【彼女は欲しがった、略奪】
◯
声がする。青春に汗を流す、清らかな少女達の声が。小須田羽菜は膝を抱いて、硬く冷たいコンクリートに腰を下ろしている。隣に置かれた学校指定のスクールバックには黄色いリボンがストラップ代わりにと付けられていた。そのリボンはとある女生徒から贈られたものだ。
「羽菜! 今日も来てくれてたのね。寒くない? これ、貸してあげる」
ジャージから制服に着替え、足早に部室棟の階段を降りてくると、すぐさま自身の首に巻いていた真っ赤なマフラーを小須田羽菜に巻いてやるのは、楢木野麻梨香に他ならない。彼女自身からは汗の匂いと混じって爽やかな柑橘類の香りがする。しかしマフラーには雑多な香りはなく、楢木野麻梨香の香りだけがする。それが堪らなく、心地良かった。
秋も過ぎ、冬も間近に迫った十一月の末。嘉手納真央子が学校に来なくなってから、早一ヶ月。一人になった小須田羽菜の隣を陣取ったのは、周囲の予想していた通り、楢木野麻梨香だった。
黄色いリボンを小須田羽菜に贈ったのも彼女。体育祭で楢木野麻梨香が使用していたものだ。小須田羽菜のものである青いリボンと交換したのだった。
F女学院が創立からしばらくして、この風習が生まれたんだそう。
恋い慕う相手と体育祭の組み分けリボンを交換して持っていると、永遠に結ばれる、と。言うまでもなく、女生徒間で行われる。この話を聞いた時には笑ったものだ。時代こそ違えど、やはり同性間での恋情は成立するのだと。皆思うことは同じなのだと。
しかし、小須田羽菜は肝心のその噂を耳にしたことがなく、楢木野麻梨香からリボンの交換を申し入れられた際にも不思議に思っていたという。
その後、小須田羽菜の鞄に巻かれた他学年の色をしたリボンを見たクラスメイトからその噂を聞かされ、初めて楢木野麻梨香の真意に気付いたらしい。
それもまた小須田羽菜らしいといえばそうである。
「さあ、帰りましょう! 駅前のコンビニ、昨日から肉まんが半額セールなのよ。羽菜も食べるでしょう?」
小須田羽菜が楢木野麻梨香と行動を共にするようになって、一つ気付いたことがあった。それは、彼女が想像していたよりもずっと庶民的であったこと。
大病院の一人娘で文武に秀でた美少女。それはそれは敷居の高い暮らしぶりなのだろうと想像していたが、その実、彼女はセールが好きだ。
「父さんや母さんが一生懸命働いてくれたおかげで得たお金なのよ。その桁が大きかろうが小さかろうが、感謝を持って使うのが当然だわ。持てるなら持てるなりに、際限をきちんと決めておくべきでしょう」
そう言って、楢木野麻梨香は本は買わずに図書室で借りた。
そう言って、楢木野麻梨香は汚れたシューズを何度も洗った。
そう言って、楢木野麻梨香は一部破れたスクールバックを未だ使っている。
それら全てを笑顔で遂行している。
気持ちの良い人だったという。サバサバとしていて、女子特有の粘着的な性質を持っていない乾いた人。その家柄故によく思わない輩も少なからずいたそうだが、そんなものあってないものと蹴散らしていたらしい。
嘉手納真央子とは違う太陽のような魅力に、小須田羽菜は段々と惹かれていた。
では嘉手納真央子との約束を忘れたのかというと、そうではなかった。故に彼女は苦しんだ。
「ああ、肉まんもいいけどあんまんもいいわね。あっ、そうだ! 一つずつ買って、半分こにしない? ね、それがいいわ!」
屈託ない清々しい微笑みでそう言う楢木野麻梨香に対して、小須田羽菜は後ろ暗さを感じていた。
この人の隣が居心地いいとはいえ、やはりその心の根底に蔓延っているのは嘉手納真央子への想い。否、恋情といった方が正しい。
慢性的なこの気持ちへの整理のつけ方に悩んだまま、真正面から一心に愛を捧げてくる楢木野麻梨香と接し続けることは、裏切りにも近いのではないかと考えると、眠れぬ夜を過ごすことも多かった。
