こどくのあい
これでラストです!!
今日は大掃除の日です。ゆんは昨日買ったマッチ、ルーズリーフ、洗剤の容器に移しかえたサラダ油、それから雑巾が入ったバックを持って登校しています。周りの人が夏休みを目の前にしてうれしそうにしているなか、ゆんは今日も、足元を見ながら歩いています。目に映るのはでこぼこしたアスファルトだけです。
先生のあいさつを聞きながら正門をくぐり、ゆんは自分の教室へと向かいます。生徒が走り回っているろうかでも、ゆんは下を向きながら歩きました。顔を上げて歩いていなかったせいで、前から走って来る生徒と当たってしまいました。ゆんの体は、おすもうさんみたいに強くないので、背中からたおれてしまいました。
ごめんね、だいじょうぶ? と声をかけられましたが、ゆんは愛がもらえたと喜ばず、何事もなかったかのように立ち上がり、うん、と軽くうなずいて、再び教室へと歩き出します。
教室に着くと、すでにほとんどのクラスメイトがいました。ゆんは窓側にある自分の席へ向かうと、机の上がほこりまみれになっているのに気がつきました。周りにいるクラスメイトを見てみると、私には関係ないと、ふだん通りに友だちと話したり、鬼ごっこをしたり、楽しそうに遊んでいました。
ゆんはこんなことをされても、傷つきません。
ほんとうの愛に気がつくまで、ゆんは毎日が苦しかったですが、もうだいじょうぶです。
むしろ、机の上にほこりをまいてくれたことに感謝したいくらいです。
ゆんは机におおいかぶさっているゴミを、自分のバックのなかにつめていきました。
さすがにみんな、この行動におどろきを隠せなかったのか、さわがしかった教室がだれもいなくなったかのように静かになりました。あらゆる方向からクラスメイトの視線を感じますが、ゆんは気にせずにゴミをバックのなかに入れ続けます。
きれいになったイスに、ゆんは座りました。バックはだれにも取られないように、お腹と手で守っています。
いじめに反抗しているようにも見えるゆんの行動が、松本くんに気にいられなかったのでしょうか。
松本くんはゆんに、「おい」とゆんの座っているイスをけってきました。「なんでゴミをバックのなかに入れたんだよ」
ゆんは顔を上げずに足元を見たまま、「これでみんなから愛をもらえるから」と答えました。人気者の松本くんにはわからないでしょう、ゆんがどれほど愛について考えたなんて。
松本くんは舌打ちすると、「これだから頭がおかしいやつは嫌いなんだよ」
ゆんのイスをまたけって、どこかに行ってしまいました。
なにも考えずに座っていると、チャイムと同時に先生が入ってきました。朝の会でそれぞれの掃除場所を再度確認したあと、そのままみんな、自分の持ち場へと向かう準備を始めました。
ゆんはクラスメイトからの指名でトイレ掃除をやることになっています。ですが、もとからトイレ掃除する気はありません。ゆんは席から立ち上がったあと、クラスメイトが外に出る前に、教室の前のドアと後ろのドアを閉めました。ゆんの後ろに立っていたクラスメイトに、どうしてドアを閉めたの? と聞かれたので、ゆんは担任に頼まれたと伝えました。もちろん、これはうそです。みんなから愛をもらうための段取りに過ぎません。
そのあとゆんは、バックのなかに入っているゴミとルーズリーフを、教室を一周するようにまき、サラダ油をその上にかけました。
ゆんの行動に違和感を覚えたのか、担任はゆんに近づいてくると、「金澤、なにしてるんだ?」と声をかけてきました。「これから机を出すのに、ドアを閉めたら出せないだろ?」と腕を組みながら言います。
ゆんはさっきみたく、またうそをつこうか迷いましたが、やめておきました。
これ以上うそをついても意味がありませんし、もう準備は完了したからです。あとはマッチ棒に火をつけて、ドアの前に放火するだけなのですから——
ゆんはバックからマッチを取り出し、担任に聞きました。
これが最期の会話だと思うと、なんだか実感がわきません。
「もしも先生が、ほんとうの先生ならば教えてください。愛って、なんなのでしょうか?」
「愛か……」担任は腕を組んだまま考えました。「恋が育ったら愛になるんじゃないのか?」
「なら、恋ができないゆんは、どうやって愛を感じればいいのでしょうか? 人は愛されなければ生きていけません。辛くて、苦しくて、死にたくなってしまいます」
