フィクション化する現実について
今から考えると、ゴーゴリ・バルザック・フローベールといった作家らのリアリズムというのは正当に機能していた。が、それを現在に持ち込むと色々な問題が起こる。しかしそれにも関わらず、今の作家はその問題を見ない。そこに現在の文学の問題がある。そういう風に考えて、リアリズムという観点から文学について考えていく事にする。
「リアリズム文学」というのをネットで調べると「現実性を重視し、写実的な手法によった文学の総称」と書いてある。「リアリズム」とは何かと考えていくだけでも一苦労なので、とりあえず、この定義を基礎に置いて考えていく事にしよう。
さて、まずゴーゴリの「外套」という作品を例として考える事にする。ゴーゴリ「外套」とはどんな作品か。
「外套」という作品では、貧しい役人が出てくる。この役人は自分の外套を新調する事もままならないほどの窮乏を極めた生活を送っている。思えば、バルザックの小説も、おそらくフランスの社会に実際にいたであろう人間の悲劇とや苦しみとかをリアリズムの路線で描いていた。
「外套」の貧しい役人は最後には幽霊となるので、リアリズムの路線は越えている…かもしれないが、まあ、今はこの点については目を瞑る事にする。どっちにしろ、今から論じる事に大きな影響は与えないだろう。
ミハイル・バフチンはドストエフスキーを論じる上で色々な宝を僕達に残していってくれた。僕はバフチンを利用して考えていく事にする。ここにゴーゴリという一人の作家がいて、これがアカーキエウィッチという貧しい役人を描くとする。貧乏役人はロシアの社会に現実に存在するであろう人物であり、それをゴーゴリは作家の視点から描いていく。
ゴーゴリという作家にとって、そしてそれを読む者にとって重要なのは、このような人物を克明に描くのに意味があるという事だ。この貧しい役人は社会の片隅にいて、なお人間悲劇を遂行している。このような人物が生まれなければならないというのが社会の悲劇であり、それを作品を通じて共同体が共有する事に意味がある。貧乏役人に涙を注ぐという事自体に、その社会そのものの問題点を明らかにする意味が存した。
さて、ここにリアリズムの基本的な路線が発生しているわけだが、現在において、同じような事をしても問題が起こる。何故かと言うと、貧しい役人アカーキエウィッチという人物が仮にいるとして、その人物は、作者の方を容易に振り向く事ができるからだ。アカーキエウィッチという人物は現在では、ただ社会に当てはめられた人物ではなく、誰が自分をそこに当てはめようとしているか、よく知っている存在である。つまり、我々の時代においてはバルザックとかフローベール、ゴーゴリのように、単純に、観察する側ーー観察される側という二項の関係が成立しない。我々、一般の人間はいつの間にか、プロレタリアートからブルジョアジーになった。我々がブルジョアになったというのは金銭だけの問題ではない。それ以上に重要なのは意識と知性のあり方だ。
この問題を一般化してみよう。そもそも、リアリズム文学が成立するのに、どのような社会事情が必要だったのか。まず、最初に、何はともあれ生活している人がいる。パリでもペテルブルグでもトーキョーでも、そこで生活している人がいる。生活し、苦しみ、あるいは恋愛をし、暴力を受け、暴力を振るい、何かをして生きている個人がいる。作家がこれとは違う場所にいる。作家は高所に立って、これらの人物を描く。この時、作家→人という風に視点は動くのであって、描かれる人物は自分を誰かが描いているとは考えない。人は社会の中を己として生きる。それを作家が別の視点を持ち出して描く。
これは現在でも、全く同じように見える。が、違うと僕は考える。というのは、今では人は既に、「作家的視点」、いわば、傍観者的視点を身に着けているからだ。ここには当然、テクノロジーや社会環境の充実も大いに意味のある事柄として現れてくる。つまる所、かつては僕らはフィクションの内部に描かれる存在だったが、今や僕達は、大衆としての生活を失い、それと共に、描く立場の視点を手に入れた。つまり、僕達はフィクションに描かれる立場からフィクションを描く立場になった。
また、それと似たような事、あるいは同じ事だが、僕達は自分達の存在そのものをフィクションと化してすらいる。これに関してはどこを見渡してもそうなっている。
例をあげるならば、最近流行りのユーチューバーなどはもちろんそうだ。彼らが、自分自身を映像の中に収めているような気がしていても、実際には、彼らは映像の中でしか存在できない架空のものへと少しずつ変貌してきている、という事が肝要に思われる。
また、「君の名は。」とも関連するが、恋愛というのもそうだ。例えば、付き合っている女が急に「海に行きたいね」とか「今度会うのは秋だね」とか、そんな事ばっかり言っていたら、僕としては心底うんざりするが、この女はリアリズムとフィクションの境界線に浮かんでいる。というのも、こうした女(たまたま女を例にしたが男も同じ)は自分の言動をどこかで見た、フィクションに合わせて行っている。ここでは既にパロディ的な要素が出ているが、これが我々の現実となった今、それをなぞる作家が自分を「リアリスト」だと考えても不思議ではない。