小須田羽菜の心中に強烈な色を塗り込んでいった嘉手納真央子。そして、その色を目にも留まらぬ早さで上塗りしていこうとする楢木野麻梨香。
そんな比喩をしても、実際に塗ったり塗られたりしているのは小須田羽菜の心であるから、余計に彼女は溜息をつく。
自覚していた。嘉手納真央子との約束を忘れ、楢木野麻梨香の手を取ろうとしている自身のことを。
◯
ある日聞いてみたことがある。
それは冬も大分本格化してきた頃。語り部たる私、鷺ノ森思織と小須田羽菜との間に粗末な友人関係というやつが築かれてから、しばらくした頃のことだ。
「ねえ、羽菜ちゃん。羽菜ちゃんは、楢木野先輩とその……付き合ってるの?」
そんな野暮な問いかけに、小須田羽菜は一瞬驚いた顔をしたものの、嫌な顔はせずに淡々と答えてくれた。
それは私がまだ彼女にとって友人ではなく、一人の先輩という位置付けにあったからかもしれない。見解の相違というやつだ。それでも彼女は優しさ故に「思織先輩とは友達ですよ」と言う。
「ごめんね、変なこと聞いて」
「いえ、そんな! ……そうですね。最近よく聞かれます、そんなようなことを。でも、私は多分、楢木野先輩とは付き合わないと思います。いいえ、付き合わないです」
「……どうして? お似合いだって噂よ。リボンだって交換したのに」
「それは噂を知らなかったから……。楢木野先輩には悪いことをしていると思ってます。でも、付き合えないんです。楢木野先輩とは。だって私の中にはまだこんなにも、嘉手納先輩が残ってる。そのどこからともない視線に目を閉じながら、楢木野先輩を愛することはできません」
その言葉の端々に強い意志を感じたのは、私の錯覚ではないはずだ。
彼女は楢木野麻梨香とは付き合わない。絶対に。何があっても。私はそう確信した。それは、私が嘉手納真央子を特別視していたせいもあるのかもしれない。小須田羽菜を嘉手納真央子以外の人間の隣に置きたくないと、捻くれた愛情がさせた確信だったのかも。
けれど実際、小須田羽菜は楢木野麻梨香とは交際関係には発展しなかった。
十二月も末のことである。
その光景は、唐突に小須田羽菜の視界に飛び込んできた。
冬休みに入っても楢木野麻梨香との交友は続いた。長期休暇だからと逢瀬を中断することもなく、連絡方法の限られた時代の中で、事細かに手紙のやり取りをしては、時間を見つけて二人きりの時を楽しんだ。
そんなある日、楢木野麻梨香は小須田羽菜を自身の父が院長を務める楢木野クリニックへ呼び寄せた。
なんでも彼女は、そこに入院する中学生未満の子供達の遊び相手をしているそうで、小須田羽菜を彼らに紹介してやりたいと言ったのだ。
◯
小児科病棟は三階にあり、エレベーターの扉が開くとすぐに賑やかな声が聞こえた。ナースステーションにはぬいぐるみが飾られ、折り紙で作られた小さな動物達が仲良さげに寄り添って白い壁に貼り付けられていた。
小須田羽菜がヒールを鳴らしナースステーションへ歩み寄ると、一人の若い看護婦が彼女に気付き、親しみある笑顔で声をかけてきた。
「もしかして、小須田羽菜さん?」
突然フルネームで名指しされたことに戸惑いを覚えつつ、おずおずと頭を下げた。すると〈諸富〉という名札をつけたその看護婦が「ああ、やっぱり!」と声を上げた。
「麻梨香さんから聞いてるわよ。子供達も楽しみに待ってるわ。こっちよ!」
一体自分が自分のいないところでどんないわれをしていたのか気になったものの、詮索することもないので、小須田羽菜は諸富の後を追い、病棟の奥へと歩を進めた。どんどんと子供達の喧騒も近付く。
こんな書き方をすると不愉快に思われる方もおられるだろうが、その声の主は入院患者に他ならない。それでもこんなに楽しげに騒いでいられるのは、楢木野麻梨香のおかげなのだろう。あの人懐っこい人柄は年代を問わない。そのことに小須田羽菜は自分のことのように鼻を高くした。
