【彼女はなりたがった、永遠】
◯
───これは、私が高等部一年生の時の話よ。その日は雨だった。バス停で雨を凌いでいた私は、目の端にとあるクラスメイトの姿を捉えたわ。
そう。貴女もよくご存知よ。
───楢木野麻梨香さん、ですか?
───ご名答。彼女とは中等部の頃から同じテニス部で汗を流していたわ。高等部一年生の時にはクラスも同じになったわ。彼女は有名だったからね、私もすぐに顔と名前を覚えたわ。……ううん。正直に言いましょうね。私は、楢木野麻梨香というその人を目で追っていたのよ、ずっと。だから覚えたの。どうしても覚えたくて覚えたのよ。
楢木野麻梨香は、私の初恋だったわ。
───えっ? 楢木野先輩が、嘉手納先輩の?
───そうよ。私とは違い、活発でリーダーシップもあって、その上秀才のお嬢様。憧れないはずなかったわ。初めて彼女を意識したのは、中等部の二年の時よ。彼女から声をかけてきた。
「……嘉手納真央子さん、よね?」
廊下を歩いている時、背後から肩を叩かれ、そう声をかけられた。
振り返るとそこには楢木野麻梨香が立っており、ニコリと親しみある笑顔を見せて肩から手を離した。
「ええ。いかにも私は嘉手納真央子だけれど……何かご用?」
「ううん。ただ、嘉手納さんだなぁって思って。ごめんね! 同じ部活なのにあんまり話したことなかったから、つい!」
「いえ。構わないけれど……」
屈託のなさそうな笑み。明るい声。人懐っこい口調。何もかも想像通りの彼女の姿に嘉手納真央子は目を引かれた。
───素敵な出会いじゃなかったわ。ただ声をかけられただけよ。それでも嬉しかった。私はどこか近寄り難い雰囲気があるらしくてね、彼女とは違って遠目から見られていることの方が多くて。勿論、声をかけてくれる子もたくさんいたけれど、彼女の周囲を取り巻く人達に比べればうんと数は少なかったわ。そんな麻梨香が私の名を呼んだの。私の肩を叩いて。用もないのに。話したことなんてないのに。私の名前と顔を覚えていてくれた。それが何より嬉しかったの。
そうよ。それから私は視界のどこかに楢木野麻梨香の姿があると、そちらを意識して仕方がなかった。……つまり好きだったのね、彼女が。
そして、私にも彼女とたくさんお話が出来る日が来るの。それがその雨の日。
私は呼んだわ。彼女の名前を。
「楢木野さん!」
───そしたら彼女もバス停の屋根の下にいる私を見つけたわ。
「あら、嘉手納さん! 雨宿り? 傘ないの?」
「ええ、まあ。天気予報じゃ晴れだったから、多分すぐに上がる通雨でしょうけど……」
「そっか。じゃあ、私もここで待ってるよ、一緒に!」
「え、でもお急ぎじゃないの?」
「ううん! いいのいいの! 早く帰ったってどうせお家には誰もいないし、やることもないしね。ここで嘉手納さんとお話ししてる方がきっと、ずっと楽しいわよ!」
───話すことといえば、学校の話が大半だったわ。あの先生の授業はわかりやすいとか、ノートはどんな風にとってるだとか、最近始まった単元が難しいだとか。そんな可愛げのない話よ。
「……雨、止みそうもないわね」
楢木野麻梨香が言った。
嘉手納真央子は「そうね」と返した。
───なかなか止まない雨を見計らって、麻梨香は踵を返したわ。持っていた傘を開いて、私の手を引いた。
「一人用だから狭いけど、二人で入りましょう! こんなところでちんたら話していても、二人して風邪を引くだけだわ。ねえ、それよりもあったかい部屋で話の続きをしない? それがいいわ! このまま私のお家に行きましょう。貴女も急ぎの用はないんでしょう?」
「えっ、でもご迷惑では……」
「いいのよ! さっきも言ったけど、家族はみんなお仕事で、どうせ家に帰っても一人なのよ。だったら、嘉手納さんがいてくれる方が私にとっても有り難いの。ね? いいでしょう?」
───彼女はいつだって強引だった。そして分け隔てなかったわ。
