本格的歴史エンターテイメントのエッセイ集第一弾!!
「戦艦大和の第2艦隊は、帳簿外重油を満載して最期の戦闘に出撃していった(武士の情け)」など、深くて渋い知られざるエピソード満載。意外性のショットガン。本格的歴史エンターテイメントのエッセイ集第一弾!!
歴史エッセイ集「今昔玉手箱/作・松岡 繁」
○深くて渋い歴史
エピソード満載。
意外性のショットガン。
本格的歴史エンター
テイメントのノンフィクション。
さまざまな時代と地域の味わいを
お楽しみください。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。
第1話「鬼」
平安時代の陰陽師・阿倍清明
(あべのせいめい)が、ひそかなブームになって
久しい。彼は「この世をば わが世とぞ思う
望月の かけたることも無しと思えば」
という歌を詠み、高笑いをしていた関白・
藤原道長(966〜1027)と、ほぼ
同時代人である。
陰陽師とは律令国家公認の占い師で、
陰陽寮で研究と教育が行なわれていた。
清明は賀茂忠行・保憲に師事し、役職
の最高位である「天文博士」になる。
清明は一条天皇(在986〜1011)や
関白道長を、魔物や怨霊・生霊から守る
ゴーストバスターとして信頼され、
従四位下の官位を得ている。
陰陽道は、太極が陰陽に分かれ、
火水木金土の要素(五行)が生じ、
それらが互いに助け合い(相生)、
あるいは反発し合う(相克)原理を
根本に据えている。これに甲丙
などの五行の陰陽(十干)、
子牛寅などの十二支が加わり、複雑に
なってゆく。これらを筮竹と算木、
あるいは地盤と天盤を組み
合わせて占うのである。
この陰陽師の聖典を、「金烏玉兎集」
という。唐の時代、伯道上人なる人物が天竺の
聖霊山なる所へと旅
をして、文殊菩薩から伝えられたという伝説が
ある。それを日本に伝えたのは、遣唐使の吉備
真備(きびのまきび/693〜775)だと言われている。
陰陽道などと言うと、何か特殊な世界の
事かと思いがちだが、案外なじみ深い。
日本人の潜在的思考法に色濃く反映されて
いる。物のけ怪は鬼の姿をしており、北東
方向(鬼門)からやって来るという。家相や
風水では、常識として語られる。
物の怪を避けて家に閉じこもるのが
「物忌み」。凶なる方角をそらすのが
「かた方たがえ違え」である。陰陽道には
この他、動物霊を用いて呪う「蠱毒」や、
人形に釘を打って呪う「厭魅」などの呪詛法も
あった。
人を呪い、妬む感情は、平安の世であろう
と現代だろうと、そう変わるものではない。
マーフィーの法則などで知られている通り、
人の想念には大きな力がひそんでいる。
その力で社会的成功を得る事も可能だが、
人を呪殺する事も出来るという。
人を怨み、呪う感情の渦は、怨霊や生霊と
なって現れる。陰陽師はそれらから人を守護
する為に、十二神将や三十六禽などの
神格・霊獣を「式神」として使役していた。
関白・藤原道長に向けられた呪詛
の念の大きさを思うと、阿倍清明も相当難儀
したものと察せられる。
呪詛と言えば、現代でも行なわれている
丑の刻参りがある。真夜中に誰にも見られず
神社へ行き、わら人形なり写真なりに釘を
打ちつける呪いである。能の作品に、作者
未詳ながら「鉄輪」という謡曲がある。
夫が他の女に心を移し、嫉妬に狂った妻は
貴船神社(京都市左京区)へ丑の刻参りを
続ける。妻の願いとは、生きながら鬼となり、
嫉しと思う女を取り殺したいと、
すさまじい。
男は嫉妬の対象が、浮気した女その人に
向けられるが、女の呪いは男と関係した女に
向けられる場合が多い。鉄輪の女も願いが
叶い、鬼となって闇をさ迷う事になる。救い
はない。
能の世界では、「鬼」を得意芸とする。
人間の業の深さ、孤独の深さを見つめ、
嫉妬の情念・復讐への執心などが描かれて
いる。鬼の語源は「隠」だといわれる。
隠れた存在・埋もれたものを意味する。
人の心の隠れた部分、すなわち無意識の
闇から鬼は生まれる。
人は誰もが、心の奥底に鬼を棲まわせて
いる。鬼になる以前の姿は、総じて純真で
あり一途だ。愛の深さが鬼を呼び覚ます
皮肉。それゆえ鬼は、どこか物悲しい。
私のように「まあ適当でいいか」などという
態度は、鬼向きではないだろう。
中国では「卓越した陽の存在」が神であり、
陰の存在が鬼と呼ばれた。神と鬼という、
陰陽混在した存在が「人」であるらしい。
「鬼はそと・・・?」
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第2話「桜」
毎年の事ながら、桜前線北上のニュースが
巷に流れる今頃になると、妙に心がざわめく。
これが、古代より連綿として桜を愛でてきた、
日本人の民族魂というものだろうかと、
誇大に思う事もある。
桜の名所は全国に数々ある。私が見た中で
圧巻だったのは、やはり皇居千鳥が淵あたりの
夜景だろうか。視界一面、染井吉野の桜・桜・
桜・・・現実とも夢幻ともつかぬ、淡桃色の
眩暈の中に身を置いた感覚だけになれる場所
の一つだと思う。
現在目にする桜の多くは、染井吉野という
品種である。パッと咲いてハラハラと散る姿が、
はかなくも美しい。だがこの品種の背景に、
政治と洗脳の悪臭を感じると、単に美しいと
ばかりは言っていられなくなる。
染井吉野は、明治政府が国策として全国の
城跡などに植林したもので、遠く平安から
江戸期にかけて歌に詠まれた桜は「山桜」
だった。歌人たちは、咲き匂う生命の輝きを
詠んだのである。「散る桜」の美学の背景
には、日本国民を戦争に駆り立てた政治家
や軍人たちの思惑が反映されているのである。
山桜の名所といえば、奈良県吉野熊野
国立公園の一部である「吉野山」だった。
修験道の開祖とされる役小角(えんのおずぬ/
637〜701)が、桜の木に蔵王権現の
像を彫り、大峰山を開いた事から、桜の木
を御神木として愛護したのがそもそもの
始まりだと言われている。全山の桜は
10万本とも言われている。
「吉野山 花の盛りは限りなく
青葉の奥も なおさかりにて」
と、平安末の歌人・西行は、吉野の桜の
輝きに圧倒されている様子が伝わってくる。
西行は生涯に2度、奥州・平泉
(岩手県平泉町)の藤原秀衡のもとに旅を
している。当時の平泉は、人口約15万人。
京・鎌倉と並ぶ北の都だった。中尊寺の
金色堂に象徴される黄金文化が、満開の
桜のように咲き誇っていた。
平泉から北上川を渡った所に、牛の背
にも似た標高596メートルの、束稲山
(たばしねやま)という山がある。全山に
1万本以上の山桜が植林されていた。
「ききもせず 束稲山のさくら花
吉野の外に かかるべしとは」
西行は、吉野山以外にもこのような桜の
名所があった事に、感嘆した歌を残して
いる。
西行はもともと、佐藤義清という名の
武士だった。平清盛とほぼ同期である。
清盛は保元の乱・平治の乱を勝ち抜いて
頭角を現し、自らは太政大臣に昇りつめ、
平家一門も隆盛を極める。だが、風前の
ともし火だった源氏が次々に挙兵し、清盛
死して4年後、平家一門は壇ノ浦の海中へ
没したのである。
さらに源頼朝は、奥州へ出兵して平泉の
藤原王国を滅ぼし、鎌倉幕府を成立させる。
西行はその全てを見届けた。まさに諸行
無常・諸業流転の、変転に次ぐ変転の時代
だった。
「願はくは 花のしたにて春死なん
そのきさらぎの望月の頃」
西行はその歌の願いの通り、満月の夜、
満開の桜のもとで73歳の生涯を閉じたと
伝えられている。
明治政府は、西行が愛した吉野の桜3万本
の伐採を命じた。吉野桜は封建制度の象徴
であり、仏教的御神木などとはけしからんと
いうのが理由だったらしい。むろん、平泉・
束稲山の山桜も伐採された。
桜を愛でる心無き「薩長の馬鹿ども」は、
軍備を増強し、朝鮮半島や台湾への侵略やら、
日清戦争に血まなこになる。日本美術院を
創設した岡倉天心は、著書「茶の本」の中で、
昔文芸を楽しんでいた時の日本は野蛮な国と
呼ばれ、侵略戦争を始めてからは近代国家と
呼ばれていると、皮肉を込めて語っている。
その「近代国家」は、自己肥大したあげく、
大東亜戦争で自滅してゆくのである。
いつまでも、桜花を愛で、風雅を味わう
日本人であってほしいものだ。それと、
美酒を少々・・・西行に乾杯。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第3話「将の将たる器」
漢の高祖・劉邦。邦とは「兄貴」といった
尊称なので、劉兄貴といったニュアンスだ。
30代はどこの田舎にも1人や2人はいそう
な親分肌の酔っ払いだった。
ところが秦に対する反乱軍を組織して旗揚げ
すると、とんでもない逸材が幕僚として
加わる。まず「策謀を帷張に運らし、
勝ちを千里の外に決す」と称えられた、天才
軍師・張良。民政の秀才・蕭何、
背水の陣で知られる大将軍・韓信など、
それぞれの分野に優秀な人物が集結して
いった。
ところが劉邦自身は好色な酒飲みであると
いう以外、突出した才能が見当たらないの
である。戦えばほとんど敗れ、逃げ足だけは
早かった。その100戦して100敗した
漢が、ライバル項羽との最終決戦に勝利して、
統一王朝「漢」を建国するのである。
劉邦を称して韓信が語る。
「陛下は将軍の力量で言えば千人隊長が
せいぜいでしょう。私は10万でも100万
でも、多ければ多いほど自在に扱えます。
しかしながら陛下は、そうした将軍を使う
将の将たる器なのです。」
人間の「器」というもの・・なんとも曖昧
な概念なのだが、歴史上の人物をさまざまに
比較検討してゆくと、確かにあるなと思う。
しかしながら、ある種天性の資質のよう
でもあり、努力すれば身につくというもの
ではないようだ。器というくらいだから、
中身がびっしり詰まっていては入らない。
まるっきり中身の無い馬鹿ではどうしよう
もないが、むしろどこか茫洋として掴み
どころのない人物に器の大きな人間が多い
ようだ。
政治+軍事に限定して日本史を見渡すと、
足利尊氏は、将の将たる器と言える。
普段は優柔不断で躁鬱気味。特に戦さや
腕力が強かったわけでもなく、並外れて
頭脳が明晰だったとも思えない。
民政・軍事などの細部一切は弟・直義に
全てまかせ、自らは大局を見据えて
「鎌倉幕府に反旗を翻す」と決断をした
だけである。これは総大将にしか出来
ない仕事だ。
同じ事は西郷隆盛にも言える。彼の人物像
をどう表現すればいいのか、よくわからない
のだ。この人物を評して「大きく叩けば
大きく鳴り、小さく叩けば小さくしか鳴ら
ない梵鐘のような人物」とある。でもお寺の
鐘のような人と言われてもねぇ・・・
彼の大仕事は、坂本竜馬という俊才の構想・
戦略を受け入れて「薩長連合」を成立させ、
倒幕という大方針を決定した事と、勝海舟
の言を受け入れ「江戸城無血開城」を実現
した事に尽きる。
日露戦争時の連合艦隊司令長官・東郷平八郎。
彼もまた、取り立てて特徴ある人物ではない。
平凡人+好々爺なのだ。日本海海戦において
ロシア・バルチック艦隊を撃破した作戦の
大半は、参謀の秋山真之が立案したものだ。
彼はそれを採用し、実行する決断を下した
だけなのだ。
つまり「将の将たる器」とは、優秀な才能・
異能を受け入れ、その能力を最大限引き出す
環境を整える能力の事であり、才能・異能を
引き寄せる人間的魅力に富んだ人物のようだ。
優秀な国務大臣が、必ずしも宰相の器である
とは限らないのである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第4話「八甲田山」
冬は寒い。北国は雪に埋まり、息をひそめる。
今から100年ほど前の、1902(明治35)
年1月25日、青森歩兵第五連隊210名中
199名が、青森県八甲田山中で凍死すると
いう事件が起こった。新田次郎の小説
「八甲田山」で有名になった、「死の雪中行軍」
である。ロシアとの戦争を想定した、耐寒演習
だった。
1月20日、福島大尉率いる弘前連隊
第一大隊第二中隊の38名が、雪の降る弘前を
出発。3日後、山口少佐率いる青森連隊第二
大隊210名が、雪の青森を出発した。
弘前連隊の福島大尉は、大吹雪に迷い込んだ
ならば凍死か窒息死が当然とされる白魔の
八甲田山を行軍するにあたり、微に入り細に
わたり、徹底した用意周到さで事にのぞんで
いる。
一・軍靴は堅牢にして寛裕なるを用うべし。
決して水の漏入する物を用うべからず。
(3日目からわら靴・かんじきを使用)
二・足はよく洗い、爪を切り、清潔にし、油脂
を塗るを可とす。かねて凍傷の恐れある者は、
凍傷膏を医官に請求してこれを塗るべし。
三・靴下はなるべく新品を用い、常に乾燥
させるを可とす。毛製の靴下なればなお
よろしい。
(実際には靴下を重ねてはき、唐辛子をまぶし、
油紙で足もとを包んだ)
四・手足が冷えて知覚を失ったときは、布で
よく摩擦したのち、徐々に暖めること。
決して急速に暖めてはならない。
五・河川を渡るときは裸足で渡り、渡り終えて
から水分をよく拭き取り、靴下をはくこと。
濡れた足のまま靴をはいてはならない。小便
は風に向かってする事はさけ、最後の一滴まで
十分しぼる事として、「股こすり」「チン振り」
と名づけた。
六・シャツが濡れたときは、予備のものに
着替えること。腹巻は必ず着用すべし。
七・水筒には一度沸騰させ温湯を容れるよう
に心掛けること。汗をかいて喉がかわいた時
でも、急に多量の水を飲んではいけない。
(水筒の水を七分目にして、少量の
ブランデーを加えて凍るのを防いだ)
八・空腹のため疲労したときは、小隊長の
許可を受けたうえで、予備の餅を食べること。
行軍中は飲酒を厳禁する。凍って寒さの厳しい
おり、雪中で睡眠すると凍死のおそれがある。
それで小休止のおりの睡眠を禁止する。
(握り飯や餅は油紙にくるみ、腹巻に巻き
つけて凍るのを防いだ)
九・日光が雪に反射するとき、眼病にかかる
ことがある。予防のため眼簾、または有色眼鏡
を使用すること。
十・多量の雪を食べたり、氷を噛んで胃を
冷やしてはならない。
十一・危険や困難に直面したおりは、沈着の
うえにも沈着に行動すること。行軍中に疲労した
者あるときは、互いに助け合うこと。
一方青森連隊の山口隊は、薪60貫(22キロ)
木炭15貫(54キロ)・缶詰肉35貫(13キロ)
精米13斗・漬物6貫(22キロ)・釜・炊事用具
スコップなどを積んだ15台のそりを、60名の
兵卒が曳いての行軍だった。
だが、上り坂や吹雪の為、前進が困難になって
そりを放棄。荷は兵卒が背負った。そりを曳いて
ふんばった時、わら靴や手袋がびしょ濡れとなり、
手足の凍傷者が続出した。
この時日本列島を包んでいた強烈な寒気団は、
北海道上川で零下41度を記録するほどの強力
なもので、青森は大雪。八甲田山中は青森湾から
の海風と、竜飛岬を通過する北西風が山腹で
互いに衝突して、猛吹雪になっていた。気温は
風速1メートルにつき1度下がると言われている
ので、少なくとも零下20度が現地の気温だった
だろう。
かくして山口隊は、ホワイトアウトの状態に
陥り、力尽きて凍死者続出となったのである。
6月になって発見された死体の大半は、つまご
(わら靴)や手袋をつけておらず、無帽だった。
手足から凍傷にかかった為、ズボンの
ボタンをはずせず、ズボンの中に放尿したため、
凍傷が激化したのだった。
山口隊の生存救出者は17名。山口少佐ら
5名は青森の病院で凍傷の為死亡。神田大尉は
責任をとり。現地の雪中で拳銃自殺。五体満足
