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弾ける桜に生きた人々  作者: 鷺ノ森思織
4/6

【彼女は満たされた、決行】


嘉手納真央子は病床にて告げる。

「桜が咲いたら、私は死ぬ」


楢木野麻梨香は嘲笑う。

「病状は悪いかもしれないけれど、今のように治療していれば二十歳前後までは永らえる命よ。きちんと最後まで生き抜きなさい」


本を閉じて、机に置いた。

「いいえ。約束したのよ」


膝にかかるブランケットの裾を叩いた。

「あら、死神にでも会ったというの?」


曇天から降り注ぎ、容赦なく窓に叩き付けられる雨粒が伝い落ちるのを見た。

「いいえ。……天使よ」


瞳にかかる前髪を指先で手直しする。

「最近何か変わったね、真央子。何か希望を見出したよう」


腹の前で重ねられた手の上下を組み替える。

「そうかしら。それより小須田さんの近況報告がまだなされていないのだけれど」


楢木野麻梨香は微笑んだ。

「待ちきれないのね〜。いいわ、話してあげる。嫉妬しても知らないわよ?」


嘉手納真央子も微笑んだ。

「ええ、どうぞ好きなだけお話しになって。嫉妬で死ぬようなことはないわ。目に見えないもので殺されるほどヤワじゃないもの」


いつもの光景。一月の始め。

寒さはあの日よりも深くなり、終わりが来ないのではないかという錯覚さえ起こしそうになるほど。

この頃の嘉手納真央子にはある口癖があったという。

「桜が私を連れていくの」

「早く桜が迎えに来てくれないかしら」

「私が死ぬのは、桜が咲いた時よ」

人はそれを戯言として受け止めた。

馬鹿にした言葉を吹きかけても、彼女は微動だにせず、ただ微笑むばかりで。

そして、いくら注意をしてもその台詞を言わなくなることはなかった。

「桜は綺麗よね」

「そうね。私は向日葵の方が好きだけど。太陽に向かって大笑いしている風で」

「麻梨香らしいわね。私も向日葵は好きよ。だけどあれは、死に様が惨めよ。枯れて項垂れて、色が変わるまで立ち続けて。その点、桜は綺麗よね」

「はいはい、そういうことにしときましょう。桜は綺麗よ!」

花の死に様なんて気にかけたことなんてない。気付けばそこに咲いているし、咲いているのなら綺麗ねと感想を述べる。咲いていなければ、咲いていないのねなんて残念がったりもしないで、そもそも気にも留めない。

枯れた花を見て、可哀想なんて思わなければ、無論美しいとも思わない。というより、花は咲いてこそ花であり、枯れた花を花と呼べるものかもまた疑問である。

花の死に様を美しいか否かで分ける嘉手納真央子は、故に嘉手納真央子なのであろう。



一月も終わりが近付いた頃には、私は小須田羽菜と深い話ができるようになっていた。それは、嘉手納真央子と彼女の会話に比べれば、随分と粗末なものだったけれど、私は心臓に伝う血管の一本一本まで彼女に見せびらかすような心持ちでいた。

