2 デビュタント・ボール
両親にはそれなりに愛されていたと思う。良質な本や家庭教師のおかげで貴族の子女に必要な知識や作法は全て身に付いたし、欲しいものはほとんど買い与えてもらった。兄や姉と年が離れているせいもあるだろうが、両親も従者も誰もが口をそろえて私を「可愛い」と褒めそやしたものだ。
家族は皆、美しかった。鏡を見れば私の顔の造形が彼らと比べて華やかさに欠けるということ――例えばつぶらな瞳や小さく低い鼻、厚い唇にリンゴのように真っ赤な頬っぺたなどは理解しているつもりだった。けれどもそれは、成長とともに変化するものと思っていたのだ。いずれ私は兄や姉のように美しくなれるのだと。さすがに、くすんだ赤い髪はどうにもならないかもしれないけど。
外界を知らぬ箱入り娘がそうと勘違いするのは致し方無いとわかっていても、やはり思春期の少女にとって現実を突き付けられるのは残酷と言うほかない。
生涯で一度きりの式典。人生の伴侶と出会うラブストーリーの幕開け。両親でも兄や姉でもなく私自身が主役となる私のための人生がここから始まるのだ。ああ、貴族としての人生の門戸、デビュタント・ボール!
そんな夢にまで見たデビュタント・ボールで、兄に伴われて入場した私は大きな注目を集めた。が、自身に向けられる視線が決して良い意味を持たないことはすぐにわかったし、キャバリエを務めた兄はダンスさえ踊ることなく私のそばから離れてしまったのだ。恥ずかしかった。隠すつもりのない声量で囁かれる悪口がナイフのように私の心を削っていく。これが主役を見る目、主役を称える声だというならこの物語はきっと、バッドエンドであろう。
大人たちは父の目を気にしてか「利発そうな」と褒めてくれたが、その時の私に必要な特効薬はそれではない。
誰にも誘われないまま、誰と話すこともないまま、私は父とだけ踊ってそそくさと会場を後にした。いち早く出て行くことさえ、本物の主役たちにとっては楽しいお喋りのきっかけになるらしく、笑い声がいつまでも私の背を追いかけて来る。それを振り切るように私は、初めて自分の意志で街へ出て初めて自分の手で悪魔のいる店のドアを開いた。
開店してからのバーに入ったのもまた、初めてのことだった。普段接することのないような風体の男が何人かいて、真っ白なドレスを纏う私を奇異な物を見るような目で見つめる。特に視線を集めたのが頭上で、私はゆっくりとティアラを外して胸に抱えることにした。今日この日のために何カ月も前から準備したプラチナのティアラはなぜかどんよりくすんで見える。
従業員が慌てて私を店の奥の楽屋へ押し込むと、悪魔が気だるげに顔を上げた。
「今夜だったわね、そう言えば。デビューおめでとう」
「わ、わた、私……っ」
何を言おうと思ったのか、今となっては覚えていない。いや、まともな言葉が出せるほど思考も感情も整理などできていなかったか。ただ溢れるままにまかせた涙がドレスにしみを作っていくのを、悪魔は何も言わず見ているだけで。
出番がきたのか、彼は店からイェルダと声が掛かるなり私を置いて楽屋を出て行った。ひとりになって自分がいつも座る場所に座って鏡を覗けば、酷い顔がこちらを睨みつけている。大人になれば美しくなれるというわけではなく、生まれもったこの造形と付き合っていかなければならないのだと真に理解したのはこのときだろうと思う。
店から聞こえて来るのはラブソングだ。悪魔の低い声は「ある女性の、死んだ恋人へのひたむきな愛と少しの後悔」をしっとりと歌い上げている。このような大衆向けの歌をシャンソンと言うのだったか、貴族である私には馴染みの薄いものだ。まともに聴く機会はないだろうと心のどこかで見下していた歌の詩に、まさか私の憧れる男女の愛があろうとは。今夜、手にすることの難しさを思い知らされた愛が!
俯いた私の視線の先で、消え残った煙草の火が最後にひとつ明るく火花を散らす。
拍手を背に楽屋へ戻って来た悪魔は目を丸くして、私の指から煙草を奪い取った。好奇心と少しの自虐思考で火をつけた煙草だったが、ただただ喉と目にしみるだけで味などまったくわからない。
「なにやってんのよ、コレはまだアンタには早いわ」
「もう大人よ!」
咽ながら伝えられたのはそれだけで。
私の吸いかけの煙草を咥えた悪魔は、胸いっぱいに煙を吸い込んでから同じだけの煙を口から吐き出した。
「こっち向いて、目を閉じなさい」
何をするつもりなのかさっぱりわからないけれど、私は悪魔に言われるがまま目を閉じる。瞳からの情報がない分だけ小さな音までよく聞こえる。彼の息遣い、煙草の葉の燃えるヂヂという音、ビーズをふんだんに縫い付けた彼の衣擦れにはシャララと繊細な音も混じるらしい。そんな中で聞こえたカチという小さな音。
次の瞬間、温かなものがまぶたに触れた。優しく撫でるのは彼の指だ。左のまぶた、右のまぶたと順に触れ、ぬいぐるみのような柔らかな感触が頬を撫で、最後に再び彼の指が私の唇にふれたとき。私は思わず「ん」と声を漏らしてしまった。
ずっと触れていてほしいと思う気持ちは羞恥心が駆逐してしまった。恥ずかしさにいたたまれなくなって、もう無理だと音を上げそうになった私の肩を彼の手が軽く叩く。
「いいわ。目を開けて」
目の前では悪魔が手鏡を掲げていた。その小さな楕円の中に私の顔が映っている。
苔よりももっと濃く深い緑が私のまぶたで煌めいていた。リンゴのようだった頬の赤みは自然なトーンに抑えられ、厚い唇に乗る自然な赤はまぶたの緑と絶妙なバランスをとっている。
「私? こんな、これ、化粧?」
「とても綺麗よ、エリカ」
私はそのときにやっと、今夜もっとも求めていた言葉を贈ってもらったのであった。




