書修館と奇書スーヴニール
暗い洞窟の中で眠りにつく私を手に取ったのは、一人の少女であった。
立派な表紙に閉じられた分厚い本である私を、少女は好奇と期待の眼差しでしげしげと眺める。
こんな所にやってくるにしてはやや幼い気もするが、一体どういった訳だろうか。
鮮やかな金の長髪を後ろで束ね、歳相応の溌剌とした印象を受ける。
恐る恐る表紙を開いた彼女の顔は、すぐに不思議そうなものに変わった。
パラパラとめくってみても白紙だけが続く。
だが、どこか満足そうに本を閉じた少女は、それを大切に抱え家へと持ち帰った。
それからというもの、彼女は夜な夜な私へと語り掛けるようになった。
本である私が何か応えるなどとは思ってはいまいが、ただ独り言を聞いてくれる相手が欲しかったのだろう。
「勇気が欲しい」彼女はそう望んでいた。
貧しい村に生まれ、家督を継げる男の子では無かったという理由で家族に疎まれる。
そんな境遇にいる彼女でも家族とはかけがえのないものだった。
なんとか家族の役に立ちたいと望み、せめて荷車を引けるようにと自らを鍛え始める。
そうしているうち、戦いに関して類稀なるセンスを持っていることがわかった。
彼女の持つそれは、まさに天賦の才といっても過言ではない。
この力を使って冒険者となろう。
家族のためと思えば、命の危険など如何程のものか。
今宵も彼女は私に語り掛ける。
蝋燭の頼りない明かりが、机に突っ伏した顔を心なしか暗く陰らせている気がした。
家族は冒険者となることに賛同したらしい。
彼女が旅立てば食い扶持は減るし、冒険者として成功すればお金も入ってくる。
反対する道理がない。
だが、彼女の表情が晴れないのは幼馴染の男の子のことらしい。
背の低い、青い髪の少年は彼女の想い人であるようだ。
村を出て冒険者となる。
それを少年に伝える勇気が出ないのだ。
私の置かれていた村はずれの洞窟、そこに一人でやってきたのは勇気をつけるためだとか。
彼女は私を手に取った時、運命を感じたという。
真っ白な私のページが、これから彼女が辿っていく道筋を綴る物、そう思えたのだそうだ。
◆◇◆◇◆◇◆
出立の日がやってきた。
彼女は、私を少年へと差し出す。
「この本が、私に勇気をくれたの。アベル、私は絶対帰ってくる。だから……私だと思って、この本を大事にしていて欲しいな」
アベルと呼ばれた青髪の少年は、俯いたまま何も言わずに私を受け取った。
行商人と共に街へと旅立っていく彼女を、私は少年と共に見送る。
多くの村人が共に見送りに出ていたが、その中に彼女の家族が居たか私にはわからない。
その日から、少年は慣れない剣を持ち、ただひたすらにそれを振るった。
いつか彼女を迎えに行く、それだけのために。
「後悔している」彼は私にそう語った。
彼女が家族に良く思われていないことを彼は知っていた。
ならば、なぜ手を差し伸べることができなかったのか。
自身の素晴らしい才能を見出し、家族の役に立てると喜ぶ彼女の姿も知っていた。
ならば、なぜ自分も同じ道を進むと伝えられなかったのか。
昼間は家業を手伝い、夜になると私を傍らに置き、涙を堪え、彼は私に多くの事を語る。
離れ離れになった彼女へ語りかけるように。
やがて訪れる行商人たちが、多くの金銭と共に彼女の活躍ぶりを運んでくるようになった。
どうやら元気でやっているようだ。
彼は安堵した。
だが、どんどん危険な場所へと進んでいく彼女に手が届かなくなってしまうのではないか、取り返しのつかないことになってしまうのではないか。
彼は不安に押し潰されそうだった。
片時も忘れず彼女を想い、毎晩涙し、そして朝がくると己を鍛え続けた。
そして時は流れ、少年は16になる。
心身ともにすっかり逞しくなり、私を受け取ったときの気弱な印象は既にない。
