学校②
夏休み直前。いつも通りの1日のはずが、新聞部によるアンケートから、激動の1日へと変化する。
『クラス内で、誰が好きですか?』
ザワつくクラスを横目に、麻佑も、徐々に恋を自覚し始める。
7月の始め。私たちはもう、来る夏休みに思いを馳せていた。今年はどこに旅行に行くんだ、とか、何日空いてるならどこどこに遊びに行こうぜ、とか。確かに私も夏休みは楽しみだったが、それ以上に暑さが憂鬱だった。既に、昼の気温は28度近くある。可能な限り薄着しているが、それでも外にいるときはきついものがあった。
「さて、それじゃあ朝の会終わるけど、なんか新聞係が配るものあるんだっけ?」
担任の金子が、新聞係の理恵を見て言った。理恵は立ち上がって、何か抱えながら、前に出てきた。
「はい。新聞係では、夏休み前に特別新聞を出そうと思います。そのために、皆さんにアンケートへの協力をお願いしたいです。今から、配ります」
そう言うと、同じく新聞係の子が2人出てきて、手分けしてアンケート用紙を配り始めた。新聞係は2週間に1度のペースで新聞を作っている。そのテーマは様々で、アンケートを取ったことはこれまでもあった。どこに旅行へ行きたいですか、とか、ペットを飼うなら何、とか。だが、特別新聞というだけあって、今回のアンケートのお題は一味違った。
『クラス内で、誰が好きですか?異性を書いてください』
アンケート用紙が配られると、クラスは次第にざわざわし始めた。それはそうだ。これまでは、何を書いたか知られても、別段どうということはなかった。しかし、今回のアンケートは、あまりにデリケートな内容なのだ。
「今日の帰りの会で回収するので、それまでに書いておいてください」
理恵はそう言うと、自分の席に戻った。まだ教室はざわついていた。
「麻佑ちゃん、アンケートもう書いた?」
2時間目が終わった後、雪子が私の席にやってきた。1時間目の後もだが、休み時間はすっかりあのアンケートの話題でもちきりといった感じだった。
「いや、書いてないけど」
私は白紙のアンケート用紙を取り出すと、ヒラヒラと見せた。
「そっかぁ、どうしようね?」
困った顔で、雪子は聞いてきた。なんだろう、何か引っかかる。確かに困った顔をしてるけど、本当はそんなに困っていないような……。いやでも、困っているようにも見えるし。
「まぁ、適当に書けばいいでしょこんなの。もう次の時間始まるよ」
「えっ!?あ、ほんとだ!じゃまた後でね、麻佑ちゃん!」
そう言うと、雪子はハッとして席に戻った。何か、言いたいことがあるんだけど、言えなかったような……。そんな印象を、私は雪子に抱いていた。
2時間目。面白くない社会の授業を聞き流しながら、私はアンケートのことを考えていた。……好きな人、か。多分、それを隠している子はいっぱいいる。でも、好きな子がいないって人は、5年生にもなって、あまりいないんじゃないか。私は漠然と、そんなことを思っていた。あの様子なら、多分雪子は好きな人がいる。その予想も何となくついている。他の女子についても、そんな恋バナをしているのはよく聞く。だから、皆困ったようで、実は書く人自体は決まっているのだ。ただ、好きな人を文字にして書く、という行為が、恥ずかしいのだろう。
じゃあ、私はどうだろう。私も、誰が好きな人がいるだろうか。……ふっと頭に浮かんだ人がいた。孝佑。ほとんど言葉を交わしたことのない彼が、どうしてパッと浮かんだのか。その理由が私には分からなかった。でも、浮かぶということは、もしかしたら好きなのだろうか。……そんなことを考えながら、私は孝佑を見た。真面目に授業を受けている。孝佑は頭がよく、勉強ができた。国語・算数・社会・理科、どれを取っても隙がなく、クラスでは進一と並んで天才扱いされている。だが、運動は苦手で、顔もイケメンというわけではない。彼のことを好きなのだとしたら、私は一体どこを好きになったのか。全く分からなかった。
結局、アンケートを埋めることができないまま、昼休みを迎えた。給食を食べ終え、席でぼーっとしていると、珍しく早く給食を食べ終えた雪子がやってきた。
「麻佑ちゃん、あれ書いた?」
「ううん、まだ。ゆっきーは?」
「私も。ねぇ、図書室で一緒に書かない?」