なのは、伊藤中尉・倉石大尉・長谷川特務曹長の
3名だけであった。
だが彼ら3名も、1905(明治38)年3月
4日、日露戦争の乃木第三攻撃隊として出陣し、
二零山の夜戦において全員戦死した。また
38名無事生還を果たした弘前連隊の福島中尉も、
黒溝台の会戦において戦死した。命の重さ・尊さを
誰よりもよく知っているはずの彼らも、戦場では
二束三文のその他大勢にすぎなかった。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
○第5話「江戸城事始」
もしも織田信長が築いた安土城の城下町が、
日本の首都として発展していたならばと夢想
することがある。琵琶湖の水上交通を軸に、
日本海の敦賀や小浜、伊勢湾の各湊、瀬戸内
の堺の中心に位置する安土。信長が貿易
交易をいかに重視していたかがよくわかる。
この頃の江戸は、人の住めない大湿地帯
だった。浅草には7世紀の推古天皇の時代に
建立されたという浅草寺があったが、現在の
下町はほとんどが海面下だった。利根川は
隅田川と合流して江戸湾に流れ、
古利根川や綾瀬川、ふとひがわ太日川、常陸川
現荒川などが複雑な流れと砂州をつくっていた。
ゆえに武蔵国で田畑の耕作が可能なのは、
多摩川沿いの狛江、調布、府中などのわずかな
平地に限られていた。多摩郡狛江郷の深大寺は、
733(天平5)年の建立というから、相当に
古い。狛江という地名は、高麗(こま=朝鮮
半島)からの移住者が住んだ事に由来する。
坂東騎馬軍団のルーツであろう。
古代から中世にかけて、武蔵国の主要街道と
いえば、千葉県松戸から練馬区、調布市を経て
町田市に向かうルートだった。源頼朝が挙兵
して、上総国(千葉県)から源氏軍団を従えて
鎌倉へ向かった時も、新田義貞軍が下野国
(栃木県)から鎌倉の北条軍を滅ぼすべく攻め
上ったのも、このルートだったのである。
江戸という地名は、源頼朝挙兵の頃、豊島郡
に江戸太郎重長が館を構えていた事による。
当時は日比谷公園辺りが江戸湾の海岸線だった。
時移り、室町時代。おうぎがやつ扇谷上杉氏
の家臣・太田どう道かん灌が、1457(長禄元)
年に江戸氏の館を拡張して麹町台に城を築き、
豊島郡を領していた豊島氏討伐を準備した。
豊島氏は江戸氏の支流で、豊島館(北区)と
石神井城(練馬区石神井公園)を本拠にして、
練馬城(現・豊島園)と平塚城(北区上中里)
を支城としていた。
1477(文明9)年、太田軍に石神井城
を攻められた豊島泰経は逃亡し、娘の照姫は
三宝寺池に入水したという。道灌は30年間
江戸城を居城としたが、1486(文明18)
年7月、上杉一族の対立に巻き込まれて相模国
(神奈川県)で殺された。
1590(天正18)年7月。豊臣秀吉は、
北条氏政・氏直が立てこもる小田原城の裏山に
徳川家康を招き、北条氏の領国である武蔵国
(東京都・埼玉県)、伊豆・相模国(神奈川県)
上総国・下総国(千葉県)、上野国(群馬県)
6ヶ国を与えると告げた。
この国替えは、家康がそれまで心血を注いで
切りとり、経営してきた生国の三河国(愛知県)
駿河国・遠江国(静岡県)、甲斐国(山梨県)
南信濃(長野県)240万石を失う事を意味して
いた。だが家康は逆らわなかった。
家康は当初、落城した小田原城を居城にする
つもりだったが、秀吉は
江戸城を勧めた。この城は太田道灌から上杉氏
北条氏と受け継がれ、家康の国替えまでは、
北条氏家臣・遠山直景の居城だった。城といって
も石垣があるわけでもなく、土手の中に建物が
散在しているだけだった。
周囲には海岸線に沿って千代田、宝田、祝田と
いう、小さな漁師の集落が点在しているだけ
だった。
江戸は、上野台、本郷湯島台、小石川台、
牛込台、麹町台、麻布台、白金台という、7つ
の台地に囲まれた低湿地帯だった。家康はまず、
沼地のような土地に排水溝をつくり、駿河台の
神田山を崩し、日比谷の入り江と豊島の州
(日本橋)の埋め立て工事を行なった。これに
よって浅草から品川までの間に道が出来た。
海辺近くである為、井戸水は海水に近かった。
大久保藤五郎は、清水涌く井の頭から城の近く
まで上水道を引いた。後の神田上水である。
塩は下総の行徳(千葉県市川市)から船で運ば
せた。
家康が江戸城拡張工事に着手したのは、秀吉が
朝鮮出兵を始めた1592(文禄元)年の事である。
現在皇居がある江戸城西の丸あたりである。だが
やはり、大々的な増築が行なわれるのは、秀吉が
死んで、関が原の合戦で石田三成に勝利して、
天下人になった1604(慶長9)年からの事で
ある。
家康は島津忠恒に300隻、浅野幸長に
385隻、黒田長政に104隻など、外様大名に
合計3000隻の船の建造を命じた。城の石垣を
伊豆から運ぶ為の「石つり船」である。
木材は関東各地のほか、駿河、三河、木曾、
信濃から「ひのき」が切り出された。壁に用いる
漆喰は、秩父郡(東京都青梅市)おそぎ小曽木、
上成木村の石灰石を焼いて造られた。これを馬で
運んだ道が青梅街道である。
1606(慶長11)年。2年の準備期間の後、
藤堂高虎が設計した城の大工事が始まった。
32の大名に工事が割り当てられ、のべ10数
万人が動員された。5層白壁の大天守閣、本丸、
二の丸、三の丸、外堀の石垣などが次々に出来
上がり、尾張町、加賀町、出雲町など、担当
大名の国名をとった埋立地にも、続々と屋敷が
建っていった。
江戸城の増築は三代将軍・家光の頃まで30
数年間続けられ、江戸の町も世界的100万
都市へと成長してゆくのである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第6話「桃太郎」
桃の節句。何とも柔和で、ほのかに甘やかで
艶っぽい言葉の響きである。それと言うのも、
桃の果実の白くなだらかな曲線や、女性の柔肌
のような感触からの連想なのだろう。
桃の原産地は、中国の黄河上流高原地帯だと
言われている。伝説によると、遠い西方・崑崙山
(こんろんさん)のふもとに、西王母が支配する
「西華」というげっせん月仙娘娘
(げっせんにゃんにゃん)の国があり、3000年
に一度実を結ぶ仙果「蟠桃」を食べ、
仙女の霊力を保っていたのだと言う。
中国神仙思想において、桃は邪悪なものを
祓う力がある「霊果」として尊ばれてきた。
この思想は日本にも伝承され、聖徳太子の頃の
飛鳥宮には、桃の木が多数植えられていた。
また古事記には、イザナギのミコトが冥界に
下り、妻・イザナギを連れ戻す際、冥界の鬼
たちに追いかけられ、桃の実を投げつけて追い
払ったというエピソードもある。
「桃から生まれた桃太郎・・・武蔵の守、その
方が犯した所業、天子とともに許しがたし。
桃太郎、天に代わって鬼退治いたす。
ひとーつ、人の世の生き血をすすり、ふたーつ
、不埒な悪行三昧。みーつ、醜い浮世の鬼を、
退治てくれよう桃太郎」
と、桃から生まれた桃太郎侍は、鬼退治が
大好きなわけである。
鬼が島の宝を得て帰国した桃太郎は、その宝
を元手に高利貸しを始めて、人々から「オニ」と
呼ばれた・・などという噂もある。
桃の節句は、中国の「上巳の祓い」と
いう風習を取り入れたもので、平安時代に陰陽師
(おんみょうじ)が、三月のみ巳の日に
「撫物(なでもの/紙製のひとがた人形)」を川原
で祓って流した。これが流し雛の始まりで、
だんだんに飾り雛に発展していったらし
い。旧暦の3月3日頃、ちょうど桃の花が咲いて
いた。気候も良し、野山に出て菜を摘み、飲食する
に良しという事で、雛壇に桃の花を飾り、白酒で
祝い、菱餅を供えたのだ。なんとものどかな、
春の祭りである。
さて、桃太郎が退治した「鬼」は、「隠」
が語源だという。隠れた存在全般を指す。邪馬台国
の卑弥呼は、「鬼道に仕え、よく人を惑わす」と、
魏志倭人伝に書かれている。鬼道とは即ち、鬼を
使う道。鬼とは、目に見えない超自然的存在という
事になる。卑弥呼は鬼道によって口寄せし、吉凶を
占う巫女だったのである。
鬼はまた、地下に埋もれたもの、即ち「鉱物」
とも関係が深い。古代より修験道の霊山には、必ず
鬼や天狗の伝説があるのと同時に、黄金
銀・銅・鉛・
鉄(くろがね/真金まがね)・水銀など
の鉱山だった。修験者は水銀から得た水を飲み、
身を黄金に変じて永遠の生命を得ようと欲する、
錬金術的修行法を試みていたという。
桃太郎伝説発祥の地、吉備国
(岡山県備前・備中・美作と広島県備後)
も、古墳時代から真金(鉄)ふく吉備と言われた、
鉄の一大生産地だった。鉄からつくられる農具や釜
刀剣の類が、いかに重要であり、権力と結びついて
いるかは語るまでもないだろう。
そして製鉄者集団の多くは、朝鮮半島から渡来
した人々だった。吉備国に、百済の王子
「温羅」という人物がやって来たのだという。
身長一丈四尺(4.6メートル)の大男で、髪やひげ
は赤かった。瀬戸内の船を襲って、金品や婦女子を
略奪し、鬼として恐れられた。
大和朝廷は温羅討伐を吉備津彦命(きびつひこの
みこと)に命じ、彼は見事温羅の首を挙げた。
だが串刺しにされた首は、何年たっても唸り続けた。
吉備津彦命は、備中一の宮・吉備津神社の釜殿の下に
八尺(2.5メートル)の穴を掘り、首を埋めたが、
首はなお13年間唸り続けたのだという。これを
「鳴釜神事由来」と言う。
と同時に、吉備津彦命が桃太郎、温羅が鬼の
モデルであるとも言われている。温羅が築いたと
される「き鬼のじょう城」が、岡山県総社市北方の
山に残っている。この城跡は古代朝鮮式の要塞で、
標高403メートルの頂上付近に、長さ2.8キロ
メートルの石垣と、5つの水門跡が残されている。
現在、岡山県総社市は、「鬼こそ地方自治の原点」
とばかりに、おに鬼けんばい剣舞の里・岩手県北上市
や、長野県鬼無里、新潟県佐渡郡新穂村
(鬼太鼓おんでこ)、京都府大江町(大江山の鬼退治)
島根県溝口町、熊本県天草郡五和町、鹿児島県
曽於郡末吉町などと共に、「鬼サミット」のネット
ワークを形成している。桃太郎と鬼・・あなたは
どちらが好きですか?
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第7話「いい湯だな」
古今東西、風呂好きの民族といえば、古代ローマ人
と日本人だろう。イタリアも日本も、火山と温泉の国。
特に日本は、太古の昔から今に至るまで、まさに
「湯水の如く」豊富に湯が湧き出ている温泉大国なの
である。
そんな日本だからこそ、人間に限らず猿も鹿も熊も
出湯に浸かって傷や病を癒していた。おそらく
は旧石器人たちも湯に浸かり、あるいは肉や木の実
を茹でたり蒸したりして、温泉を利用していた事
だろう。
おそらくなどでなく、温泉の歴史として明確に記述
するとなると、その始まりは今から約6千年前の縄文
前期という事になる。長野県上諏訪町駅前の発掘調査
の際、湯垢のこびりついた局部磨石斧と共に、大石が
環状に並んだ露天風呂跡が発見された。硫黄質の湯が
涌いていた事は確実だという。
他にも岩手県和賀郡湯田町の大台野遺跡、秋田県
鹿角市十和田大湯の大湯遺跡、長野県茅野市北山湯川
の上之段遺跡、島根県安来市九重町地獄谷の九重遺跡、
愛媛県松山市小坂町の釜ノ口遺跡、長崎県諌早市
湯野尾町の川頭遺跡など、現在の温泉近くに縄文遺跡
がある。
時移り、神話の時代。伊予国湯の郡(愛媛県松山市
道後温泉)の始まりは、大穴持命
が仮死状態に陥ってしまった少彦名命(すくなひこなの
みこと)を蘇生させようと、速水の湯(大分県
別府市・別府温泉)から地下水道を引いて入浴させた
のだという。さすが神様、スケールが大きい。
道後温泉といえば、夏目漱石の小説「坊ちゃん」
で一躍有名になったが、古くは古墳時代の景行天皇
が行幸したり、聖徳太子も訪れたという。崇神天皇
から景行天皇にかけての時代といえば、大和地方に
巨大な前方後円墳が築かれた頃である。景行天皇
には息子が80人いたと言われているが、最も
有名なのは倭建命(やまとたけるのみこと・日本
武尊)である。
ヤマトタケルは兄・大碓命
を殺害した、建く荒いこころ情の持ち主
だった。景行天皇は九州の熊襲建
を撃ち殺せと命じる。タケルとは「建部」
という、氏族軍団長の職名である。ヤマトタケルは
女装して油断させ、熊襲建を殺害。帰途、出雲建も
だまし討ちにする。
次にヤマトタケルは、東国平定を命じられる。
倭比売は彼に、伊勢神宮の草薙の剣と
火打ち石の入った「御袋」を授ける。相模国の野
(静岡県焼津市)で焼き討ちに合った時、この剣と
火打ち石が彼の危難を救う事になる。
ヤマトタケルは常陸国(茨城県)から日高見国
(東北地方)へ入り、これを平定。帰途は相模国
足柄から甲斐国(山梨県)信濃国(長野県)、尾張国
(愛知県)と進み、大和国(奈良県)を目指したが、
病を得て伊勢国のぼの能煩野(三重県亀山市)
で病没。その魂は白鳥となって天高く飛び去って
いったという。
「倭は国のまほろば たたなずく青垣 山隠
れる倭し美し」 と、望郷の思いを詠った。
ヤマトタケルは、大和朝廷が全国統一を推し
進めてゆく中で語られるヒーローである。彼の
東国遠征の過程で、群馬県の草津温泉、福島県の
飯坂温泉、長野県の別所温泉が発見された事に
なっている。
またヤマトタケルが日高見国を平定した際、
数百人の捕虜が大和国に連行されたという。
伊勢神宮の奴隷として奉納したのだが、反抗的
で暴れてばかり。仕方なく三輪山のふもとに
移したが、神木を切り倒して支配に抵抗。
結局畿内から追い出され、播磨(兵庫県)、
讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)、安芸(広島県)
阿波(徳島県)の瀬戸内五カ国に移されたという。
この「まつろわぬ(服従しない)者」たちこそ、
後に弘法大師・空海を出す、讃岐佐伯氏の祖だと
言う。東北人にとっては、微妙にプライドを
くすぐられる話である。
空海は真言呪によって雨を降らせ、泉を
涌かせた人物だけに、各地に「大師の湯」と
称する温泉が数多くある。中でも群馬県の法師
温泉、福島県の熱塩温泉、長野県の海ノ口温泉
は空海発見が始まりとされている。
空海が生きた平安時代というのは、貴族の
温泉旅行が活発になった時代でもある。有馬
温泉や城之崎温泉に2~3ヶ月逗留し、まったり
と湯浴みしては酒を飲み、歌を詠んだのである。
新猿楽集という往来物(諸国案内書)には、名所
や土産物などの観光案内が書かれてあった。
風呂や温泉は、貴族が独占していたわけでは
ない。庶民も十分に楽しんでいた。「男も女も
老いたるも若きも、大勢がうちとけて酒を飲み
踊り歌いて・・」とは、出雲国風土記の玉造
温泉の情景である。
平城京や平安京には、寺社の施浴風呂、貴族
や武家のふるまい風呂という「もらい湯」が
あったほか、民営の湯屋もかなり古くからあった。
日本人は遥か昔から、男女貴賎を問わず風呂や
温泉に浸かり、「いやあ、極楽極楽」という
言葉を発し続けている民族なのである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第8話「宮城野」
仙台に生まれ育った私にとって、歴史的
東北地方と言って真っ先に思い浮かぶ言葉は
「蝦夷」である。京の都人
が、野蛮人の住む遠い辺境の未開地とイメージ
し、蔑視しているのであろうと思っていた。
ところが平安朝の貴族たちは、陸奥国に
ロマンチックな憧れを抱いていたらしい。
今から1260年程前、東大寺大仏を黄金
で飾った砂金は、陸前(宮城県)で発見された。
