もうひとりのわたし
ここからどんどん加速していきますからね。
お気をつけて。
ゆんが家出をしたのは金曜日だったので、土曜日と日曜日は学校に行けませんでした。なのでゆんは、家にこもることしかできませんでした。楽しみな予定を待つのは長くて辛いものです。ですが今日、とうとう学校に登校できます。この土日でゆんは、学校に行ったらなにをしようか、と足りない頭でずっと考えていました。きっとこれで、ゆんはクラスメイトから愛をもらえるはずなのです。
ゆんはイスにかけてあるランドセルに、本立てに並べてある教科書とノートを入れます。先週はランドセルのなかにぶたさんを入れていましたが、もう必要ではないので部屋でお留守番をしてもらおうと思います。
かべにかけてある鏡の前で、服にしわと汚れがないかをチェックして、ランドセルを背負い、ゆんはリビングへ向かいました。
リビングのドアを開けると、ママが湯気の立っているマグカップを片手に、パソコンとにらめっこをしていました。ママは集中しているから、ドアに立っているゆんに気がついていません。ゆんがママに話をかけようとしたとき、ゆんのお腹がぐー、と泣きました。この音を聞いて、ママはパソコンから目を離し、ゆんの方へ目を向けてきました。
「どうしたのゆう」「……お腹空いた」「わかった! じゃあ連絡するね」
ママはポケットからスマホを出すと、「あの細谷さん。家事をやってもらっている途中にすみません。ゆうがお腹が空いたらしくて。あ、はい。はい。あー、いつもほんとに助かります」
「ママ、ありがと」
「うんうん! ぜんぜんいいのよ。お腹空いたときはいつでも言って」
ママは立ち上がり、ゆんのところまで来ると、「学校は楽しい?」と微笑み、ひざを曲げてしゃがみこむと、そっとゆんのまえがみをどかしました。
「……うん、楽しみだよ」
「ならよかった」
ママはゆんに抱きつくと、「いやなことがあったら、なんでも言ってね」と赤ちゃんに伝えるかのように、優しい口調で言いました。
今日の朝ご飯は美味しかったです。
前のママの代わりの人が作った料理も美味しかったのですが、さっき食べた朝食のほうが美味しく感じました。食べる場所が変われば料理の味が変わるように、ゆんにとって、今日の朝食は今までと違う場所で食べたような感覚でした。いつもと同じくリビングで食べたはずなのに不思議です。でも、さすがに昨日の夕食には勝りませんでした。
どこかで聞いたことがあるのですが、一人で食べるご飯と二人で食べるご飯は違う、らしいです。ゆんは今朝、この言葉の意味が理解できたような気がします。きっとこの言葉は、心の置く場所によって味が変わる、と伝えたいのだと思います。ゆんは今まで、ママの代わりの人のご飯をいやいや食べていましたが、しっかりと現実を受け入れて食べてみると、魔法をかけたかのように美味しくなりました。
そしてゆんは、久しぶりに登校しています。
前と通っている道は変わらないのに、外国にでも行っているかのような気分でした。これも心の置く場所が変わったからなのでしょうか。受け取り方を変えるだけで鏡の世界に入ったかのようです。ゆんのぐちを言っているような声が、ただの世間話に聞こえたり、朝からうるさい太陽の声は、ゆんの色こいかげを強めるためのものではない、と気がついたり、こんなにもこの世界は明るかったのだと感動しました。
先生のおはようございますを聞きながら正門をくぐり、ゆんは自分の教室へと向かいます。前まで真っ暗に見えたろうかが、今日は天国に来たかのように明るいです。ゆんから走ってにげていると思っていた生徒は、実は友だちと鬼ごっこをしていただけで、ゆんの目に映らないように隠れていた生徒は、実は友だちとかくれんぼをしていただけでした。まるで遊園地に来たかのような気分になります。
ゆんは自分の席に着き、さっそくだれが話しかけてくれるのかなと、心をおどらせて待ちます。周りがざわついているのは、ゆんにどうやって話をかけようかと相談しているかのように聞こえてきます。
ゆんは先週、ぜんぶ学校を休みました。それもズル休みです。ゆんは金曜日、班長さんに欠席届を出し忘れてしまいました。担任は熱で処理していると思います。が、成績なんて気にせず、ゆんは本当のことを告白しようと思います。先週の休みはぜんぶ、ズル休みです、としっかり伝えようと思います。これで、担任からの愛はもらえたようなものでしょう。
ゆんは背筋を伸ばして、だれが声をかけてくれるのかなと待っていましたが、一言もそのような声を聞くことなく、とうとう教室に来て三十分が経ちました。教卓側にあるドアが開きます——先生です。先生はいつも、朝の会が始まる五分前に来ます。