〈遊戯室〉と黒字で仰々しく書かれた扉を数回ノックすると、諸富は「お嬢さん。小須田さんがいらっしゃいましたよ」と声をかけた。室内がわっとどよめく。楢木野麻梨香の「どうぞ」という返答を待って、諸富は扉を押し開けた。
扉の向こうには十数人の子供達と、彼らに囲まれ保母のようなオーラを醸し出す楢木野麻梨香がいた。たくさんの笑顔に迎え入れられた小須田羽菜もつられて笑みを湛える。
「こんにちは」
そう声をかけると、散り散りに元気な「こんにちは!」という言葉が聞かれる。
しばらく一緒になって遊んでいると、気付いたことがある。それは皆、竹を割ったような清々しい人柄であるということ。
病気のもの。手術を控えるもの。最近入院してきたもの。古くからここにいるもの。様々いたけれど、皆、決して卑屈ではなかった。
小須田羽菜がそのことを諸富に指摘してみると、諸富はくつくつと笑ったという。
「数ヶ月前までは、卑屈なものも少なからずおりましたよ。でも、麻梨香さんが
ここに遊戯室を設けて、彼らとこういった時間を持つようになると、みんな笑顔が増えていきましてね」
「えっ、この遊戯室って前からあったんじゃないんですか?」
「いいえ。ありませんでしたよ。ただの空き部屋です。そこに目をつけた麻梨香さんが、自ら提案されたんです。院長も初めは渋ってたみたいですけどね、麻梨香さんが何度も何度も直談判して、今年からようやく。催し物も麻梨香さんが企画されるんですよ? 先日はクリスマスパーティーをしましてね。私達看護婦一同も大変楽しい時間を過ごさせていただきました。その時にも麻梨香さん、小須田さんを招待したかったみたいですけどね。取り仕切る役目を担ってるのは自分だと責任感を持っていましたから、我慢なされたんでしょうね。それで今日になってしまったのかと……」
「そうだったんですか」
「麻梨香さん。ああ見えてお友達が少ないんですよ。昔からそうでした。彼女を放っておくものは少なくとも、深くまで踏み込んで交流しようとする人はあまりいなかったみたいで。……というより、麻梨香さんが踏み込ませなかったみたいですけどね。下心が見えるらしくて。……でも、小須田さんは違うのね。いつも嬉しそうに貴女の名前を出すのよ。こっちが恥ずかしくなるくらい」
聞き手が恥ずかしくなるほどの話とは一体どのようなものなのか。小須田羽菜は思案した。それでも思い当たる節はなく、なぜだか諸富と二人で照れ笑いをするという可笑しなことになったらしい。
楽しい時間とは瞬きのように過ぎ去り、やがて子供達の昼食の時間となった。
諸富を始めとする小児科病棟の看護婦達に病室に戻るようにと急かされ、子供達はわーきゃーと不服を申し立てたが、楢木野麻梨香の「戻りなさい」の一声で反発していた子供達は従順になった。
遊戯室に二人きりとなった小須田羽菜と楢木野麻梨香は、自身達も昼食にしようと食堂へ向かうことにした。
一般開放している食堂は一階にあり、二人はエレベーターへ乗り込んだ。
正午を少し周り丁度お昼時ではあったが、食堂には空席も目立ち、さして五月蝿くはなかった。
小須田羽菜はオムライスを、楢木野麻梨香はハヤシライスを注文し、各々舌鼓を打つ。食堂が混み合ってきたのは、二人の面前の皿が綺麗な底を見せてから。時刻にすると、午後一時過ぎ頃からだった。
◯
腹も膨れ、子供達との時間も存分に楽しんだ小須田羽菜は、楢木野麻梨香に促されるようにして病院を後にした。
院前にあるバス停で時刻表を確認し、十七分後に予定の目的地まで向かうバスが来ることを知った彼女は、財布の中身を見ようとバッグの中を探り出す。
そこで、はたと気付いた。