以来陸奥国は、くがね黄金花咲く国となった。
また、古今和歌集をはじめとする多くの歌
に、白河の関(福島県白河市)や宮城野の萩が
詠まれている。その詩的感情は、たとえば私
たちが井上靖の西域小説を読んで、遠い異界
の時空を夢想する気分と似ているのかもしれ
ない。
東大寺の大仏建立と時を同じくして、聖武
天皇は全国に国分寺・国分尼寺の建立を命じた。
陸奥国分寺は、現在の仙台市若林区木ノ下の
地に建てられた。「奥の細道」の旅でここを
訪れた松尾芭蕉は
「日影ももらぬ松の林に入りて、ここを
木ノ下といふとぞ」
と記している。一面の赤松林だったのだろう。
この陸奥国分寺の北に広がる野が、平安朝
の頃から萩の名所として知られていた「宮城野」
である。紅紫色の萩の花が、秋風吹く宮城野に
咲き乱れるという、可憐でありながら寂しげな
イメージが、平安朝貴族の詩情をかきたてたの
だろうか。
木ノ下の北隣のなだらかな岡が、榴ヶ岡
(つつじがおか)である。今は桜の名所・榴ヶ岡公園
になっている。この地はその昔、「鞭楯」
と呼ばれていた。源頼朝が奥州藤原氏を討つべく
19万の大軍で遠征した際、藤原やすひら泰衡が
これを迎え撃つ為に陣を張った場所である。
泰衡は、先陣の国衡が敗れた知らせを受けて
平泉へ引き揚げ、やがて泰衡も家臣の裏切りに
よって殺され、黄金の奥州藤原王国は滅亡する
事になる。
木ノ下・榴ヶ岡から、宮城野原を通って陸奥
国府・多賀城政庁(宮城県多賀城市)へと続く道は、
「奥大道」と呼ばれていた。この道の途上に、
一本のいちょうの木がある。推定樹齢は
1200年とも1300年とも言われている。
1200〜1300年前と言えば、奈良時代の
聖武天皇の頃ではないか。その頃生まれた樹が、
今も現役で生きているというのは、やはり驚きで
ある。誰が呼んだか「宮城野の乳いちょう」。
銀杏町の名も、むろんこの樹に由来している。
乳いちょうは、高さ32メートル。幹の太さ
はおよそ8メートル。雌株である。宮城野の
大地に深々と根を張り、地の霊気を吸い、神霊
の風格を宿している。黒々とした太い枝からは、
牛の乳房のような気根がいくつも垂れ下がって
いる。秋になると今でも、数多くのぎんなんを
実らせる。まさに「宮城野の最長老・オババ」
と言える。
乳いちょうの前に立つと、まずその神気
(オーラ)に圧倒される。
「うっ・・ん─・・すっ・・すごいっ・・」
と感嘆し、言葉を失う。
確かに圧倒されるが、威圧的な霊気ではない。
恐る恐る、畏敬の念をこめて幹に触れてみる。
凝縮された1300年の時空が、身体を貫く。
ふっと全身の力が抜け、広々とした青空の
ような気持ちになってくる。これが本当の、
「自然の叡智」というものなのだろう。
乳いちょうは、宮城野八幡神社の境内にある。
この神社は、桓武天皇の延暦17(798)年に、
征夷大将軍・坂上田村麻呂が、男山八幡の分霊を
勧請して社殿を造営したのが始まりとされている。
源氏の軍神・八幡太郎義家は、前九年の役が終息
する康平5(1062)年にこの神社を訪れ、奥州
阿倍氏を討つべく戦勝を祈願した。
時移り、元弘2(1332)年、陸奥守・北畠顕家
(きたばたけあきいえ)は、北朝の敵・足利尊氏を
討つべく、弓矢と太刀を献じて戦勝を祈願した。
北畠顕家というとなじみは薄いが、NHKの大河
ドラマ「太平記」で、後藤久美子が演じた役と言え
ば、多少は記憶に残っている人がいるかもしれない。
ともあれ「おお、歴史だ」と思う。乳いちょうは、
坂上田村麻呂や源義家、北畠顕家や伊達政宗と
いった歴史上の有名人の実物を、生で見ていた事に
なる。1000年という時間の単位に、軽いめまい
を覚える。
巨樹・古木というのはすごい。地震・台風・落雷
といった自然災害をやり過ごし、空襲や宅地造成など
の伐採という人災をもかいくぐって、今日まで生き
延びているわけである。ちょっと調べてみると、
案外身近な場所に、人知れず在るもののようだ。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第9話「亀」
亀とは、何とも不思議な生き物である。
馴染み深い生き物であるにもかかわらず、
亀についての詳細な知識を持ち合わせて
いるかというと、これが何とも心もと
ない。
亀は爬虫類の仲間で、今から約2億
2千万年前の中生代初期に出現したらし
い。三葉虫が絶滅し、恐竜が出現した頃
だ。哺乳類登場の4千万年前である。歯
が退化した以外は、体に大きな変化は
ないという。外温動物なので、体温が
上がると日陰や水中で体温を下げ、
下がると日なたぼっこなどで体温を
上げる。冬場は冬眠する。
地球生命のぬし主の如き「亀」は、
12科90属267種に分類され、草原
や砂漠地帯、沼地や海中まで、あらゆる
所に生息している。草食だったり肉食
だったり、ライフスタイルは環境に
よってさまざまなようである。寿命は
50〜80年ぐらいと、人間とほぼ一緒
なのだそうである。
今から3500年程前の中国「殷王朝」
では、亀の甲羅を焼いて、そのひび割れの
様子から物事の吉凶を占っていた。この
ひび割れが、漢字の成立に深く関わって
ゆく。当時の亀にとってはいい迷惑だった
だろうが、亀は東洋文明の生みの親と
なったのである。
亀は「神亀」「宝亀」と、奈良時代
の年号にも登場する。日本の飛鳥・奈良
時代は特に、中国神仙思想の影響が色
濃い。「亀山」と言えば、その神仙思想
で不老不死の理想郷とされる「蓬莱山」
の別名である。蓬莱山は、中国の遥か
東方の海中にあると信じられていた。
亀と海中の理想郷と言うと、どう
しても連想してしまう物語がある。
浦島太郎である。助けた亀に連れられて
竜宮城に行った浦島太郎が、最初に文献
に
登場するのは、なんと「日本書紀」で
ある。雄略天皇22年7月の条という
から、紀元478年の事。
「丹波国のよさ余社郡の管川の人(現・
京都府与謝郡伊根町筒川)、瑞
の江(水の江)の
浦島子、舟に乗りて釣す。
遂に大亀を得たり。」
島子とは、小野妹子などと同じく、
当時の男性名である。浦島子が舟に乗って
釣りをしていたら、大亀を釣ってしまった
と言うのである。
「たちまちをとめ女に化為る。是に浦島子、
たけ感りて婦にす。あいそろい相逐ひて
海に入る。蓬莱山に到りて仙衆を歴
り観る。」
なんと大亀は、女(仙女)に変身する。
興奮した島子は、彼女と目合い
(まぐわい・素早い!!) 妻にしてしまう。
丹後国風土記では、彼女の名を
「亀比売」と記している。
2人は共に、海中の理想郷「蓬莱山
(神仙界)」に行く。
浦島子はそこで、亀比売(おとひめ神女)と
3年間の蜜月をおくるのだが、浦島子に望郷
の思いがつのる。土産に亀姫の分霊(わけ
みたま)が入った「玉くしげ櫛笥(玉手箱)」
をもらって故郷に帰ると、300年の歳月
が過ぎていたと、おなじみ浦島太郎物語の
原型はすでに出来上がっていたのである。
古来より亀は、海洋民族のトーテム(象徴・
守護神)だった。古代インドのサンスクリット
語で亀を意味する「クールンマ」が、群馬や
久留米(福岡県)の語源になったとする説が
ある。南インドと古代日本の関係は深そうだ。
同様に、古代エジプトで亀を意味する
「シャタ」が、九州・大隈半島の佐多岬や、
出雲の佐太神社の語源だとも言われている。
隼人族が海幸彦の子孫だとされている事を
重ねて考えると、東南アジアやポリネシア
などの航海者の足跡だと思わざるをえない。
むろん浦島子が住んでいた丹後国も、南方
系海人族である海部氏や物部氏、日下部氏の
根拠地だった。その丹後国一ノ宮である
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第10話「ジパング伝説」
イタリア・ヴェニスの旅行家で、17年間
元に仕えたマルコ・ポーロ(1254〜
1324)は、著書「東方見聞録」の中で、
中国東方の島国について、次のように記して
いる。
「大陸から1500マイルの大洋にある
大きな島の住民は、色白で礼儀正しい優雅
な偶像教徒である。国民はみな莫大な量の
黄金を所有し、国王はすべて純金で覆わ
れた、非常に大きな宮殿を持っている。
屋根・床・広間・窓すべて純金である。
国の名はチパング。」
マルコ・ポーロの存命中、京都・北山の
金閣寺を建立した足利義満は、まだ生まれ
てもいない。となると日本国内で、黄金
に彩られた建築物といえば、奥州平泉
(岩手県平泉町)の中尊寺金色堂以外には
考えられない。
金色堂は1124(天治元)年に、奥州
藤原の初代・清衡(1055〜1128)に
よって竣工した。大工棟梁は京都の物部清国。
漆工や金工の名は不明だが、当代随一の工人
たちだっただろう。
金色堂は別名・阿弥陀堂と呼ばれる。
5.79m四方の比較的小さな建物である。
材は総檜造り。扉・板壁・天井・床・木瓦
など、すべて黒漆金箔仕上げ。四隅の柱は
七宝荘厳の巻柱。やくがい夜玖貝を切り
出した螺鈿や金銀蒔絵、金銅透彫の精巧さ
は、宝石箱と評される。
1962(昭和37)年に行われた
金色堂の解体修理の時、使用された
金箔は約3万枚(15kg)。漆200
kg。沖縄産の夜玖貝
約3万個が使用されている。これを基に
計算すると、創建時に使用された金は
150kg、銀70kg、漆2000kg、
夜玖貝10万個以上が用いられた事になる
という。
さらに漆には白檀、沈香
(じんこう)という香木が多く混入され、
須弥壇にはアフリカ象の象牙、数万個の
ガラス玉や宝石類が用いられていて、何
とも国際色豊かである。
そもそもの中尊寺は、850(嘉祥3)年
に慈覚大師が弘台寺院として開山した事に
始まる。清衡50歳の1105(長治2)年
2月、最初院を造立し、続いて大長寿院
(二階大塔)、金堂を建立。20余年の間に
寺塔40余、禅坊300余宇の大寺院に
成長した。
清衡は中尊寺建立の為に、全国各地から
名工・高僧を集めると共に、宋国から10万
5千両(約1.3トン・40億円相当)という
膨大な砂金を費やして、宋版一切経という
経典を入手している。この経典は原則と
して国外への持ち出しが禁止されていた
ので、宋王朝の貴族や僧に対して、買収
を含む相当の根回しを行える外交関係を
確立していたのだろう。そしてこの砂金が
「黄金のジーペン・グオ(日本国)」の噂
の種になっていったと思われる。
清衡は中尊寺建立に至るまでの前半生
に、2つの奥州大乱を経験している。
7歳の時、前九年の役に敗れた父・経清
は斬首され、母方の安倍氏は一族離散。
後三年の役では妻子眷属を皆殺しにされた。
ただ一人生き残った清衡は、数奇な運命の
導きによって、陸奥・出羽・越後の支配者
となる。
清衡は敵味方の別なく、奥州大乱で虚しく
散った怨霊を鎮め、戦さ無き「仏心立国」
を悲願とした。中尊寺供養願文の中で清衡は、
「出羽・陸奥の土俗、風にしたがう草の如く
、粛慎・ゆう婁の海蛮も
向日葵に類す」と述べている。
粛慎・?婁とは、沿海州黒龍江流域に群居
する大集団の宋名で、その一部の女真族は
「金」を建国し、宋を北方から圧迫して
いた。清衡は縄文の昔から交易によって
結びついていた渡島(北海道)や樺太を
含む北方全域を念頭に入れて、国という
ものを構想していた。そして清衡は、平泉
を北方地域の仏教の都として太陽の如く
輝かせ、仏の慈悲の光であまねく照らそう
と念じた。それゆえの中尊寺であり、
金色堂であり、宋版一切経であった。
壮大な夢だった。そしてその夢の国造りを
支えていたのは、勧進聖と
呼ばれる貿易の実務を行う中尊寺の僧たちで
あっただろう。情報収集、人材確保、操船・
航海術の習得・伝授、翻訳・通訳、商取引、
倉庫管理など、仕事はいくらでもあった。
清衡は彼ら勧進聖と応答しながら、世界
認識を広めていったと考えられる。たとえば
象牙に関してである。宋・南越、
天竺、胡などのさらに西に、
黒い肌の者たちが住む広大な国があり、象と
いう大型の獣がいる。これはその獣の牙で
ある、という具合にである。
実際に宋の交易船は、インド洋を渡り、
東アフリカ・モザンビーク海峡へ向けて航海
している。船はザンベジ川を遡り、ジンバブエ
を目指した。この地は古代から金の産出地と
して知られ、フェニキア、ペルシャ、インド
ネシアなどと活発に交易を行っていた。
金・銀・銅・象牙・犀角・真珠・香料などを
輸出し、宋の陶磁器や綿布を輸入していた。
金色堂須弥壇の象牙も、おそらくは当地の
輸出品だっただろう。
清衡の夢は100年続いた。平泉はやがて、
毛越寺、無量光院、観自在王院が建立された。
春には束稲山に1万本の山桜
が咲き、人々は猫間ヶ淵に船を浮かべ、管弦
散楽の宴を催して春の桜を愛でた。戦さ無き
世を望んだ清衡の夢は、源頼朝軍18万の
奥州侵略によって、無残に踏み破られる事に
なるのである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第11話「剣豪伝説」
剣豪というとすぐに、宮本武蔵の名が
思い浮かぶ。むろん実在の人物である。
1584(天正12)年、美作国(岡山県)
宮本村に生まれた。天正12年というと、
織田信長が本能寺で殺された2年後であり、
羽柴秀吉が大阪城を築き始めた頃にあたる。
1600(慶長5)年、徳川家康は
関が原の戦いで石田三成率いる西軍に
勝利し、天下の覇権を握った。これを境
にして、時代は戦乱から太平の世へと
変容してゆく。この時、宮本武蔵16歳。
西軍の一兵卒として戦いに参加していた
とも言われている。だがもはや、剣の腕
だけで出世出来る世ではなくなりつつ
あった。武蔵は遅れてきた剣豪だった。
では武蔵以前に、どのような剣豪が
いたのだろうか。少し探ってみよう。
まず、天真正伝神道流を開いた飯篠山城守
家直と
いう人物がいる。1387(元中4)年と
いうから、室町三代将軍・足利義満の時代
に、下総国(千葉県)飯笹に生まれた。
「兵法とは平法なり。戦わずして勝つ事
が極意なり」という剣風であった。
宮本武蔵の必殺剣を「剛の剣」とする
ならば、飯篠の剣は、柳の枝の如き
「柔の剣」だったのかもしれない。
飯篠は入道して「長威斎」と号した。
1488(長享2)年に、102歳の天寿を
全うした。時代は応仁の乱から戦国時代へ
と移行していった。飯篠の剣風を継いだ
のは、塚原新右衛門高幹と、上泉伊勢守
秀綱だった。
塚原新右衛門は1490(延徳2)年に、
鹿島神宮の神官・ほふり祝部吉川左京の子
として生まれた。長じて後、塚原城主・塚原
高安の養子となり、卜伝と号した。
塚原卜伝である。父・左京も高安も、飯篠
の高弟という間柄だった。
卜伝は「一ノ太刀」の秘伝を得て、
「鹿島新当流」を開く。卜伝は、真剣
仕合19度、戦場で働く事37度、一度
も不覚をとらず、ただの一ヵ所も
傷をうけなかったというからものすごい。
「剣聖」と呼ばれていた。
弟子がまたすごい。室町幕府の12代将軍・
足利義晴・13代義輝・15代義昭。
伊勢国司・北畠具教。武田信玄に仕えた
山本勘助。15代足利義昭・織田信長・
豊臣秀吉・徳川家康のいずれからも重用
された、豊前(福岡県)37万石の細川
藤孝(幽斎)などがいる。
1565(永禄8)年5月19日。大和
国(奈良県)多聞城主・松永久秀は、13代
将軍・足利義輝を殺して天下に号令しよう
と、鉄砲隊を含む一万の軍勢で、二条の
将軍館に攻め込んだ。義輝は館にあった
何十本もの刀をすべて運ばせ、わら束に
突き刺しておいて、寄せ来る敵と斬り