大変です。
そろそろタイムリミットになってしまいます。
このままだとだれにも話しかけられずに、朝の会が始まってしまいます。さすがにだれかしら話しかけてくるだろうと予想していました。
ゆんは考えます。
残り時間は五分しかありません。
この調子だと、今日一日、だれとも話さずに終わってしまうような気がします。
ゆんは頭をかかえて、どうしようか、と悩んでいると、ゆんのとなりをだれかが通りました。ゆんは見ます。だれなのかを確認すると、ゆんのとなりの席の子でした。松本くんです。松本くんは席に着くと、ランドセルから筆箱を出して、授業の準備を始めました。
なんだ、と少し落ちこみます。ゆんに話しかけてくれるのかと思ったのに、勘違いしてしまいました。
はあ、とため息をついていると、松本くんが授業の準備を終えたと同時に、またゆんのとなりをだれかが歩いて通りました。
ゆんは期待します。ゆんの前後左右に空いている席はありません。だとしたら、この子はゆんに話をかけるために来たのだと、そう思いました。
「熱は下がったの?」
ゆんの耳に声が届きました。
きっと、ゆんを心配して声をかけてくれたに違いありません。
だいじょうぶだよ、とゆんが口を開けようとしたとき、「熱下がったよ。でもまだ調子悪いな」
松本くんがゆんよりも先に答えました。
ゆんは松本くんの方を見ます。ゆんに話しかけてくれると期待していた子は、松本くんに体を向けて、ゆんの方には背を向けています。松本くんは頭をかきむしると、「一日学校休んだだけでも異世界に来たみたいな気分になるよな」と苦笑いを浮かべました。
「だよな! たった一日休んだだけなのに、別のクラスに来た感覚になるよな」松本くんに話しかけた子は手をたたきながら笑いました。そのあと、ゆんにはわからないような話しで松本くんたちは盛り上がりました。
……ならゆんは、どうなってしまうのでしょうか。
一日休んだだけで別のクラスに来たと感じるのなら、一週間も休んでしまったゆんは教室に入るとき、どう感じていたのでしょうか。松本くんとは違って、ゆんは友だちができるかも、と楽しみにしていました。なら、ゆんの感じ方が正しいのかと問われれば、それは違うと断言できます。理由は考えるまでもありません。さっきの子が、先週から休んでいたゆんにではなく、一日だけ休んだ松本くんに話しをかけたので明白です。
朝の会の開始まで三分前です。静かに着席して待ちましょう、と放送が流れました。が、だれも着席せず、次々とクラスメイトが松本くんの周りに集まってきます。全員ではありませんが、ほとんどのクラスメイトが松本くんを中心に円を描くように集まりました。松本くんどうしたの? とか、今日の放課後あそべるの? とか質問して、松本くんが、大丈夫だよ、と言うと、みんな笑顔になりました。
黒板前に立っている担任が、朝の会を始めるから席につけ、とみんなに呼びかけました。松本くんの周りにいた子は、はーい、と返事をすると、足早に自分の席へともどって行きます。
「……」
絶句しました。
どうして、ゆんの方が長く休んでいるのに、みんな松本くんの方にしか行かないのでしょうか。ゆんは机の下に隠れているわけではありません。ちゃんと、イスに座って顔を上げています。なのに、だれも話しかけてくれませんでした。
だらりと座り、ゆんが放心していると、
「あ、金澤」
と担任はゆんを呼びました。
指先で、こっちにこい、と伝えてきます。
なんのことだろうと、ゆんは立ち上がり、担任のところに行きました。
「はい」
「先週の金曜日はどうしたんだ?」
ゆんの顔は見ずに、担任は学級日誌を見ながら質問してきました。
——これは神様からのプレゼントでしょうか。
担任はどんな意図でゆんに聞いてきているのかまではわかりませんが、これがゆんにとって絶好の機会であることくらいはすぐにわかりました。ここで真実を告白すれば、担任からママみたいに愛をもらえるはずなのです。なのでゆんは、「ズル休みしました」と、素直に伝えました。「あと、先週の欠席はぜんぶ、ズル休みです。熱なんて出してません」と、ざっくばらんに話しました。
「……」
先生は目を見開き、ゆんの顔を見ます。ゆんの口から、ズル休み、だなんて出ると思っていなかったのでしょう。すると、先生は不思議なものを見る目でくびをかしげ、「どうしてだ?」と質問してきました。
ここでもゆんは包み隠さずに、どうして休んだのかを明かします。