そうだ。楢木野麻梨香に借りていた小説を返そうと、今日持ってきていたのだった、と。
ここで病院に引き返せば、十七分後のバスには乗れないだろうけれど、大して急いでもいないし、まだ名残惜しい。
もう一度、楢木野麻梨香に会える口実ができたんだ。小須田羽菜は少しの思惟の後、踵を返した。
楢木野クリニックはこの市有数の大病院だ。が、その隅から隅までを探すつもりはなかった。小須田羽菜には楢木野麻梨香の現在の居場所がわかっていたからだ。
彼女と別れ、病院を出てから、駐車場横の通路を抜けて、病院の外に出た時、ふと振り返り、その白亜の建物を見上げた。するとその視界には紛うことなき、意中の先輩の姿が映った。二階の表通りに面した廊下を早足で歩くのは、楢木野麻梨香だ。その廊下を西に向かっていくと、その先には病棟がある。
彼女は別れる前に、「私は知り合いの病室を訪ねてから帰るわ」と小須田羽菜に告げていた。
そのことから考えてみても、今、楢木野麻梨香は二階西側にあるどこかの病室に居座っている可能性が極めて高い。
小須田羽菜は、楢木野麻梨香がその病室から移動してしまう前にと足早に病院内へ折り返した。
早る気持ちと周囲の目に晒され、思うように歩けない中、時間にして十分強で二階西の病棟へ到着した。
といっても、楢木野麻梨香の姿はそこにない。
さて、どこの病室に向かったのだろうか。知り合いだと言っていたけれど、名前までは聞いていなかった小須田羽菜は唐突な足止めを食らった。
片っ端から病室の扉を叩くわけにもいかない。胸の前に本を抱き、踏み出したがる足の行く末を持て余し、同じ場所を何度も踏み鳴らす。
そこへ。
「……小須田さん?」
声のした方を向くと、見慣れた顔があった。クラスメイトの鴫野だった。チャームポイントのポンパドールに色彩の多い派手な私服は病院には似つかわしくないように思われた。
「鴫野さん! どうしてこんなところに」
「祖母がここに入院してるのよ。今日はそのお見舞い!」
「ああ、そうだったの……。お祖母様の具合はどうだった?」
「うん! 元気だったよ! もう、すぐにでも退院できるくらい!」
「そう、それは良かった……」
軽く立ち話をしていると、鴫野は胸の前で腕を組み、「それにしても」と会話の題をすり替えた。
「この辺の人はみんな、楢木野クリニックにお世話になるのね」
「あっ、私は別に体が悪いとかでは」
「ううん、小須田さんのことじゃなくて! さっきね、この廊下の先にある自動販売機の前に立ってる嘉手納先輩を見たのよ。彼女がここに入院してるだなんて知らなかったけど、嘉手納先輩が選んだ病院なら安心ね」
「……えっ?」
落雷に打たれたという感覚を体一杯に感じつつ、考えが回らない頭で懸命に鴫野の話を聞こうとする。
それでも、先の話のダメージが大きく、なかなか耳に入ってこない。
ハッと我に返ったのは、鴫野に肩を揺さぶられ、名前を呼ばれた時だった。
「……小須田さん、大丈夫?」
「ああ、うん。……平気」
「もしかして……言わない方が良かった? ごめんね。小須田さん、嘉手納先輩と仲良かったもんね。本当ごめん! デリカシーなかった」
「ううん、大丈夫! 心配しないで」
「……本当に?」
「本当に! 鴫野さん、私、これから用があって……」
「あ、うん。小須田さんもお見舞い?」
「……ええ、そう。遠い親戚がね」
小さく手を振り、鴫野を振り払うようにその場から離れた小須田羽菜だったが、L路を曲がったところで足を止めた。
手が震える。右手を左手で包んで落ち着けようとするが、今度は左手まで震え始める。口元にそっと触れ、息を吹き当てて温めても意味はない。
嘉手納真央子。
彼女は何も言わずに小須田羽菜の前から消えた。約束すら踏み倒し、何の言葉も残さずに。そうだったはずだった。
入院? 病気? そのために姿を消した?