はじめは冒険者になることを反対していた彼の両親も、最後には熱意に押し切られ賛同せざるを得なかった。
彼女が村へ多くの富をもたらしたことも理由の一つであったらしい。
「今迎えに行くよ……アリシア」
彼女の噂は、いつからか聞こえて来なくなっていた。
胸中に湧く不安を剣を振るって打ち消し、彼女が元気でやっていると信じ彼は旅立った。
その手に、私をしっかりと握りしめて。
◆◇◆◇◆◇◆
冒険者となった彼は、コツコツと実績を積み上げていった。
彼女は既に遥か高みへと至っているかもしれない。
だが、焦って命を落としては元も子もないのだ。
ある時は依頼人の悩みに親身になって寄り添い、またある時は、便利屋のような雑用をこなす。
彼は、多くの街を訪れ、様々な人の力になっていった。
精一杯の充実した日々。
それでも夜になると、寂しそうな顔で私に語り掛ける。
「きっと僕のやろうとしていることは自己満足でしかない。アリシアは僕のことなんてとうに忘れているかもしれない……安全な所で2人で暮らそうなんて……今更言えるわけがないよ」
街から街へ、人から人へ。
彼女を探し続ける彼は、すでにひとかどの冒険者となり名を馳せていた。
だが、本人だけが自身を愚か者だと決めつける。
物言わぬ本である私に、それを諭す手段はない。
その日、アベルが訪れた街は、お祭り騒ぎに浮かれていた。
通りには出店が所狭しと立ち並び、行き交う人々はみな笑顔を浮かべている。
「今日は、この街に勇者さまがやってくるんだぜ?こんなめでてぇ話はねえだろ」
往来の真ん中だというのに、酒の入ったジョッキを持った男がそう教えてくれた。
そういえば、何日か前にも他の街で勇者さまとやらが修行を終え旅に出るという話を聞いた気がする。
せっかく居合わせたんだ、一目その姿を見て行くのも悪くない。
やがて大通りをゆっくりと進む馬車がやってきた。
人々は道を空け、口々に喝采と歓声を浴びせる。
綺麗に飾り立てられ、屋根のない馬車に女性が一人乗っていた。
後ろの方で見ていた彼は、その姿を確認した途端、彫像のように固まってしまった。
まるで吸い寄せられるように。
その理由は、私にもすぐに理解できた。
間違いようもない。
それは、彼が探し求めたアリシアその人であったからだ。
夢にまで見た再会……だが、彼は逃げるようにその場を去った。
心配という形で、空想の彼女に自分の理想を押し付けていた彼は、彼女の幸せそうな姿にいたたまれない気持ちになったのだろう。
アベルは路地裏の水路にかかった誰も居ない橋の上に辿り着くと、堰を切ったように泣き始めた。
なんということだろう。
手が届かないどころではない。
彼女は、いつのまにか勇者にまでなっていた。
自分の不安を、自分の想いを身勝手に伝えていい相手ではない。
血を吐くような言の葉は、涙とともに地面に落ちゆく。
後ろから、誰かの足音が近づいてくる。
まるで何かに追われるように。
まるで何かを追いかけるように。
「その手の本、アベル……だよね? 久し、ぶり……?」
思わず振り向いたその先には、戸惑ったような彼女の姿があった。
パレードの途中で飛び出してきたのだろうか、遠くで彼女の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
「その本、ずっと大事にしてくれてたんだね、うれしいな」
「アリシア!? ……パレードに戻るんだ......頼む、僕を見ないでくれ、今の僕は……あまりにも醜すぎる」
「そんなことないよ、ねえ聞いて、アベル。私ね、勇者に選ばれたの。本当はお金が貯まったらすぐ村に帰るつもりだった……でも、与えられた役目だけど、私に出来ること、もっと多くの人を救いたい、だから……」
彼女の言葉が、彼には身勝手に感じられたのかもしれない。
