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針のない釣り竿

作者: ミズノ

「先輩、あの人、また来てました」

 和田は雪だるまみたいだ。両手に手袋、ダウンを着込み、首にマフラーを巻いている。ニットからはみ出した前髪をうっとうしそうに指で払った。

 川べりを自転車で走ってきたせいで、頬が赤くなっている。口を開くと、吐息が白く煙って冷たい空気の中に消えた。

「見に行こっか」

「逃げられちゃいました」

「同じ人だった?」

「はい、女の人でした。やっぱり美人だと思います。こんな出会い方をしなければ」

 お友達になりたかったですね、と嘆息する。

「悪質だね。警察にも行ったほうがいいのかな」

「でも警察に行ってもなんとかしてくれるんでしょうか。法律違反をしているわけでもないですし」

「なんとか交渉するしかないかなあ」

「ボート部のマネージャーは困難なことばっかりですねえ」

 はー、と和田は息を吐いた。

「他の釣り人は時間をずらしてくれてるんだよね」

「はい。練習の日程も伝えてありますし、川岸で釣り竿を持っている人には声掛けしてお願いをしてます。ただ、どうしても」

「なんで止めてくれないんだろう」

「嫌がらせなんですかね」

「大怪我したら冗談じゃ済まないよ。広瀬の背中を釣り上げた人だって」

 背中に釣り針、の光景を想像して、和田はダウンを脱ぎながら身震いした。

「止めてください」

「次は行ってみる」

「お願いします。私では力不足のようです。スプリンターの先輩ならきっと捕まえられると信じてます」

 階下から足音が聞こえた。建物が揺れるくらいの大きな足音だ。

「あ、来ましたね。先輩の同期は個性豊かで楽しいですね」

「和田ちゃんもよっぽどだけどね」

 そうですか? と呟いた和田の背後で、スライドドアが響いた。

「和田ちゃんありがとー、ビデオばっちり?」

「はい! 完璧です!」

 広瀬はまだ着替えないままだ。

「ロースー来て水に入るの、滅茶苦茶寒そうですね」

「俺の防寒着は筋肉だから」

「素敵です」

 体にぴっちり張り付く競技ボート用のユニフォームは、初めて見る人にはちょっとだけ衝撃的だ。お笑い芸人が着たらきっとそれだけで面白いだろう。

「着替えてから上がってきなよ」

「漕いでるときの感覚が残っているうちに、一回見ときたいんだよ。頼む和田ちゃん」

「かしこまりました! 準備はできてます」

 和田はテレビのリモコンを手に取ってボタンを押した。テレビに写ったのは、川べりから対岸を移した映像だ。カメラは対岸の人影にズームしていった。高校のものらしい制服を来た二人の女の子が、それぞれ楽器を吹き鳴らしている。

「これじゃない」

 広瀬は笑った。

「私も吹奏楽部員だったので、つい熱くなりました」

 先輩の登場シーンはもう少し後ですね、とビデオを早送りする。

「あ、ここです」

 ビデオは対岸から川面に写った。カメラスタンドを立てているから手ブレもない。画面の右端から、黄色いボートの先端が頭を出した。

「先輩の乗ってるシングルスカルが最初に出てきたので、よく覚えてます」

 ボートには一人、二人、四人、八人乗りがあってオールの本数も違うよ、と和田に教えていたのは広瀬だった。

「和田ちゃんも漕いでみたらいいのに」

「もっと暖かくなってからだとありがたいです。私達はか弱いマネージャー勢なので。ですよね先輩」

「お、来たな」

 長方形のフレームが、広瀬の乗ったシングルを捉える。進行方向に背中を向けてオールを漕ぐ。二本の腕、ストレッチを繰り返す強靭な太もも、細長い船体に収まりきらない大きな体が、力強く艇を進める。

 広瀬は、画面におでこをくっつけるみたいにして見入った。座ったまま、目の前に用意した空気のオールを握ってゆっくりと引いた。

「なんか、イメージしてたのと違うな。コーチが乗ってたのも撮ってる?」

「撮ってます」

 フォームチェックを終えると、広瀬は立ち上がった。

「広瀬先輩、肩はもう大丈夫ですか?」

 広瀬は腕を回して左肩の後ろに触った。

「俺より和田ちゃんのほうが痛そうだったな」

 そう言って白い歯を見せた。

「ごめん広瀬、今日もいたみたいだ」

「ああ、見えたよ。橋の上に一人だけいた。なんとかしないとな。俺だけで良かった」

「良くないよ。絶対になんとかするから」

「モメそうだったら任せてくれ。鹿島は意外と無理するからな」


*


 練習中の広瀬が、橋の下で釣られたのは半年前のことだった。乗艇練習中は痛みに気が付かなかったらしい。メニューのほうがよっぽどきついし痛かったからと広瀬は笑っていた。練習後、広瀬の背中に深く突き刺さった釣り針を見つけたのは和田だった。