よく見ると、雪子は左手にアンケート用紙を持っていた。二人で図書室に行ったところで、アンケートが進むとも思わないけど……。内心そう思いつつ、やることもなかったので、雪子に付き合ってあげることにした。
図書室に着くと私と雪子は空いているテーブルに向かう。そういえば前、スカートの時の座り方を雪子に注意されたっけ。今日は膝上のフレアスカートだった私は、少し気をつけてテーブルに座った。
「ほんと困っちゃうよね、これ」
雪子がアンケート用紙を指差し、私に問いかける。私が小さく「うん……」というと、そのまましばらく沈黙が流れた。やっぱり、二人でいたって、アンケートを進むわけじゃない。このままじゃ埒が明かない、休憩時間が終わってしまうと思った私は、おもむろにアンケートを書き始めた。私が紙に書いた名前は、「金井孝佑」。それを、横目で雪子が見ていた。
「え、麻佑ちゃんって、こうちゃんが好きだったの?」
正直分からない。これが好きなのかどうか。ただ、いずれにしても、孝佑以外に書こうと思える人がいないのは事実だった。
「うん。ほら、雪子も早く書きなよ」
面倒だから、私は孝佑のことが好きだということにして、雪子に書くことを促した。雪子は「うーん……」としばらく唸っていたが、「よし」と小さく呟くと、「斉藤俊輔」と書いた。予想通りだ。私はふふっと笑った。
「何笑ってるの?」
雪子が少し怒った顔で、私の方を見てきた。
「別に。ま、これで後は出すだけだね。よし、この前の本の続き読もうっと」
そう言うと、私はアンケート用紙を裏向きにして置き、席を立った。雪子も、私の後を続くように、席を立ったが、アンケート用紙は左手に握ったままだった。
放課後、アンケートの回収が行われた。皆誰の名前を書いたとか聞いてはいたが、決して誰の名前を書いたと自分で主張する人はいなかった。皆自分の紙が見られないよう、裏返しにして慎重に回収係の理恵に提出した。回収が終わると、帰りの挨拶をして、皆机を下げ始めた。今日、私は教室の掃除当番だったので、用具庫に向かった。
掃除中も、やはり皆誰が誰を好きなのか気になるようで、お互いに探りを入れていた。私は気にせず掃除をしていたが、掃除で同じ班だった美帆が話しかけてきた。
「ねぇねぇ、麻佑ちゃんは誰を書いたの?」
美帆は雪子とは違うベクトルで、大人びた子だ。普段はクラスで一番大人っぽい女の子のグループにいる。私はあまりそのグループで話すことはないが、下校の方向が美帆と同じなので、たまに一緒に帰ることがあった。
「秘密。美帆もそうでしょ?」
私が箒で教室を掃きながらそう言うと、美帆も黙って掃き掃除を続けた。皆同じなのだ。自分の好きな子は秘密のまま、人の好きな子を知りたい。私は、別に人の好きな子も知らなくていいけど。
「……麻佑ちゃんにだけなら、私は教えてもいいけどなー」
美帆が揺さぶりをかけてきた。……なるほど。私なら話してもあまり拡散しないだろうという読みなわけだ。それは当たっているけど、あいにく私は美帆の好きな子をそこまで知りたいと思っていない。
「そう。……んー、でも秘密」
私がそう言うと、美帆は私の肩をぽんと叩いた。
「言ってもよくなったら、教えてね」
そう言うと、美帆は離れていった。恐らく、あの感じで色んな女子に探りをいれるのだろう。美帆はまさに狡猾という感じで、女子のずる賢さを完璧に身につけていた。だから女子グループの頂点に君臨しているし、愚かな男子達では敵う由もない。
私は教室のごみをまとめると、ごみ袋を1階のごみ捨て場に捨てにいった。3階の教室に戻ろうと階段を上がっている時、ふと下を見ると、孝佑も階段を上がってきていた。孝佑も上を見上げていたので、私と目が合った。孝佑はすぐに眼をそらすと、階段を上がる速度を速めた。私も、どこか恥ずかしくなって、すぐに目を反らして階段を上がった。3階に上がって振り向くと、孝佑は丁度2階と3階の踊り場あたりにいた。何か声をかけようかと一瞬思ったが、やめた。これまでほとんど話してこなかったのに、かける言葉が見つからなかったのだ。私はそのまま教室に戻った。
掃除を終えた私は、ランドセルを背負うと、下駄箱へ向かった。今日は練習がない。早いところ真っすぐ家に帰って、ゲームの続きをしよう。そんなことを考えていると、5年生の下駄箱のところに誰かいるのが見えた。――孝佑だ。
「あ……」
