3 侯爵家と私
悪魔にアルゴット・フリードン劇場まで送ってもらい、私を探していた従者とともに屋敷へと戻る。予想に反して父から叱られなかったのは、彼もまた今夜のデビューが酷いものであったと理解していたからであろう。
代々貴族議会の要職に就くソレンソン伯爵家という名のせいか、それとも心根が優しいのか、あのようなデビューを迎えた私を親切にも茶会に呼んでくれる令嬢は少なくなかった。私も女性だけの集まりであれば兄にエスコートを頼む必要がないため積極的に参加していたのだが、話題の多くが異性の話になってしまうのだけは少々辟易したものだ。
ある日、最も頻繁に私を茶会へ招待してくれる令嬢が嬉しそうに顔を綻ばせた。
「お姉様の婚約が決まりましたの」
口々に「おめでとう」と言う令嬢たち。もちろん姉の話だけでこの話題が終わるとは誰も思っておらず、全員が期待に満ちた眼差しで次の言葉を待つ。
こちらの伯爵家の子は彼女と姉のふたりだけ。姉の婚約が決まったという報告から続く言葉の多くは「それで私にも婚約の話が」だ。仲良しこよしの令嬢たちの中で誰が最初に人生の進路を決めるのかは、最も興味を引く話題のひとつである。
「お相手はリンドグレーン侯爵家のニクラス様で」
「あらっ。ニクラス様は次男ですけれど、でもリンドグレーン家は確か……あっ!」
一瞬、その場にいる全ての目が私に向けられた。
国内の貴族については一通り覚えているのだから、リンドグレーン家についてももちろん知ってはいる。長男ベルンハルトと次男ニクラスがいて、しかし長男は八年ほど前に失踪。家督はニクラスが継ぐこととなっているはずだ。
婿をとることを期待されるはずの姉がニクラスと結婚する、というのは確かに予想外のニュースである。侯爵家への嫁入りを夢見た令嬢も少なくないだろうし、この茶会に衝撃が走るのは納得だ。しかしなぜリンドグレーン家の話題でこちらに注目が集まるのか、まったく見当がつかない。
茶会のホステスである友人はひときわ高い声で「そうね」と言って全員の注意を自分に引き付け、照れくさそうに笑った。
「それでわたくしが婿をとることに。当伯爵家を私が支えていくことに不安がないではないけれど……ふふ、他家へ嫁ぐより幾分か気楽になりましたわ」
姉とニクラスは熱烈な恋愛の末に結婚を決めたのだと言う。伯爵家を守る責務は妹へと引き継がれたが、それはそれでまんざらでもないという話らしい。茶目っ気たっぷりの笑顔に誰もが和み、先ほどのひりついた空気は一瞬にして霧散してしまった。
熱烈な恋愛とやらに憧れを抱いた小鳥たちの囀るかのような茶会が続き、話題は自然、最近の恋模様へと移っていく。
やれどのようなデートがいいとか、やれプレゼントがどうだったとか、およそ私には無縁の話である。なのにいつか同じような悩みを自分も抱える日が来るのではないかと、ひとかどの貴族令嬢のように内心で期待してしまうのが滑稽でもあった。
話題は尽きずとも日は傾いていくもの。帰りの馬車を待つ際に、ホステスを務めた友人は私の元へやって来て黒い封筒を差し出した。
「エリカ様へ注意が向いてしまったのはわたくしの落ち度ですわ。心より謝罪します」
「いえ、私は――」
「それでね」
他者の言葉を遮るのはマナー違反だが、我が伯爵家の馬車が到着してしまったのだからのんびりと立ち話をしている場合ではない。次の馬車も待っているのだ。
「お詫びと言うわけではないのですが、こちらは仮面舞踏会の招待状です。ここでなら、エリカ様も緊張せず殿方とお話ができるのではないかと思って」
「あ……ありがとうございます。お心遣いに感謝しますわ」
社交辞令である。私が異性と縁がないのは緊張して仲良くなれないから……という建て前がいつの間にか真実として令嬢たちの間で語られるようになっていた。もちろん、私にとっても彼女たちにとっても大変都合のいい言い訳だ。外見でも家の格でもなく自分自身の人間性を愛してほしい……思春期の娘たちの願いはいつも同じ。だから彼女たちは私にも普通の恋ができると信じたいのだ。
私は黒い封筒を受け取って馬車へと乗り込む。
帰宅するなりホステスへお礼状をしたため、その中で謎のままとなっていた「落ち度」について問い合わせた。リンドグレーン家と私にはなんの関係もないはずなのに、なぜ彼女たちはこちらに視線をよこしたのか。なぜホステスが「落ち度」と謝ったのか。確認の必要を感じたのである。
翌日、夕方近くなって私は姉につかまり街へ向かうこととなった。既に結婚して家を出た姉だが、夫とは別の異性とロマンスを楽しむことを「淑女の嗜み」だと言ってはばからない。その日も男爵家出身の銀行家とデートだったと記憶している。
子どもの頃から何度もそうしてきたように、私はアルゴット・フリードン劇場の前で馬車を降りて路地へ入って行く。悪魔は煙をたっぷり吐き出しながら細い空を見上げていた。




