6 謎だらけの彼
私の情緒は恐怖と驚きと安堵とで混迷を極め、しばらくの間は泣くことしかできなかった。左の顔を仮面で隠した男は何も言わずに私を椅子に座らせ、靴擦れのほか襲われたことでできた傷に薄く包帯を巻いてくれる。
私の前に跪く男の髪は青に輝く銀髪で、悪魔の纏うドレスのように動くたびシャララと揺れるのが美しかった。
「ありがとう」
泣き止んでそう言った私に、彼は顔を上げた。明るいところで見る彼の瞳はサファイアそのものだ。彼はやはり何も言わないまま、ハンカチで私の口元を丁寧に拭ってくれる。見知らぬ男の手で口を塞がれたから口紅がぐちゃぐちゃになっていたのだろう、ハンカチはあっという間に珊瑚色に汚れてしまった。
口紅を塗り直さないと。
そう思ってポケットから宝物を取り出したけれど、私の手は震えていて蓋を開けることさえままならない。見かねた男が蓋を開け、手入れの行き届いた長い指が私の唇をなぞっていく。
サファイアの瞳は怒ってるのにどこか悲しそうで、慰めなくてはいけないというような不思議な使命感で彼の右の頬を撫でた。彼の肩が一瞬だけ後方に跳ねる。
「ここがどんな場所かわかったなら、すぐに帰ることだ」
「いいえ。まだ帰らないわ」
ここで言われた通りにするのは自分が世間知らずの子どもであったと認めることになる。自身がそう認めようと認めまいとにかかわらず世間知らずであることは間違いないのに、しかし彼の前でだけは認めたくなかった。
大人で達観していて全てを受け止める度量のある彼に、並び立つ存在でいたかったのだ。それがまさしく子どもの発想だなどとは思いもよらず。
「だめだ、帰れ」
「嫌だってば」
「あんな目に遭ってなぜわからな――」
「ダンス。踊って。私と」
彼に並び立つ。実現の方法としては最も安易であろう。安易だからこそ真実自分が求めていた願望に最も遠い解であるとは、もちろん気付かないわけだが。
彼とともに踊れば確かにパートナーだ。だが、その一曲の間だけでしかない。
男は肩をすくめて頷き、私の手を取ってホールへ向かう。
ほんの少し涙を流したぶんだけ大人になった私には、華やかで煌めいていたはずのホールが色褪せて、いや、薄汚れて見えた。しかしその中にあっても彼の銀髪は輝いていたし、彼の周囲だけは変わらず美しい。
適度な距離感を保ってホールドし、曲に合わせてステップを踏む。
「心配して来てくれたの?」
「なんの話をしているのかわからない」
「今日は髪を褒めてもいいのね?」
「会うのは初めてだ」
仮面は正体を隠すもの。詮索も、相手を知っているような素振りもマナーに反する……というようなことが招待状に注意事項として記載されているのを思い出し、私は頷いて口を閉じた。
ターンの拍子に彼の視線が周囲を舐める。特にサファイアの青は天井画に注がれているようだった。
「まさか悪魔が天使と踊ろうとはね」
彼の呟きは明らかにひとり言だ。私には返事をする権利を与えられていない気がして聞き流す……代わりに、彼の思いを一部でも知りたくて同じように天井を見上げた。
天井に描かれているのは中心に聖人、四隅に天使という絵だった。ホールの中心に立つと自分こそが天使と邂逅を果たしたかのような錯覚に陥る、不思議な魅力のある絵だ。
彼は神に見放されたと言いながら、この会場内の誰よりも天使が手を差し伸べるのを待っているように見えた。
ダンスを終えると有無を言わさず船を降ろされた。
いやだと言っても「俺は帰る」と言われればついて行かざるを得ない。彼のいない舞踏会など、どれだけ飾りたててもその汚れを隠すことなどできないのだから。
馬車を待つ間も会話はなかった。
あらためて彼の姿をよく見れば近ごろ流行りのスモーキングジャケットで、ラペルもボウタイもサテンではなくグログランを選ぶところはいつもの彼とイメージが違うけれど。靴は光沢の美しいパテントレザーをシルクのシューレースが飾っていた。
違和感が彼を知りたいという欲望に火を点ける。
なぜこの舞踏会の招待状を持っていたのか。なぜ女の恰好をしてバーで何曲か歌うだけの彼に、流行と質とを押さえた装いができるのか。なぜあんなにも洗練されたダンスが踊れるのか……?
会場から出た今なら、一歩踏み込んだ質問も許されるだろうか? 拒絶される恐怖と好奇心とで揺れながら唇を嚙みしめたとき、私たちの背後で誰かが走り寄る気配がした。
「て……めぇ! さっきはよくも!」
私が振り返るよりも先に彼が私を庇って背に隠してしまった。と同時にガラスの割れる音が暗い港に響く。船からの灯りが砕け落ちるガラスにキラキラと反射し、それに照らされるようにスパンコールの仮面が彼の足元へ落ちる。
セリフから恐らく船内で私を襲った男と思われる犯人は、悪魔の反撃によって一撃に倒れた。あまりにもあっけなく、静寂が戻る。
「くそ……っ」
しかし悪魔もまた無事ではない。それはそうだ、ガラス瓶でしたたかに頭を殴られたのだから。その場に膝をついた悪魔に駆け寄ろうとした私の靴が、こぼれ落ちたガラス片を踏んでジャリと鳴った。
「だいじょう――」
「見るな!」
悪魔は自身の左手で顔の左側を覆い、私に背を向けたまま右手で仮面を探している。
港を照らす街灯のオイルランプは火が小さく薄暗い。それでも船からの明かりを受けて僅かに見えた彼の顔は……青黒く爛れていた。




