1 悪魔な彼
全14話、約30000字
いっぺんに投稿します
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その人は霧の濃い夜、聖マリアンナ通りから南へ入った細い路地にいた。
歴史あるアルゴット・フリードン劇場での観劇を終え、両親が偶然遭遇した侯爵夫妻と立ち話を始めたのをきっかけに私は夜の冒険へと繰り出す。もちろん劇場から声の届く範囲内で、だけれども。
彼は悪魔だと名乗った。スパンコールのドレスみたいなアイメイクで、リップスティックを一本まるまる使ってしまったかのような濃厚なルージュの唇には細くて長い煙草。狼みたいな長い爪の光る指で煙草を支え、周囲の霧よりももっと濃い煙を吐き出して彼はこちらに一瞥をくれた。
「毛並みのいい仔猫ちゃん」
「きらきらしてる」
「そうよ。綺麗でしょう、これがアタシの戦闘服なの」
細道へ入ることは禁じられていたけれど、私はどうしても彼のメイクを間近で見たくて何度か振り返りながら歩を進めた。
「アンタ、アルゴット・フリードンの客でしょう。迎えの馬車はどこ?」
「お父さまとお母さまが侯爵さまにごあいさつしてるから、馬車はまだ来ないの」
「ほんとに毛並みがいいのね。パパは伯爵サマ?」
「うん。わたしはスヴァンテ・ソレンソンの娘のエリカよ。あなたは?」
彼はしばらく沈黙していた。ただ不味そうに煙草を吸い、面倒臭そうに紫煙を吐き出すことを三度繰り返したと思う。
「ソレンソン伯爵ったら美男美女の夫婦でしょ。アンタ、見てくれはあんまり似なかったのね」
当時、私は彼の言葉の意味を理解していなかった。もう一度彼の名を尋ねると、彼は「悪魔よ」と嘯く。というより彼は自分が悪魔であることを望んでいたのかもしれない。
「神が見放したのは悪魔だけ。だからアタシは悪魔なの」
彼が歌うようにそう言ったのと、母が私の名を呼んだのは同時だった。
「また会える?」
「そうね。アンタが望むなら」
メイクもドレスも孔雀のように飾り立てているのに声だけは本来の彼をさらけ出すところにアンビバレンスを感じ、私はその短いやり取りだけで彼の虜になっていた。
それから五年の間で、私は悪魔と何度も顔を合わせた。年の離れた兄や姉が異性とのデートの口実に私を連れ出すせいで、私は彼らが恋人と逢瀬を楽しむ時間だけ街に放り出されたからだ。
彼は夕方近くなるとアルゴット・フリードン劇場の裏で紫煙をくゆらせ、路地の奥へと消えて行く。私は彼と一緒にかび臭い小さなバーへ向かい、兄や姉が戻るまで与えられるジュースを飲んで過ごした。開店前には全ての明かりを点すせいで掃除の行き届かない隅の汚れがよく見えたが、従業員は誰もそれを気にしてはいないようだった。
彼はここで客の求めに応じて歌をうたうらしく、出番が来るまでは店の奥の楽屋と呼ばれる狭い部屋で本を読んで過ごしていた。劇場の裏で煙草を吸っているからと言って楽屋や店内が禁煙というわけではない。彼は一方的に喋り続ける私にいつも、紫煙を吐き出すついでに「そう」と相槌を打つのだ。
それだけのことだから私は五年経っても、彼のことをガラス細工みたいな悪魔だということの他、多くを知らなかった。いや、従業員が彼をイェルダと呼ぶのは聞いていたけれど、彼は私がそう呼ぶのを嫌がるのだった。
そんな私たちの関係に変化が訪れたのは出会ってから五年、私が十五になった頃のこと。彼は珍しく本から顔を上げて、森の奥の湖みたいな青い瞳をこちらに向けた。まるで雨だれの落ちた湖面のさざ波みたいに瞳が揺れている。
「デビューですって?」
「そうよ。これで私ももう子どもじゃないの」
「もうそんな年……。キャバリエは誰が?」
「お兄様」
「そう」
キャバリエ――社交界へ華々しくデビューするレディのエスコート役であり、普通それは同年代の他家の男性が務めるもの。というのがこの国の常識、明文化されない決まり事である。
だが私はキャバリエが見つからなかった。それは恐らくデビュタントとキャバリエが結婚すると幸せになれるという噂があるせいだと考えられた。噂に根拠などない。統計をとったわけでもない。だが年頃の娘たちが信じさえすればそれは正しい言い伝えとなる。
人生で一度きりのデビュー。キャバリエに憧れを抱く少女は少なくない。中にはキャバリエとなんとしても婚約するのだと躍起になって事件を起こし、複数の負傷者をだした者もいたという。以来、男性たちもまたキャバリエを引き受けるのには慎重さを見せるようになった。
……そう。私は男性たちから「結婚を迫られたくない相手」と認識されていたのだ。という事実さえ、当時の私は正しく理解していなかったのだが。
それきり彼は口を閉じて本の世界へと戻ってしまった。
私もまたいつものように彼の目元を縁取る紛い物のまつ毛を見つめながら、兄が婚約者ではない市井の娘とのデートを終えて戻るのを待つ。
ただその日は、いつものように劇場裏まで送ってくれた悪魔が深く溜め息を吐いた。その苛立ちの混じる吐息の音を私は今も忘れられずにいる。