以前に批判した青山七恵という作家がいるが、この作家はその代表と言える。「ひとり日和」という作品で、七十過ぎのおばあさんが出てくるが、これは「年を取っても身ぎれいにして恋も忘れない素敵なおばあさん」というイメージで描かれていて、それ以上のものではない。つまり、ここでは化粧品のCMレベルの理想のおばあさん像が作品に投入されているだが、こうしたおばあさんも現実にいるであると考えられる以上、青山七恵が自分をリアリストと名乗る可能性が生まれてくる。
つまる所、我々の生活はもはや、我々が知識を持ち、我々が我々自身をフィクションの中に投げ込んだ事によって、それ自体「リアル」なものとは言えなくなった。確かに、ドラマのような恋愛をする人間は現実にいるだろう。それも、沢山いるかもしれない。だが、そのような人物を描くという事はバルザック的、ゴーゴリ的リアリズムを意味するのかというと、違う、と僕は考える。現実の人間をリアルに描くという文学の方法論は一貫して変わらない。(幻想性はこれに対する処方箋にならないと僕は考えている) だが、現実そのものが変容している以上、方法論が同じでもその意味は変わったはずだ。だから、それはかつての妥当性を失っている。そのように自分は考える。
僕達の世代はもう、生まれた時からフィクションに囲まれて生活している。様々な価値観、物語、方法論、ノウハウといった事柄が溢れていて、それに沿って生きる事が普通になっている。受験勉強を頑張って良い大学に入り、「一発逆転」の人生を送るという物語は、社会が個人に用意した物語だ。社会は、社会に適合しようとする個人を、社会にとって都合が良いという理由で支持する。受験を頑張って一発逆転する若者は現にいるだろう。だとすると、その個人を描くのはリアリズムなのか、という事が今僕が問いたい問題だ。
こうして考えていくと、フィクション化した現実を描くという事はそもそもなんだろうか。今の作家が放っておくと、軒並み、エンタメ、物語志向に流れていくのと関連があるように思える。また、青山七恵のようなリアリズム路線の「純文学作家」が実質的に、ライトノベルや異世界小説とさほど差がないという原因もここにあるように見える。現実そのものがフィクション化しているのであれば、それを描く事はリアリズムであると共にファンタジーとなる。一方で、ファンタジーによって、現実における鬱積した感情を爆発させたいというのはまた新しいファンタジーを作る事になるが、これは現実において「理想的な恋愛」をフィクションになぞってやろうとするのと大差ない。
問題を整理するならば、今言われている「リア充」VS「非リア充」というのは、実は同じものに統一可能だという事になる。つまり、「リア充」は現実そのものをフィクション化しようとし、「非リア充」はそれをフィクションの世界で行おうとする。つまり、どちらもフィクションの世界で生きている事に変わりはない。
ここまで来ると、世界全体がフィクションで覆われているという話になってしまう。答えとしては僕はーーイエス、まさしくそうだと感じている。ネットを通じて、人々の意見、価値観、物語があらゆる現実に浸透した結果、僕らは改変された現実こそが現実の全てだと視認するようになった。
しかし、そうなるとそもそも描くべき現実は今存在するのか。一体、何を描くべきなのか? という事が疑問となる。
例えば、モダニズム、あるいは印象派から抽象画、象徴派、ポストモダンといった現代の芸術思潮はもっぱら、孤立し、独自な存在となった芸術家その人からあらゆる芸術的要素を吸い出し、それを画布に塗りつける(表現する)ものとなった。そこからダリのような変種も生まれてきたが、芸術家がそもそも独創的な変人、変奇な人物というのは歴史を通じた普遍的概念ではなく、現代に特有の思想だと思う。神が消えた今、芸術家は孤立し、自分の内面を重視する事になった。そこからあらゆる芸術的要素が吸い出され、芸術作品として結晶する事になったが、同時に、それは芸術家それ自体を痩せ細らせた。ポロックの絵画、マーク・ロスコの絵画はどちらも一流のものだが、そこには僕らの袋小路があるように見えてならない。片方は自殺に近い事故死、もう片方は本当に自殺している。
外界が描くべき価値を失った今、芸術家はそもそも何を描けばいいのかというのは本質的に、現代の真摯なアーティストに強いる苦しい問題に見える。この問題を無視して、芸術家っぽい、アーティストっぽい人になる道はいくらでもあるが、根本的には僕らはどうすればいいか分かっていない。
こう考えていくと、絶望しかないようにも見える。実際、ここ最近の流行りのアーティストや作家だけが、フィクションの全てだとしたら、僕にも希望の持ちようがないわけだが、過去に目を向けると、ドストエフスキーとかバルザック、セルバンテスのような存在が見つかる以上、この問題を安易に妥協するわけにはいかない。これらの優れた作家は、ただ世に都合の良い嘘をついた作家ではなかった。にも関わらず、それらの作家の作品が残っているという事実は僕達が、僕達にとって都合の良い夢だけを望んでいるわけではないという事を証明する。いや、そうとでも信じなければやっていけないだろう。
この文章では現実とフィクションの問題について書いたが、この実践的解決は、現に小説を書く事によって証明しようと考えている。これに対する答えはこのようなエッセイで書かず(書くかもしれないけど)、基本的にはただ黙って小説を書く事によって実践するつもりである。