自分に心配をかけないために、何も知らせずに。そんなこと考えもしないで、当の私は……楢木野麻梨香に揺れ動いたりして。
嘉手納真央子に対して後ろ暗い感情がうねるように、その小さな胸に襲う。
そんな彼女を見越したように、その少女は現れた。
「……小須田さん?」
姿なんて、探さなくたってすぐわかる。
ずっと聞きたかった声はそれではなかったのか。
あの日、彼女がいなくなった日。地球の裏側でも、宇宙の果てでも、海の底でもどこまでだって探してやろうと思ったその存在。
涙が伝った。安堵なのか、混乱なのか。
それでも生暖かな塩辛い液体は、治まるのをやめてくれない。
「小須田さん……泣いているの?」
少女───嘉手納真央子は硬く冷たい透き通るほど白い床にスリッパを鳴らし、半歩近付いた。
「……嘉手納、先輩。私、何も知らなくて……ごめん、なさい」
謝罪の意味を嘉手納真央子が理解しているのかどうかはわからなかったが、彼女は小須田羽菜の震える肩に手を置き、変わらぬ優しい声色で諭す。
「ここじゃ目立つわ。私の病室へ行きましょう。歩ける?」
「……はい」
◯
嘉手納真央子の病室は豪勢な一人部屋だったが、病院らしく何から何に至るまで一面が真っ白だったため、寂しさを感じた。温もりなんてどこにもない。あるとしたら、ベッド脇に置かれた数冊の洋書が生活感を添えているぐらいだ。
嘉手納真央子はパイプ椅子を小須田羽菜に勧め、自身はベッドに腰掛けた。
そして、泣き止んだ小須田羽菜をそれでも宥めるようにそっと頭を撫でた。
「小須田さん。黙っていてごめんなさい。謝らなきゃならないのは私の方よ。黙って置いていくような真似をして、本当に悪かったわ。貴女には、私しかいないのにね……」
最後のセリフに、小須田羽菜はぐっと喉を引きつらせた。
どの口が「今の私には楢木野麻梨香がいるわ」なんて言えようか。
膝小僧の上に作られた拳が震える。
「……小須田さんは、いつどうやって、私がここにいると?」
「……今です。先程、院内の廊下でクラスメイトの鴫野という子に偶然会いました。そこで、鴫野さんがこの病院で嘉手納先輩を見たと……」
「それで会いに来てくれたの?」
「あっ……えっと」
迷った。悩んだ。楢木野麻梨香の名を出すべきか。過るのはあの日の姿。
『仲良しなんかじゃないわよ』
楢木野麻梨香を拒絶するような眼差しでピシャリと言い放った、冷たい嘉手納真央子の姿。
けれど小須田羽菜に嘘はつけない。
「今日は、楢木野先輩に……」
「楢木野……楢木野麻梨香ね。ここの院長の娘の」
「はい。私、今、彼女と親しくしていて……今日は楢木野先輩に誘われて、小児科病棟に入院している子供達とお昼頃まで遊んでいました。それで、借りていた本を彼女に返すのを忘れていたのを思い出して……院内で楢木野先輩を探していたところでした」
消え入りそうな声で「ごめんなさい」と呟くと、しばらくの間があり、嘉手納真央子は声を上げて笑い出した。
茫然自失とした小須田羽菜の情けない顔を見て、嘉手納真央子も「ごめんなさい」と言った。笑い過ぎて瞳の端に浮かんだ涙を指先で拭いながら。
「嘉手納先輩……?」
「知っているわよ、貴女が今、麻梨香と親しくしていることくらい。何日も前から。小須田さんが今日、この病院に来ていることも。……全部、麻梨香から逐一報告を受けているもの」
「えっ……?」
そして少女は語り出す。
自らが欲していたものの正体を。
嘉手納真央子はこんな言葉を前置きとした。「私はね、時々この世界に私一人取り残されたように思えるのよ」。いつかどこかで聞いたような台詞で。