「学校がつまらないからです」
おどろき過ぎたのか、先生はだまりこんでしまいました。
顔が石像みたいに固まっています。
お前、だいじょぶか? と言いたそうな顔をしています。
これなら確実に、先生からの愛はもらえた。と思いました。
「……金澤」
「はい」
「金澤もジョークを言うようになったんだな」先生は口角を上げて笑いました。「熱はもう大丈夫なのか?」と言い、学級日誌に目を移すと、担任はボールペンでコメントを書き始めました。
「……はい。だいじょうぶです」
「そうか、ならよかった。じゃあ席にもどりな。金曜日は熱ってことで処理しておくから」
担任は学級日誌を閉じると、立ち上がり、「みんな起立!」と声を張り上げました。
クラスメイトが先生の方を向いて立っているなか、ゆんは背を向けて自分の席へともどります。足取りを速めることなく、試合で負けて落ちこんでいる選手のようにゆっくりと歩きます。
担任は信じてくれませんでした。
ほんとうのことを言ったのに、じょうだんとして受け取られてしまいました。
授業中、だれとも会話をせず、静かにノートを書き写しているから、ゆんがズル休みするはずがないと思ったに違いありません。こういうのを、へんけん、と表すのでしょうか。どうして人は、担任みたく自分の視点だけで物事を判断しようとするのでしょうか。ゆんの気持ちなんて、だれも見えないだろうに。
まるで、ほんとうのゆんが、周りから見えるゆんの後ろに隠れているようです。
このままだと、だれもゆんに愛をくれません。
こわくて、こわくて、どうしようもないのです。
このままひとりで終わると考えると、こわくてたまらないのです——
ほんとうのゆんが、偽物のゆんに追いつき抜かそうとしているなか、無情にも先生の号令と共に、朝の会はようしゃなく進んでいきました。
午前中、ゆんは先生にさされることなく授業を終えました。お昼は近くの人と机をくっつけて六人で食べました。ですが、ゆんはみんなの会話についていけず、もくもくとご飯を食べました。もちろん弁当は、お金を払ってでも食べたいくらいに美味しいのですが、今朝のご飯よりもマズかったです。それも、ゆんの大好きな梅干しでさえも口に入りづらかったくらいです。
なので、ゆんは決めました。
弁当を美味しく食べるためにも、かくごを決めたのです。
昼休み、ゆんはみんなから愛をもらうために動きます。実行するには勇気がいりますが、そうしないと、ほんとうのゆんが偽物のゆんの前に出る日は来ない、そう思ったのです。
放送で流れる音楽に合わせて歯磨きをしたあと、四十分の長い休み時間に入りました。前のゆんなら、ほとんどのクラスメイトがいなくなった教室でぼーっとするのですが、今日は砂漠のような校庭に出て、遊具の近くにある石をひろっています。ゆんの手の平よりも小さい石を探し、一つだけポケットに入れました。そして、周りにクラスメイトはいないか、しっかりと確認します。もしもゆんが、石を拾っていたと担任に報告されたら、大変なことになってしまうので、どろぼうをするみたいに用心深く、辺りを見回しました。
ポケットに石をしのばせて教室にもどったゆんは、どんな人たちが教室に残っているのかを確認します。男子は指で数えられるくらいしか残っていませんが、女子はほとんど残ていて、みんなはイスに座り楽しそうに話しているか、静かに本を読むか、顔をふせてねているか、のどれかでした。これならゆんは、安心して実行できます。
ゆんは教室のはじへと向かって歩き、外で遊んでいる子たちを窓越しにながめました。
「……いいな」
窓に映る自分を見つめ、ゆんはポケットのなかにしのばせていた石を取り出し、右手でぎゅっとにぎりました。人差し指と中指の間から、石のとがった部分が出るようにします。
窓には、ゆんの後ろで仲良く話している女子のグループも映っています。けれどそこに、ゆんは映っていません。ゆんが目には見えない空気みたいです。
ゆんはぎゅっと、石に力をこめます。
手の平から血が出てきそうでしたが、気にしません。
だって、これからやることは、血が出て当たり前のことなのですから——
「きゃあ!」
窓が割れると、教室にいた生徒はみんな、悲鳴を上げました。
割れた窓は外に行き、草の生えた地面に落ちました。
「……い、痛い」
ゆんはその場でたおれました、
右手をお腹で守るように、うずくまります。
これでゆんは、愛をもらえるでしょう。計画は大成功です。
ゆんのところに、だれが来るのかと待っていると、「おい、どうした!」とドアの方から担任の声がしました。あわてているのか、走って来る音がします。
