明日を生きる人々へ
瞼はまるで石になったかの様に、動かなかった。
「ピッ、ピッ、ピッ」
朦朧とする意識の中、心電計の無機質な電子音だけがやけにはっきりと聞こえる。
「ーー!」
「ーー!ーー!」
横たわった私の体の上で、焦りを含んだ様な声の弾丸が飛び交った。
でも、何を言っているのか分からない。
体にのしかかる倦怠感からか、分かりたいとも思わなかったが。
ただ1つだけ、興味を持ったことがあった。
それは、今自分がどこにいるのかということ。
ぼんやりとした意識の中、私はそれが愚問であることを思い出した。
ここはどこか? そんなの決まっている。病院のベッドの上。
私は、今までのほとんどの人生をここで過ごしてきた。
「ピッ、ピッ……ピピッ、ピッ」
耳に届く電子音は、段々とその規則的なリズムを崩し、私の鼓動の乱れを知らす。
「けっ…うさ…そ濃度……う!」
「心拍…う……な…です!」
焦った様な声は以前より増して緊迫した声に変わり、その内容は部分的ながら聞き取れた。
そのことから私は、不安定な鼓動とは逆に意識が少しずつ覚醒していることを悟る。
「ううっ、ねえ、ちゃ、しんじゃっ、やあ」
私の横から、泣きじゃくる中やっと絞り出したかの様な男の子の声がした。
嗚咽を含んだその声は、体の上で飛び交う声よりもずっとはっきり、そして響く様に私の耳に届く。
航平。
声の主の名を紡ごうとした私の口が動くことはなかった。私の唇はまるで他人のものの様に微動だにしなかった。
航平、私の弟。
その事実はスポンジが水を吸い上げるかの様に容易に、私の頭に浸透する。
「航平、大丈夫だ。お姉ちゃんは、大丈夫だから……!」
続いて聞こえたのは、掠れた男の声。
自分に言い聞かせる様な、何かに怯えている様な、そんな声だ。
いつもと違う頼りない声だったが、私はすぐに声の主を理解した。
父さん。
「佳澄、目を覚まして……!」
次に私が捉えたのは、すすり泣き私の名を呼ぶ女の声だった。切羽詰まった彼女の声は、必死に何かに縋り付いている様だった。
彼女の長所は、最後まで諦めないところ、何にでも一生懸命なところであることを私は思い出す。
母さん。
「体温低下!」
「心室細動確認!」
「血中酸素濃度67!」
体の上で飛び交うのは、医師や看護師達の声。
彼らの声が私に実感を持って伝わることはなかった。
まるでシャボン玉の中から、どうでもいい他人事を聞かされている様な気分だった。
でも、そんな中でも、私は理解した。
自分に最期の瞬間が訪れようとしていることを。
ああ、私、死ぬんだ。
相変わらず実感はわかなかった。
自分の死。それは、どこかの誰かが躓いた、そんな些細なことの様に感じられた。
いつでも死ねる覚悟をしていたからかもしれない。
医師には、寿命は長くて18歳までだと言われていたから。
死は、私にとって家族ぐらい、否、それよりももっと身近な存在だった。
そして何よりも恐ろしい存在だった。
死ぬときどんな気持ちなんだろうと考えて、寝られなくなった夜は数え切れない。
死が怖くて発狂してしまいそうになることもあった。
でもいざ体験してみると、全く実感がわかないものだ。自分が死ぬと分かっても、道に落ちていた石ころを視界に入れたときの様に、何も感じなかった。
「ピピッ……ピッ……ピッ…………」
今やリズムなど知らないかの様に不規則だった電子音が、不意に私の耳から遠ざかった。
同時に、辺りが嘘の様に静かになる。
医師の声も、看護師の声も、泣きじゃくる航平の声も、何も聞こえなくなった。
何が起こったのか考える暇もなく、明るかった瞼の裏が真っ暗になる。
……聴力と視力が失われたんだ。
私は理解した。
そしていつしか、背中に感じていた柔らかいベットの感触は消え去っていた。
自分が寝ているのか、立っているのか、前も後ろも分からなくなる。
体をくすぐる浮遊感の中、自分が病室にいるとは思えなかった。
ついに触覚、平衡感覚も失ってしまった。
私は理解した。
次第に、静かで孤独な、クレヨンで塗りつぶされた様な真っ暗闇の中、「私」という存在は、ほぐされ、ほどけていく。
ゆっくりと、しかし確かに「私」が「私」ではなくなっていく。
「私」だったものが消え去ってゆく。
もうすぐ、私は、死ぬ。
私は理解した。
理解してしまった。
死って、随分と急に訪れるのだな。
さようなら、みんな。
さようなら、人生。
私は、幸せでした。
でも。
1つだけ。
1つだけ、わがままが許されるのならば。
言っていい?
あと1秒だけでも、一瞬だけでも、生きたかった。
明日の朝陽を、この体いっぱいに、感じたかった。
でも、それは叶わない願いだから。
最後に送ろう。
私の心からのメッセージ。
今を生きる人々へ。
今、産声を上げようとする新たな生命へ。
私が見ることのできなかった明日を、見て。
私が死ぬほど生きたかった明日を、生きて。
そして、忘れないで。
あなたが持つ時間には、限りがあることを。
あなたが生きる今日を、生きられなかった人がいることを。
私という存在が、確かにこの地球上で生きていたことを。
忘れないで。
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