5 世間知らず
それから二度の安息日を挟んだが、悪魔には会っていない。いつもの路地に姿を現さなくなってしまったのだ。直接バーに向かえば会えたかもしれないが、彼がそれを望んでいないような気がして躊躇してしまった。いや正しく述べるのであれば単に私に勇気がなかっただけだろう。彼が言いかけた言葉、「アタシのことなんて」。この続きを聞くのが怖かったのだ。
リンドグレーン家と私の関係についての回答も未だに得られていない。というのも、友人の母である伯爵夫人が病に倒れたらしい。あらためて連絡すると書かれたメッセージが籠いっぱいの乙女桔梗とともに贈られては待つしかないだろう。
大切な口紅を眺めては溜め息をつく私に、珍しく両親が小言をくれたことがあった。それはもちろん、「得体の知れない人間と会うな」といった内容である。姉は兄と相談して私が「自分たちのあずかり知らぬところで変な人間と遊んでいる」というような告げ口をしたらしい。
保身をはかりつつも妹を……いや、家名を守るためにそう説明したのであろう。今となればその気持ちもわからぬとは言わないが、当時の私はずいぶん腹をたてたものだ。彼らは私を利用する際にどこで何をしていたかなど気にしたこともないのだから。
そんなだから家族に不信感を持った私は、仮面舞踏会の準備も彼らに頼らず進めた。
両親はデビュー以来どこの夜会にも顔を出さなかった私が社交に向けた準備をするのを喜ぶばかりで、クローゼットの奥の仮面には気付きもしない。さすが親ばかと言うべきか私を「可愛い」と言う両親の言葉はどうも本心らしく、顔を隠して夜会へ参加するとはどうしても言い出せなかった私にとってそれは好都合でもあった。
主催について問われても適当に思いついた友人の名を挙げれば済んだし、エスコートなど必要ないと言えば兄がそれ以上詮索することもない。市井の娘と遊びまわった兄は私に弱みを握られていることを自覚しているのだ。長年の婚約者との結婚が目前に迫った状況で、蜂の巣を荒らすような真似はしたくないのだろう。
舞踏会の準備に走り回ったり、時には路地の奥に煙草の火を探したりしてさらにいくつかの朝と夜を繰り返して、私は仮面舞踏会の会場へとやって来た。タフタのドレスは濃く深い緑色。悪魔が選んだ色なのだから似合うに決まっている。頬に薄く白粉をはたいて厚い唇に珊瑚色のルージュを乗せれば、誰もが振り返るであろう美女になれた。顔の半分を隠す仮面がある限り。
会場は貴族の屋敷などではなく、処女航海を終えて戻って来た客船であった。次の航海へ出る前に一夜限りの夜会の会場として貸し出す事例は、ここ数年の間でかなり増えた……という話を茶会の場で何度か聞いたことがある。
多くは貴族ではない資本家がコネクションを広げるために用いるのだそうだが、この仮面舞踏会においては主催者を明らかにしないためだったのだろう。
が、そのような小難しい話は大人になったつもりの子どもには関係がない。私は期待に胸を膨らませて、私にとっての本当のデビュタント・ボールはこちらだとばかりに意気揚々とタラップを上る。
波に合わせてゆったり揺れる会場。窓から入る潮の香り。それらがここは海上だと主張しているのに、至る所に飾られた生花や豪華な食事、それに立派な楽団が王城でのデビュタント・ボールを彷彿とさせた。
しかも、誰も私に嫌な視線を寄越さないのだ。私は確かに淑女としてこの場に馴染んでいるのだとわかって否応なしに気持ちが昂ぶる。
ダンスにもひっきりなしに誘われた。家庭教師に習ったのより相手が身体を密着させることには驚いたが、そもそも練習と本番が同じだったことなど一度もないではないか。だからその程度、気にする必要がない。
ただ一曲終えるたびに相手が「風にあたろう」とか「休憩しないか」とか言うのは不思議だった。けれども意中の相手でない限り異性とふたりきりになってはいけない、というのは淑女にとって常識である。まだ踊りたいからと自分なりに可愛らしく笑ってそれを断った。
そんなことを繰り返すうちに疲労を覚え、ひとりで休憩室へ向かうことにした。連れて行ってあげるという男性の申し出を断って船内の階段を降り、客室が並ぶ区画へ。空室は扉を大きく開け、使用中の部屋は閉じているらしい。ちらっと空室の中を覗けばベッドや机などが並んでいて、ここで生活するのに必要な最低限の物品が揃っているのがわかる。
隅の部屋にしようと歩を進めつつ、なおもきょろきょろする私の耳が異音を捉えた。扉を閉め忘れたのか半開きとなった部屋から悲鳴にも似た女性の声がしたのだ。何事かと隙間から中を覗くと、ドレスのスカートを捲り上げた女性を背後から組み敷いている男性の姿があった。男性が動けば女性が悲鳴を、否、嬌声をあげる。
――世間知らずのお嬢ちゃんたち。
悪魔の言葉が脳裏をよぎる。
慌ててその場を離れ、空室へ逃げ込もうとした私の腕を誰かが掴んだ。
「こういう無理やりなシチュエーションがお望みだったのかな?」
耳元で囁かれる声。悲鳴をあげようとした私の口は大きな手で塞がれた。
男の力とはなんと強いものなのだろう。どれだけ暴れてもまるでびくともしないし、暴れるほどに喜ぶのだから手に負えない。
客室の中へと押し込まれ、頭だけで振り返る私の視界の隅で扉が閉まっていく。あれが閉まり切ったら終わりだ。声にならない声で助けて助けてと叫ぶと、扉が大きく開かれた。
ギラと輝くスパンコールの仮面が顔の左半分を隠す背の高い男がそこにいて、あっという間に勘違い男を私から引き剝がしてしまった。
「悪いが俺の約束が先だ」
聞き覚えのある低い声であった。