二人で一つの傘に入るとやっぱり狭くて、お互い片方の肩を濡らしていたわ。それでも、それすらも楽しくてたまらない時ってのがあるのよね。下着が透けても、冷たく冷えても、私の肩が濡れている分だけ、彼女の体が雨に降られていないのだと思うと何も苦ではなかったわ。
麻梨香の家に着くと、彼女は私にシャワーを浴びるように促した。勿論、私も最初は遠慮したけれど、風邪を引かれては私が自分を責めてしまうわという彼女の言葉に説得され、楢木野邸のお風呂を借りた。
言い知れぬ興奮があったわ。自分は今、想い人の自宅でその想い人を待たせながらシャワーを浴びているのだと思うと、当時の私の知識では言い表せないほどの背徳感があった。
……扉が開いたわ。その先には、一糸纏わぬ楢木野麻梨香が立っていた。驚いたわ。とりあえず手で隠せる場所は隠したけれど、彼女は自分自身を隠そうとはせず、ズカズカと私のいる浴室に立ち入ってきた。
「な、楢木野さん? どうしたの?」
「ん? 一緒に入ろうと思って……。本当は嘉手納さんが上がってからにしようと思ったんだけどさ、もう寒くて寒くて。女の子同士だからいいかと思って! ほら、部活の時も同じ部室で着替えてるし、今更どうってことないでしょう? 裸の付き合いよ、裸の付き合い!」
───思えば、私はこの時フられていたのよ。私の裸を見たところで、私に裸を見られたところで、楢木野麻梨香にとっては何の損得もない。それは私に対して、友達以上の感情を抱いていないからだということに、この時の私は気付けなかった。
───楢木野先輩は、嘉手納先輩を思っていなかったと?
───ええ、そうよ。それどころか、他に想い人がいたのよ。そのことがわかるのはもう少し後。互いの呼び方が名前での呼び捨てになってからしばらく。また雨が降った日よ。その日、私は傘を持っていたわ。もし持っていなかったのなら、私は雨が小降りになるまで学校を出なかったろうし、あんなシーンを目の当たりにすることもきっとなかったんだと思うわ。それらが全て運命の一言で片付けられちゃうんだから、人生は呆気ないのよね。
「……麻梨香」
降りしきる雨粒の先に、ぼやけた彼女の姿が見える。ポニーテールが雨に濡れていた。
ああ今日は彼女の方が傘を忘れたんだわ、とあの日を思い出し微笑んでいると、真横を一台の黒塗りの高級車が走り抜けた。タイヤに弾かれた泥水が嘉手納真央子の靴下に跳ね返る。
睨みつけてやろうと前方に視線を移すと、その車は数メートル先で停まっていた。否、正確に言おう。楢木野麻梨香の前で停まっていた。
左側の窓が開く。外車のため、そちら側が運転席となる。開いた窓の淵に肘を置いて顔を覗かせたのは、爽やかな好青年だった。無論、先程のことがあって、嘉手納真央子の中では印象は最悪なのだけれど。
彼は楢木野麻梨香に笑顔で話しかけている。彼女もまた笑顔。
距離的な問題ゆえに会話の内容までは計れないが、楽しそうであることに違いはない。嫉妬した。同時に彼の正体を思案した。彼女に男兄弟はいないはずだ。
しかし、そんな思案も虚しく、答えなんて考えなくてもすぐわかることとなった。
───キスしたわ。彼女の方から、車の中の男に。それはそれはロマンチックなキスよ。しているのが楢木野麻梨香でなければ、私は見惚れていたでしょうね。
後になって彼女の口から聞くことになったわ。楢木野麻梨香という女性には、恋人がいること。それが男であること。私は絶望にも近い感情を持った。
ああ、楢木野麻梨香は女性を愛しはしないのだ、と。
面白いものでね。それまであれだけ追っていたはずのその姿が視界に入るたび、もう嫌という程腹が立つようになったのよ。端的に言えば、嫌いになったの。でもそれでも一度は愛した人でしょう? 心の底から拒絶することは出来なくて、そんな心情に自分で気付いて自分に腹が立って。そんな繰り返しに飽き飽きして、私は彼女と距離を取った。有り難いことに私の病気も発覚して、テニス部を去らなければならない状況になったわ。
以降、私達は特別な話し合いの場を設けることはなく、自然消滅のような形で交流を断つことになるの。
───それで、その後は……?