私を抱く、彼の手に力がこもった。
「まだ、まだ待てって言うのか!? 僕がどんなに君を待ち続けたか……手の届かない遠くから君の噂が運ばれてくるたびに安心と不安が襲ってきた! それすら届かなくなって君の行方がわからなくなった時に、僕がどんな気持ちだったか!」
「それは……勇者になるのに、師匠が付いて厳しい修行をする必要があって……」
「そうじゃない! 僕は心配なんだ……たとえ善意の押し付け、自分勝手な願いだったとしても! もう置いていかれるのはたくさんだ!」
「アベル……」
彼は、涙をぬぐうと、真っすぐにアリシアを見た。
その瞳には決意の光が宿っている。
「この本は君に返すよ」
「え? どうして? 意味が……」
「決闘しよう、アリシア……僕を負かして、この未練を断ち切ってくれ」
彼女は驚いた顔で立ち尽くす。
一瞬の間を置き、一筋の涙が彼女の頬を伝った。
「勝手に……勝手に話を進めないでよ! アベルのわからずや!」
「わかっ……!?」
彼女の握りしめた両の拳が、小刻みに震えていた。
「私だって……私だってアベルに会いたくて会いたくて仕方なかったよ!? なのに、あなただけが私を信じていたみたいに! 周りの期待と役目のせいで、帰りたくても帰れないこの気持ちがあんたに分かる!?」
彼女は本心を泣き零し、彼のことを鋭く見据える。
彼女もきっと、勇者となるまでに多くの葛藤があったのだ。
人類の敵である魔の者を、人類の希望として打ち破る。
その重圧は想像に容易かった。
「……いいよ、決闘しよう。 もし私が勝ったら、あなたは大人しく村で待ってて……直ぐに役目を終えて迎えに行くから」
「なら……僕が勝ったら、君の行く先に連れて行ってほしい」
それは、精一杯の決心。
あの日に言えなかった、彼の後悔だった。
◆◇◆◇◆◇◆
あの日の勝敗はいかほどか、だが、やがて彼女と彼は英雄となった。
勇者である彼女に付き従った彼の本には様々な噂が飛び交うこととなる。
曰く、多くの力を与える不思議な本。
曰く、数多の英雄譚が綴られた本。
曰く、彼らの軌跡を記した日記。
未だ白紙のままの私は、勇者としての役目と冒険を終え村に帰った彼らの手によって蔵に安置された。
冒険の中で手に入れた素晴らしい秘宝と、莫大な報償に囲まれ、私はしばしの休息をとる。
次に私が持ち出されたのは、彼女と彼の葬式の時であった。
懐かしい衣服とともに、彼女らの前に安置される。
見違えるほどに豊かになった村の様子に驚き、彼と彼女の全てをやり切ったと言わんばかりの安らかな顔に安堵を覚える。
参列者には彼女と彼の子孫や、その関係者が多数招かれているようで、みな豊かな身なりをしていた。
◆◇◆◇◆◇◆
ふたたび蔵に納められ、しばしの眠りについていた私は、不躾で粗野な声で目を覚ました。
「さっさとずらかるぞ! 追っ手に見つかると面倒だ!」
布を巻き付け顔を隠した大柄な男が私を手に取る。
いくつかの財宝と一緒に袋に入れられた私は、そのままどこへともなく持ち出された。
よほど高価なものだと思っていたのだろう。
私の中身が全て白紙であることを知った男は激怒し、二束三文で私を古道具店へ売り飛ばした。
その後、私は様々な持ち主の間を転々と渡り歩く。
ある時は物好きな貴族の手に。
ある時は、歴史的発見だと騒ぐ学者に。
多くの持ち主を経て、今の私は一人の作家の手にあった。
ボロボロになるたびに何度も修復された私を見たその作家は、私に相応しい物語を綴りたいと、そう語った。
「自分はまだまだ未熟だけど、多くの人を楽しませる作家になってみせる!」
彼の最高の物語を探す旅が始まった。
未だ何も書かれていない私の最初のページを開き、そこに書くであろう物語をイメージする。
彼自身が考えた話、吟遊詩人から聞いた話、なんてことの無い日常。