「大丈夫か、金澤……」先生はゆんの右手を見ます。「だいぶ血が出てるな……」
先生は顔を引きつらせています。
見たくないものを見せられているかのような顔です。
「じゃあ保健室に行くか」「……はい」「午後の授業、無理しなくていいからな」「はい」
担任はゆんをおひめさまだっこすると、保健室に向って歩き出しました。今朝は愛をくれる素振りすら見してくれませんでしたが、今はママみたいに、温かな愛をくれています。体はママよりもゴツゴツしていますが、それでもいいのです。ゆんは愛さえもらえれば、それで十分なのです。
ゆんは首をひねり、みんながいる方を見ます。担任から愛をもらうために実行したのもありますが、ほんとうにもらいたいのはクラスメイトからなのです。そのためにゆんは、大事な右手をけがしてまで頑張りました。でも、
現実はゆんの思い通りになりませんでした。
「……どうして」
ゆんは失望しました。
みんな、心配している顔ではなかったからです。とまどっている、というのでしょうか。それとも、こわがっている、というのでしょうか。
ゆんを見ているみんなの顔は、犯罪者、を見るような顔でした。
ゆんはみんなから愛をもらいたくてやっただけなのに、どうしてこんな顔をされなければならないのでしょうか。石を使って窓を割っただけなのに。ゆんはクラスメイトを石でなぐったわけではありません。ゆんにとって、右手のけがよりも、よっぽど犯罪者を見るような顔をされる方が辛いのです。
「痛いよ、痛いよ……」
ゆんは泣きます。
見えない破片が、ゆんの心を傷つけます。
痛くて泣いているのに、ゆんはだれにも声をかけられることなく教室を出て行きました。
保健室で手当をしてもらいましたが、そこまで大けがではなかったらしいです。なのでゆんは、午後の授業を終えたあとそのまま家に帰りました。げんかんでくつをぬぎ、リビングに入ると、イスに座っていたママが立ち上がり、「ゆん、どうしたの!」と声を張り上げました。
ママはゆんのところに来ると包帯でまかれた右手を見ます。
「学校でなにがあったの?」
「ゆかがぬれてて……」足元を見ながらゆんは言いました。
もちろんうそです。
ママの愛をもらうためならうそをつく必要はありませんが、ここでほんとうのことを言うと、あとあと大変になりそうなのでやめておきました。ゆんはいじめられている、とママに思われてしまえば、二度と、クラスメイトからの愛がもらえなくなってしまいます。
「ゆうは転んで怪我したの?」「そうだよ」「骨折?」「違う。ガラスに飛びこんじゃった」「保健室の先生にはなんて言われたの?」「安静にしていればだいじょうぶだって」
そっか、とママは安心します。「どこか痛んできたら、ママにすぐ言いなね」
「わかった」
今も右手は痛みますが、がまんできないほどではありません。
ママにすごく痛いと言って、もっと愛をもらおうかなと思ったのですが、おおごとになってもいやなのでやめておきます。ママの愛は、他の人よりもかんたんにもらえますし、その気になれば、いつだってもらえるような気がします。
難しいのはクラスメイトからです。
担任の愛ならけがでもすればもらえますが、クラスメイトからもらうには、どうすればいいのかわかりません。ゆんが保健室に行くとき、みんなゆんに愛をくれるような顔をしていませんでしたし、むしろ前よりもゆんから遠ざかって行くような感じさえもしました。
「今日の夜ご飯、山本さんが作ってくれるから楽しみに待っててね」ママはゆんの頭をなでなですると、さっきまで座っていたイスに戻りました。「あ、そうだ」
「どうしたの?」
「いまさらだけど、金曜日、部屋の掃除した?」
「……金曜日?」
「細谷さんが今日、ゆんの部屋を掃除したとき、折れたボールペンとか破れた紙が散らかってたらしいから」
「……」
ゆんの頭が熱くなります。
見られてはいけないものを見られた、とあせりました。
「え、あー、うん。部屋の掃除してたの」
「そっか。細谷さんがやるから、ゆんは気にしなくていいのよ」
ママはテーブルの上に置いてあるパソコンを開くと、カタカタとさわりはじめました。
一体、この気持ちはなんなのでしょうか。
ゆんではないゆんが、叫んでいるような気がしました。
ろうやに閉じこめられたゆんが、ここから出して、と泣いているような感じです。
どうしてあのとき、お人形さんで遊んだとき、ゆんは部屋を散らかしたままにしたのでしょうか。こわれた物がたくさん転がっていたら、だれでもゆんが変だと疑うでしょうに。
