彼がそれを手にするまで~第七回文学フリマ大阪
等々力 至がOMMビルに着いて、最初にしたことは、10年ほど前に訪れた顧客の名前を探すことだった。しかし、その社名は見つからなかった。たとえ、見つかったとしても、何度も救済合併されていた会社であり、当時と同じ名前でその会社が存続している可能性は殆どない。
彼が文学フリマに来るのは初めてだった。
一般的に有名なコミケにも参加したことはない。
――2019年9月8日 午前11時40分
文学フリマってどんなものだろう。
そんな期待とともに2階に上がった等々力は、開始早々、行き詰った。何をどうしていいのかわからない。
廊下を挟んで、会場と見本誌コーナーがある。
やはり、入場しなくては何も始まらない。
彼は左にある入場口を選んだ。
入場して『第七回文学フリマ大阪出展者カタログ』を受け取る。
――5分後
彼は会場を出ていた。
彼は大海を見た井の中の蛙の気持ちを初めて理解した。
あんなたくさんの人が、自分で作品を書き、印刷業者に発注して、この場にいる。
そんな静かで膨大な熱量に圧倒され、彼は何をどう買っていいのかわからなくなっていた。
作者と談笑しながら作品を購入している人間が別世界の人間に見えていた。
(もうカタログを受け取ったから、これで帰ってもいいんじゃない?)
正体不明な怠惰心の囁きを無視して、彼は見本誌コーナーに退避した。ここに来るまでに、それなりの金と時間を使っている。そう簡単に帰る訳には行かなかった。
文学フリマに来るのは初めての等々力だが、彼は1冊目に買う作品は決めていた。
『小説家になろう』関連の本である。
理由は簡単だ。彼は約2年『小説家になろう』のサービスを利用しているからである。
当たり前だが無料で使っている。
彼は仕事柄、ある程度、この手のサービスのマネタイズがそれなりに大変であることを知っていた。自分が1、2冊買っても大した足しにはならないだろうが、それでも少しは返しておきたい。そんな気持ちからの行動だった。
そんな気持ちで3冊ある短編集から、どれか1冊を選ぶことにした。さっき、1、2冊買ってもと書いておきながら、買うのが1冊とはどうだろうとも彼自身思った。
しかし、全ての予算には上限というものがある。ここは1冊で留めておくのが正しい判断だ。
(表紙を見ると短編集3が良さそうだ、巻を重ねる毎に、表紙のデザインが洗練されてきている)
続いて彼は1から3の目次を読んでみた。すると1つのキーワードが彼に引っ掛かった。
――理想の夫
これで彼は買う本を決めた。
次の本を探す。これからが彼のセンスが問われるところだ。
文庫本サイズの本が数冊目に留まった。同じ作者による3、4冊の本が並んでいる。さっきと同様に先入観に引っ張られているかも知れないが、やはり「本日発売」とある方が本としての見た目がいい。表紙はアニメキャラ風のイラストだが、表紙としてピタリとはまっていた。
購入するときに作者に話を聞いてみたら、文章もイラストも全部一人でやっているそうである。
そして、何冊目かの本を手にしたとき、のこんなのもあるんだな、と彼は感心していた。
言われてみれば当たり前のことだが、こういったフリマに出品されるのは、転生小説やファンタジー小説だけではない。
それは地震や防災について書かれた小冊子だった。
地震について生の声が書かれている。
金額を見ると…0円、受け取らない手はなかった。
さらに薄い本に目が留まった。安っぽい装丁だが、どうしても表紙が目に引っかかる。
手に取って中を見ると、ホッチキス留めだったり、縦書きなのに半角数字の方向が横になっていたりと手作り感をしっとりと感じられた。
普通なら、こういう本は買わない。
しかし、1つ目の短編を斜め読みしたとき、彼は買うことに決めていた。彼だけに引っ掛かる単語がちりばめられていたからだ。
本屋の店頭に並ぶ本を見慣れているせいか、彼の目には帯やチラシに書かれている文字が特に目に入る。
「…味噌汁の具が原因で婚約破棄された女なんて、おそらく私ただ一人だ」
パラパラとページをめくって、ページの余白が極端なものでないことを確認すると殆ど読まずに買う。
見本誌をめくってみて、小説と違って、こういう場所では、短歌や詩のほうが買いやすい、と彼は実体験として知った。
1つか2つの詩を読んで、いい、と思えば、それで買うという判断ができる。
その反対に、1冊丸々1本の小説の場合、その判断は難しい。
結局、彼はそういう作品を買うことはできなかった。
単品だと見過ごしてしまいそうだが、何冊か並ぶとスッと浮き上がって見える表紙があった。ページをめくると詩が目に留まった。
一通り目星をつけると、メモに書いたブース番号を頼りに買い回った。
ここでは、作品から受けた作者の印象と実際に作者から受けたギャップは気にしない。
すると、今度は人を見て買ってみようかと考えた。買いまわる途中、ブースで座るその佇まいに何かを感じ、「この人の作品でどんなものだろう。買ってみたいな」と思う作者もいた。
でも、もし、その場で本を手にとって、もし違っていたら、買わずにその場を去るのも気まずい。
そこで彼はブース番号を覚えると、見本誌コーナーに戻って中身を確認することにした。
その結果、彼は会場と見本誌コーナーを少なくとも10往復はした。
ちなみに、等々力の見た目は女性に容姿を褒められたこともあるが、女子高生にすれ違いざま、キモいと言われたこともある。
彼は今の自分が本当はどちらなのか彼自身わかっていない。
だが、自己評価は低めにしておいたほうが無駄な怪我はしなくて済む、と考えている。
さて、これで買うべき作品には出合えただろうか?
帰りの時間が近づいている。
未練たらしく会場内を何度もマグロのように1時間うろうろして、ようやく、全部見るのは最初から無理な話だ、と割り切った。
――午後03時37分
程よい満足感と共に、彼は会場を後にした。
――その夜
彼は数名の作者さんから頂いた名刺を眺めていた。
どれも綺麗なデザインだ。
サラリーマンの感覚で考えると、翌朝にはお礼のメールを送るところだが、
こういう世界では、読んでから感想を伝えるのが正しいお作法だろうと、彼は解釈した。
それに「私たちが先だろう」と積ん読の本たちが彼にプレッシャーをかけている。
また、明日から読むよ、そう声をかけて、彼は一人で床に着いた。
※彼が買った(あるいは頂いた)作品は以下の通り。
[]はブース番号、『』は書名です。
[K-19,20] 『文学フリマ×小説家になろう 短編集3』
[G-49] 『パンドラのカンヅメ』
[K-06] 『大阪北部地震をふりかえる 東日本大震災をめぐる記憶』
[I-35] 『六ペンス』
[E-09] 『あなたとスープを』
[I-28] 『Summer Vacation』
[J-14] 『こいするたましい』
[K-08] 『ペトリコール』