結んだ。剣聖の弟子だけあって、さすが
に強かった。36人斬りとして語り継が
れる、義輝最期の剣舞だった。
松永久秀は、阿波国(徳島県)の商人
だとも、近江国(滋賀県)の農民の出だ
とも言われている、謎の多い男だった。
戦国乱世の中で成り上がり、主人の
三好長慶一族を殺し、将軍
義輝をも殺した。東大寺も焼いた。
だが織田信長に攻められ、1577
(天正5)年に大和しぎ信貴城で自刃
した。
一方、上泉伊勢守秀綱は、1508
(永正5)年に上野国(群馬県)大胡
に生まれた。飯篠の高弟・松本備前守に
剣を学んだ。また、伊勢・志摩水軍の
一党である愛州移香斎久忠が、鹿島の地
に在った時、「愛州陰流」を学び、独自
の工夫を重ねて「新陰流」を創始するに
至ったという。
陰流とは、外にあらわれた陽の太刀に
対して、眼に見えない内なる心の境地の
在り様を指す「心法」の事であり、その
極意は「無刀の位」だった。
その彼が大和国柳生の里で、柳生宗厳
(むねよし)という若者に出会う。宗厳の
剣は、研ぎ澄まされた剛の剣だった。上泉が
その剣を評する。
「人を斬るには十分だ。人斬りの業の極地だ。
だが、陽あって陰あるを知らず、天地自然の
奥深さは知っていても、人間の尊さを知らぬ
剣である。」
宗厳はおのれの剣の未熟を悟り、陰流の
心法によって開眼する。後に「石舟斎
(せきしゅうさい)」と号した宗厳は、柳生
新陰流を創始する。殺人剣から活人剣へ
の開眼。その極意の技が、素手で真剣を
取る「無刀取り」だった。この技は織田
信長の目前でも披露され、彼を感嘆させた
と言う。
若き宮本武蔵が柳生の里を訪ね、晩年の
石舟斎に会ったという話がある。史実か
どうかはわからない。だが後世の願望と
して、会っていて欲しいのである。
石舟斎は身に寸鉄も帯びぬ田舎爺。
「春風の如し」と微笑んでいる。一方の
武蔵は、血気盛んな売出し中の剣豪。
おそらく全身殺気立っていただろう。
武蔵は石舟斎のどこが凄いのか理解
出来ない。全身隙だらけなのだ。斬り
込めば、すぐにでも倒せそうだった。
だが、そうした戦意すら湧いてこな
かった。武蔵が戦意を無くした瞬間、
「勝負あった」である。そう、飯篠から
続く剣の「心法」は、戦わずして勝つ
事にあるからである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第12話「真珠湾攻撃」
1941(昭和16)年12月1日。
御前会議で日米開戦の聖断が下され
た。これを受けて連合艦隊司令部は、
南雲忠一中将が指揮する機動部隊
司令部宛に、「新高山
登れレひとふたまるはち一二〇八」と
いう暗号電文を発信した。12月8日
午前0時をもって、日米開戦の「Xデー」
とするという意味だった。
山本五十六大将率いる海軍連合艦隊
は、11月26日までにエトロフ島
のヒトカップ(単冠)湾に集結し、
ハワイの米太平洋艦隊基地があるオワフ島
を目指して出港していった。
編成は、旗艦である戦艦「長門」の
ほか、「赤城・加賀・蒼龍・飛龍・
翔鶴・瑞鶴」の空母6隻。軽巡1・
重巡2・補給特務艦7・哨戒潜水艦3
など、計30隻。新高山の電文を受信
した時機動部隊は、オワフ島の北々
西1400マイル地点にまで達していた。
仕事を成功させるには、段取り八分
だという。日本海軍の情報機関は
この時点で、真珠湾内の艦船総数、
艦名、碇泊位置、艦隊や潜水艦の行動
状況、守備状況から、ヒッカム飛行場
格納庫の屋根の厚さまで、詳細な情報を
入手していた。そして刻々の情報は、
攻撃機発艦の3時間前まで発信され続け
ていた。
「6日午前。北からネバダ・アリゾナ・
テネシー・ウエストバージニア・メリー
ランド・オクラホマ・カリフォルニア・
ペンシルバニア・ユタ碇泊中。他軽巡3・
潜水母艦3・駆逐艦17繋留。臨戦準備
態勢にあらず。」
この、ホノルル発の暗号電文を受信した
南雲は、奇襲の成功を確信したという。
爆撃前、戦闘パイロットたちは、
「鉄火巻・玉子焼き・松茸と大根、人参の
煮しめ・リンゴ・紅茶」という戦闘食で、
気合いを充電していた。この他にも、
赤飯・ボタもち・みつ豆・コーヒー・
少量のウイスキーなどのメニューが
あった。ただ基本的に日本人は、いつの
時代でも握り飯・沢庵・味噌汁の3点
セットが欠かせない。
7日午前6時(ハワイ時間)。オワフ島
の北300キロに達した機動部隊は、
攻撃機を次々に発艦させた。空母・
赤城の戦闘機隊長・板谷茂少佐は零戦
に、総指揮官の淵田美津夫中佐は、
800キロ爆弾を抱いた水平爆撃機の
偵察席に乗り込んだ。
映画などでは、攻撃前の最も緊張した
場面で、決死の覚悟で互いに握手し合い、
悲壮な表情で飛び立っていった事に
なっている。だが実際はいたって平静で
あり、淵田中佐などは、「おっ、じゃ、
ちょっと行ってくる」と、隣に酒か煙草
でも買いに行くような格好だったと、
源田実航空参謀が証言している。
第一次攻撃隊は、戦闘機43・艦爆51・
雷撃機40・水平爆撃機49の計183機。
ハワイの放送局からは、軽快なジャズが
流れていた。やがて後続の第二次攻撃隊
147機も発進。一路オワフ島真珠湾を
目指した。
午前7時55分。ヒッカム飛行場の
爆撃を手始めに、艦船と飛行場に魚雷と
爆弾が間断なく降りそそぎ、次々に大破・
炎上。淵田は司令部宛に、
「トラ トラ トラ(我 奇襲に成功せり)」
と発信した。
その結果、戦艦5沈没、戦艦1大破、
軽巡2・駆逐艦1中破、飛行機300機破壊、
戦死・行方不明者2404人、重軽傷者
627人。これに対して日本軍は、戦闘機
29機を失ったのみという絶大な戦果と
なった。しかし、ワシントンの日本大使館が
最後通告の英文翻訳に手間取り、米国民に
「スネーク・アタック(だまし討ち)」として
語り継がれる事になる。
12月8日午前7時(日本時間)。日本全国
のラジオからは、臨時ニュースが声高に
アナウンスされていた。
「臨時ニュースを申し上げます。大本営
陸海軍部発表。帝国陸海軍は、本8日未明、
西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」
続いてその夜、ハワイ急襲の大戦果が発表
され、日本国民は大勝利に涌き返った。
こうして200万余の戦死者を出す事に
なる、太平洋戦争が始まったのである。
その真珠湾攻撃から4年後。航空戦闘隊長
の淵田美津夫中佐は、運命の糸に導かれる
ように、原爆投下後の広島の廃墟に立つ事に
なる。日本人が「ノーモア・ヒロシマ」と
言えば、アメリカ人は「リメンバー・パール
ハーバー」と言い返す。淵田は二つの言葉の
板ばさみになった。
淵田はその後、キリスト教に改宗し、全米
1千ヶ所あまりを布教して回った。淵田の
座右の銘は、ルカによる福音書第23章34節、
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何を
しているのかわからずにいるのです」だった。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第13話「香港攻略戦」
1941(昭和16)年12月8日と
いうと、ハワイ真珠湾攻撃があまりに
も有名だが、日本軍は午前0時を
期して、英領香港、フィリピン、マレー、
シンガポール、ビルマ、ジャワへも
一斉に戦闘を開始したのである。
当時の英領香港は、米英仏などから
中国・蒋介石軍への援助物資が集積し、
ジャーデン・バターフィールド・ドッ
トウェルという船舶会社によって輸送
されていた。シンガポールと共に英国
の二大拠点としての香港は、ビクトリア
要塞の砲門が全島を覆い、九龍半島も
いたる所に地雷が埋設されていた。
日本軍部は、日中戦争を遂行する上で
極めて重要な香港攻略の計画を早くから
進め、1940(昭和15)年7月には、
陸軍最強の第一砲兵隊を含む攻城砲部隊
の編成が行なわれた。陸軍は酒井隆中将
率いる第23軍、約2万人。海軍は
新見政一中将率いる第二遣支艦隊の
合同作戦と決した。
第23軍の主力は、佐野忠義中将率いる
第38師団と第1砲兵隊。土佐秀治大佐
指揮下の陸軍航空隊は、広東市の天蓋
飛行場と白雲山飛行場に、戦闘機「隼」や
九七重爆など200機あまりが待機して
いた。
一方香港島北西「青衣島」南方海上には、
砲艦「橋立・宇治・嵯峨」、軽巡「五十鈴」、
駆逐艦「つが栂」、哨戒船「東照丸」、
第11水雷戦隊、第6駆逐隊、陸戦隊、
第4掃海隊の大小艦船が集結していた。
8日午前0時。深川に集結していた
第38師団は、土井定七大佐の歩兵
228連隊、田中良三大佐の歩兵
229連隊、東海林俊成大佐の歩兵
230連隊の3隊に分かれて九龍半島
へ進撃した。
行軍中は工兵の地雷探索隊が先兵と
なり、鉄棒で道路をコツコツ叩きなが
ら進む。カツンと地雷に当たると、
その周囲を白墨で丸く囲って目印をつけ
る。それを工兵の地雷処理部隊が処理し、
安全が確認されたところで戦車兵、砲兵、
歩兵が後に続くわけである。
道路でさえ地雷が埋めてあるのだから、
脇にそれて雑木林の中へ踏み込むと、
全て地雷源だと思ってよい。木と木の間
に細い針金がめぐらせてあり、触れると
たちまち信管が作動するトラップである。
行軍中、大小便の為脇道にそれて、地雷
に殺られた兵も少なくなかったという。
それゆえ、大小便も道路上で行なった。
その道路を、重砲兵第1連隊の四五式
24センチ榴弾砲8門、15センチ
カノン砲16門、15センチ榴弾砲6門、
15センチ臼砲12門が、黒光りする
砲身を輝かせながら運ばれていった。
24センチ砲の砲弾は、1発1.5メートル。
トラック1台で1発運ぶのがやっとという
重量だった。弾薬を運ぶトラックの列の
12月9日。中央の土井228連隊は、
沙田海・城門貯水池・針山を結ぶ「ジン・
ドリンカーズ・ライン」と呼ばれる英国
九龍防衛陣地線に達し、九龍城の水脈で
ある城門貯水池に夜襲をかけて奪取した。
230連隊の野口挺身隊350人は、
12日午前7時30分、九龍市内に突入。
9時頃までに完全制圧した。英軍は九龍
要塞で戦車を繰り出して激しく抵抗したが、
田中229連隊の猛攻に押されて後退を
余儀なくされた。こうして13日までに
日本軍は、九龍半島全域を制圧した。
14日からは四五式24センチ榴弾砲
が据え付けられ、香港島要塞に向けての
砲撃が始められた。陸軍航空隊の九七軽爆
や隼は、啓徳飛行場の英空軍機に対して、
壊滅的な打撃を与えていた。この間兵士
たちには、新たに米4日分と缶詰、通常
の倍に相当する240発の予備弾薬と
手榴弾数発が支給され、香港島夜間敵前
上陸作戦の準備が整えられていった。
18日午後9時。香港島への夜襲作戦が
開始された。兵士たちは、歩兵銃と鉄兜に
60キロの装備を身につけ、同士討ちを
避けるため背に白布を縫い付けていた。
黒い海面に、探照灯から放たれた光の筋が
十数本走っていた。英軍は異変を察知し、
日本軍の上陸用舟艇およびその進路に
あたる海面に、猛攻撃を仕掛けてきた。
これに呼応するように、陸軍の重砲・
野砲、海軍の砲艦「嵯峨・宇治・橋立」
からの艦砲射撃が一斉に開始された。
敵味方入り乱れての砲撃戦は、百雷天に
轟き、地球が真っ二つに割れるような
ものすごさであったという。金属が溶けた
ような色の炎の弾道は、暗い夜空を
オレンジ色に染めた。
上陸用舟艇は要塞砲に狙い撃ちされ、
前後左右に木の葉の如く揺れた。60キロ
の装備を身につけている為、海に落ちれば
二度と浮かぶ事はない。誰もが夢中で舟に
しがみついていた。
上陸後は各隊とも、一進一退の大乱戦
となった。連日雨降る香港島に、日英兵士
の死体が累々と横たわった。ある者は
戦車や機銃掃射によって、ある者は断崖
から転落して命を落とした。南国の暑さと
雨によって、死体は黒く膨張し、無残に
変わり果てていった。
26日までの日本軍の戦死者は683人。
負傷者1412人。28日、酒井隆中将や
新見政一中将ら首脳部が香港総督府に入城し、
香港攻略戦は終了した。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第14話「終戦まで」
終戦というと、テレビでよく見かける
パターンとして、8月6日に広島に投下
された原爆のきのこ雲が映され、次いで
15日正午の玉音放送へと続く。実際、
この間に戦争終結に向けた急速な動きが
あるのだが、事の詳細を知る人は少ない。
6日午後。広島の第二総軍司令部は、
呉鎮守府経由で「いまだかつてない高性能
爆弾を使用。全市たちまち壊滅し、言語
を絶する被害をうけた」と、大本営に
向けて原爆投下後の第一報を送った。
これに対し、大本営参謀本部第一部長・
宮崎周一中将は、「広島に特殊爆弾あり・・
いわゆる原子爆弾ならんも、発表に考慮
を要す」として、国民への公表を
ためらった。内閣情報局は情報を虚偽で
塗りつぶし、「被害若干」と報じさせた。
原爆投下の情報は、内閣書記官長・
迫水久常から、侍従武官・蓮沼蕃
を通じて昭和天皇にもたらされた。
天皇は深く憂慮し、侍従長・藤田尚徳に対し、
広島市の状況を詳細に報告するように命じた。
その日の午後には、内大臣・木戸幸一を呼び、
「かくなる上はやむを得ぬ。余の一身は
どうなろうとも、一日も速やかに戦争を
終結して、この悲劇を繰り返さないように
しなければならぬ」と、戦争終結の内意を
伝えた。
8日午後。東郷茂徳外相は、宮中
地下室に参内して天皇に拝謁。「原爆
投下の惨状はあまりにもひどく、もはや
ポツダム宣言受諾よりほかなし」と言上。
天皇は東郷に賛成した。続いて下村情報局
総裁が天皇に拝謁。
「いまや日本帝国興亡のとき秋に直面
いたしました。玉音放送がとんでもない
などという窮屈なことなど、いって
おられる時ではございません。いたる
ところ大号令という声が聞こえております。
いまこそ親しく御聖断を仰ぐべき時だと
いうのが、一億国民の心情でございます」
と、戦争終結への聖断を求めた。
8日午後5時。モスクワの佐藤ソ連
駐日大使は、クレムリンに呼び出され、
対日宣戦布告文を受け取った。9日
午前1時。ソ連軍はソ満国境を突破
して総攻撃を開始。午前4時、外務省
ラジオ室と同盟通信は、モスクワ放送の
ソ連対日参戦のニュースを傍受した。
9日午前8時。東郷外相は、小石川
丸山町の鈴木貫太郎首相宅を訪問。その
後海軍省の米内光政海相と会見し、
戦争終結の意思を確認した。同じ頃、
木戸内相は、天皇に呼ばれて拝謁し、
戦争終結の意思を鈴木首相へ告げるよう
にと言われた。
9日午前11時50分。15坪ほどの
宮中地下室に、鈴木首相・東郷外相・
米内海相・阿南陸相・梅津参謀総長・
豊田軍令部総長・平沼枢密院議長と、
陸海軍軍務局長・書記官長らが陪席
して、戦争終結の御前会議が開かれた。
息苦しいほどの蒸し暑さだった。
会議は戦争終結を急ぐ東郷・米内・
平沼派と、本土決戦を主張する梅津・
豊田・阿南の陸軍首脳との間で激しい
論戦となった。午後5時半にいったん
休憩をとり、6時半に再開された。
「本土決戦というが、小銃は10人に
1人で、残りは竹槍か鎌。兵数は550
万人と勇ましいが、大半は高齢者か
少年兵で、食糧不足の為体力は劣悪で、
訓練もほとんど行なわれていないのが
実情ではないか。伝達用の紙はほとんど
なく、銃も数十発撃つと使用不能になる
ありさま。これでいかにして戦争を継続
するのか?」
というのが、東郷・米内ら終結派の主張
であった。梅津ら決戦派は、神国日本の