「ねえ、羽菜ちゃん。風の便りに聞いたのだけれど、嘉手納先輩の先が短いという話は本当なのかしら」

嘉手納真央子がいなくなった。

一部では、引越しただの。一部では、駆け落ちしただの。また一部ではそう、不治の病に罹り、病床に伏しているだの。様々ないわれをしていた。

私はある目的のため、その真実を知らなければならなかった。

もしただの引っ越しだったならば。

もし事実駆け落ちしていたのであれば。

もし今現在も寝台の上で苦しんでいるのならば。

多様なifのうち、選ばれたanswerによっては、私の行動も変わってくるからだ。

「羽菜ちゃんになら、嘉手納先輩、本当のことを話しているんじゃないかと思うの。私如きが申し訳ないんだけれど、お願いどうか。聞きたいのよ、嘉手納先輩の今を」

私の懇願に、小須田羽菜は戸惑いの色を見せる。

「どうしてそんなにも? 思織先輩って嘉手納先輩と仲が良いんでしたっけ」

無理もない。私と嘉手納先輩は満足に二人で話したことがない。

「……いいわ。羽菜ちゃんになら、話す。私、私ね、嘉手納先輩が好きだったのよ。ずっと、ずっとね。それはもうずっと。ずっとよ、ずっと。貴女がこの部室に来るようになる前から、ずーっと。私はただ嘉手納真央子を見ていた。けれど、貴女が来て、嘉手納先輩はみるみる貴女を好んでいかれたわ。それは他人が見ても明らかだった。……ううん、違うのよ羽菜ちゃん。貴女のその顔、まるで私があなたを責めているようだけれど、本当に違うのよ、断じて。そう、一切。私にそんな権利、元より持たされてはいないのだけれどもね、私は貴女だから許したの。許そうと思えたの。嘉手納先輩の心を持ち去るのが貴女ならいいと思ったのよ。以来、私は息を殺して二人を見守ることにした。二人というのは無論、羽菜ちゃんと嘉手納先輩のことね。……でもね、だからと言って気持ちがなくなるわけじゃないのよ」

小須田羽菜はその点、察しが良かった。

一瞬はたとした顔つきをしたが、すぐに力なく頬を緩めた。

「楢木野クリニックです。彼女はそこに入院しています。もし宜しければ、嘉手納先輩に楢木野先輩の方から貴女が訪問することを自然にお教えしておくこともできますけど……どうされますか?」

その小さな顔をことんと斜めに傾けて、私を見上げる。

私は思索する暇もなく、その申し入れを断った。

「そうですか」

私は心に決めていた。嘉手納真央子に想いを告げると。何年にもわたって蓄え続けた、人知れないこの恋心を。

しかし、目的が目的故に、私は中々楢木野クリニックへ足を向けることができなかった。

決意が揺らぐだとかそんなことはないのだけれど、ふられるのがわかっていて告白するというのは、やはり心苦しい。

幾月も幾年も、私はタイミングというやつを何かと理由をつけて見逃してきた。

そんな性質を持つ私は、此度もまだ一歩を踏み出し兼ねている。

小須田羽菜より、我が想い人の居場所を聞いたあの日より早いもので五日が経った頃、うじうじとその場で足踏みを繰り返していた私の弱々しい背中を押したのは、思いも寄らぬ人であった。


「……鷺ノ森思織というのは、この教室におられる? 用があるのだけれど」


二月二日、水曜日。午前八時十分過ぎ。

一人の女生徒が二年一組の扉を叩いた。

楢木野麻梨香、その人だった。

騒めく教室。皆口々にその端麗な容姿について褒め称える言葉を吐いた。

斯く言う私も、久方振りに目にしたその姿に惚れ惚れしたものだ。

だが、それを上回る不信感。

果たして彼女は私に何の用があるのかと。小須田羽菜か嘉手納真央子に関連したことであるのは、わかっている。

問題は内容。批判的なものか肯定的なものか。私は彼女に責められるのではないかと、気が気でなかった。

「鷺ノ森は、窓際から二列目の前から三番目の席に座るあの子です」

素性も深く知らないクラスメイトが、あたかも私と親友同士ですと言いたげな態度で楢木野麻梨香にそう教えた。

私はつい、彼女から目を逸らしてしまった。それでも、彼女の視線が私を向いていることを全身で感じながら、徐々に近付く足音に耳を澄ませた。

「鷺ノ森さん、鷺ノ森さん!」

彼女の問いかけに自分では返事をしたつもりだったのだけれど、その声はあまりに小さく彼女の耳には届かなかったようで。

「ねえ、シカトは趣味が悪いんじゃない」

悪態をつかれてしまった。

私は密かな反抗のつもりで、少々の怒りに彩られた楢木野麻梨香の顔を見上げた。

「……聞こえてるじゃない」

「無視したつもりはありませんでした。声が小さいのは、私の仕様です」

楢木野麻梨香はクエスチョンマークを頭の上に浮かべる。

「まあいいわ」と、私の机の上に手を突くと、耳に口元を寄せた。

好ましいとは思わない相手とはいえ、美人に頬を寄せられればどきりとするものだ。不可抗力であり、致し方ない。

悪いものがあるとすれば、それこそ彼女の方にある。私は断じて揺らぎはしない。

「真央子が待ってる」

しかし、しかしだ。この言葉には揺らがざるを得ない。その声色には好奇心や嫌悪感はなく、あるのは淡々とした寂しさだけ。そのような印象を受けた。

「……何のつもりです」

「だから真央子が待ってるのよ。貴女の訪問を」

「どうして」

「羽菜から聞いたわ。部活動の先輩が真央子の元を訪れるかもしれない。その時は嫌な態度を取らずにどうか二人きりにしてやってほしいと。それって貴女のことでしょう? あの子、あれでお節介なのよ。自分が世話焼かれるのは嫌うくせにね。貴女の名前は出しはしなかったから、間違えていたらそう言って頂戴」

