13 最終列車が出た後で
しばらくして再び部屋へ入って来た彼の手にはぶ厚いファイルがあった。目の前に腰掛け、首から下げた鼻眼鏡を装着して目を細めながらファイルをめくっていく。
「ベルン……ベルンハルト……ああ、これだ」
「まさか」
断られると思っていた。いや、実際に彼は「否」と言ったのだ。
しかしいま彼はファイルをめくって悪魔の名を口にした。
「チケットの手配などをするときに『おひとりですか』と確認をすると『孤独が原動力になるんだ』とお答えになった。ええ、ええ。確かにそういう場合もありましょう。しかし、あの方の目はそうは言ってなかったのです」
「寂しそうな?」
「いやぁ。諦観でしたよ、あれはね。希望とか夢とか可能性とか、そういうのを諦めた目だ。当方の自論ですが、何かを捨てるための旅はよくありません。捨てるだけではそこが空っぽになるのでございます。捨てるためではなく、得るための旅に出なくちゃあいけないんです」
「空っぽに……」
「おっと! レディ・ソレンソン、急いでください。彼がお乗りになるのはセーデルバウム駅からオーバリーへ向かう最終列車ですからね、もう出発まで三十分もありません」
開いたファイルを指さしながら責任者がそう告げる。
鉄道会社がいくつも個別に興った歴史から、王都には鉄道会社の数だけ駅があるのだ。行き先がわからなければ向かうべき駅もわからないのである。セーデルバウムは王都の中でも北に少し離れた場所にある。
責任者に促されながらバタバタと外に出て、待機していた辻馬車へと乗り込んだ。空気を読んでか御者も急ぎ出発の準備を整える。
「もしどうしても捨てるための旅に出るのなら、空っぽにならないよう埋めてあげる同伴者が必要だ。当方はそう思うのです」
「ありがとう!」
「どうぞ、次回はおふたりでのご利用をお待ちしております」
「ええ、必ず!」
ベルマン・アンド・ルンベック社を出発して、セーデルバウム駅へ急ぐ。しかし真昼の大通りというのは気が急くばかりでなかなかスピードを出せないものだ。縦横無尽に走る自転車やマイペースな蒸気自動車が馬車の前をふさぐのだから。
ときには命知らずの紳士が悠々と道を横断し、その度に御者が「ああ、クソ」と悪態をつく。私は窓から流れる景色を見て、ただ早く早くと祈り続けた。
到着するなり馬車を飛び降りて、駅の入り口にある巨大なアーチをくぐる。利用者の増加に伴ってプラットホームは増え続けているが、駅の拡張工事は終わる気配を見せないままだ。私は十番線まであるホームの中から目的の路線を、目的の人物を探さねばならない。
どこかでカンカンと出発を報せる鐘が打ち鳴らされる中、無我夢中で改札へ。
幸いにも見送りのための入場券を必要としない駅舎であるため、私は改札で「見送り」である旨を告げてプラットホーム側へと飛び込んだ。
「見送りって、もう――」
改札にいた駅係員は驚いた様子で私に何か言ったが、最後まで聞き取ることはできなかった。なぜなら列車がボーと大きな汽笛をあげたからだ。一番端の十番線に停まる列車の先頭から白い煙が噴出している。
よく見ればその他のホームは閑散としていて、十番線にばかり人が集まっていた。
まさかと思いながらそちらへ向かうも列車はゆっくりと動き出し、見送りを終えた人々が改札のほうへと流れ始める。
出発してしまった。人々の流れに逆らう私の一歩はとても小さくてなかなか前へ進めない。そんな私を嘲笑うように列車はどんどんとスピードを上げていった。
急いでいてそこまで気が回らなかったが、旅行会社の責任者へ確認すれば行き先くらいはわかるだろう。だがそれは行き先であって彼の目的地ではない。今から追いかけたとて行方を掴むのは難しいはずだ。
邪魔だどけと押されどつかれ、私はその場に立ち止まってしまった。もう列車の姿はなく、会いたい人はいないのだ。一歩を踏み出す気力がない。
ただ茫然と立ち尽くす私を避けながら人々が立ち去って、ホームの先端までよく見えるようになった。先ほどまでこのホームを埋め尽くしていた人ごみが消え、新聞や空き瓶が転がっている。人波に乗り遅れた見送り客が数人、ゴミを避けながらこちらへ向かって来る。どこかに餌を見つけたのか、ネズミがそれらの足の間を縫うようにホームを横切った。
動けずにいる私の横を恰幅のいいご婦人が通り過ぎ、ついにホームは私だけとなる。俯いた私の足元にぽつりぽつりと雫が落ちて、どうすることもできないままスカートを握り締めた。
そこへコツコツと重い靴音が鳴りゆっくりとこちらへ向かって来る。駅係員がまだいたらしい。追い出される前に出なければと顔を上げるとそこには。
「エリカ……?」
「ベルンハルト、さま」
サファイアよりも美しいサファイアが驚きに見開かれた。でもきっとこの時ばかりは私の目のほうが大きかったと思う。私はやはり動けないままであったが、彼は手にしていたトランクケースをそっとホームへ下ろし、被っていたトップハットを脇に抱えながらゆっくり一歩ずつこちらへやって来る。長く垂らしていた前髪が風に煽られて彼の個性があらわになったが、隠そうとはしなかった。
「どうしてここに」
「あなたに会いに。ベルンハルトさまこそ、どうして?」
彼の長い脚はあっという間に私の目の前へやって来てしばらく見つめ合ったが、トップハットを被りなおすとすらりとした腕がおっかなびっくり私の両肩に触れた。
「君に会いたくて」
私からも一歩近づけば、彼の両腕が私を包み込む。
もうどこにも行ってほしくなくて私は背伸びして彼の首に腕を回した。お互いに相手の存在を確かめるように触れるだけのキスをして、足りなくなってもう一つ深い口付けを交わした。
キスとキスの合間に私たちは何度も「あいしてる」と囁き続けたのだった。