「広瀬先輩、背中に、何かついてませんか?」

 筋肉の隆起した広い背中を、広瀬は首を回して見ようとした。左の肩甲骨の下辺りに、銀色の何かが光っている。

「何か痛いんだよな」

「釣り針! 大丈夫ですか」

 和田は悲鳴を上げるみたいに叫んだ。広瀬は、手探りで皮膚に潜り込んだ釣り針を探し当てた。

「なんかある」

「すぐ病院行ったほうがいいよ」

 平日の朝七時。まだ病院は開いていない時間だ。次々に練習から戻ってきた部員が広瀬の周りに集まって釣り針を眺めている。

「これで一限受けるのきついな。背もたれにもたれられない」

「大学なんて行ってる場合じゃないでしょ」

「大丈夫そうでよかったです」

 和田と広瀬が話を初めたので、二人を残して外に出た。

 二階建ての合宿を見上げた。建物の外からでも、部員が喋ったり笑ったりしているのが聞こえてくる。練習中はマネージャーが数人残っているだけで静かだけど、この時間に鳴ると急に賑やかになる。

 建物の前にはいくつも艇が並んでおり、部員が練習後掃除とメンテナンスをしていた。ホースから吹き出た水が艇の表面に跳ね返って飛沫を作っている。

 共用の自転車は空いていた。艇庫を出て川べりを走る。橋に向かったけれど釣り人らしい人はもうおらず、小さな犬を連れて歩くお年寄りが一人いるだけだった。

「早いね」

 と挨拶される。もう顔なじみみたいになっていた。

 欄干に手をついて川を眺める。まだ練習を終えていなかった最後の一艇が、水面を滑るように走ってきて足元の橋の下に消えた。

 この場所から落とした釣り糸が広瀬に引っかかった。練習に集中していた広瀬はそのまま漕ぎ続けて、肩に釣り針が食い込んだまま釣り糸を切ってしまった。

 針のない釣り竿を持ってその場から去った犯人は見つかっていない。

 その次の日からマネージャーの仕事が一つ増えた。練習時間中に、釣りをしている人を注意しに行くことになった。

 合宿所から二キロ離れた場所に松の木があって、その下に練習撮影用のビデオを持って座る。周囲に釣り人の姿が見えたら注意しに行く。あっさり引き下がって時間や場所を変えてくれる人が多かったけど、中には逆ギレしてくる人もいた。それはこちらの落ち度でもある。

 その日のことはよく覚えている。ビデオ撮影と見回りの当番は和田だった。合宿所で練習後の食事を準備していると、備え付けの電話が鳴った。

 短く息を吸う間があった。

「鹿島先輩はいますか?」

 和田は泣きそうな声をしていた。

「どうしたの?」

「すみません」

 和田の説明は要領を得なかったけど、釣り人に注意した際にトラブルになったことはすぐわかった。

 自転車は誰かが使っているみたいだったので、走った。冬の日差しが冷たく反射する川面が場違いに澄んでいた。

 橋の上、和田の後ろ姿を見つけたときには、シャワーを浴びてきたみたいに汗だくになっていた。日焼け止めを忘れてきたことに気がついていたけど、どっちにしても意味がなかっただろう。