腰に手をやり、下手に出るつもりはまるでない高圧的な態度。それは恐らく、楢木野麻梨香の生来の性質で、あえてだとかわざとだとかではないんだろう。

言うならそれも癖の一つ。

お嬢様気質が身に染みて離れないのだ。

「……私です。他に私のような行動をしている人がいなければの話ですが」

「そう、やっぱり。前々から真央子に対する貴女の視線に気付いてはいたわ。まあ、他にもたくさんいたからそれだけではわからなかったけど……、最近よく羽菜と二人で話しているのを見かけたから。羽菜は人当たりは良いけど、中々深くまで関わろうとはしないから、彼女が誰かといるのが珍しくてね」

「そうですか。名前はどうやって?」

「真央子に聞いた。二年生の美術部員で髪の短い柔らかい雰囲気の子に心当たりはないかってね。それを踏まえて、小須田羽菜と親しくなりそうな子であまり多くと群れない子と問うたわ。そしたら真央子が『それなら、鷺ノ森思織さんじゃないか』って。有名なのね」

驚いた。私は決して目立つ方ではないし、彼女の言うように有名ということもない。小須田羽菜が名前を覚えていてくれた時にも大層喜んだが、よもや想い人当人にも覚えていてもらえるとは。

はたまた、小須田羽菜と嘉手納真央子の間で私の話が出たことでもあるというのか。

高鳴る鼓動を抑えつつ、私はあくまで冷静を演じた。

「別に、そんなことは。それより貴女の方こそ。さっきから教室内の視線が片目残らずこちらを向いていて、気が落ち着かない」

「あら、貴女を見てるんじゃないの?」

「まさか。どう考えても貴女の方です」

「そうなの。……まあ、今はそんなことどうでもいいのよ。それで? 結局貴女、真央子の所に来るの、来ないの?」

「貴女に関係ない」

「でも、気になるんだもの。首突っ込みたいの」

「……小須田さんが絡んでるから?」

「そう。あの子も貴女のことを気にかけてる。私の勘だから間違いだったら怒ってくれて構わないんだけれど、告白するんでしょう、真央子に」

小須田羽菜は本当に私が訪ねるかもしれないということ以外、何も誰にも話してはいないのだろうか。だとすれば、彼女は果たしてどこまで嘉手納真央子に見合う女性であるのだろう。

「……貴女のように奔放ならわからない感情かもしれないけれど、拒絶されるのがわかっていて心の中を露呈するのは覚悟がいることなのです。私にはそれがまだ足らない。ですが、そうですね……当人にも私のいずれの訪問が耳に入っているのなら急ぎます、なるたけ。でも、でも……もう少し、ほんの少しでいい。待って……」


『愛している』

簡単な話だ。たった数文字。言葉にすれば数十秒とかからない。けれど、それだけの話なら、誰もがそんなものにやきもきしたりなんかしないはずだ。

だから皆、恋だ愛だとすったもんだしたがるんだろう。


私にその覚悟が生まれたのは、楢木野麻梨香の突然の訪問より、二週間後のことだった。

二週間後という数字が、果たして早いのか遅いのかわからなかったが、私としてはよくこれだけの時間で覚悟を決めたものだと褒めてやりたい。

小須田羽菜から事前に聞いていた通りの場所に、嘉手納真央子の姿はあった。

元より白く細い陶器のような人間である彼女だったが、その特徴はより色濃く表れている。

真一文字の眉が浮き出て見えるくらいには、白く澄んだ肌色をしていた。

飾り気のない病院服に身を包み、髪も梳かしただけで手は付けられていない様子。それでもなお美しいと感じることができるのは、やはり彼女の美貌の所為だ。

今となっては、その弱弱しい姿にこそ神秘を覚える始末。

儚さとは美しさであると、わかりきっていたことを再度改めて認識させられた。

嘉手納真央子は、対して会話もしたことがない私のことを、快く病室に迎え入れてくれた。

ニコリと微笑みかけられ、私はどきりとする。

どうやら、楢木野麻梨香は不在のようでわざわざ席を外してもらう手間が省けた。嘉手納真央子は、私に椅子に座ることを勧めたので、それに従った。

「……鷺ノ森さん。来てくれてありがとう。驚いたでしょう? こんな惨めな姿」

「いえ。それよりも、貴女が私のことを存知ていて下さったことに驚きました。名前まで覚えていて下さるなんて、恐れ多くて……。私なんてただの一後輩だというのに……嘉手納先輩は全部員の名前と顔をお覚えで?」