精神論を展開して応戦したが、実情は
度外視された。
議論も出尽くした10日午前2時20分。
改めて御前会議を開いた昭和天皇裕仁
(44歳)は、ポツダム宣言受諾を決した。
いわゆる「聖断」である。
中天に浮かぶ冴えた月を見ながら、
阿南陸相はひそかに自刃を決意したという。
10日午前6時45分。外務省電信課は、
スイスの加瀬俊一・スゥエーデンの岡本
季正両公使に宛てて、ポツダム宣言受諾
の電報を発信。8時15分にはUP電
ニュースとして、日本の無条件降伏が
全世界に向けて発信された。中国主要都市
や太平洋各地の連合軍基地では、大祝賀
会的ドンチャン騒ぎに沸きかえった。
15日未明。B29・250機の本土
空襲は、高崎・熊谷・伊勢崎・秋田・
小田原・福島・新潟に対して、午前
4時半まで続けられた。玉音放送を
奪おうとした反乱も鎮圧され、永田町の
陸相官邸内の大臣室では、阿南陸相が
切腹して果てた。
「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル」が遺言で
あった。
午前5時半、日の出。北海道・東北地方
は曇りで涼しく、東京以西は晴れて蒸し
暑かった。正午に、陛下自ら放送せらるる
との予告放送が、ラジオから全国民に向けて
発信された。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第15話「相馬黒光」
寒い季節になると、セブンイレブン
の店内に「新宿中村屋の中華まんじゅう」
のショーケースが現れる。私は特に
「あんまん」に思い入れが深い。絹の
ようになめらかな舌触りで、独特の
風味やこくがある「あん」は、他社
製品の追随を赦さないと、ひそかに
思っている。
人は誰しも、「世の中にこれほど
美味しい食べ物があったのか」という
品目を、1つや2つ持っているだろうが、
私の場合その1つが「中村屋のあんまん」
なのである。子供の頃の味覚は、後々
まで影響するものらしい。
その新宿中村屋の創業者は、星 良
という女性である。後に長野県
穂高町出身の相馬愛蔵と結婚し、筆名に
黒光を用いた事から、相馬黒光として
知られる事になる。
黒光は1875(明治7)年9月11日、
仙台県第一区定禅寺櫓丁通(じょうぜんじ
やぐらちょうどおり)本材木町西裏末無という
所に生まれた。現在の仙台市青葉区立町
あたりである。西公園から立町一帯には、
仙台藩重役の屋敷が建ち並んでいた。
明治8年という年は、御一新(明治維新)の
7年後、廃藩置県の4年後であり、仙台城下
の人口は5万人程であった。城下には維新
政府の薩長兵が駐屯し、旧仙台藩家臣の
切腹だの斬首だのという血なまぐさい事件が、
いまだに続いていた。
黒光の祖父・星雄記は、勘定奉行などの
要職を歴任した人物だったが、若き日に
長崎の蘭学者を訪ねた事もある開明派で
あり、処罰は受けず屋敷の隠居所で四書
五経を講じていた。父の喜四郎は多田家
からの婿養子で、旧幕府軍の江川太郎
左衛門から砲術を学んだ人物だった。
黒光は武家の娘として躾られた。
明治という時代は、数々の制度改革と
共に、堰き止められていた欧米文化が
熱っぽく押し寄せ、暖流と寒流の
ぶつかり合う「潮目」のようになっていた。
欧米文化は「ハイカラ」であり、ある種の
崇拝をもって日本人に迎えられた。
黒光は13歳で洗礼を受けた。当時
キリスト教(耶蘇教)は「邪宗門」と言われ
ていたが、彼女は宮城女学校から横浜の
フェリス和英女学校、東京・麹町の
明治女学校と、キリスト教系の学校へと
進学する。
黒光22歳の明治30年、5歳年上の
相馬愛蔵と結婚し、3年後に長男誕生。
東京帝国大学正門前に、パン屋「中村屋」
を開業するのは、その翌年の1901
(明治34)年12月30日の事である。
1904(明治37)年2月8日と言えば、
日露戦争開戦の日である。日本国民の
関心は、当然の事ながら大国ロシアとの
戦争の行方に向けられていた。同じ頃
黒光は、次女を出産した。夫の愛蔵が
築地で「シュークリーム」という西洋
菓子を買ってきたのも、そんな時だった。
「世の中にこんな旨いものがあったのか!!!」
と、愛蔵も黒光も驚いた。
「このクリームを、パンの中に入れたなら・・」
黒光の小さな閃きが、「クリームパン」と
「クリーム入りワッフル」誕生につながって
ゆく。私はこのエピソードが好きである。
日露戦争は凡愚の大将・乃木希典を英雄
にし、10万余の戦死者を出した。日本海
海戦で大勝利し、「君死にたもうことなかれ」
という与謝野晶子の名詩が生まれたが、総じて
不毛なものである。ところが戦争などに関係
なく、食い物の旨さに感動すると、次世代へ
受け継がれるクリームパンのような名品が
生まれるのである。
木村屋の餡パンに続き、中村屋のクリーム
パンはヒットした。そんな中、税金問題から
店の転居を迫られる事態が発生した。黒光は
千駄ヶ谷から市電の終点方面に狙いを定め、
支店の場所を探しまわった。
豊多摩郡内藤新宿は、当時場末の荒野
だった。安手の遊女屋が建ち並び、甲州街道
の荷車屋と一膳飯屋などがあった。新宿駅
東口は裏玄関で、栗やみかんを戸板に並べて
売っている小さな果物屋があった。現在の
「高野フルーツパーラー」である。
1907(明治40)年12月15日、
中村屋新宿支店がオープンした。隣に
は屑屋・豆腐屋・銭湯が並んでいた。
紀伊国屋という炭屋もあった。この店の
「もっちゃん」が炭屋を本屋に変えたのは、
1927(昭和2)年の事だった。
中村屋の相馬黒光についてのエピソードは
数多い。彫刻家・荻原守衛(碌山)の名作「女」
のモデルは黒光である。中村屋サロンには、
彫刻家・高村光太郎、盲目の詩人・
エロシェンコ、岩波書店の岩波茂雄、書家の
会津八一など、多彩な文化人が顔をそろえて
いた。
また、インド独立運動の指導者、ラス・
ビハリ・ボースから、直伝の「カリーライス」
を伝授されたのも黒光である。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第16話「カリーライス」
1838(天保9)年2月16日は、
大隈重信の誕生日だそうだ。佐賀藩出身
で、伊藤博文や黒田清隆内閣の外相。
1914(大正3)年には第二次大隈内閣
を組織し、第一次世界大戦へ参戦した。
その大隈が首相在任中の1915(大正4)
年12月初め。「萬朝報」
という新聞に、「追放印度人の失踪 一日夜
頭山邸から消える」という記事が載った。
頭山とは、国家主義団体「玄洋社」の最高
指導者・頭山満であり、追放
印度人とは、16歳の時インドの英国人総督
に爆弾を投げて負傷させ、首に16万ルピー
の懸賞金を懸けられたお尋ね者、ラス・
ビハリ・ボース29歳だった。
大隈と玄洋社の間には、ただならぬ因縁
がある。1889(明治22)年、51歳
の大隈は、伊藤内閣の外相として不平等
条約改正にあたっていた。だがその条約
改正が国辱的であるとして、玄洋社社員・
杉山茂丸に爆弾を投げつけられ、右脚を
失うのである。杉山とは、作家・夢野
久作の父だった。
頭山の玄洋社には、苦々しい思いのある
大隈だが、身は日本国首相であり、日印
協会会頭も兼ねていた。
「ボースの隠れ家は、大隈総理の邸内か?」
という噂までささやかれていた。
話は前後するが、11月28日に
イギリス大使が外務省を訪れ、ボースら
3人の印度人の身柄を引き渡すよう要請
してきた。彼らは敵国ドイツの援助を
受けて、インド独立運動を画策している
というのが理由だった。日本政府と
しては、日英同盟の立場上3人に国外
退去命令を出さざるを得なかった。
ボースを匿っていた頭山とて、国の
決定に表立って逆らう事は出来ない。
さりとて欧州航路に乗せれば、上海か
香港あたりで捕まってしまう可能性が
高かった。捕まれば殺される。義に
生きる頭山に、そんな事は出来なかった。
困った。どこかに隠れ家はないものか。
そんな時、「そう言えば店の裏の
アトリエが空いている」と、頭山に
言った男がいる。新宿中村屋の主人・
相馬愛蔵である。ボースら国際指名
手配犯の身柄をあずかり、事露見の暁
にはその身は切腹、お家は断絶という
事態にもなりかねない。
「一商人といえど、相馬愛蔵・男でござる」
と、仮名手本忠臣蔵十段目の天河屋義平
(あまかわやぎへい)の如きセリフを言ったか
どうか。ともかくも愛蔵は、危険覚悟で、
ボースとグプタを匿う事にした。頭山邸から
新宿中村屋まで彼らを乗せた車を運転した
のは、大隈外相を襲った杉山茂丸。日印
爆弾男の奇縁だった。
中村屋裏のアトリエは、荻原守衛
(碌山)が設計し、つい先頃まで画家の
中村彜が住んでいた。それゆえ炊事場
やトイレもあった。そこで2人の印度人を
迎え入れたのは、愛蔵の妻・良(筆名・黒光)
40歳だった。
新宿中村屋を実質的につくり育ててきた
女主人・黒光は、愛蔵以上に「任侠の人」
だった。いざとなったら、私が罪を一身に
被ろうと胆を決め、2人の印度人の世話を
やいた。英語は女学校時代から得意だった
ので、何とかなった。加えて中村屋はパン屋
である。朝食のパンには事欠かない。
しかし、印度人の食事の好みがわからない。
黒光が困っている所に、ボースからメモが
届いた。
「カレー粉・骨付きチキン・野菜・
スパイス類・ヨーグルト・・・」
ボースが「カリーライス」と呼ぶものの
材料だった。
カレーは1872(明治5)年、西洋料理
指南なる本で初めて紹介され、20年を経て
ようやく庶民に普及する。このカレーライス
は、イギリスから取り入れた洋食で、インド
料理ではなかった。
ボースは黒光に、ベンガル風カリーライス
の作り方を伝授した。これがカリーパンと共に
今も続く、中村屋看板商品誕生の物語である。
4ヶ月半に及ぶアトリエ滞在の間に、ボースは
相馬夫妻を「父母」と呼んで慕った。
「義によってこういう命がけの経験を
いたしました間柄というものは、肉親の親子
以上の親しみと敬慕の念を感じ、私は名残
惜しさに流れる涙を抑え抑えして、窓に
すがって離れてゆく自動車のあとを見送り
ました。(黙移)」
と、黒光は自著の中でボースとの別れの時を
語っている。
頭山は「天洋丸事件」による対英外交の
弱腰を非難し、日本政府にボース残留を認め
させるのだが、英国大使館は私立探偵を
雇って、ボース探索を続けた。この為ボース
は、水戸・静岡から再び東京へと、転々と
居を移さざるを得なかった。
「ボース1人では心許ない。昼夜身辺に寄り
添う婦人が要る。俊子さんなら、英語も
出来るし申し分ない」と、頭山が無茶を言い
出した。
俊子とは相馬夫妻の長女で、この年20歳。
中村彝が俊子に求婚し、黒光との仲が険悪な
ものになった事もある。だが今度は、俊子も
黒光も同意した。ボースは後藤新平と犬養毅
が保証人となり、5月に頭山邸で挙式の運びと
なった。相馬夫妻とボースは、文字通り親子
になったのである。中村屋のカリーライスは、
何やら人間世界の深くて不可思議な絆の味が
する。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第17話「中村屋サロン」
新宿・中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光
夫妻の周囲には、明治・大正・昭和を代表
する文化人が集まる、何とも不思議な磁場
があった。
まず相馬黒光である。彼女は本名を星 良
(りょう)と言い、1875(明治8)年仙台に
生まれた。良の叔母に星 艶という女性
がいた。嘉永6年というから、黒船来航の頃
の生まれである。艶は星家の三女として自由
に育てられ、娘時代には男装して馬を乗り
回していたという。艶は18歳で上京し、
女子高等師範学校などで英語を学ぶ一方、
江戸から明治へと大変革を遂げる時代、
政治に興味を持って自ら政談演説も行なった。
艶は開業医の佐々城本支と
結婚し、名も豊寿と改めた。
佐々城豊寿は日本基督教婦人矯風会の
事務局長となる。
「火付・盗賊・人殺・異宗門禁制」という
高札が町の辻々から撤廃され、新教
(プロテスタント)諸派の布教活動が許された
のは、1873(明治6)年、豊寿20歳の時
である。しかもキリスト教を邪教として
異端視する傾向は根強かった。豊寿の内面
の激しさが察せられる。
この矯風会初代会長・矢島楫子
の甥が、評論家の徳富蘇峰と、作家の徳富
蘆花だった事から、豊寿は彼らと親しく
交遊する。一方豊寿は、信子という娘を
産む。彼女は作家の国木田独歩を捨てた女
として、有島武郎の代表作「或る女」の
モデルになった佐々城信子である。
黒光は叔母・豊寿を頼って上京し、
フェリス女学校に入学するのだが、佐々城家
によく出入りし、独歩を紹介され、ワーズ
ワースやツルゲーネフなどの文学を教え
られたという。独歩の友人には、同じ作家
の田山花袋もいた。
黒光はフェリス女学校を中退し、明治
女学校へと学校を移る。ここで英語教師
をしていたのが、若き日の島崎藤村24歳
だった。黒光によると藤村の授業は
「ちっともおもしろくなかった」という。
彼は全体として精彩に欠け、女学生の間
では「石炭がら」とあだ名されていた。
とはいっても黒光は、結婚後信州・小諸
(長野県小諸市)の藤村宅を訪ねているので、
仲が悪かったという事ではないらしい。
豊寿が最も親しく交際していた人物に、
8歳年下の内村鑑三がいる。内村は1861
(文久元)年に高崎藩(群馬県高崎市)の武家
に生まれ、武士道と儒教的道義を厳しく
たたき込まれた。キリスト教に入信する
のは、札幌農学校に入学する10代後半の
頃で、渡米して確固たる信仰に至る。
第一高等中学講師をしていた1891
(明治24)年に、教育勅語に敬礼し
なかった、いわゆる「不敬事件」で教壇
を追われる事になる。自他に厳しい不屈の
人だった。足尾銅山鉱毒事件では財閥を
攻撃し、日露戦争では非戦を論じた。
相馬愛蔵もキリスト教を通じて、古く
から内村と交流を持っていた。愛蔵の
郷里は信濃国あ安ずみ曇郡白金村(長野県
穂高町白金)だった。彼はこの村で養蚕
事業を行なう傍ら、東穂高禁酒会を組織
して会長を務め、あるいは孤児院救援活動
を行なうなどの、キリスト教的社会活動を
展開してゆくのである。
だが愛蔵は、内村ほど厳格ではなかった。
禁酒を主張していたはずの彼が、中村屋を
立ち上げた頃、利益率の良さから洋酒を
扱おうとした事がある。内村は激怒した。
「悪魔の使者とも言うべき酒を売るとは
言語道断。もし売るなら絶交です。」
内村にこうまで言われては、愛蔵も
あきらめざるをえなかった。
愛蔵と同郷で、禁酒会などの活動に
参加していた後輩に、彫刻家の荻原守衛
(ろくざん碌山)がいる。1879(明治
12)年生まれだから、愛蔵の9歳下、
黒光の4歳下という事になる。20歳の時
上京して、油絵を小山正太郎の「不同社」
で学び、2年後に渡米。さらにその2年後
に渡仏してアカデミー・ジュリアンに
学んだ。
碌山という雅号は、夏目漱石の小説
「二百十日」の登場人物「碌さん」に由来
するという。守衛がしきりに「碌さんは
面白い」と友人たちに話すので、いつしか
彼は碌さんと呼ばれるようになった。彼は
ロダンの「考える人」や、ミケランジェロの
「奴隷」などの作品に接して作風に開眼。
留学8年で帰国する。
帰国後は、新宿・中村屋近くの角筈新町
(西新宿)にアトリエを構え、「文覚
(もんがく)」「デスペア(絶望)」「女」
などの傑作を産み出してゆく。そもそも