 和田はうなだれたまま立っていた。右手には練習用に持ち出したビデオカメラがぶら下がっていた。

 欄干には釣り竿がもたせかけてあって、傍らにワイシャツ姿の男性が無表情で和田を見下ろしていた。ちらに気がついて顔を上げた。

 和田の隣に立つと、本人は一歩後ろに下がった。

「うちの部員が申し訳ありませんでした」

「いいですよ、謝ってもらいたいわけじゃないので」

 怒っている様子はない。穏やかな表情を浮かべている。威圧するような態度は全然ない。感情に任せて怒鳴りつけてくる相手よりもずっと怖いと感じた。

「君は?」

 大学名と所属と学年と役職、名前を伝えた。

「以前、練習中の部員が釣り針で怪我をしたことがありました。練習時間中に釣りをしている人を見かけたら、声をかけるように指示を出していました」

「君は僕に注意をしに来たってこと?」

「違います。お願いをしにきました。申し訳ないんですが、釣りをする時間をずらしてもらうことはできますか?」

「どうしようかなあ」

「この時間しか釣れない魚がいるんですか?」

「まあ、そういうのじゃないよ。僕が断るって言ったらどうするの」

「納得していただけるまでお話したいと思います」

「それは怖いなあ」

 男は表情を緩めた。

「わかった。ごめんよ。ちょっとその子の言い分に腹が立っちゃったんだ。僕も気がついてたら釣りなんてしなかったし今後もしないよ」

「ありがとうございます」

「君は、学生なのにまともすぎて面白くなかったけどね」

「すみません」

 こちらの苦笑をどう受け取ったのか男も笑った。男は釣り竿をとクーラーボックスを持って橋の向こうに歩いていった。

「すみません先輩、ほんと、すみませんでした。あの人、私が」

「ごめん、一年生を一人で行かせるのはよくなかった。今までよくやってくれてた」

「そんな」

「和田ちゃんは行けると思ってたけど見通しが甘かったみたいだ」

「それは慰めになっていません」

 和田は目の端を拭った。表情がくしゃくしゃになっていた。

「でもそうですね、私達の場所じゃないですもんね。全然そんなこと考えたことがなかったです」

 一年生の時、自分が和田と同じことを考えられたかと言うと、きっと無理だったと思う。

「今考えたならいいじゃん」

「はい! でもあの人はよくわかんなかったですね」

「まあ、そう言う人もたまにいるよ」


 その一件以降困った人は現れなかった。和田が部としての地域貢献イベントを提案した効果もあったかもしれない。

 練習中の釣り人はいなくなったけど、時々新しい人が来る。そういう人にも声掛けしていた。河川事務所や市役所、それと大学の学務に相談して立て看板を作ろうともしていた。そのあたりも和田が率先してやってくれた。

 そうして、やっと釣り人のことを忘れかけてきたところで、新しい相手が現れた。赤のダウンを来た女性だった。

 女性の釣り人は珍しいな、と思ったのを覚えている。橋の上でその女性を見かけたのは、ちょうど一週間前のことだ。

「失礼します。そこの艇庫で練習しているボート部員なんですが」

「はい」

 返事は固く、大人しそうだと最初は思っていた。ぱっと見から、同じ年齢くらいの学生かもしれないとも感じた。

「安全確保のためにはどうしても釣りをされている方の協力が必要なんです。申し訳ないですが、どうか時間をずらしてもらえないでしょうか」

 練習の日程表を渡すと素直に受け取ってくれた。

「あの、ここにビデオを撮りに来る人は、いつも違う人なんですか?」

 質問の意図がわからなかった。

「確かに、手の空いている部員がやっていますが、どうかされましたか」

「いえ、なんでもないです。すみません。気をつけるようにします」

 女性は風邪に熱を出しているみたいにふらふらしていた。

「大丈夫ですか?」

「ちょっと考え事をしてました」

 失礼します、と今度はバネに弾かれたみたいに慌てて自転車の飛び乗り、釣り用具一式を抱えて走っていった。


*


「女の人で釣りする人なんているんですね。おじさま向けのテレビ番組だけかと思ってました」

 と和田は言った。確かに今までの釣り人は男性ばかりで、年齢も明らかに大学生以上の人ばかりだったから、赤いダウンの女性は印象に残った。クレームや文句をつけてくるような様子もなくて素直に従ってくれたから、何も問題はないと思っていた。

 だけど、他の部員の話を聞くと、女性は釣りを止めていないという。次の日も、その次の日も、見回りに出た担当者が赤ダウン姿を見かけているらしい。もう一週間連続だ。話しかけようとすると逃げてしまうらしい。