はあ、と息をはき、ゆんはざわついた心を落ち着かせます。
「じゃあね、まま……」
そう言ってゆんは、自分の部屋に向いました。
ゆんはベッドの上にねころがります。かき氷みたいに冷えている部屋で大の字になっていると体の熱がうばわれていきます。
いつもなにか考えごとをするとき、ゆんは天井を見ながらぼーっとする習慣があります。
今日は、教室の窓を割りました。
持っていた石は、ガラスを突き破ると同時に放したので、行方は知りません。あのとき、先生がゆんの右手を確認したとき、手の平に石があったら学校で問題になっていたでしょう。わざと割ったことがバレてしまえば、ゆんは退学になるかもしれません。帰り際に先生が、「教室にいた子が、金澤は意図的に窓を割った、って言ってたけど、違うよな?」とゆんに聞いてきたときは、血の気が引きました。もちろんゆんは、違います、とうそをつきました。
明日もまた、ゆんが窓を割ったら先生に勘づかれてしまいます。
それに、窓を割っただけでは、クラスメイトからの愛をもらうことができません。
ならもっと、悪いことをするしかないのです。
窓を割る以上に悪いことをするしかないのです。悪いことをして、初めてママはゆんに愛をくれたのですから。
ゆんは考えます。どうすればクラスメイトの愛をもらえるか、ひらめきを待ちました。
「……あ」
答えはたくさんありました。
単純に悪いことをすればいいだけなのです。数学の式を解いたり、作者の伝えたい内容を読解したりする必要はありません。みんなの迷惑になるような行動をすれば、それが自然と悪いことにつながります。うわばきをゴミ箱に捨てたり、ランドセルをトイレに放り投げたりしておけば、みんな愛をくれるかもしれません。ゆんちゃん、だいじょうぶ? と声をかけてくれるかもしれません。
ゆんはバカでした。
どうしてこんなにもかんたんな、愛のもらい方に気がつかなかったのでしょう。
お腹の底から笑いがこみ上げてきました。笑い過ぎてお腹が痛くなってきます。
ゆんはベッドから体を起こし、お人形さんがある箱へ向かいました。
ゆんと書かれたお人形さん、それから、まだ名前が書かれていないお人形さんの服に、松本くん、と書きました。他の子の名前でもよかったのですが松本くんしかゆんは知らなかったので、そうしました。そのあとゆんは、この二つのお人形さんをじゅうたんの上に置きました。
ゆんは部屋のすみっこにあるれいぞうこから、パックに入った一本の牛乳を出します。
ゆんと書かれたお人形さんに牛乳パックを持たせ、
「えいっ」
と、松本くんに牛乳をぶっかけさせました。
すると、牛乳まみれになった松本くんは、「金澤、だいじょうぶか?」と首をかしげながら、ゆんに愛をくれたのです。
ゆんの心はさわぎ出します。
うれしい、うれしいって、おどり始めました。
ゆんはお腹をかかえて、笑い転げました。
幸せです。ゆんの心は、長年解けなかったのろいから解放されたような気がしました。でも、ゆんは幸せなはずなのに、不思議と目からなみだが、ぽた、ぽた、っとほおを伝って服に落ちてきました。
悲しくなんてありません。
クラスメイトから愛をもらえてうれしいはずなのに、目薬を打ったあとみたいに目が曇ってきました。
「……どうしたんだろ、ゆん」
松本くんに愛をもらえたからなみだが出たのでしょうか。
それとも、うれし過ぎてなみだがでたのでしょうか。
どちらも違うような、当たっているような、そんな気がします。
でも、どっちも答えではないような気もします。
「……はあ」
まあいいか、とため息をはきました。
泣いたところで、ゆんのやるべきことは変わりません。
クラスメイトに悪いことをする。それだけでいいのです。
ゆんはお人形さんをじゅうたんの上に置いたまま、ベッドにねころがりました。
家出から帰ってきた日の夜、学校に行くのが楽しみで仕方がなかったような気がします。けれど今は、寝付けないほど楽しみにしているか、と言われれば、そうでもないです。
もしかしたら明日、クラスメイトからの愛がもらえるかもしれないのに、心がおどらないのはどうしてなのでしょうか。今日みたいに失敗するのを恐れているからなのかもしれません。
失敗を恐れているゆんの心に、だいじょうぶ、だいじょうぶ、とゆんは、ママみたいに優しく言い聞かせます。次こそは成功するから、と言い続けます。
けれども、ゆんの心は落ち着かず、なぐさめるたびに胸がしめつけられます。
まるでこの苦しみは、ゆんの動きを止めようと、だれかがゆんの胸をなわでしばっているみたいでした。
心が分離しとる(笑)