「……」担任は、んー、とだまりこんだあと、「その前に、どうして金澤はマッチを持っているんだ?」と話題をすりかえてきました。
これだからゆんは、担任を先生だと思えないのです。
ゆんよりも先に生きているはずなのに、どうしてこの担任は、どこにでもあるような答えしか言えないのでしょうか。
先生がゆんの質問を無視したように、ゆんも先生の質問には答えず、マッチ棒をヤスリに当てました。
担任はゆんのこれからやることを察したのでしょうか。
「やめろ!」と叫んで腕をつかもうとしてきました。
でも、先生の手がゆんの手に届く前に、火のついたマッチ棒をゆかに落としました。
——ぼあ、っと。
ゆんの後ろで火が生まれました。
すると、教室を囲むように、火が次々と生まれました。まるで、火のかべができたようです。
「……ふふふ」
お腹の底から、笑いがこみ上げてきました。もう死んでしまうというのに不思議です。
担任はクラスメイトを守ろうとあれやこれやと指示を出していますし、みんなは死にたくない、死にたくない、と泣き叫んでいます。あの松本くんでさえ、四方八方にある火を目の前にして泣いています。
——ゆんの計画は大成功です。
ゆん史上、最も上手くできた計画です。
こうしてみんな、死を目の前にして恐怖という感情に包まれています。
恐怖こそが愛、ではありませんが、教室内という限られた人のなかで、絶対的な感情を共有する——これこそが真の愛の形なのです。
死へと誘う火を見て、恐怖心を抱かない人なんてどこの世界にもいません。命がある人なら、だれもが抱いて当たり前の感情なのです。
もちろん、ゆんも怖いです。
全身をやけどして、じわじわと死に絶えていくと考えるだけで怖気がします。
でも、今のゆんにはみんながいます。
みんな、同じ気持ちを抱えています。
死にたくない、死にたくない、と願っています。
「お願い! だれか助けて!」
ゆんは叫びます。
顔は笑っているのですが、ろうやに閉じこめられていたゆんが泣いています。みんなと愛を分かち合えているうれしさ、死にたくないという絶望が、ゆんの顔を作っています。
だんだんと、煙でクラスメイトが見えなくなってきました。
教室にはだれかがすすり泣く音、それをあぶって亡くそうとしている音だけがします。
ゆんの体にはまだ火は届いていませんが、サウナなんて比にならないくらいにかんそうしていて、今にも干からびてしまいそうです。鼻に入ってくる空気は焦げ臭く、酸素がなくなってきているせいか呼吸をしているのかさえもわかりません。
確実に死期は近づいています。
同時に、みんなの愛もクライマックスに近づいています。
最高の愛になれば、みんなと一緒に気持ちよく死ねるはずなのです。
満面の笑みを浮かべているゆんは、辺りを見回します。
ゆんの周りにだれかいないか、目で確認し手でも確認しました。が、
ゆんと一緒に死んでくれる人は、いませんでした——
「……愛って、なに」
最期が近づいてきているのに、ゆんはほんとうの愛がなんなのか、わからなくなってしまいました。みんなの愛に包まれて、このひとりぼっちの人生を終えようと思ったのに、これでは悔いしか残りません。
やっぱり、ゆんの人生は、最期まで孤独なのです。
「……やだ、やだ……やだ!」
そう言ってゆんは、たおれて、うずくまり、泣き叫びました。
笑っているゆんなんて、もうどこにもいません。
ここにいるのはただ独り、ろうやから出てきたゆんだけです。
ゆんは、こんな状況でも必死に生き延びようとしている心臓を、うばわれないように、失わないように、離さないように、と抱きかかえました。
ここはどこなのでしょうか。
眠りから覚める前の世界を見ているようです。
目の前にはなにもないのですが、ゆんの体がにわとりに温められている感じだったり、だれかがゆんの近くでむせび泣いている声がしたりと、どうやら視覚以外は動いているみたいです。
だれがゆんの近くで泣いているのかと、ゆんは耳をすませてみます。
ママでした。
鼻水をすすりながら泣いているのは、ゆんのママだったのです。
どうしてママがゆんの近くにいるのかがわかりません。
確かにゆんは、いつも通りママの代わりの人の朝食を食べたあと、班長さんの後ろに並んで学校に登校したはずです。ということは、ママは今、学校にいるのでしょうか。ママが学校に来る機会なんてないのに、ゆんのクラスに来てなにをしようとしているのでしょうか。