机の上に紙を広げ、ペンを握り、思いつく限りの物語を書き続ける。
「違う! こんなんじゃこの本に書くには相応しくない!」
ストーリーを練り、紙に叩きつけ、納得できずに丸めて放り投げる。
作家の旅は長く、未だ絶望感と無力感に支配されていた。
いつしか、そんな作家の後ろにその紙を拾う少女が居ついていた。
作家が放り投げた紙を丁寧に広げ、熱心に読みふける。
その様子を不思議に思ったのか、作家は少女に問うた。
「なぁ……そんな話の何が面白いんだよ」
「……全部」
少女の答えが意外だったのだろうか。
作家は目を丸くし、少しだけ頬を緩ませる。
直ぐにまた紙へと向かう作家の羽ペンの走りが、わずかばかり軽くなったように私には思えた。
そうして月日は流れ、ある夜のことだった。
「これまでたくさんの物語を書いてきた。好きだと買ってくれる人も増えてきている。でもなぜか虚しいんだ……これだという作品が書けていない。どうしたらいい?」
誰に言うでもなく作家は呟く。
私の目から見ても、彼は既にひとかどの作家であった。
ただ、自分自身がそれを良しとしていない。
まるで、在りし日のアベルを見ているようだ。
ふと、何かを思い付いたかのように作家の目の色が変わる。
机の上に新しい紙を広げ、憑り付かれたようにペンを走らせ……そこに紡がれていくストーリーは、一組の男女による英雄譚。
貧しい村を出て冒険者になった彼女は、やがて勇者となった。
帰りを待つ彼は、不安から彼女を追って旅立ち、やがて無二の相方として成長する。
それは、奇しくも遠い昔に見た、彼と彼女に良く似通った物語。
私は、その一語一句を忘れないように、記憶へと刻みつける。
ペンを走らせる小さな音、夜は静かに更けて行った。
翌朝、いつものように作家の部屋に少女がやってくる。
そこには机の上でペンを握ったまま事切れている作家の姿があった。
「君に相応しい物語を描けなかったことだけが残念だ」彼は最後にそう言っていた。
作家に縋り、震えるように涙を零した少女。
最後に綴られた物語が、作家にとってどれほどの出来なのか……私にはわからない。
◆◇◆◇◆◇◆
作家の書いた様々なストーリーは、その後多くの人に読まれ続けた。
死して尚読まれ続ける物語たち。
それは、永遠に続く作家の生きた証。
それは、少女が作家へと寄せた想い。
私は今、その少女の手にあった。
そして、ボロボロになった私を綺麗にしようと少女は書修館という施設に足を運ぶ。
「驚きました、ここまではっきりと読み取れる物は初めてです」
館長と名乗った初老の紳士が、眼鏡を合わせながら少女にそう語る。
「この本の……記憶......」
「そうです。強い思いを寄せられた品、大切にされた品には本に限らず記憶が宿ることがあります。あなたもこれを修復に来られたということは、とても大切な物なのでしょう? 修復にはまだまだ時間がかかります。その間に一緒にこの本の記憶を読み解いてはみませんか?」
柔らかく微笑む館長。
彼は、全くの白紙である私の記憶を読み取れる稀有な才能を持っているらしい。
「はい! ぜひお願いします!」
少女は愛おしそうに私を眺めた。
その瞳に宿る輝きは、あの日暗い洞窟で出会った少女の瞳に良く似ていた。
◆◇◆◇◆◇◆
これが、後に「奇書スーヴニール」と呼ばれる本の物語。
白紙でありながら、数え切れぬほどの物語を生み出す不思議な本。
ある時は、悩める人に道を示し。
ある時は、踏み出す勇気を与え。
ある時は、道半ばの者にひと時の安らぎを与える。
書修館の館長によって読み解かれる物語は、様々な人に救いをもたらす。
私の記憶が人々の役に立つのなら、それも良いのではないかと思う。
なぜなら。
それこそが、今まで私が触れてきた数多くの想いなのだから。