「いいえ。そんなことはないわ。知っておきたいと思った人だけ覚えているわ」

……狡い。そんな思わせぶりな台詞を吐いて、私がどれだけ苦しめられるかわかっているのだろうか。否、わかっているのだ。憎らしいけれど。わかっているからこそ、嘉手納真央子なのだ。

「……何故、私のことを覚えたいと思ったのですか?」

「小須田さんと親しげに話している場面を目にしたことがあったからよ」

つらつらと。悪気なく、私の心臓を鷲掴みにしていく。

彼女は、愛情で私を殺すのだ。

「小須田さん、ですか……」

それは私を知りたいとは言わない。

「鷺ノ森さんの絵は色彩が寂しいものが多かったわね。特にいつも青を好む。……私は好きよ、貴女の絵。何人描いていても、まるで全員独りぼっち。誰かを見ているようだわ」

「……嘉手納先輩。今日は、絵の話をしに来たのではありません」

「……じゃあ何の話かしら。進路? それとも、友人関係? ……ああ、家族関係かしら」

見え透いた冗談を並べる。

私の恋心に、もしかすると随分と前から気づいていたのかも知れない。この人のことだから。私自身が自覚するより前から気づいていたとしても、何の不思議もないし、もしそうなのだとしたら、私はさらに彼女を好きになるだろう。

「嘉手納先輩……貴女は、小須田羽菜さんが好きですか?」

「……好きよ」

「そうですか。では、小須田さんは嘉手納先輩のことが好きですか?」

「……そうね。……好きよ」

「そう……。それを聞いて安心しました。嘉手納先輩、私は貴女のことが好きです。愛と呼んでもいい。それも無償の。対価がないとわかっていて、何年も想ってきた。終わらせたかったのです。いつか、この気持ちを外に吐き出さなければ、心臓のそばで腐り果ててしまうと感じていたから。この恋心は、綺麗なままで最期を迎えたかった。……嘉手納先輩。変なことを言います。私は貴女が好きだけど、私と幸せになって欲しいとは思わない。貴女の隣にいるのが私だとは思わない。……先輩。どうか、どうか貴女の隣には、小須田羽菜さんを置いてください。そんなことを決める権利なんた持ち合わせていないけれど、一支持者の意見です。貴女の隣には小須田さんが似合う。小須田さんの隣にも貴女が似合う。どうか、楢木野先輩に譲らないで……」

嘉手納真央子は笑う。

「譲るつもりなんて、 毛頭ないわ。私も小須田さんの隣が似合うのは、この私しかいないと確信しているもの。貴女に言われるまでもないわ」

「流石です、先輩」

「こういう私がお好きなんでしょう?」

「そうです。先輩はずっと、先輩のままでいてください。……愛していますよ、人知れず」

石だと思っていた。

大きな、岩のような。尖っていたり、不可解な形をしていたり。

いつも喉のどこかに痞えて、外の世界に出ることを拒み続けていた。

だけどいざ出してみればどうだろう。

それは鮮やかな色をした小さな飴玉に他ならなかった。甘くて、どこか懐かしい、ただの飴玉に他ならなかった。

私が石だと思ったいたものはなんだったのか。恐らくそれは、自尊心だったと私は思う。



その年、桜が咲いたのは三月二十九日のことだった。

嘉手納真央子は笑い、小須田羽菜は戸惑い、楢木野麻梨香は気にも留めない。

冬が終わり、春が来た。

嘉手納真央子の、死期が来た。

『私は小須田さんに殺されたい』

雪が消えた。

早いのか、遅いのか。よくわからないけれど、多分早い。

私にとっても、小須田羽菜にとっても、それの到来は早いもので、嘉手納真央子には待ちに待ったものだったのかもしれない。


その日、嘉手納真央子は楢木野麻梨香に小須田羽菜を病室に誘うよう頼んだ。

それを断る理由のない楢木野麻梨香は託されたままの言葉を小須田羽菜に告げる。

「羽菜。真央子がね、今日病院に来いってさ。どうやら私は部外者にされるみたいだわ。二人きりにしてほしいって……。ああ、それから、『桜が咲いたわね』って伝えてくれって。『紅葉狩りの約束が流れたから、花見にしましょうか』って……」