「……ゆう、ごめんなさい。ほんとうに、ごめんなさい……」
ママの声が、ゆんの前で土下座でもしながらあやまっているかのようです。
ごめんなさい、と言われても、ゆんはなにも心当たりがありません。
「私、気がつかなかった。ゆうがどれだけ傷ついていたかなんて……」
ゆんは傷ついてなんかいません。
目が開けられないのはどうしてかわかりませんが、けがしているようなところはありません。
「ゆう、ゆう…… お願いだから死なないで。ゆうが死んじゃったら、私、どうすればいいの……」
ママは今、ゆんが死ななくてよかった、と言いました。
同時に、ゆんは思い出してしまいます。
火が燃え移った担任が、クラスメイトを守ろうと必死に声を出していたこと。クラスメイトが無力な声をあげて外に助けを求めていたこと。
奥深くで眠っていた記憶が、ゆんの頭の中を刃で傷つけながらかけめぐっています。二度と治ることのない深い傷をつけていきます。
今すぐにでも叫びたいです。
思い出したくない記憶を口からはき出したいです。
けれどもゆんは、口を開けることができませんでした。
「私は今まで、ゆうの気持ちを考えずに行動してきた。私が昔、母親にして欲しかったことをゆんにしてあげただけだった。ゆうは美味しいご飯が食べたいだろうからってかせいふさんをやとったのも、私が小学生のとき、お金がなくてママのご飯しか食べられなくて、ゆうもきっと、そう思うんだろうな、って思ったから……」
「……」
「パパと別れたのも、ぜんぶ私のせい。付き合いはじめた段階で、どうして私はわからなかったんだろう。パパが浮気するような人だったなんて。パパは外で遊んでばかりでゆうの世話なんてしなかったし、家事も私に任せっきりだった……」
ずるずると、ママが鼻をすする音だけがしました。
ママに伝えたいことが山のようにあるけれど一つも言葉にできません。
「ゆうに厳しくしないといけないのはわかってる。けど、どうしても私にはできない。優だけは幸せに生きて欲しかった。私が小学生のとき遊べなかったぶんも、優には楽しく友だちと遊んで欲しかった。美味しいものも食べて欲しかった…… けれど、これじゃ、私がゆうを不幸にしたのも同然じゃない……」
ママは泣き続けます。
ゆんに、ごめんなさい、ごめんなさい、とあやまり続けます。そのたびに、ゆんの傷は深まっていきます。犯罪者が自分の罪に呪われるように、ゆんの心は暗い世界に飲みこまれていきます。
ゆんは今まで、みんなに愛されたいからと、周りの人の気持ちなんて一切考えずに行動してきました。ママはゆんに幸せになって欲しいから、自分ではなくママの代わりの人にご飯を作らせていたとは知りませんでした。パパの連絡先や住所を教えてくれなかったのも、きっと、ゆんがパパに近づいて欲しくなかったからなのでしょう。
ゆんはバカです。
ほんとうに救いようがありません。
「私、これから頑張るから…… ゆうの親として、頑張るから。ゆうが人を殺しちゃったとしても、私だけは絶対に味方だよ。周りからどう見られても、私はゆうに協力するから…… だから、だから…… 死なないで……」
ゆんの顔に水滴が落ちたあと、ゆんのほっぺに細い指みたいなものが線を引くようにふれました。ママがゆんの顔をさわったのでしょう。ママはゆんの頭に手を回すと、ゆんの顔を抱きかかえました。ママの心臓が、どくん、どくん、とゆんの顔に伝わります。まるで昔みたいに、ママのお腹のなかにもどったみたいです。守られているようで心が落ち着きます。
犯罪者になってしまったゆんを守ってくれる人は、世界中を探してもママしかいないでしょう。きっとゆんは、あの火災でだれかを殺してしまったのです。そうでなければ、ママはこんなにも深刻そうに話すわけがありません。
ゆんはもう、あの学校にはもどれません。
それに、これからの人生、人を殺してしまったというのろいを受け続けながら生きていかなければなりません。これだけは、どんなにお金があったとしても消えることはありません。
でも、それでもゆんは、生きていけるような気がします。どんなに辛い過去を持っていたとしても、ゆんは人生を歩めるような気がします。
だって——
ママはゆんに、真実の愛をくれたような気がしたのですから。
お疲れさまでした!
これでこの物語は終了です。
ここまで読んでくださった方々に感謝を。