【彼女は懇願した、羨望】
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有名女学院の美人生徒の死という、センセーショナルな事件はマスコミの格好の餌食となり、連日報道されていた。
そんな中、当たり前ではあるが、大学部に進級した楢木野麻梨香が小須田羽菜を訪ねて、高等部の教室までやってきた。
彼女も嘉手納真央子の親友として、警察に話を聞かれたと風の便りで聞いていた。
楢木野麻梨香が小須田羽菜の元へ顔を出しに来たのは、嘉手納真央子の事件の一報が学生達の間に駆け巡ってからしばらく経った頃のことだったので、恐らく、楢木野麻梨香は彼女なりに小須田羽菜に気を使ったのだろう。
引き戸の向こうに楢木野麻梨香の姿を見つけたクラスメイト達はざわめいたという。
しかし、少しの間、扉の前に立ち尽くし、席に着く小須田羽菜を見つめていた彼女の物憂げな姿に、自分から声をかける者は一つもなかったという。
小須田羽菜はその視線に気付きながらも、決してそちらを一瞥することなく、机上の小説の文字を辿った。
目が滑り、読書どころではない心持ちではあったが、それでも楢木野麻梨香と目を合わせることに比べたら、入ってこない字列を眺めることの方がとんと楽だ。
けれど、楢木野麻梨香もここまで来て引き返すような真似はしない。
クラスメイト達の注目を一身に浴び、一歩、また一歩と彼女に歩み寄る。
「……真央子が死んだわ」
第一声はそれだった。
誰のものかわからない吐息が静寂に一つ浮かんでは消えた。
「……存知ております」
「警察に話を聞かれた。自殺だそうね」
「……私も、そのように聞かされました」
受け答えこそするものの、目線は未だ楢木野麻梨香の姿を捉えようとはしない。
その表情を間近で見上げることに、恐怖すら覚えていたという。
「遺書もあったらしいわ。病に蝕まれ、醜い姿で死に絶えていく前に、いっそ美しい姿のままで死に行きたいと……」
「……嘉手納先輩らしい、お言葉ですね」
「あの字は紛れもなく真央子のものだったし、文面だって、笑えるくらいに彼女のものだったわ。それに真央子、ずっと言ってたの。『桜が咲いたら、私は死ぬの』、『早く桜が迎えに来てくれないかしら』って……」
受け流していた言葉の数々。
嘉手納真央子なら、その程度の冗談なら笑顔で言ってのけるはずだ。
だけど、あれが全て本心だったなら?
受け流さずにきちんと止めて、思い直させていれば、我が親友は死なずに済んだのではないだろうか?
楢木野麻梨香の心に一抹の、否、一抹どころではない不安や後悔の念が渦巻いていた。
それに察せない小須田羽菜ではない。
「……楢木野先輩。お話があります。ここでは出来かねます。放課後、二人で、二人きりで話せる場を設けたいのですが」
その行為は永遠を犯すものだったのかもしれない。
けれど、小須田羽菜にはそうする他なかった。
どちらかのためなら、どちらかを疎かにすることなど、彼女の良心が許さないのだ。
「それは、真央子に関係するもの?」
「……あるいは、私に」
「そう。わかったわ。放課後、この教室に迎えに来るわ。サークル活動は休むから。だから貴女も部活動は休みなさい」
「……はい」
放課後、楢木野麻梨香が自らの元を訪ねるまで再び読書に勤しもうとスピンの挟まったページを開いたが、待ち人は飛ぶようにしてすぐに現れた。
数ページ進んだ先にスピンを挟み直す。
「どこで話されますか?」
「病院に行きましょう。今日は遊戯室が空いているわ。そこなら、他人に漏れ聞こえることは万が一にもないわ」
「わかりました」