守衛は、黒光によって芸術の世界へ導かれ、
黒光への愛慕と煩悶を作品に結晶させて
いったのだった。守衛にとって黒光は、
魂の友でありミューズの女神だった。
1910(明治43)年4月21日、
守衛は中村屋の茶の間で喀血し、翌日
あっけなく死んでしまう。31歳だった。
守衛を慕って、画家の中村つね彝や彫刻
家の中原悌二郎、高村光太郎などが
集まり、やがて「中村屋サロン」という
磁場が形成されてゆく。
守衛の死と同じ頃、武者小路実篤、
有島武郎、柳宗悦らが
雑誌「白樺」を創刊。中村屋サロンと連動
しながら、白樺派や民芸運動という、
大正・昭和という時代の、新しい文化の
潮流を形成してゆく事になるのである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第18話「水の味」
明治の初め、名品「木村屋の酒種
あんぱん」が誕生した。以来140
年あまり、その味と品質の高さを
守り抜いてきたというから驚く。
あんぱんは、木村屋の創業者・木村
安兵衛が、饅頭をヒントにしてつくり
上げた日本独自の食品である。
安兵衛はパン生地を膨らませる
「パン種」に、酒種酵母を用いた。
酒種とは米糀の事で、糖分を用い
ても発酵力が旺盛で、生地が冷え
ても柔らかさを保つからだ。この
酒種づくりに欠かせないのが、良質
の硬水だという。
水の質に、軟水と硬水の違いがある
ことは知っている。軟水はカルシウム
イオンやマグネシウムイオンをあまり
含んでおらず、飲料や洗濯、染色などに
適するのだそうだ。硬水はこの逆で
ある。だがなぜ酒種づくりに硬水が
良いのか、素人にはさっぱりわから
ない。
ともかく木村屋の酒種づくりには、
筑波山麓・茨城県新治郡八郷町にいはり
ぐんやさとまち)辻にある「宮部家の
井戸水」を使用する。この水で酒米を
研ぎ、固めに炊いた米と水を切った
だけの米に分ける。炊いた米は皿に
平らに盛り、水を切ってざるに入れ
た米を持って筑波山中腹まで登るの
だそうだ。
2時間あまりかけて、筑波山中腹の
大気から酒種を採取し、炊いた米を
小さな卵大に握り、土瓶に入れて水を
切った米で覆う。ここに「宮部家の井戸水」
を入れ、約30℃の温度にして2〜3日
寝かせる。さらに状態を見ながら飯と
米と糀を入れ、数日後にやっと「酒種」
づくりが完成するという。
酒種づくりは、ハイテク時代の現在
でもこの方法で行われている。酒種は、
筑波山の澄んだ空気の「菌」だった。
そして「水」に対するこだわり。名品は
自然と人の技が一体となったところから
生まれたのである。
ユダヤ教の過越の祭りでは、種なし
パン、マツァを食べた。パン種は発酵
や腐敗を促進するので、塩とちがって
神前に供えられないのだそうだ。発酵
食品には、ヨーグルトや納豆・キムチ
など、体に良いものが多い。発酵が堕落
の象徴なのかは置いておくとして、
イスラム教で禁止されている「酒」に
ついては意見が分かれる。英国のパブ
には、「酒は敵なり」というポスター
が貼ってあったという。そして隣に
もう一枚。「汝の敵を愛せ」と。
ビールは明治5(1872)年、横浜に
「天沼の湧き水」を利用して醸造所が
つくられた。キリンビールの始まりで
ある。ホップを種にしてパンも焼かれた。
だが国産ウイスキーはもう少し遅かった。
大正14(1925)年に蒸留され、4年間
寝かされた後、寿屋の「白札ウイスキー」
として発売された。後の「サントリー
ホワイト」である。
このウイスキー草創期において、一人
の男の名がクローズアップされる。
竹鶴政孝。ニッカウイスキーの創業者で
ある。竹鶴は1893(明治26)年、
広島県竹原町に生まれ、大阪高等工業
醸造科を経て、大阪住吉の摂津酒造に
入社。1918(大正7)年に同社の
派遣留学生として、英国スコットランド
のグラスゴー大学応用化学科に入学した。
竹鶴は大学で醸造学を学ぶ一方、
ハイランド地方の「グレンリヴェット
蒸留所」で、麦芽づくり、蒸留、樽詰め
作業などの工程を徹底的に学んだ。時に
竹鶴26歳。日本に本格的ウイスキー
づくりを導入すべく、猛勉強の日々が
続いた。
帰国後、第一次世界大戦の恐慌に
よって攝津酒造のウイスキーづくり計画
が中止となり、竹鶴は退社。1年後の
1923(大正12)年6月、竹鶴は
鳥井信治郎に招かれて寿屋に入社。
初仕事はウイスキー工場の選定だった。
竹鶴はスコットランドの気候風土に
似た北海道を推したが、東京・大阪の
消費地から遠すぎるという理由から、
京都の山崎が選ばれた。
竹鶴は寿屋に10余年在って、理想の
ウイスキーづくり計画を熟成させていた。
1934(昭和9)年3月に寿屋を辞し、
7月に北海道積丹半島の余市に(株)大日本
果汁を設立。ニッカ林檎汁というジュース
を発売した。この余市工場に一基の単式
蒸留器機が届けられたのは、この年の
暮れの事だった。
そもそもウイスキーとはスコットランド
の地酒で、ゲール語(スコットランド古語)
の「ウスケボ」に由来する。生命の水と
いう意味である。余市はスコットランドに
似た過ごしやすい寒冷地であり、澄んだ
空気と豊かな水、ピート(草炭)と石炭が
入手しやすく、余市川河口から発生する
靄が樽貯蔵に良いなど、ウイスキーづくり
に好条件の地であった。
余市蒸留所からは、ゴールデンメロン種
二条大麦を原料にして、ハイランドタイプ
の力強い男性的なモルトが生み出された。
竹鶴は次に、余市とは別個性のモルトを
つくるべく、その適地を捜し求めた。
そしてたどり着いたのが、仙台市を流れる
広瀬川の上流部「にっかわ新川」だった。
宮城峡は深い緑に囲まれ、新川の伏流水は
硬度が低く、あくまでも澄んでいた。
仙台蒸留所からは、ローランドタイプの
女性的で柔らかなモルトが生み出された。
なぜ気候風土がモルトの個性を作り
出してゆくのかは、神のみぞ知るの観が
ある。ともあれ余市と仙台のモルトが
出会い、マリッジ(再貯蔵)されて、より
深い味わいになってゆく。自然と人智が
マリッジする妙味である。
「ウイスキーづくりは、単なる技術では
ない。つくる側も飲む方も、それに
ふさわしい舌をもたなければならない。
嗅覚を磨かなければならない。それが
人生を愉しみ、幸せにする方法である」
と、竹鶴政孝が語る。水も人も、技で
磨けば奥深く、味わい深い。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第19話「北畠顕家」
1333(元弘3)年5月22日午前
3時。新田義貞軍が稲村ガ崎から鎌倉
府内に突入し、諸方に火を放った。
幕府執権・北条高時ら283人が、
東勝寺において切腹。870余人が焼死
して鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による
親政が始まった。
10月、正四位参議右近衛中将北畠
顕家は陸奥守に任じられ、6歳の義良
(よしのり)親王を奉じて奥州に下向する
事になった。時に顕家16歳。若い
ながら聡明な、弓の名手であった。
11月末、陸奥国府の多賀城(宮城県
多賀城市)着。国政の中核である式評定衆
は、親族の冷泉源少将家房、学者の
藤原式部少輔英房、内蔵権頭入道元覚と
いう、京から顕家に従ってきた者の他、
奥州の豪族、結城上野入道宗広・親朝
親子と、伊達左近蔵人行朝、旧鎌倉幕府
で民政に通じた二階堂行朝などで固め
られた。
1335(建武2)年7月、北条高時の
遺児・時行が、信州の諏訪頼重の助力を
得て鎌倉に侵攻。時行軍は小笠原貞宗を
破り、足利直義を追放して鎌倉を奪還
したが、尊氏軍の反撃により20日
あまりで逃走する事となった。反乱の
余波は奥州・津軽や白河方面の北条勢力
へも波及。顕家は南部師行や伊達行朝の
軍を派遣して、乱の鎮圧にあたらせた。
乱後足利尊氏は、斯波郡(岩手県)を
本貫とする斯波家長と石搭義房を奥州
管領に任じて、顕家と対峙させた。
尊氏自身は征夷大将軍を自称し、後醍醐
親政との対決姿勢を鮮明にしていった。
11月、帝は新田義貞に尊氏追討を命令。
勅命の綸旨は顕家にも下された。
12月22日、北畠顕家は義良親王を
奉じ、伊達行朝、結城宗広・親朝、南部
師行、相馬胤平、葛西宗清・清貞ら奥州
の猛兵を率いて多賀城より出陣した。
しかし亘理郡の武石胤顕、信夫郡の佐藤
一族、岩城郡の伊賀光貞らが足利方の
斯波家長軍へ参加。相馬氏は一族内で分裂
し、追討軍は朝廷方と足利方の2つに
割れた。要は鎌倉幕府無き今、自らの所領
を安堵してくれるのは朝廷なのか、源氏の
頭領たる足利尊氏なのかという点にあった。
新田義貞軍は尊良親王を奉じて、足利
直義軍を三河国やはぎ矢作(愛知県岡崎市)
の戦いで撃破。箱根竹下(静岡県駿東郡
小山町)で尊氏軍と対峙した。12月
11〜12日の戦いで、大友左近将監貞戴
(ただとし)や佐々木塩治判官高貞らが
尊氏方に寝返り、新田軍は敗走に転じた。
しかしその尊氏軍も、顕家率いる奥州軍に
押されて京都方面に敗走。1336(延元元)
年正月13日、顕家軍は近江(滋賀県)園城寺
で新田軍と合流。尊氏は播磨(兵庫県)から
船で九州まで逃走するに至る。
顕家は戦功により従二位鎮守府大将軍
に、義良親王は陸奥太守に任じられ、
3月末に多賀城へ帰任した。この間にも
奥州では、相馬光胤対朝廷方の中村広重・
広橋経泰・しねは標葉一族との合戦が続け
られていた。
そして戦局は再び大反転する。九州の
足利方が軍勢を立て直し、大挙して攻め
上って来たのである。5月25日には楠木
正成軍を摂津湊川(神戸市)で撃ち破り
入京。光厳天皇の弟・光明天皇を践祚
して北朝を成立させた。後醍醐天皇は
足利方に幽閉されたような形で、一旦は
和睦に応ずるが、12月に吉野へ脱出。
南朝が成立して、世に言う南北朝時代
へ突入するのである。
顕家軍の動きも活発だった。4月に
斯波家長軍を相模国(神奈川県)片瀬川で
破り、鎌倉を制圧。5月24日には
相馬郡で、相馬氏の本拠・小高城を陥落
させた。しかしもう一方の奥州管領・
石搭義房軍に多賀城を占拠され、顕家は
伊達行宗領である霊山城(福島県伊達郡
霊山町)に移って、ここを新国府とした。
1336(延元元)年12月、吉野の
後醍醐天皇は江戸重忠を勅使として霊山の
顕家のもとへ下向させ、北朝追討の綸旨
を下した。時に顕家20歳、義良親王は
11歳だった。
翌年の8月11日、伊達行朝、結城宗広、
懸田定隆、葛西清貞、南部師行、武石高広、
津軽の工藤一族、岩手の下山一族などの
精兵3万は霊山を発した。白河の関を越す
頃には、その数は10万に達していた。
顕家軍は宇都宮の結城宗広領で装備を
整え、小山の桃井貞直軍と13昼夜に
わたって激闘を繰り広げ、城将・小山朝郷
を捕縛。しかしその後の進撃は利根川
に阻まれた。顕家に鎌倉を追われた守将
の斯波家長軍が鉄壁の布陣を敷き、渡河
する奥州兵に向けて雨あられと矢を
浴びせかけた。
対陣ひと月半の後、ようやく堅陣を突破
した顕家軍は、鎌倉街道を一気に南下して
鎌倉府内に突入。斯波家長は杉本城で切腹。
足利よしあきら義詮と上杉憲顕・高重茂・
細川和氏らは三浦半島方面に敗走した。
1338(延元3)年正月3日鎌倉を
発した顕家軍は、28日青野原(岐阜県
垂井町・関が原)で、高師冬・吉川常久、
佐々木道誉・秀綱、土岐頼遠、細川頼春
らの北朝軍と対峙した。この時顕家軍の
背後には、上杉憲顕率いる関東軍が迫って
いた。
顕家軍は前面の土岐頼遠、桃井直常勢を
さんざんに打ち負かした後、兵を南下
させて挟撃を交わし、伊勢から伊賀山中
に入り、奈良を目指した。途上には、
後醍醐天皇が反北条の火蓋を切った笠置山
もあった。
2月28日からは奈良市中の東大寺付近、
法華寺付近、般若坂などで、高師直軍と
市街戦を展開。3月8日には細川顕氏軍
を天王寺付近で撃破し、顕家の弟・
顕信は男山八幡宮まで進出した。
高師直・師冬軍は、
武田・島津・吉川・田口・岡本諸隊を
率いて天王寺口へ集結。顕家軍と一進一退
の激烈な戦闘を続ける。顕家が戦死した
のは、天王寺の南・阿倍野辺りと言われて
いる。修羅の中を駆け抜けた21年の
短い生涯だった。南部師行・武石高広ら
奥州の将も個々討ち死にしていった。
吉野朝はこの後、顕家の弟・顕信を
陸奥鎮守府将軍に補し、結城宗広を
後見として奥州へ向かわせた。1339
(延元4)年3月、義良親王は後村上天皇
として13歳で即位。8月16日深夜、
後醍醐天皇崩御。しかし南北朝の混沌と
した戦乱は、この後も止む事なく続く
のである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第20話「北畠顕信」
1338(暦応3)年7月。5年前に
鎌倉幕府を倒した南朝方の主将・
新田義貞が、越前国藤島の灯明寺畷
(福井市)という泥田の中で、流れ矢に
射抜かれて戦死した。
同じ頃、男山八幡(京都市八幡市・
岩清水八幡)の山岳要塞に立てこもり、
戦上手と言われた北朝方の高師直軍と
対峙する事数ヶ月。ついに食料尽きて
河内に撤退したのは、2ヶ月前に
戦死した北畠顕家の弟・顕信だった。
吉野の後醍醐天皇は、京都奪還の
策を捨て、東国を固めて再起を
はかる事にした。北畠顕信は兄の
後任として、従三位近衛中将陸奥介
鎮守府将軍に任ぜられ、老臣・
結城宗広が脇を固めた。この時
顕信は、20歳前後だった。
吉野朝の主力は、北畠氏の本拠地・
伊勢国田丸城(三重県玉城町)を経て、
伊勢大湊から船団を組み、9月に
東国を目指して出航した。だが
遠州灘で暴風雨に遭い、船団は散り
じりになった。
顕家・顕信兄弟の父にして吉野朝の
重臣・北畠親房と伊達行朝船は、無事
常陸国(茨城県)Iたどり着き、霞ヶ浦
南岸にある小田治久の神宮寺城に
入った。宗良親王の船は駿河湾に漂着
し、遠州の井伊城に入った。
義良親王と顕信・結城宗広の船は、
知多半島沖の篠島に押し戻された。
いったん引き返した伊勢の田丸城で、
義良親王から「結城のじい」と慕われ
ていた70歳の老臣・結城宗広が病没
した。翌年3月吉野に戻った義良親王
は、後村上天皇として13歳で即位
した。それを見届けた後醍醐天皇は、
8月16日深夜に崩御。「魂魄は
常にほっけつ北闕の天を望まん」と、
死して後も北朝と戦い続けるとの綸旨
を残し、波乱に満ちた52年の生涯を
終えたのである。
この頃関東では、北畠親房を迎え
入れた常陸の小田・関氏が、北朝方
の佐竹氏や下総の結城・上総(千葉県)
の千葉氏と。下野(栃木県)の小山・
上野(群馬県)の新田氏は、北朝方の
宇都宮氏と戦い続けていた。親房の
神宮寺城は、佐竹に攻められて
落城。阿波崎城(東村)から小田城
(つくば市)へと居場所を変えていた。
福島方面の南朝方、伊達・田村・
石川氏は、相馬・伊賀(いわき市)・
葦名氏(会津)と。山形方面は村上郡の
大江・田川郡の武藤・最上郡の山家
・鶴岡のはむろ葉室氏が、置賜郡(米沢)
の長井・村上郡の中条氏と。青森・岩手
方面は、南部・葛西氏が津軽の
曾我・安東・浅利氏や岩手の和賀氏と
戦い、一族内で南朝方と北朝方に分裂
して戦う事も珍しくはなかった。
こうした蜂の巣を突付いたような混乱
の中、北畠顕信は側近の五辻清顕らと
共に1340(興国元)年夏、再度東国へ
下向した。この時親房は小田城に在って、
高師冬軍に囲まれ苦戦していた。顕信は
「奥州を平定して関東を攻めるべし」と
いう葛西清貞の策を入れ、海路牡鹿郡の
葛西城(宮城県石巻市日和山)に入った。
顕信の意を受けた南部政長は、興国