小須田羽菜は後ろに組んだ手に力を込めた。彼女のその言葉が何を意味するかは知っている。

桜の開花は死刑宣告。

花見の誘いは罪への誘い。

覚悟を決めるだけの時間は有にあっても、覚悟を決めるだけの度量は何処にもない。

「……羽菜? どうしたの?」

「いえ、何も。大丈夫です……。あの、でも……私、今日は……」

「行けない?」

小さく頷いた。

あの日、あの時、『貴女を殺してあげる』なんて馬鹿げたことをほざいた時。

小須田羽菜には自信があったそうだ。

私は彼女を殺せるはずだと。

彼女との痛みを伴う永遠を、胸を抉るように刻み付けるんだと。

「真央子が呼んでるのに?」

「ごめんなさい……体調が優れなくて」

いざ目の前に死が置かれると、それにひれ伏してしまう気持ちはわかる。

自分が誰かの命を奪うなど、考えても怖いことだ。常人であるならば。

私は私自身を常人だと思っているし、だからこそ誰かを殺そうなんて考えもしない。

そして小須田羽菜もまた自らを常人であると誇った。しかしそれでも小須田羽菜は、人を殺すのだ。

自制心に阻まれさえしたものの、それでも彼女は人を殺す。嘉手納真央子を殺す。愛する人と永遠になろうとする。

私は可哀想だと思った。

それを永遠だと信じてやまない小須田羽菜を、嘉手納真央子を。

そうする以外に永遠を見出せない哀れな彼女達に、恐怖すら覚えた。


この日から三日後。

事は決行される。



「夢のようだわ」と彼女は言った。

悪夢のような春の夜、寂しげな月に見守られた二人は、町が一望できる高台を訪れていた。

1メートルほどの木柵から身を乗り出して下を覗き込むと、浅い川に沿って遊歩道が真横に続く。それを象るように桜の木が突っ立っている。

この場所を選んだのは、嘉手納真央子だった。自分が一生を終えるのは、この公園がいいと望んだ。

「遺書は書いたわ。今朝、自宅宛で投函してきた。明日になれば、じきに皆、私の死の真相を知るわ。……大丈夫よ、貴女は罪にならない。むしろ誰かの願いを叶えたのよ。褒めて讃えられるべきだわ。そんな旨も書いておいたから」

自殺幇助というものがある。

だが、これは自殺ではない。

けれど、殺人でもない。

「嘉手納先輩……最期に何か、しておきたいことはありませんか。今日は特別です。私が何でも叶えてあげます」

小須田羽菜は、事を決行する直前まで悩んでいたという。

迷い、揺らぎ、逃げ出すタイミングを窺いすらしたそうだ。

しかしそんなこと、嘉手納真央子が許すだろうか。

「……小須田さん、怖いのね。わかるわよ。頼まれたとはいえ、今から貴女は人を殺すんだもの。わかるわよ、よく」

下唇を噛んだ。

乾燥していて、チクチクと痛い。

「……今更、怖気付くなんて格好が悪いですよね」

「そんなことないわ。湿っぽくいきましょう。貴女は怖がったままでいいわ。その方が、傷は深くなるでしょう」

「……そうですね。……先輩、楢木野先輩には何か伝えたんですか?」

「いいえ。何も。きっと凄く驚くわよ、麻梨香。見物ね」

「見物って……」

「ああ、私はこの後死ぬから見れないのか。驚く麻梨香の間抜けな顔を」

死を前に笑顔を絶やさない。むしろ、これまで会ったどんな『嘉手納真央子』よりも明るく楽しげに過ごす姿に、小須田羽菜は一抹の違和感を覚えた。

「とても楽しそうですね、先輩。恐怖は微塵も?」

「ええ、勿論。だって私は生まれ変わるのよ。今度は男になって、正々堂々と来世の貴女と一緒になるの。でもね、小須田さん。貴女は死に急がなくていいのよ。私、待つのは嫌いじゃないの」

