だとか言う。だから俺は神に見放されたんだと」


「これはあなたがあなたである証でしょ。私が天使ならあなたにそんな悲しいこと言わせないのに」


 もしも私が天井に描かれたあの天使だったなら。

 そうでないことがもどかしくて私は彼の頭を胸に抱いた。腕の中で彼がふっと笑った気配。


「好意を告白してる自覚ある?」


「えっ……!」


 椅子から立ち上がった彼は私のほうへと顔を近づけた。思わずぎゅっと目をつぶった私の額に躊躇いがちに柔らかなものが触れる。恐る恐る目を開けると彼は薬箱を手に私に背を向け、鏡台の前へ腰かけた。


「私がやるのに!」


「次回はお願いするよ」


 まだ痣に触れられたくないのだろうか、そう思ったが彼はまるで何も気にしていないかのように傷口を手際よく治療していった。

 私は彼の許可を得てお茶を淹れることにし、キッチンで湯を沸かす。赤く輝く銅製のケトルが薄っすら湯気を吐き出すのを眺めながら、知らず知らずのうちに私は歌をうたっていた。彼がイェルダとしてバーで披露する歌のうちのひとつで、確か海を賛美するような歌詞だったと思う。


 傷口に絆創膏を貼った彼が振り返って笑った。


「貴族のご令嬢がうたうような歌じゃない」


「でもどの歌もすごく好きよ。特にほら、『愛してるって聞かせてよ』っていう――あっ! えと、そう、あの歌はすごく好きなの、歌」


「ああ、それは俺の……自信作だ」


「あなたが? 作ったの?」


 彼は夜中に弾くと罵声が飛んで来るんだと苦笑しながら、隣室へ続くドアを開けた。そこには小型のピアノが一台ただぽつんと置かれている。赤いベルベットの椅子に腰かけ、すーっと息を吸って鍵盤に柔らかく触れた。


 ポーンとボールが跳ねるような音がして、そこから猫が駆け回るみたいに軽やかなメロディがラタタと零れ落ちていく。しかしすぐにどこかで壁を殴りつけるような音と叫び声が聞こえてきて、悪魔は「ほらね」と手を止めた。


「すごい! ねぇ、今度あなたと連弾してみたいわ」


「ああ、それはきっと楽しいだろうな」


 この時の私は頷いてくれたことに喜んで、彼が「是非そうしよう」と受諾したわけではないことに気付かなかった。


 それから私たちは大衆向けの歌の話をし、見たことのない遠い土地の話をし、ソファーで寄り添ってお茶を飲みながら、今までに食べた最も美味しかった料理について自慢し合った。楽しかったのはもちろんのこと、触れ合う肩や腕に温もりや男性らしさを感じて心臓が高鳴ったし、瞳に映るすべてがほんのり鮮やかになった気がして……ありていに言えば幸せだったのだと思う。


 不意に重なった手を彼がどけなかったとき、私は心の底から安堵したのだった。





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