───二年生になったある日、楢木野麻梨香の方からコンタクトを取ってきたわ。珍しく真面目な顔をして、「大事な話があるの」なんて怖い声をして。
「話って何かしら」
「貴女の話よ、真央子」
「私の話? さっぱり見当がつかないのだけれど」
「馬鹿言わないで。貴女、私に秘密にしていることがあるでしょう? 急にテニス部を離れたのもそのせいね」
「……何のことかしら」
「病気のことよ! この前うちの病院に来てたんでしょう? 父さんが教えてくれたわ。真央子、心臓病だって言うじゃない。驚いたんだから! どうして教えてくれなかったの!」
嘉手納真央子は呆れるしかなかった。
「言ってどうするのよ? 貴女が治してくれるとでも言うの?」
「それは……。でも、私達友達なのに!」
その言葉が何より彼女を苦しめることを知らないで、善意の塊を投げつける楢木野麻梨香を誰が責められようか。
それでも、傷付けられた嘉手納真央子、彼女にはその権利があるはずだった。
「そうよ! 友達よ! だから嫌なの! ……このことは誰にも秘密にしていて頂戴。貴女に迷惑をかけるようなことにはしないから。静かに逝ってあげるわ。だからもう、私に干渉してこないで。腹が立つのよ……」
───それ以来、私達はまた疎遠になった。麻梨香は私のその言葉がよほど心に来たのか、私の言う通り、干渉しなくなったわ。廊下ですれ違っても、同じバスに乗っていても。声をかけることも笑いかけることも、なくなってしまった。
三年生になって、美術部に貴女が入って来て、そして私が貴女のことを気にするようになってから、私は前にも増して楢木野麻梨香を憎く思うようになった。彼女の貴女への感情に気が付いてしまったから。
かつては男を愛していたが故に私を苦しめたくせに、今度は女を愛してまでも私を苦しめる。とことん、私の人生に絡まり付いてくる人間だと思ったものよ。
───私のせい、ですか。
───いいえ。貴女のおかげよ。
───え、どういう……?
───数ヶ月前、私の入院が決まった時、彼女のお父様が気を利かせたつもりで麻梨香に言ったらしいのよ。「お前の学友がうちの病院に入院することになった」だとかなんとか。それで、彼女は私を見舞いに来たの。何度も頭を下げてたわ。「真央子は私に干渉されたくないのにね。それでも私は心配を消し去ることはできなかったのよ。少しお話すれば帰るから、ほんのちょっと付き合って頂戴」ってね。
話はやがて、小須田さんのことについてばかりになっていったわ。
彼女、こういうところがあるわよね、とか。この前彼女がこんな言葉をくれたのよ、とか。彼女とこんな話をしたことがあったわ、とかね。気付けば打ち解けていた。本来なら、きっと嫉妬に巻き込まれて窒息していただろうに、貴女の話をしていると自然と頬の筋肉が緩むのよ。
私は麻梨香にこう言ったわ。
「麻梨香……今となっては、貴女以外に考えられないわ。譲るとか譲られるとかそんな話ではないけれど、どうか不安定な彼女を支えてあげて頂戴。あの子には頼れる場所が必要なのよ。今の私ではとてもその役割を果たせるとは思えない。麻梨香しかいないのよ。お願い」
「ええ、わかってるわ。あの子は私が支える。きっと真央子がいなくなって、想像もつかないほど悩んでいるに違いないわ。私がそばにいなきゃ……。嘉手納真央子直々の頼みでもあるしね!」
「……ありがとう、麻梨香。それから……悪かったわね、心ない言葉を浴びせた日もあったわ」
「いいのよ、それくらい! 今こうしてるってことでそんなの帳消しよ! この時のための段階だと思えば何ともないわ」
「……麻梨香……。……好きよ」
「え?」
「そういう考え」
───それから彼女は、貴女との日々を豪勢な菓子折りと共に時折私に届けに来たわ。初めは想い人で、いつしか恋敵となって、今やっとどこにでもありふれた友人というやつになれた気がするわ。
勿論、貴女が麻梨香と体育祭の組み分けリボンを交換したと聞いた時には腹が立たなかったわけじゃないのよ。でもね、今の私はこんな見てくれでしょう?