肌寒さに震える小須田羽菜の小さな手を取り、指を絡ませる。

額に額を押し当て、掠めるように鼻でキスをした。

「大丈夫よ。今私達は、美しいことをしようとしているの。決して悪いことなんかじゃないわ。それに、愛を貫くならいくらかの恐怖は必至よ。それが強いほど、貴女はより愛に縋ることになる……」

そして悪魔のように、天使のように、囁くのだった。

「さあ、突き落として……」

柵を跨ぎ、両手を広げて、風に立つ。

後は、少女がその背を押すだけだった。

死が永遠をもたらすというのなら、その行為は如何わしいものではない。

倫理観や常識は必要ない。

それらは、我々に安心感を与え得るかもしれないが、愛を求める羊に隙のない安心などは訪れたりしない。

「さよなら、小須田さん。愛していたわ」

その台詞に返答はない。

「私も」の数文字は喉に絡み付いて、上手く口から突いて出ない。

けれど、言わなくてもいい気がしていた。そんな最期は普遍だ。

特別にしたいなら、そこで終わらせるのも惜しくはないと思った。

小須田羽菜は、その背に手を添えた。

まじまじと見つめていると、果たして彼女の背中はこんなにも小さかったものなのか、と寂しくなった。

「……嘉手納先輩」

「なあに?」

「今更引き下がりはしません。本当にいいのかなんて、野暮なことは聞きません。ですが、一つ答えて頂きたいことがあります」

「……何かしら?」

「嘉手納先輩、貴女は……どうして私のことをよく思ってくださったのですか?」

「……いつから。そうねぇ……。どうでしょう。多分……こんなことをしてしまえる子であることを察してしまったからかしら」

「……どういうことです?」

「貴女は優しいわ。でもね、時折人を見る目が怖いの。彼女なら人でも殺すわと思った。ねえ、小須田さん。私を裏切らないで頂戴。私が好きになった小須田さんのままでいて……」

愛故に。

そう、彼女は言った。

「私が嘉手納真央子を殺したのは、紛れもなく良心から訪れた衝動だった。そこに悪意も罪悪感もなく、残ったのは達成感だけだった。心臓に一本、糸が通った気がした。その行く先は恐らく、嘉手納真央子の心臓なのだろうと信じてやまない。今でも、私は。誰が私を愛そうと、どれだけの愛が注がれようと。この心臓に繋がるのは、嘉手納真央子のそれだけなのだと」

そして笑う。

「おかしいでしょう? 私もそう思うもの。けれどもね、彼女を殺すことこそが、彼女を愛するということだったの。わからないでしょうし、わかられたくない。私とあの人だけがわかればいいのよ」

故に、彼女は突き落とした。

耳を突いたのは、木々がざわめく音。

風の音に隠れて、小さな呻き声が聞こえた気がした。

雲が蠢く声がして、星が弾ける色が見える。月が彼女を見下ろして、よくやったと褒めている。

穏やかだった。

それまでの躊躇いが途端に消えた。

後悔もない。

まるで麗らかな春の朝日の中、朝風呂の後に風に当たっているような清々しさがあった。

あるいは、腰の辺りから溶けていくような感覚。

嘉手納真央子の亡骸は、確認しなかった。死んでいるのはわかっていた。

死なないはずがなかった。

もしこれまでの物語が、神によって決められたことなのだとしたら。それ故に運命だと呼べるのだとしたら。

死なないなんて、運命という言葉を嘲笑うようなことは起きないはずだったからだ。


その日の夜は、よく眠れた。

寝台に落ちていくように、吸い込まれるようにして、眠りこけた。


明朝、嘉手納真央子の亡骸は見つかった。桜並木のうちの一本の木の枝に腹を貫かれた状態だった。

桜の花弁に赤い斑点を残し、美し過ぎる遺体は鑑識の手によって写真に収められた。

後に小須田羽菜は警察の取り調べに応じた際にその写真を見せられ、不敵に微笑んだという。

「先輩、綺麗です。私の愛した人」


しかし、嘉手納真央子殺害の容疑だけで小須田羽菜が悪女とされたわけではない。

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