「そんなに釣りたい魚がいるとも思わないですけど、何が目的なんでしょう?」

 と和田は言った。

「わかんない。大学生っぽかったような」

「うーん、落ちた大学で部活やってる人が憎くて復讐したがってる浪人生とか」

「その発想ができる和田ちゃんが怖いよ」

「先輩が初めて会ったのと同じ人なんですかね」

「一回しか会ったことないけど、赤いダウンを来た女の人って、間違えないと思うけどな」

 ビデオ撮影の見回り係は毎日交代だった。今日で七日目。だから、多くても数回しか会ったことがない。

「和田ちゃんは何回か見てない?」

「見てます。でも逃げられちゃいました」

「あの時間じゃないと釣れない魚とかがいるのかな」

「うなぎは夜しか釣れないらしいけどな」

 広瀬が割ってはいってくる。

「うなぎなんているの?」

「らしい」

「そんなに珍しい魚がいるわけじゃないでしょ」

「あの時間だとせいぜいボラくらいだな、とても食べられるような魚じゃないが」

「魚を待ってるのかな?」

「ソシャゲかなんかかもな」

「でも釣り竿は持ってるらしいよ」

 広瀬は頭を捻った。

「わからん」

「きっと何かを待ってるとは思うんですけど、それが何なのかわかりません。、でも」

 と和田が言う。

「でも?」

「やっぱり美人ですよね」

「そう、かもねえ」

「気をつけてください。美人は頭がおかしい人が多いので」

「そんなことないでしょ」

「あります。美人は、美人であるというだけで頭のおかしさや人間の醜いエゴで行動することを許されてこれまでの人生を生きています。ブスだったら許されないような奇行も、変な癖も、とてもお金にならないふわふわした夢を追うことだって、全部受け入れてもらえるんです。だから本人は自分のおかしさの自覚がないまま、いや、自覚はしているかもしれませんがそれを矯正しないまま人に押し付けて、これからの人生も生きて行くんです。そういう人と戦うのは、少々、やっかいですよ。私もそういう生き方がしたかったです」

 身を乗り出すようにしてまくし立てる和田は、敵を見つけた散歩中の犬に似ていた。

「和田ちゃんが心理学部にいるのって、喋ってみると凄く説得力があるよね」

「遠回しにディスるの止めてもらっていいですか?」

「違うって。だから和田ちゃんは頭がおかしいのかって納得した」

「明日は、あ、先輩、気が付きましたか?」

 和田は壁にかかったカレンダーを見上げた。

「明日はクリスマスイブです。そして、先輩が釣り人と対決する日です」

 二十年の人生で一番つらいイブになりそうだ。


*


 翌日は夕方から雪がちらついていた。それでも乗艇練習はある。

「先輩、怖くなったら逃げてきていいですからね」

「電話したら広瀬を呼んできて」

 ビデオを持って川べりを走る。橋の上にはぽつんと赤いダウンの姿があった。

 今日もいた。和田の話だと、こちらが近づいていくと逃げてしまうらしい。もともと渡る人の少ない橋だから、ボート部員が交渉にやってきたとすぐにわかるんだろう。

 逃げるなら追いかけて、どうして止めないのか話を聞くつもりだった。こっそり近づこうにも隠れる場所はない。

 せめて焦らず、ゆっくりと近づいて、警戒心を抱かせないようにした。だけど結局意味はなかったみたいだ。

 赤いダウンの上にちょこんと乗った小さな頭が動いた。二つの目がこちらを捉えた。わずかに表情に驚きが交じる。逃げられる、と思った。

 だけど彼女は逃げなかった。近づいてくるのを待っているようにも見える。欄干に立てかけた釣り竿に手を付けリールを引く。

 ちちち、と餌が水面から戻ってくる音がする。その餌にかかった釣り針は、次に部員の片目を傷つけるかもしれない。

 目の前に立った。やっぱり彼女は逃げない。

 丁寧に、感情を抑えて、必要なことを必要なだけ話そう。そう思っていたのに、口から出てきた言葉には苛立ちが滲んていた。

「前も、ここに来てましたよね?」

「はい」

「前も話をさせてもらったと思いますけど、練習中の部員がいるんです。どうか、練習時間中の釣りは止めてください。そこまでして釣りたいものがいるんですか」

 彼女はちょっとだけ視線を落とした。

「あります」

「この時間しか釣れないものなんですか。そうでなければ、別の時間に」

「この曜日しか駄目みたいです」

 時間じゃなくて曜日。どういうことなのかわからない。

「それは、どんな魚なんですか」

「釣りは止めて欲しいんですよね」

 話が通じない。

「何回も言っています」

「条件があります。聞いてもらえたら、絶対にこの場所に釣り糸を垂らすことはしません」

 言い方に妙な含みがある。

「この場所だけでなく、練習に使っている水域で部員に怪我をさせるようなことはしないでもらいたいです」

 彼女は笑った。その笑みに募った苛立ちに体が震えるのを感じた。

「約束します」

「どういう条件ですか?」

 川はボート部だけのものじゃない。中には怒って反論してくる人だっていた。何様のつもりだと何度も叱られた。最初のころは、お願いではなくて注意に行くというスタンスだった。大学生がボートの練習をしているのに、そこで釣りをするなんて危ないし、非常識だと。