優しい想い出に溢れ返った遊戯室が、今では冷たく寂しい箱庭に思われたという。久方振りに顔を合わせた諸富は少しふっくらとした印象を受けたといい、いくつか見知らぬ子供の顔を見たという。
同じように、見知った顔がいくつかなかったのが気がかりだった。
退院したのか。はたまた、死んだのか。
遊戯室の背の低い椅子に二人で並んで腰掛けた。窓から射す明かりのおかげで、前に来たときより随分と暖かではあったが、やはり冷たさはなくならない。
「……羽菜」
促すように名前を呼ばれ、小須田羽菜は一息飲んだ。
「何から話しましょうか。そうですね、嘉手納先輩の死について……。最も重要なことは、嘉手納先輩が自殺ではなかったということです。私が殺しました。あの夜、嘉手納先輩の背中を押したのは私です。それは、安易な比喩表現でもなく実に現実的な意味でです。私は嘉手納先輩を突き落としました」
「羽菜っ! 貴女、なんてこと……」
「そうするしかなかったのです。後悔はありません。幸せですらあります」
「……ねえ、もしかしたら、真央子が頼んだの? 自分を殺せと」
「……ええ。彼女の言う桜とは、恐らくは私のことだったのではないかと思います。彼女は、決して生易しい人ではありませんでした。私に自分の存在を一生涯にわたって、痛みの伴う形で、刻み付けておきたいと望んでおられたのです。早逝されてしまわれる運命だったからこそ、彼女はその死さえも自らのために使われたのです。一生に一度の大仕事だったでしょう。あるいは、大芝居だったのか……」
「……そう」
長い沈黙の後、無理矢理に絞り出すようにして、楢木野麻梨香はやっと声を出した。けれど、それ以降の言葉は見つからなかった。
小須田羽菜にも、その沈黙の理由は痛いほど理解ができた。だが、どうにかする気の利いたセリフも出てこない。
「……真央子は、幸せだったのね」
掛け時計の短針が九十度ほど進んだ頃に、楢木野麻梨香は息を吐くようにか細く言った。
「私は過去にあの子を苦しめたことがあるのよ。その後ろ暗さはずっとあったわ。そして、私が貴女を好ましく思い始めると、真央子も貴女を見つめていることに気が付かされた。皮肉だったわ。けれどもね、私は欲しいものは手に入れたい性質なの。手段こそ問えど、叶うならなんでもこの手中に収めたいと願うわ。だから、相手が真央子だろうと気にも留めなかった。でももう無理ね。こんな方法で羽菜を手に入れるとは思わなかったわ。貴女が……天女のような清い性質を持つ貴女が、私の腕の中で真央子のことを忘れることが一瞬でもできるとは思えないもの。……そう、そうね。真央子は勝ったのよ……」
楢木野麻梨香の物憂げなその声は、あるいは安堵しているようにも思われたという。
死してなお、こんなにも二人の女の心に絡みついて離れない、蛇のような女 嘉手納真央子。それは、彼女の願いが果たされた証でもある。
永遠に、離れることはない。
「……嘉手納先輩は、遺書を残しておられました。警察署で話を聞かれた際、その文面を読ませていただきましたが、そこには、自分を私に殺させたという旨の言葉は一つもなかったように見受けました。死の前にも、『小須田さんは犯罪者ではない』と仰られていました。だとするならば、私が前科者になることなど彼女の真意ではないのだと思います。虫のいい話でしょう。清いと評された私はもうどこにもいないのでしょう。けれど私は、どこまででも彼女の望みを叶えていたい。文字通り、命をかけたその願いを私は踏み躙りたくはないのです。故に、私は……」
「言わんとしていることに大体の察しはつくわ。羽菜……私もその意見には同意よ。賛成。共感だわ。真央子はそんなこと望みはしないでしょうし、そんな道を選んでしまう貴女を軽蔑すらするでしょうね。『貴女は私と道徳、どちらが大切?』なんて笑ってね。……だったならね、お願いよ。私の願いも叶えて頂戴、羽菜。こんなにも愛した人は貴女が初めてよ。どうか、最後の人にして頂戴」
