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11 婚約という義務


 代々、貴族議会の要職に就くソレンソン伯爵家。これが我が家門の誇りであるが、コネクションや親の七光りだけで達成できるような単純なものではないからこそ、誇りと言えるのである。何が言いたいかと言うと、父の企画推進力や兄の周囲への根回しは感心するほど素晴らしかった、ということだ。

 なんと私が男爵との婚約の話を聞いた三日後には、お相手との顔合わせのため馬車に揺られていたのだから。もちろんこの三日の間は友人たちを含めて私が屋敷の外へ何かしらの連絡をすることはできなかった。


 どうにでもなれという気持ちと、実現してほしくない未来が刻一刻と迫る不安とで、私はずっとスカートを強く握りしめていたと思う。ただ両親が同席すべきところ、母の代わりに姉がついて来てくれたのは少しだけ心強かった。姉は最後まで男爵との婚約に反対してくれたし、この顔合わせで相手におかしなところがないか確認するのだと言っていたから。


 馬車が動き出すなり、私は気を紛らすように歌をうたう。もちろん悪魔が自信作と言った曲だ。


「いい歌ね」


「でしょ。でもお姉様がそう言うとは思わなかった。平民のための歌よ?」


「その『愛してるって言って』って、きっと恋愛的な意味じゃないわね。もっと根源的な欲求で、だからこそすごく感情を揺さぶるというか」


 なんという皮肉だろう。バケモノと言って彼を表の世界から追いやった人が、相手の切なる願いを読み取るだなんて。


 どんな顔をしたらいいのかわからなくて窓の外へと視線を逃がしたとき、馬車はちょうどアルゴット・フリードン劇場の近くを走っていた。もう少しで劇場の前を走り抜ける。私は無意識に彼の姿を求めて路地へと目を向け――。


 彼はそこにいた。イェルダのメイクもせず、仮面もつけず、青い痣のままで立っていた。歩道はいつにも増して賑わっていたが、道行く人はぎょっとしたように彼を見てそして一歩離れて通り過ぎて行く。


 目が合う。そこからの数秒はまるで箱の中を覗いて楽しむからくり絵(ピープショー)のように、ギクシャクと歪に動いて見えた。

 悲痛な表情の彼に、何があったのかと聞きたかった。彼を苦しめるものがあるならすべて取り除いてしまいたかった。でも、私はそれができる立場ではないのだ。


 流れる景色の一部として、彼が通り過ぎようとしている。一歩、二歩と彼が馬車に合わせて動き、そして笑う。


 ――あいしてる。


 確かに彼の口はそう動いた。

 綺麗な笑顔だった。何もかもを諦めたような、アルゴット・フリードン劇場で観た死にゆく役柄とよく似た笑顔だ。物語の最後に見せる、別れの挨拶と同じ意味を持った笑顔。


 走る馬車の扉を開けようとして、向かいに座る父に止められた。両腕を掴まれたまま見つめる先で、悪魔の姿はあっという間に小さくなっていく。

 姉が私の方へ身を寄せて「お兄様が連絡したのよ」と耳元で囁きながら、窓から後方を覗き見た。


「彼、何かおっしゃった?」


「静かにしなさい」


 私が答えるより先に父が場を制する。

 姉はツンとそっぽを向いて反対側の窓から外を眺め、私は筋張った父の手から自分のそれを引き抜いた。


 愛してるって、彼が最も欲しがってた言葉なのに。どうして私は伝えてあげられないのだろう。

 そんな風にぼんやりと自問するうちに馬車は目的地へと到着した。


 聖マリアンナ通りから二本ほど通りを挟んだところにある聖アンスガル広場……その脇に壁面を共有しながら小住宅が並ぶ住居群、いわゆるテラスハウスがある。社交シーズンに各地から集まる貴族たちの多くは、我がソレンソン伯爵家のような庭付きの戸建てを王都に持つことが難しく、このようなテラスハウスを所有する。

 私の婚約者候補である男爵もまた、こちらのテラスハウスの一角にお住まいらしい。


 男爵は小太りでどこか不潔な印象を持たせる人物だった。手入れがされないまま伸びた髪のせいか、それともよれた衣類のせいか、はたまた無精ひげか。恐らくそのすべてが彼の印象を作っているのだろうが、頭のてっぺんから足の先まで舐めるように見つめる視線のほうが私には受け入れがたく感じられる。


「エリカは引っ込み思案で社交の場に出向かないものだから、なかなか良縁に恵まれなくてね」


「いえいえ女性はそれくらいのほうがいいのでは?」


「男爵は前向きに検討いただけるとのことで、こちらとしても一息つけそうだ」


 父と男爵が和やかに会話するのを、私と姉はだんまりと眺めていた。

 きっとこのまま、私の婚約は成立してしまうのだろう。貴族に生まれた以上、家のために生きなければならないのだと理解しているつもりでも少々堪える。たった一度の無知による過ちが人生をここまで左右するものだとは。どこで間違えたのかと考えれば、私自身の顔の造形のせいではないかと元も子もないことばかり思い浮かんで。


 貴族とはこういうものだと、悪魔はきっとわかっていたのだろう。だからあんな笑顔になったのだ。さようならと言うみたいな……。


 目に涙が溜まって視界がぼやけ始めたとき、外が急に騒がしくなった。カンカンと打ち鳴らされる鐘の音がテラスハウスの中まで聞こえる。


「火事か……」


 父が呟いた。

 確かにあれは消防隊が現場へ急行するときの音だ。梯子を積んだ馬車が何台も走り抜けるため、事故などにも十分気をつけねばならない。


 男爵が従者に様子を見て来るよう言いつける。建物が密集する王都において、火事はとても恐ろしいものだ。風の向きと強さによっては離れていても延焼するのだから。


 何事もなければいいけれどと、神妙な顔で言葉少なにお茶を飲んでいるところに従者が飛び込んで来た。


「火事でした。場所はリンデル街南の元セリアン・ベイクハウス。周囲へ燃え移ることもなく、そろそろ消し止められそうです。火の手は大きくなく、そもそも燃えるようなものがほとんど無かったのではと消防隊が。パン屋が出て行ってから空き店舗のままでしたし――」


 悪魔の家だ!

 そう気が付いたら、もう居ても立っても居られなくなった。





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