 だけど今は違う。お願いをしにいく、交渉をしにいくという態度を取るようにしている。周りに住んでいる人に迷惑をかけるようでは部活動も成り立たない。

 条件に何かを差し出せと言われることだって十分あり得た。

「電話番号を教えて下さい」

「え? 何って」

「電話番号です。LINEの連絡先でもいいです」

「それだけ?」

「はい」

「じゃあ、口頭でいいですか。うちの部活の番号ですが」

「違います、部の連絡先じゃないです。あなたの、個人の連絡先を教えて下さい」

 面食らった。何のために。

「それで止めてくれるんですか?」

「はい」

「次は警察に相談するかもしれないですよ」

 スマートフォンを差し出した。赤の他人に連絡先を伝えることには抵抗があったけど、それだけで済むなら十分だった。

 彼女は、スマホの画面を満足そうに眺めてからポケットにしまい、顔を上げた。再び釣り竿を手にとって糸を巻く。

「釣り針はついてないです」

 機嫌がいい。歌うような調子でそう言った。

「どういうことですか?」

 欄干の向こうから、釣り糸の先について何かが飛び上がった。ルアーじゃない。餌でもない。御札みたいな、赤く四角い何かが釣り糸の先にくっついている。

 神社で売っているお守りだった

『そういう人と戦うのはやっかいですよ』

 と和田が言ったのを思い出した。

「何、それ」

「お守りです。私も、人に怪我をさせたくなかったので。これなら、当たっても縁起がいいかなって、それに」

 何を言っているのかわからない。練習の予定表を渡して、避けてほしい時間帯をもう一度だけ伝えた後に艇庫に戻った。


*


「どうでした。あれ?」

 和田は困惑していた。

「もしかして、逃げてきたんですか?」

「もうやらないって納得してもらった」

「前もそうだったんですよね?」

「今回は条件を出された」

 和田は首をかしげた。橋の上であったことを説明する。やっぱり赤いダウンを着ていたこと、釣りをしていたこと、釣りを止める交換条件に連絡先を教えたこと。連絡先は部活のものでなく個人のものを要求されたこと。そして、釣り竿の先には針がついていなかったこと。釣り針の代わりについていた何かがお守りだと言ったこと。

「なんで、それが交換条件に、あ」

 和田は何かに気がついたらしい。

「それ、何のお守りだったか見てますか」

 と和田は言った。

「わからないけど、赤いお守りだったと思う。当たっても縁起がいいからって。交通安全のだったかも。とにかくやばい人だった」

「やばい人ですね」

「そう思う」

「先輩が思ってるよりやばいと思います。釣り竿につけた赤いお守りは、きっと交通安全でも無病息災でもないです」

「なんでそんなことがわかるの」

「先輩、もしかしてずっとツッコミ待ちしてますか?」

「してないけど」

「あの人は、先輩を待ってたんです」

「俺を?」

「釣り針についていたのは、きっと縁結びのお守りです」

 混乱した。

「もしくは恋愛成就かもしれません。あの人と初めて会ったのは先輩でしたよね。他の部員が近寄っても逃げられなかったのに、先輩のときは逃げなかった。最初の一回は本当に魚釣りだったかもしれません。だけど先輩に会って獲物が変わったんです。きっと、私が見に行ったときも、釣り竿には針の代わりにその赤いお守りがついていたと思います」

「でも、もう来ないって」

「釣りには来ないと思います。釣り人を撃退したのはさすが男子マネージャーですねと言いたいところですが」

「別に俺は、か弱いからマネージャーやってるわけじゃないからね。人には適正ってものが――」

 俺のポケットの中でスマホが鳴った。初めて目にする連絡先だった。

 あ、とやっと気がついた。

「先輩って、変な女の人にモテるタイプですか?」

「そんなタイプ初めて聞いたよ」

 スマホの着信が間を空けずやってくる。和田は窓の向こう、夜の川面に粉雪が舞うのをぼんやりと眺めていた。

「本当に、警察に電話したほうが良くなっちゃいましたね……」

 部の問題は俺の問題にすり替わった。

「でも身を挺して漕手を守ろうとする姿勢は、素敵だと私は思います」

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