「楢木野、先輩……?」
言わんとしていることに大体の察しはついた。楢木野麻梨香の目に迷いはないように思えた。あるのは、一抹の不安と罪悪感だろうか。それは全て小須田羽菜に対して向けられたものであろう。
「貴女は、私にまた人を殺せというのですか?」
「そうね。そうよ」
「どうして」
「羨ましいのね。真央子が。羽菜が。なんだか私だけ仲間外れみたいなんだもん。貴女達の目に見えない糸が憎い」
「……先輩……」
「お願いよ……」
小須田羽菜の小さな手を取り、楢木野麻梨香は自分の頬に押し当てた。
暖かな温もりがじんわりと伝わる。
「……殺して頂戴。じゃなかったら、私上手く生きていけない」
「……そんなこと」
「真央子にはできて、私にはできないの? 私のことが嫌い?」
「いえ! そんなことは、全然!」
「だったらできるでしょう? 嘘じゃないって、証明してみて?」
楢木野麻梨香は、嘉手納真央子と同じ死に方を所望した。
それは、小須田羽菜に嘉手納真央子と自身を同一視させるためか。
はたまた、自身が嘉手納真央子と一体化するためなのか。
桜の散る前に。
嘉手納真央子と同じ場所で、同じ風な夜の中、同じように突き落としてと。
「人間、いつか死ぬ身よ。だったら貴女に殺されたいのよ。真央子だって、そう言ったんでしょう。それが真央子だものね。私も、貴女達のようになりたいのよ。ねえ、どうか、どうか羽菜。私を、殺しなさい……」
嘉手納真央子のことがあるからだろう。
もう、驚かなくなった。
漠然と、ただ、『ああ、また私は人を殺すのだ』と思った。
『また、誰かの願いを叶えるのだ』と。
嘉手納真央子を愛していた。
楢木野麻梨香にだって好意はある。
好ましい相手をこの手にかけるというのは、その深い深い情愛をこの世に吐き出すための手段に思われてならなくなっていた。
小須田羽菜が、嘉手納真央子同様に楢木野麻梨香をあの場所から突き落とすことは、できないことではなかった。
「……それで、貴女は救われますか」
「ええ、勿論よ。全てを、これからの未来を差し出しても、私は貴女に取り込まれたい。その心臓の奥底に、トラウマとして埋め込まれたい。真央子の隣に、私の存在を刻みつけておきたい。……怖いわ。真央子なら怖がらなかったでしょうけどね。私は怖い。痛いよね、きっと。でも、その痛みが私を救う。やって?」
執行は早かった。
楢木野麻梨香が随分と熱心に小須田羽菜を急かしたという。
嘉手納真央子と同じ桜に包まれたいと言って聞かなかった。
嘉手納真央子の死から、およそ二週間。
あの夜に比べて、桜の花弁はとんと少なくなったように見受けた。
けれど、通り抜ける冷たい夜風に、嘉手納真央子の長い黒髪から香り立つ甘い匂いが混ざっているような気がしてならなかったという。
「……ねえ、羽菜。真央子はここにどうして立っていたの? どちらを向いていたの? ……教えて?」
「そこの……柵を乗り越えた先に、向こうを向いて。私に背を向けておられました」
「そう。……こう? こんな感じ?」
柵を乗り越え、夜空の方を向いた。
声は嬉々としていて、笑みも見える。
「ええ、そんな感じです。それから、両手を広げて……飛び立つような……。まるで広げられた手が、天使の羽根のように見えて……」
「……こうかしら?」
「そうです。それで……私が、こう……背中に手を添えて……」
小須田羽菜が楢木野麻梨香の背に両手を添えた。
力をつけて、押し出してしまえば、楢木野麻梨香は嘉手納真央子と同じように、桜並木に真っ逆さまだろう。