2年3月、稗貫郡と和賀郡(岩手県)の
北朝方を討ちつつ南下。葛西軍と合流
して、9月に奥州管領・石塔義房軍と
栗原郡三迫(宮城県栗原市)との戦闘が
開始された。
栗原の戦線は南朝方有利の情勢だった
が、関東では小田治久が北朝に寝返り、
親房は関宗祐の関城(茨城県筑西市)に
逃走。結城宗広の子・親朝は出兵に
消極的で、南朝にとってかなり不利な
状況となっていた。
1342(興国3)年9月、顕信は
再度栗原三迫に出兵し、石塔軍と
対した。激闘7日を経て石塔義房は
栗駒鳥矢崎の里屋城を陥落させた。
さらに激闘9日後、八幡城を落して
南朝方最後の拠点・津久毛橋城
(栗原市)へと迫った。10月28日、
北朝の和賀軍が顕信軍の背後を衝き、
2ヶ月余の激闘の末、南朝敗北で決着
がついた。顕信は河村六郎の居城・
岩手郡の滴石城で再起の時を待った。
だが翌年6月、結城親朝が北朝へ
降り、葛西清貞が死ぬと一族は北朝
に降った。11月には関城が陥落して
関宗祐が戦死。親房は下妻氏の大宝城
(茨城県筑西市)を頼るが、ここも落城。
親房は5年に及ぶ関東転戦の末、吉野
に帰らざるをえなかったのである。
1346(正平元・貞和2)年正月、
足利尊氏は奥州管領・石塔義房の後任
として、吉良貞家と畠山高国を任命した。
両者は翌年7月、南朝最大の拠点で
ある伊達の霊山城(福島県伊達郡霊山町)
と、田村の宇津峯城(福島県須賀川市)
に総攻撃をかけ、8月末に霊山城が
落城した。
1348(正平3・貞和4)年5月9日、
北畠顕家と共に戦い続けた伊達宮内大輔
行朝(行宗)が58歳で死去。2年後には
八戸城(青森県八戸市)で南部政長も死去
し、南朝方圧倒的不利の状況下で、顕信
は出羽に潜伏していた。
南北朝動乱がややこしいのは、北朝と
南朝の対立に、室町幕府の足利尊氏派と、
弟のただよし直義派の内部抗争が加わる
事にある。吉良・畠山両奥州探題も
2派に割れた。尊氏派の畠山高国は、
留守・余目・宮城氏などの地元豪族を
味方にして、留守氏の本拠・岩切城
(仙台市岩切)に立て篭もった。一方
直義派の吉良貞家は、宮城郡千代城
の国分氏と共に岩切城に迫った。
1351(正平6・観応2)年2月
12日、吉良軍は対陣ひと月の後、
和賀基義・白河顕朝らの参着を得て
総攻撃を開始した。難攻不落と
言われた標高825mの霊山城で
さえ陥落させた吉良軍である。
標高106m程の山城では吉良軍の
猛攻を防ぐ事は出来なかった。畠山高国・
国氏親子は切腹、一族郎党100余名
はことごとく討ち死にして戦いが
終わった。
尊氏と直義の内紛に乗じて息を吹き
返した南朝方は攻勢に転じた。1352
(正平7・観応3)年10月、伊達行朝の
子・飛騨前司宗遠は、後醍醐天皇の孫・
守永王(宇津峯宮)を奉じて、多賀城
奪還を目指して進軍を開始。吉良貞家
は相馬親胤・岡田胤家らを先陣として
出兵させた。両軍は10月22日に
刈田郡倉本川(宮城県・白石川)に
おいて激突した。吉良軍は大敗し、
本営を多賀城から名取郡高舘(宮城県
名取市)に移した。
11月22日、両軍は再度広瀬川
(仙台市)で激突。宮城郡山村(泉区
根白石)の大河戸一族が吉良軍の背後
を衝き、南朝方が大勝。吉良貞家は
菊田庄(福島県いわき市)まで逃れた。
15年ぶりに多賀城の国府を奪還して、
出羽から顕信を迎えるに至るのである。
翌年閏2月、顕信は上野・越後・
信州方面から鎌倉奪還を目指した
新田軍に呼応して多賀城を発した。
途中の白河で吉良貞家・白河顕朝軍
に敗れ、宇津峯城に退いた。吉良軍
は3月に多賀城を奪還し、大河戸氏
の市名坂城(泉区市名坂)などを落して
宮城郡を平定した。
1353(正平8・文和2)年
5月4日、吉良貞家は顕信の立て
篭もる宇津峯城(宇津峯山・676m)
を総攻撃し、激闘20日の後に陥落
させた。顕信は再び出羽へ逃れた。
この後の顕信の動静はわからないが、
奥州南北朝はここに終結したのである。
だが1人だけ例外がある。伊達宗遠
である。彼は1380(天授6・
康暦2)年に出羽国置賜郡(山形県米沢市)
に侵入して、北朝方の長井道広を追い
この地を領有。翌年亘理郡(宮城県)の
武石行胤や大崎氏と戦い、亘理・刈田・
柴田・伊具(宮城県)と信夫郡(福島市)を
領有するのである。中央で南北朝が統一
されるのは、さらにこの後11年後の
1392(元中9・明徳3)年の事である。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第21話「青葉城」
仙台の歴史散歩と題してサイクリング
に出かけた。起点は太白区の愛宕山で
ある。向山4丁目の登り口から、
降りて歩くのが賢明と思われる急坂が
100m程続く。頂上には、江戸初期
創建の愛宕神社がある。北側眼下に
広瀬川が流れ、足もとは80〜100m
の断崖になっている。
仙台の大雑把な地形は、この愛宕山
から西は丘陵地帯。東は肥沃な仙台
平野である。陸奥国府・多賀城から
利府・岩切・余目・福室・苦竹・
木ノ下・北目・郡山・日辺・今泉
などの水田開発は、少なくとも奈良
時代までは遡る事が出来る。
1189(文治5)年9月、源頼朝
が平泉の奥州藤原氏を滅ぼした後、
仙台平野の支配者は留守氏と国分氏
であった。伊沢家景は陸奥国留守職
に任ぜられて多賀城へ。以後留守を
姓として、岩切を本拠にして勢力を
拡大させた。しかし南北朝の頃、
奥州探題として下向した吉良貞家
と畠山高国が対立し、畠山に味方
した留守氏は岩切合戦に敗れて
没落。吉良に味方した国分氏が
勢力を拡大した。戦国期、両者
は宿敵として戦い続けた。
国分氏とは、奥州遠征軍海道
方面(常磐道)総大将・千葉介常胤
の5男・胤通が、宮城郡国分荘
(仙台市)を賜り、郷六に居を
構えた事に始まる。郷六とは
愛宕山から西に直線で約7km。
青葉山西山麓の低地で、現在は
近くに宮城インターチェンジが
ある。
郷六には仙台藩四代藩主・伊達
綱村の別荘があり、青葉城二の丸
からの間道が通じていたという。
仙台藩では愛宕山・大年寺山を
東端とし、向山丘陵・八木山・
青葉山の山塊群を天然の城塞に
見立てて、郷六辺りを西端とする
城郭構想を持っていたらしい。
胤通はその後、青葉山の「千代城」
に移り、国分氏の祖となった。
千代城は伊達政宗入府までの
400年間、国分氏の本拠であった。
国分一族には、郷六・森田・八乙目・
北目・南目・朴沢・鶴谷・松森・
粟野・古内・坂本・白石・堀江各氏
の名がある。現在の地名にも名を
残す通り、支配地域は七北田川
上流域と、広瀬川下流域を軸にした
仙台市全域に及んでいたと思われる。
1587(天正15)年以降は伊達
家臣団に組み込まれ、「国分衆」と
して仙台開府に際し重要な役割を
担う事になる。
伊達政宗の叔父・国分彦九郎盛重
は、宮城郡国分小泉村に要害を築いた
とある。愛宕山の東2kmにある、
若林区古城(現・宮城刑務所)辺り
である。この周囲が政宗入府以前の
町場(国分)だった。政宗は晩年、
ここに若林城を建てて住まう事
になる。
さらに古城から広瀬川を渡った
名取郡北目には、粟野大膳の居城・
北目城があった。1591(天正19)年
9月、伊達家は国替えで米沢から岩出山
に移ったわけだが、この時北目城には
屋代景頼が城主として入った。
1600(慶長5)年5月、徳川家康
は会津の上杉景勝討伐を命じた。
6月14日に大阪を発した伊達政宗は、
中山道から常陸・相馬を経て7月12日
に北目城に入った。そして軍勢を整える
とすぐさま上杉領となっていた刈田郡の
白石城を攻撃。25日に落城させた。
この時政宗は家康に対し、戦闘報告と
共に新城の築城許可を願い出ている。
その候補地は4つあったとされる。
第一に石巻・日和山の葛西城跡。
後に川村孫兵衛の北上川付け替えと
いう大土木事業により、南部藩の盛岡
から大崎平野の大穀倉地帯を経て河口
の石巻までの水運が開けるわけだが、
そうした交易の利便性を考慮した、
秀吉好みの商都になっていただろう。
残る3つは仙台平野を視野に入れて
いる。源頼朝が奥州藤原氏を討つべく
大軍を発した時、藤原泰衡が本陣に
したむちたて鞭楯(宮城野区榴ヶ岡公園)。
小高い丘からは宮城野を一望出来る。
政宗はこの地を最も望んでいたと言わ
れる。もしこの地に平城を築いていれば、
江戸のような運河を張り巡らせた水の都
になっていたかもしれない。
あと2つは大年寺山(野手口)の
茂ヶ崎城跡と、青葉山の千代城跡で
ある。
家康は9月15日に関が原の合戦
に勝利した後、国分氏の千代城再興を
許可した。12月24日、甲牛の吉日を
卜して縄張り始めを行い、政宗は北目城
から青葉山の高台64mにある千代城に
入った。
国分氏が城の名を「千代」とした
のは、青葉山に千躰物を祀るお堂が
あった為と言われている。政宗は
「入りそめし 国ゆたかなる
みきりとや/ちよ千代と限らじ
せんたいの松」
と歌を詠み、お気に入りの唐詩選から
「仙台初めて見る五城楼」の詩を引用
して、城と街の名を「仙台」と改めた。
1601(慶長6)年1月11日、後藤
孫兵衛信康と川島豊前宗泰を総奉行と
して普請開始。石垣衆は茂庭石見延元を
奉行として、棟梁に鹿野清左衛門、黒田
八兵衛、能島与右衛門。使用された石は
郷六の北・大石ヶ原や国見峠から採石
された安山岩質玄武岩1万2000個
あまり。
また城下の測量や絵図の作成も同時に
行われ、翌年の2月から5月にかけて、
岩出山城下から家臣や町人の引越しが
行われ、名実共に仙台開府となったので
ある。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第22話小説と史実の間」
吉川英治は1950(昭和25)年に、
新平家物語の執筆に着手。7年の歳月
を費やし、1957(昭和32)年3月
に完成させた。作品は歴史小説の金字塔
として、今も広く読み継がれている。
この長大な物語には、原本が存在
する。鎌倉時代前期、信濃前司行長
らによって書かれた「平家物語」。
南北朝時代の作とされる平家物語の
異本「源平盛衰記」。室町時代中期
の作とされる「義経記」などである。
新平家物語の骨格は、おおむね
これらの路線を踏襲しているわけだが、
史実とは思われない部分も多く含まれ
ている。
新平家物語では少年時代の平清盛を、
ひどく貧しい悪童として描いている。
設定としては、そこを振り出しにして
栄華の絶頂を極めたほうが面白いのだが、
おそらく清盛は、巨大貿易商社の跡取り
だったに違いない。
清盛の父・忠盛は、鳥羽上皇の荘園
である、肥前国神埼荘(佐賀県神埼町)を
管理していた。忠盛は有明海に面した
この地を拠点にして日宋私貿易を行い、
巨万の富を築いてゆくのである。
忠盛は北九州から瀬戸内海にかけて
の海上物流ルートを整備し、そこで得た
金銀珠玉に綾錦の類を鳥羽院や貴族
らに贈り、平家躍進の足場を固めて
いった。清盛はその後継者として、
安芸守(広島県)・播磨守(兵庫県)・
大宰大弐(北九州・大宰府長官)と、
ほぼ望み通りの地域の地位と利権を
得る事が出来たのも、忠盛時代の
伏線があったればこそというわけ
である。
一方、源義経や背後に控える奥州
藤原氏に関しても、多分に誤解や
理解不足がつきまとう。奥州藤原氏
は、現在の東北地方全域から新潟県
あたりまでを勢力圏とし、日本の
半分と言われていた大国である。
その国の情報活動と国際貿易活動
の一切を、金売りの吉次という
一商人に象徴させる事には、かなり
無理がある。
実際の情報機関としては「平泉第
(ひらいすせみだい)」という、奥州
の京都大使館が初代・清衡の頃から
存在した。場所は「かどで首途八幡宮
(京都市上京区智恵光院通今出川上ル
桜井町102)」にあった。長官として、
検非違使左衛門尉・藤原秀清・公澄兄弟
の名がある。
平泉第では、中央貴族や寺社の情勢を
探り、必要とあれば買収による政治工作
も行った。また仏師や絵師・高僧などの
人材を求め、平泉に送る役目もあった。
後に鎌倉の頼朝が後白河法皇に対し、
奥州追討の院宣を求めた時、院が頑と
して拒否した背景にも、平泉第の影響力
があったと思われる。
平泉は3代秀衡の頃、京を凌ぐ人口
15〜20万人だったと思われる。
そこには、禅房300余の中尊寺、
禅房500余の毛越寺、観自在王院や
無量光院などの寺がある。僧だけでも
かなりの数なのだが、彼らこそ実質的
な情報・貿易活動の担い手だったの
だろう。
彼らを「勧進聖」
と言う。寺は貿易実務や通訳養成、
航海術などを教える学校の機能も有して
いた。舞や芸能も行ったし、薬売りや
アメ売りに変じて諸国を遊行したのも
彼らである。また、中尊寺は天台宗だが、
比叡山延暦寺を中心にした天台僧の
情報ネットワークを活用していたという
事もある。
元暦元(1184)年2月22日と
いうから、木曾義仲が源義経軍に
敗れて戦死した翌月。藤原秀衡は
上村彦三郎ら12人を、美濃国石徹白
(いとしろ/岐阜県郡上郡白鳥町)の
地に派遣した。ここは長良川上流の
山深い高地で、福井県境も近い。白山
参りの東海口として、白山開基僧・
泰澄が開いた白山中居神社がある。
日吉・白山神社は、平泉の東方鎮守
である。秀衡はここに虚空蔵菩薩を
奉献する為に、上村12人衆を
遣わしたのである。が、それは
表向きの事。彼らの目的は、木曾
義仲亡き後の、信越北陸方面の情勢
を探る事にあった。事実彼らは石徹白
に社殿を建て、奥美濃に留まっている。
歌舞伎十八番の「勧進帳」と言えば、
義経・弁慶主従が鎌倉方の追っ手を
逃れ、加賀国安宅関において富樫
左衛門尉と弁慶が丁々発止の問答を
繰り広げる物語である。しかし
石川郡の豪族が富樫を名乗るのは、
南北朝以後の事である。感動的な
名場面ながら、フィクションの
可能性の方が高い。
義経一行が比叡山や吉野・高野山
に潜伏した後、奥州に下るルートには
諸説ある。近畿の三関(愛発・不破・
鈴鹿)は、鎌倉方が厳重に固めている。
東海道は陸路も海路も危ない。しかも
安宅関を通らずに、越中・越後方面に
抜けられそうなルートが、かろうじて
1本だけある。それが長良川から石徹白
を経て、白山参りの修験の道を行き、
庄川を下るルート。ここに秀衡直属の
家臣団がいるというのは、とても
偶然とは思えない。
白山神社は平泉の東方鎮守と
書いたが、他にも南方の祇園社と
王子社、西方の北野天神と吉野修験
の金峰山寺、北方の熊野社と稲荷社が
鎮守として祀られている。これが意味
する事は、1つは義経の逃走ルート
と重なる事。もう1つは修験は金銀
銅鉄や水銀など、山に産する鉱物を
司るという事。奥州藤原の生命線
である。これら天台と修験の
裏ネットワークに自在に活用して
いたのが、奥州藤原「日高見国」と
いうわけである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第23話「歴史書庫「池波正太郎/
雲霧仁左衛門」
昔「黄金の七人」という、粋な映画
を観た。それぞれ特異な技能を持った
男女7人が、スイス銀行の金塊を
盗み出すという粗筋である。一滴の
血も流さず、頭脳と体力をフル回転
させてお宝をごっそりいただく盗賊
稼業は、何やら夢とスリルがたくさん
詰まっていて魅力満点だ。とはいえ
事は犯罪なので、映画か小説の世界
で楽しむ程度にしておいたほうが
よろしいかと思う。
豊臣秀吉に釜ゆでにされた大盗賊・
石川五右衛門が、「石川や 濱
のまさご真砂は尽きるとも 世に
