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4 珊瑚色の口紅


 デビューを迎えてからだろうか、悪魔は私を突き放すような視線や言動が増えた。そのときも彼は私を一瞥するなり小さく息を吐いて肩をすくめて見せる。


「鉄道はこの国の隅々まで行き渡った。自動車の前で旗を振る人間もいなくなって久しいわね」


「蒸気自動車はとにかくうるさいし、燃料を考えたらたいして動けないし、実用的じゃないわ」


「あの街灯はそのうちガスじゃなく電気にとって代わられる。汽車も自動車もそう。アタシが言いたいのは、いつまでもこんな狭い路地に来てないで世界を見なさいってことよ」


「だけどあなたはここにいるでしょ」


 悪魔は何も言わず放り投げた煙草の火を爪先で消し、路地の奥へと向かう。彼は私がそれを追いかけるのを拒みはせず、面倒くさそうにバーの楽屋へ招き入れるのだった。


 この日は姉のデートが夕方を大きく回ってからだったせいで、ちょうどバーが開店するところであった。悪魔は鏡の前で右や左を向きながら煌めくメイクの出来栄えをチェックする。私はその時になって初めて、彼の栗色の髪が本物ではないことを知った。薄暗い楽屋ではっきりしたことはわからないけれど、ブロンドかそれに近い色が首筋にほんの一瞬だけ見えたのだ。


「綺麗な髪なのになぜ隠すの?」


「ひとの秘密を暴こうなんて無粋よ」


 この五年間、一度として彼は自身のことを語らなかった。それでも行き場のない私を受け入れてくれるというだけで十分にありがたかったし、異性なのか同性なのかさえあやふやで曖昧な彼を慕っていた。けれどもこの一件以来、彼をもっと知りたいという欲がむくむくと育っていくことになる。それが淡い恋心の芽生えであったと気づくのはもっと後のことだけれども。


「じゃあ、私に化粧を教えてくれない? 前やってくれたのを」


「上流階級の化粧とアタシたちのそれは違うってわかってるでしょ。『化粧女』って言葉がどういう意味を持つか」


「娼婦でしょ。でもそれでいいの。私にいま必要なのは自信だからよ。あなたも言ってたじゃない、これは戦闘服だって」


 しばらくの間睨み合ったものの、「イェルダ」の出番が来たために停戦。ラブソングを歌って戻った彼は煙草に火をつけてから私の前に化粧品を並べた。


「これらはね、舞台映えをよくするものなの。アンタ、女優にでもなるつもり?」


「舞踏会に行くの。一歩を踏み出すのに必要なのよ」


 一瞬の間と溜め息。


「そう。アンタは前を向けたのね。でもそれこそこんな化粧なんてすべきじゃないでしょう。どこの舞踏会?」


「どこって言うか。仮面舞踏会だから顔の造形なんて本当は関係ないんだけど」


 色を確認するように、アイシャドウの入ったパレットをいくつか開けては閉じるを繰り返していた悪魔がぴたりと動きを止める。それからすぐに椅子に背中を預け、天を仰いだ。彼の動きに合わせて漂ったエキゾチックな香りが私の鼻腔を満たす。

 それが少し前に王室御用達となった調香師の手によるものだと気付いたとき、彼はいつもよりもさらに低い声で唸るように言葉を発した。


「仮面舞踏会って……それがどういうものか知ってて行くの?」


「お友達が招待状をくれたの。お顔がわからなければ緊張しないはずだからって」


「世間知らずのお嬢ちゃんたちのやりそうなことね」


 そう言って彼は脇に置かれた道具箱から、手のひらの半分ほどの大きさの丸いケースを取り出して私の前に置いた。

 恐る恐るそれを手にとって開くと、中には珊瑚色の口紅がある。


「素敵……」


「仮面をつけるんだからそれで十分でしょ。あげるわ」


「ええ! 大事にする。ありがとう!」


 悪魔からのプレゼントは私を高揚させた。

 彼の選んだ色なら間違いないし、彼の言う通り仮面舞踏会においてはルージュを引くだけでも私の欲する効果を得られるだろう。なにより、彼がくれたという事実が嬉しいのだ。


 茶会で令嬢たちは異性からのプレゼントに文句をつけることがある。センスが合わないとか自分に似合わないとか安価なものだとか。それを私は贅沢な悩みだと思っていたけれども、違った。彼女たちは憐れむべきだったのだ。

 私は悪魔のくれるものならきっと使い古したハンカチだって喜んだだろう。だから喜べないことをこそ、憐れむべきだったのだ。


 それから彼はまたいつものように読書に耽り、時には歌をうたって。私は彼の歌を聴きながら口紅の入ったケースを開いては閉じ、開いては閉じて姉が戻るのを待った。


 アルゴット・フリードン劇場での芝居がひとつ終わるような頃合いになって、私は悪魔とともに劇場へ向かう。


「アンタの兄貴はいつまで経っても落ち着かないのね」


「まぁね。でも今日はお姉様だわ」


 頭上で舌打ちが鳴った。

 彼が背の高い人であるという認識はあったが、改めて見上げるとかなり大きいことに気付く。高いヒールの分を差し引いてまだ私より頭ひとつ以上大きくて、まるでこの夜さえ呑み込んでしまいそうだと思った。


「利用されることに怒ったっていいのよ」


「私が利用してるの。じゃないとあなたに会えないでしょう?」


「アンタね、もうアタシのことなんて――」


 彼の言葉はそこで途切れた。

 珍しく姉のほうが先に待ち合わせ場所に現れ、路地を覗き込んだからだ。


「エリカ。その人はなんなの? いつもそんなのと会ってたの?」


 姉の失礼な物言いに訂正を求めようとしたとき、悪魔は私の背を押して路地から追いやった。振り返ると彼の姿はもう、闇に消えていたのだった。




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