「……真央子は、何か言ったの?」
「……『さあ、突き落として……』と。『貴女を、愛していたわ』と……」
「ふーん。そう。そんなことを。それが最期の言葉? 在り来たりね」
「……けれど、嘉手納先輩の言葉ですから。私にとっては、この上なく……」
楢木野麻梨香は微笑した。
寂しげに伏せられた瞳には、どこか秘密めいた予感を感じたという。
「……楢木野先輩? どうかされましたか? やっぱり、こんなこと、やめ───」
「楽しいわ。凄く。馬鹿みたいよね。……それで? 貴女は真央子のその言葉を聞いて、その手を突き出したの?」
「……はい」
「どんな気持ちで?」
「清々しかったです。まるで朝日に照らされて深呼吸したかのように……。それまでの恐怖や不安なんて、どこ吹く風で」
「今は?」
「……えっと、今は……少し、まだ迷いが。こんなこと不謹慎ですけれど、嘉手納先輩は放っておいてもいつか亡くなられていた命でした。しかし、楢木野先輩は……まだ」
「馬鹿ね。私だって明日死ぬかもしれないのよ? 生きているということは、刻々と死へのカウントダウンをしているということ。何故私が明日死なないと思うの? いつか死ぬんだから。さっさと殺して」
「……はい」
「そうだ! その前に……」
振り向きざまに、楢木野麻梨香は小須田羽菜にキスをした。
少しの間、唇を重ねたまま動かなくなる。突然のことに驚く小須田羽菜をよそに、唇を離した楢木野麻梨香は不敵に笑って見せた。
「……貰ったわ。これでもう、私のもの」
「楢木野、先輩……」
「さあ! やりたいことは全てやったわ。なんの後悔もない。この世界に未練はないわ! 落としなさい、羽菜。それで私の願いは全て果たされる。全部、私の思い通りよ!」
舞台女優のように腹から声を出して、満面の笑みを湛える。
狭く不安定な柵の外で、くるりと一回転してスカートを翻してみせると、また小須田羽菜に背を向け、夜空に両手を広げて立った。
「……羽菜」
急かすように言う。
「……はい」
小須田羽菜は再度、楢木野麻梨香の背に手を合わせた。
楢木野麻梨香の高鳴る心臓の音が、自分の掌まで届きそうな気がした。
しかし、中々実行に移さない小須田羽菜。見兼ねた楢木野麻梨香が、前触れなく「……五」と呟いた。
「今から、私がカウントダウンをするわ。零で貴女が私を突き落とさなければ、私は自分から飛び降りる。でも私は、羽菜に殺されたい。……できるわね?」
「……わかりました」
「よし、良い子ね。じゃあ、もう一度、五から始めるわね……」
小須田羽菜は、一つ唾を飲み込んだ。
「……五。……四。……三。……二。……一……」
少しカウントダウンの間が長くなった気がした。
楢木野麻梨香にも、人間的な一面があるのだと感じた。
「……零……」
そうして小須田羽菜は、罪を増やす。
楢木野麻梨香が突き落とされた。
その間際、小さな声で振り絞るように、「……悪かったわね」と告げた気がしたのは、闇夜の錯覚だったのだろうか。
小須田羽菜は、彼女の亡骸を確認したという。
嘉手納真央子の際にはそうしなかったのだが、楢木野麻梨香の時だけそうしたのは、自分でもよくわからないらしい。
同じように楢木野麻梨香は、桜の木の枝に貫かれていた。
嘉手納真央子は、背から入って腹から抜けていた。
楢木野麻梨香は、腹から入って背から抜けている。
目が閉じられた死に顔が、桜の木の下に立つ小須田羽菜の方を向いている。
「……先輩。私は、正しいことをしたんですよね。貴女を、救いましたよね?」
二人の女を手にかけたにしては、美しいまでに真っ白なその掌を。
小須田羽菜は、降ってきた花弁を掴んで握った。
偶然にもそれは、二枚あった。
握り潰された花弁は、茶色く変色していた。