盗人の種し尽きまじ」と辞世に詠んだ
とおり、盗る者と取り締まる者との
攻防戦は今も果てしなく続いている。
江戸の町に南北町奉行所が設置
されたのは、1613(寛永8)年
の事。加賀爪民部少輔忠澄と、堀
式部少輔直之が町奉行を務めた。
町奉行は、現在の都知事、裁判所
長官、警視総監、消防庁総監を
兼ねたような激職だった。
町奉行所が雑多な民事訴訟を扱う
のに対し、犯罪者検挙専門に、武士
町人の別なく捕縛し、状況に応じて
斬って捨てる事をも許された特別
警察があった。1665(寛文5)年
に設置された「火付盗賊改方
(略して火盗改」
である。
1683(天和3)年正月というから、
5代将軍綱吉の頃。3千石の旗本・
中山勘解由直守が、火盗改
長官に就任。当時徒党を組んで乱暴・
狼藉を働いていた江戸中の嫌われ者、
旗本奴や町奴200余名を捕縛。
首魁11名を斬首して、泣く子も黙る
火盗改と言わしめた。ただし鬼と
恐れたのは盗賊たちであり、一般市民
からの悪評は無かったという。
池波正太郎は、火盗改長官・長谷川
平蔵のぶ宣ため以を主人公にして
「鬼平犯科帳」を書いた。彼は実在の
人物で1746(延享3)年生まれ。
ちょうどこの年、歌舞伎十八番「白波
五人男」の首領・日本駄右衛門こと
浜島庄兵衛が、伝馬町の牢屋敷で処刑
されている。
鬼平は1787(天明7)年から
1795(寛政7)年までの8年間、
火盗改長官を務め、捕物の名人と言わ
れた。実際に捕らえた盗賊は、手下
800人のしんどう神道徳次郎。
大名屋敷を荒らし、刀や脇差ばかり
を盗んだ怪盗・稲葉小僧。色好み
の妖盗・葵小僧などがいる。
鬼平が生きたのは11代将軍家斉
(いえなり)の頃だが、約60年前の
1722(享保7)年、8代将軍吉宗
の時代を背景にして、池波は
「雲霧仁左衛門」を書いた。
火盗改長官は、千石の旗本・安倍式部
信旨。筆頭与力・山田
藤兵衛。対する盗賊は、関東・東海道・
上方にかけて、1人も殺傷せず、誰
にも気づかれず、5千両・1万両と
盗み出す「本格盗賊」の雲霧一味。
この「盗め」を実行する
までには、2年から5年の準備期間
がある。その間に店の間取りや人間
関係、金蔵の場所や仕掛けを調べ上げ、
錠前の蝋型をとるのである。盗みの
プロ集団対捕縛の達人集団の攻防戦が、
面白くないわけがない。
鬼平犯科帳もそうだが、池波正太郎の
小説は全てにおいて、徹底した緻密な
時代考証が土台にある。それが人物
描写に奥行きを与え、たとえ架空の
存在であっても、このような人物が
この時代に生きていただろうなと
思わせるリアリティがあるのである。
盗賊の首領・雲霧仁左衛門は、
「昔おさむらいであったらしい」と終始
謎めいて描かれるが、最後にその生い
立ちと盗賊稼業に身を投じる動機が明か
される。そもそもは伊勢国安濃津
(あのつ/三重県津市)の藤堂藩32万
3千石の家臣・辻伊織と言った。
伊織19歳の時、兄・蔵之助と共に
京都藩邸に赴任した。半年後、勘定方
の不正経理が発覚。藩の重役が
絡んだ汚職だったが、罪は蔵之助
1人に押しつけられた。
蔵之助切腹の前夜、伊織は藩邸に
放火し、藩士11名を殺傷。兄を
救出して逃亡。伊織は武家社会の
理不尽を恨み、雲霧仁左衛門という
盗賊の首領になるわけである。
雲霧にとって、盗みは復讐の手段
でもあった。彼が最後の大仕事
と願っていたのは、藤堂藩の御金蔵
破りだった。
雲霧が全幅の信頼を寄せ、一味の
複雑な組織を束ねているのが、小頭
(こがしら)・木鼠の吉五郎。
火盗改の同心を買収したり、商人に
化けて諸方と連絡をとったりと、
なかなかに渋く忙しい役回りである。
「女」という生き物を描いた、七化け
のお千代。なるほど、女は「化ける」。
愛するお頭・雲霧の前では少女の如き
恥じらいを見せ、盗賊仲間が悪戯を
仕掛けると、首に針を突き立てて啖呵
をきる凄みのある姐さんとなる。
お盗めで商家の主人を篭絡する時には、
骨をも蕩かす手練手管を用いた娼婦に
もなる。
雲霧仁左衛門は、1978年松竹に
よって映画化された。監督は五社英雄。
雲霧に仲代達也。小頭に長門裕之。
七化けは岩下志麻。1995年には、
フジテレビと松竹によってドラマ化
された。雲霧に山崎努。小頭に石橋
蓮司。七化けは池上希実子。作品は
DVD化され、「裏鬼平」として
渋く人気を保っている。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第24話「姓名判断幕末編」
東京の下町、深川・富岡八幡宮の
裏路地辺りを散策すると、易者
(ろくま)の大道芸に出くわす事がある。
陰陽五行に十干十二支、人相骨相
手相の三相から九星学、四柱推命学
や姓名学などを自在に操る彼らは、
学者の先生としてテキ屋仲間
から一目置かれているらしい。
確かに中国の占いは奥が深い。
易の歴史は、古代中国の神話時代
にまで遡る。蛇身人首の伏羲
が、八卦をつくって吉凶を占い、文字
を発明し、魚や獣を捕らえて料理を
する術を考え出したのだという。
今から3500年前の殷の時代、
亀の甲羅を酒で清め、炭火で焼いた
ひび割れを見て吉凶を占った。この
占いの結果を記録として残したのが
甲骨文字という漢字のルーツである。
易の宇宙観は、常に変化する「機」
を見抜く智慧と言える。太極動いて
陰陽を生じ、天沢火雷水山地の象
(かたち/八卦)となり、八卦の陰陽が
64卦に変ずる。森羅万象・千変万化。
生命とは天の命であり、命即ちおのれの
本質を理解する事が、易における
「知」という事になる。
この奥深い易の理に、数の神秘を
取り入れて姓名学の基礎を築いたと
される人物が、春秋の世を生きた儒教
の祖・孔子(BC552〜479)だと
言われている。
もともと文字とは神聖なものであり、
命が宿り霊力を持つというのは、東洋
の言霊思想に共通する考え方である。
加えて、数の神秘に関する信仰のルーツ
はシュメール文明にもあり、孔子と
同時代を生きた数学者・ピタゴラス
(BC582〜497)も探究している
事から、まんざら嘘ではないかと
思われる。
孔子は「1」を太極首領数・吉、
「2」を分離破壊数・凶という風に、
9までの数を意味づけた。その上で
「名とは自己の分身であるから、まず
名前を正しくすべし」と語ったという。
この1〜9の他に、インドから
伝わった0という概念を「運命逆転数」
として取り入れ、姓名学を展開している
のが、日本姓名学会長・中山雲水氏で
ある。数ある流派の中から、彼の流派と
考え方を基準にして、歴史上の人物の名
を検証してみようと思う。
歴史と言えば、動乱の幕末。幕末と
言えば長州の風雲児・高杉晋作である。
姓の合計・天運17、名の合計・地運
17、姓の最後と名の最初の合計・内運
17、姓の最初と名の最後の合計・外数
17、そして総画34。さすが天下の
奇才は、名前も奇なるものだった。
総画34は悲運分裂数。事故や災難が
続き、最後にツキに見放されるという。
尊皇攘夷運動で英国公使館を焼き討ちに
するなどの過激派で、後に倒幕軍の主力
になる奇兵隊を創設するが、維新を待たず
志半ばで病に倒れ、27年8ヶ月の
生涯を終える。
「おもしろき こともなき世を
おもしろく・・・」が絶筆となった。
天運・地運・内運・外運が全て17
というのが奇である。孔子が説く7は、
「剛毅果断の全般整理数・吉。象意は
独立・変化・孤独・芸能・人気」。
7系数の人生は吉凶いずれの場合でも
波乱に満ちているという。
高杉の子分格・伊藤博文は彼を、
「動けば雷電の如く、発すれば風雨
の如し」と評した。カリスマ的リーダー
として人気があり、長州藩や政商・
白石正一郎らから数百両単位の金を
引き出し、遊郭で豪遊。
「三千世界のカラスを殺し ぬしと
朝寝がしてみたい」という粋な
都々逸は、高杉の作と伝えられている。
一時歌人の西行にあやかり、「東行」と
称して出家した事もある。
死の前日、高杉は奇兵隊幹部に対し、
後事を託す人物を遺言した。
「大村益次郎を大将として仰げ。」
彼は本名・村田蔵六.本来は医者である
が、兵書の翻訳や蒸気船の建造を手がけ、
その奇才を桂小五郎に見出される。
司馬遼太郎の小説「花神」の主人公で
ある。
村田蔵六は総画38.堅実に成功する
幸運数である。天運12と外運14は
分裂数である。医学と軍事は、生命を
生かすか殺すかの分裂と言える。蔵六は
1865(慶応元)年に、藩命により
大村益次郎と改名する。
大村益次郎は総画40.天運10、
地運30と〇系数が並ぶ。内運と外運
は17.〇系数は幸・不幸が極端に
入れ替わる運命逆転数。象意は
「頂点・変身・転落・全滅・勝負・
分裂」
大村は幕府軍との四境戦争で
長州軍・芸州口を指揮して大勝利。
明治元年には上野彰義隊を掃討。
兵部大輔に就任して近代陸軍創設に
尽力。だが翌年8月13日、京都の
宿で刺客に襲われ重傷。11月5日
敗血症で死去。46歳だった。
大村は「四斤砲をたくさんつくって
おけ」と遺言した。この砲は8年後、
西南戦争で火を吹くのである。主役は
もちろん、西郷隆盛である。西郷吉之助、
本名・隆永。隆盛は本来
父親の名であったが、部下の勘違いを
そのまま受け入れて明治以降に使用
した。
西郷吉之助は総画40。地運17。
隆永の総画は45と強運だが、地運22
と内運34は悲運分裂数。隆盛の総画
52は、対立と分裂数。征韓論で新政府
と対立して下野し、西南戦争で自刃する
運命を暗示している。内運も34である。
ただし隆盛の地運は29.人気実力で
他を圧し、頂点に君臨する数である。
確かに西郷どんは、不滅のスーパー
スターとして語り継がれている。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第25話「武士の情け」
1937(昭和12)年8月21日。
海軍大臣・永野修身から、呉鎮守府
司令長官・加藤隆義中将に対して、
「1号艦」建設命令が出された。
艦の長さ263メートル、排水量
6万9千トン、15万馬力。国家の
威信をかけたこの巨大戦艦は、後に
「大和」と名づけられ、同型の
2号艦「武蔵」(三菱長崎造船所
建造)と共に、太平洋戦争に船出
してゆく事になる。
とにかく巨大な戦艦だった。日清
戦争時の主力艦「松島」が4千トン、
主砲32センチ。日露戦争時の旗艦
「三笠」が1万5千トン、主砲36
センチ程である。大和は砲身21
メートルの46センチ3連装9門、
15.5センチ副砲12門を装備
した、世界最大級の鋼鉄の要塞
だった。
1941(昭和16)年11月5日。
「Z作戦」の実施が御前会議で決定
した。空母「赤城・加賀・蒼竜・
飛竜・瑞鶴・翔鶴」の6隻をはじめ
とする連合艦隊30隻が、エトロフ島
のヒトカップ湾に集結し始めた。
軍上層部は日米開戦を疑っていな
かったが、外交の舞台裏では戦争
回避の方向で親善交渉が続けられて
いた。
このような状況下で、1号艦
「大和」は、予備運転や各種銃砲
の発射
テストを行い、連合艦隊の旗艦と
なる日に備えていた。呉市民の間
では、誰言うとなく「不沈艦」と
呼ばれていた。
12月8日、日本はハワイ真珠湾
の米太平洋艦隊を奇襲し、戦艦8隻・
航空機180機を爆撃。死傷者
2500人あまりの被害を与えた。
また、12月10日のマレー沖海戦
では、イギリスの不沈戦艦
「プリンス・オブ・ウェールズ」を、
海軍の一式陸攻と九六陸攻75機に
よって撃沈した。いずれも航空機に
よる機動部隊がもたらした戦果
だった。
香港・シンガポール・ジャワ・
フィリピン・ニューギニアなど、
各方面の勝利に日本国民は熱狂した。
だがその歓呼も、半年程で終息する。
1942(昭和17)年6月5日。
ミッドウェー沖海戦において、日本
連合艦隊は空母4隻と艦載機285
機が全滅し、多くのエースパイロット
を失った。旗艦・大和の主砲は沈黙
したままだった。
以後日本軍は、太平洋各島で米軍
の猛攻の前に、次々と玉砕(全滅)して
ゆく。1944(昭和19)年10月
24日のフィリピン沖海戦では、戦艦
武蔵が、魚雷11本・直撃弾10発・
至近弾6発をうけて沈没し、連合艦隊
もほぼ壊滅した。
翌1945(昭和20)年になると、
1月に硫黄島、3月に沖縄で、悲愴な
までの総力戦が展開され、日本軍は
体当りによる人間爆弾、いわゆる
「神風特攻機」や「人間魚雷・回天」
「有人ミサイル・桜花」などによる
抵抗を行なった。
3月20日、大和を旗艦とする
第二艦隊に、「燃料は片道分とする」
という内容を含む作戦命令が発令され
た。命令伝達者には、草鹿龍之介少将
と共に、燃料担当参謀・小林儀作大佐
が同行していた。小林は呉鎮守府に
赴き、機関参謀の今井和夫中佐と面
談した。今井は海軍機関学校で、小林
の二期後輩だった。
「今井君。今、帳簿外重油はどれ程
あるか?」と、小林が問うた。
帳簿外重油。重油タンクの底に残って
いる、パイプでは引き出せない油の
事である。
「むろん最も重油タンクの多い呉鎮守府
の事。帳簿外重油も相当量持っており
ます。」
今井は当惑しながら答えた。
「その油、大和に搭載しようでは
ないか。確かに生還の見通しは少ない。
しかしながら、片道分の燃料で出撃
させたとあっては、武人の情けにあらず。
燃料を満載して、快く送り出してやろう
ではないか。」
小林儀作大佐、一世一代の「裏技」
だった。かくして手押しポンプで集め
られた「帳簿外重油」が、大和・
矢矧・磯風・浜風・朝霜・
霞・冬月・雪風・初霜などの艦艇に
搭載されていった。もしも上司から
報告を求められた際には、
「片道分の重油搭載を発令したが、
積み過ぎて余分を吸い取ろうとしたが、
出撃に間に合わないのでそのままにした」
という答えを用意していた。
かくして、公式には片道分の燃料
しか積んでいない、伊藤中将率いる
第二艦隊は、4月5日「一億特攻の
さきがけとして」出撃したいった。
艦隊は豊後水道から九州陸岸を南下
した。4月8日午前8時23分、
北緯31度22分、東経129度
14分の、屋久島西方海上の第二艦隊
を、空母エセックスの艦載機が発見。
米第58機動部隊の空母ホーネット・
ワスプ・ベニントン・ヨークタウン・
バンカーヒル・ハンコック・
イントレピット、軽空母ガボット・
ラングレー・バターン・インディ
ペンデンスの戦闘機・爆撃機・
雷撃機280機が、3波に分かれて
第二艦隊に殺到した。
午前11時50分、第一波の艦載機
が大和上空に出現。大和は最大戦速
27ノットで、右に左に激しく蛇行
しながら、主砲・副砲・高角砲・機銃
を撃ちまくって応戦した。砲煙が大和
を覆い、轟音と水柱が激しくあがった。
大和は左舷前部に魚雷一発、後部
電探室に直撃弾を食らったが、数十発
の魚雷をかわした。
午後1時18分、第2波の100機
来襲。左舷に魚雷3本命中。1時44
分、第3波126機来襲。左舷中部に
魚雷2本命中。2時12分、左舷中部
に魚雷1本、後部に魚雷1本、爆弾
3発命中。そして午後2時17分、
左舷中部深くに魚雷一発命中。船体
傾斜20度。6分後に横転し、大爆発
を起こして、不沈艦・大和は遂に
沈没し2704人が戦死した。
軽巡・矢矧も魚雷7・爆弾2を受け
沈没。駆逐艦浜風・磯風・朝霜・霞も
沈没した。しかし第二水雷戦隊司令官
の古村少将指揮のもと、中破した冬月・
雪風・涼風は、大和らの生存者を救出
して佐世保基地に生還した。小林の
「往復燃料搭載」がもたらした成果
であろう。無残なばかりの戦争だが、
わずかな清風が吹き抜けることもある。
今昔玉手箱2へと続きます