孝佑も私に気付いたようでこちらを見た。目が合った以上、どこかへ行くわけにもいかない。私も孝佑のいる、下駄箱に向かった。
「どこか掃除だったの?」
私は靴を履きかえながら、孝佑に問いかける。孝佑は既に靴を履き替え終えていた。
「うん。音楽室。さっき終わったところ」
「そう……」
私は、孝佑と下校の方向が一緒だということを知っていた。とはいえ、一緒なのは徒歩7~8分くらいだ。そこで、私と孝佑は方向の違う道を行くことになる。……とはいえ、7~8分、ほとんど話したことのない孝佑と一緒に帰ることは、多少抵抗があった。でも、流石に下駄箱で一緒になって、会話もしたのに、無視して帰るのは感じが悪すぎる。多分、孝佑も同じ気持ちなのだろう。だから、既に外履きへ履き替えているのに、私を待つように、ただ立っている。……私は意を決した。スニーカーを履き終え、立ち上がった。
「いこ。富士見方向でしょ?途中まで一緒に」
私は、孝佑に声をかけた。孝佑は「うん」というと、私の後をついてきた。その様子は、多少戸惑っているように見えた。
歩き始めて2分くらい。私と孝佑の間に、会話はなかった。お互い、何を話せばいいのか分からないという気まずさがあった。ただ、流石にこのまま沈黙なのは、と思い、話題が適切かは分からないが、とりあえず話を切り出した。
「こーちゃんってさ、頭いいよね。塾とか行ってるの?」
こういう頭のいい人に、この手の話題はあまりよくない。それを知っていながら、これを振るしかないなんて、かなり苦しいな。私は自分でそう思っていた。
「うん。鶴賀台の塾に行ってる」
私は「そうなんだ」と答えたが、その後結局沈黙が流れた。こうなることは目に見えていた。私の話題が悪い。どうしようと思っていると、今度は孝佑が話題を振ってきた。
「麻佑ちゃんって野球してるんだよね。たかちゃんとかと」
今度は、孝佑が私に合わせてきた。野球なら私は話しやすいけど、あまり個人的なことを話しても、孝佑は分からない。気をつけないと。
「うん。4年生からやってる」
何を話せばいいか分からず、とりあえずそこで私は止めた。
「そっか。たかちゃんが、麻佑ちゃんの話よくするから。ピッチャーなんだよね」
私は、二つ驚いた。まず、崇紘が私の話をよくするという点。崇紘は学校で私にほとんど話しかけないから、私の話題も出さないと思っていた。2つ目は、崇紘と孝佑がそんな話をするくらい仲が良かったんだという点。確かに、2人の下校の方向は一緒だが、あまり話しているイメージはなかったのだ。
「うん、そうだよ。たかちゃん、何か言ってた?」
私は、とりあえず崇紘が私のことを孝佑にどう言っているのか、探りを入れた。
「んー、むかつくけどいいピッチャーとか、そんな感じ」
なるほど。確かに言いそうだ。むかつくけどというところに、崇紘っぽさが出ている。
「俺キャッチボールもまともにできないから、凄いなと思うよ」
孝佑が続けた。孝佑が運動できないことは、体育の授業で私も散々見てきている。キャッチボールができてなくても、不思議じゃないな、と納得してしまった。
「キャッチボールくらい、練習すれば誰でもできるようになるよ」
私は、フォローを入れた。気休めではなくて、これは本当のことだ。キャッチボールは、難しいことがない。でも、孝佑は、「そうかなぁ……」と半信半疑だった。
「今度、私と一緒に練習する?」
私は言って、ハッとした。自分で言っておきながら、何故そんなことを言ったのか分からなかった。特に何も考えず、口から出た言葉だった。孝佑も驚いたようで、ちょっとの間黙っていた。
「いいの?なら、やるけど」
躊躇いながら、孝佑は答えた。気がつくと、私と孝佑が別の道に行く、その交差点まで来ていた。私たちは、そこで一度足を止めた。
「……うん。もうすぐ夏休みだし。練習のない日なら、大丈夫だよ」
私は言った以上、受けないわけにもいかなかった。もうどうにでもなれという感じだった。
「……うん、分かった。それじゃあ、また空いてる日分かったら教えるね」
孝佑はそういうと、足を進め始めた。私も、家のある左に向かって、足を進める。
「うん。それじゃ」
そう言って私は軽く右手を上げると、駆け足で横断歩道を渡り始めた。どうしてあんなことを言ったんだろう。その答えが分からないまま、私は、駆け足で歩き続けた。歩けば歩くほど、心臓の鼓動は早くなっていくのだった。