……小須田さん。私はね、貴女に幸せになってもらいたいのよ。貴女が心からそばにいたいと思える人と一緒に。できればそう、それが麻梨香であればと人知れず願っていた次第よ。
───それは、本心ですか?
───……どういう意味かしら。私が嘘をついてるとでも?
───いえ、そんな! ……あっ、えっと……はい、そうです。貴女は嘘が得意でしょう? 貶してるとかじゃないです。嘉手納先輩は掴み所がないから、全て嘘に聞こえてしまう危うさがあるし、つまりそれは本当の嘘でさえも隠してしまうことでもあるんです。嘉手納先輩……貴女は、狡いです。貴女を想う私が、貴女の望みを聞いて叶えないとでも思っているのですか? そして貴女はそんな私の性格を知っている。熟知している。例えばそれは数ヶ月だけの関係だったかもしれません。けれど、貴女にとって私という人間の思考回路を掌握するには事足りたでしょう。その上で貴女は、私に幸せになれと……その相手が楢木野先輩であればと言う。そんな事を聞かされて、私が楢木野先輩以外の人のところに行けるとでも思っておいでですか?
嘉手納真央子は微笑する。
───悪かったわ。嘘よ、前言撤回。
小須田さん。私はそれでも貴女が欲しい。大切な人を苦しめるとわかっていても、私の欲望がそう叫んでる。
───だったら欲しがってください。言ったのは貴女です。怖がっていては得られませんよ、私の事は……。
───言うようになったわね。
───今の貴女になら。何だか一歩近付けたような気がするから。
しばらくの沈黙。決して痛いものではない。今、面前の薔薇は何を考えているのか。きっと小須田羽菜が想像出来てしまうよりももっと大きな世界を見ているんだろう。彼女ならそう、「太陽が欲しい」とでも「月にキスしたい」とでも「海底に秘密基地が欲しい」とでも、何でも言えたんだろう。「地球を刻みたい」なんて、悪戯っ子の瞳で楽々と言い捨てられた。
だから、嘉手納真央子の願いを聞いた時、小須田羽菜は驚かなかった。
小須田羽菜にも、嘉手納真央子の思考回路をぼんやりと把握するには事足りる時間であったのだ。
抱いた感想としては、「ああ、なんて彼女らしいのだ。その結論に落ちるからこそ彼女なのだ」という納得だけだった。
───私は小須田さんに殺されたい。
煮るなり焼くなり好きにして、最終的には殺されたい。刺すでもいい、絞めるでもいい、小須田さんの心に脳内に、一生消えない傷を残したい。その傷と共に嘉手納真央子という存在をこびりつかせるの。麻梨香なんかじゃ落とせないほどに、根強い汚れで小須田さんを苦しめるの。貴女が苦しんでるうちは、私は決して死なないから。
けどそれは貴女のためにはならない。でもきっと、だからこそそんな欲望を抱いてしまうのね、私は。貴女のためになるような生易しい欲じゃ、貴女は私を忘れるわ。そんな青春ごっこをするために、私は泣き喚いてまでこの世に生まれたわけじゃない。それなりの理由があったはずよ。私達が出会ったことに。……いいえ。なかったとしても作り出すの。そうやって、それを運命という名でファイリングしましょう。それで私達は永遠になるの。
───永遠……。
───そう、永遠。貴女はこんな戯言に興味ない?
───いいえ。信じてなくとも興味はあります。それは、貴女が作り出そうとしているからかもしれません。でも、貴女が作り出す永遠とやらに、すごく惹かれるのです。どうでしょう、嘉手納先輩。
……私が貴女を殺して差し上げます。
その日、小須田羽菜は初めて嘉手納真央子に触れられたと言った。
それは頬かもしれないし、髪かもしれないし、鼻かもしれないし、唇かもしれない。それでも、この時の事を私に話す小須田羽菜の穏やかな横顔を見るに思うは、恐らくとても暖かな温度だったに違いないということ。
そして小須田羽菜はこうも言った。
「はたから見れば犯罪者の誕生よ。でもね、そんなことを気にして生きてきた人じゃないのよ、嘉手納先輩は。だから私もそうするの。そうしないと、嘉手納先輩の隣にはいられないでしょう?」
愛故に。依存故に。それらも全て、彼女達は〈運命〉という無責任な言葉の元に一緒くたにしてファイリングしてしまうのだ。