「私がこんな弱音を吐いた時、貴女は私はむしろたくさんの人に囲まれていると言ったわね。でもね、彼女達とは繋がっていないのよ。私からすれば、彼女達は私の周りにただ突っ立っているだけに過ぎない。それを人に囲まれているというのかも知れないけれど、私はそんなものを望んでいたわけじゃない」
「望む……。強欲」
初めて互いの心に素手で触れたあの日、嘉手納真央子が頻りに口にした〈強欲〉という言葉。それは罪だとも言った。
では彼女の罪とはなんなのか。
嘉手納真央子という万事を手中に収めたかのように見受けられる少女は、他に何を望むというのか。
「嘉手納先輩の強欲とは何ですか。私はあの日、それを聞かなかったように記憶しています。……知りたい。それが何なのか。貴女のことが、私は知りたい」
悲しそう。寂しそう。いや、楽しそう。
いつかと同じ複雑な笑みに、小須田羽菜は息が詰まる感覚に襲われる。
つい前のめりになっていた上体を、そっと彼女から遠ざけた。
こういった話をする時、何故だか彼女との間には越えられない壁を感じた。嘉手納真央子は瞬時に線を引いてしまうのだ。その鋭い瞳で、見えない線を。
「……どうしたの? 怖い? 私のことを知るのが」
「い、いえ……そんなことは」
「そう。……私は怖いわ。自分を知られるのが。けどね、私は私のことを知ってくれている人に隣にいて欲しいという欲を持ってる。矛盾よね。……小須田さん。貴女は私にとって特別な人よ。でも、欲を満たしてくれる人ではなかったわ」
ほらまた。線を引かれた。
まるで自分の存在が不必要であるかのように思われた小須田羽菜は、縮こまることしか出来なかった。それを見て、嘉手納真央子は鼻を鳴らして笑う。
「貴女のせいじゃないわ。私のせいよ。私が私を守っていただけなんだわ。教えてあげる。ううん、教えなきゃいけないんだと思う。小須田さん……私はね、もう長くないのよ」
「えっ? ……それは、つまり」
「一年生の頃からずっと心臓に欠陥があるのよ、私。美術部に入部する前はテニス部員でね、麻梨香と一緒になって走り回ってたのよ? でも、それも出来なくなったでしょう。周囲には先生から美術部に入って真剣に絵の勉強をしてみないかと打診があったと嘘をついたわ。誤魔化したの、病気のことを。まあ、麻梨香には後々バレることになったのだけれど」
「……そんな大切なこと、どうして話してくれなかったんですか。私はそれほどまでに、貴女にとって信頼に欠ける人間でしたか?」
「いいえ。信頼していない人と連れ合うような馬鹿みたいな真似、あんなに長い間出来るほど器用じゃないわ、私。信頼はしていた。けど、言えなかった。さっきも言ったけど、怖かったのよ。私が欲しいもの、強欲の正体。私の先が長くないことを知っても、健常者ではないとわかっても、これまでと変わらない態度で接して欲しいと願っていた。私は愛されていたわ。自覚出来るほどに、たくさんの人に。恵まれていた。けど、そんなところにいるともっともっとと欲してしまう。私の異常な心臓ごと愛してくれる人をと望んだ。でもそんな人が現れたところで、私の命は続かないわ。労られたからって救われるわけじゃない。だったら、何も知らないままにごく普通の人間として扱われた方がマシだと思った。だから誰にも言わなかった。貴女にも。心配をかけたくなかったというのもあるわ。入院が決まった時、小須田さんにだけは話しておくべきだったわね。却って貴女を苦しめたかしら」
「いえ、そんな。……今話してくださっただけで」
「そう、良かったわ。……じゃあ次は貴女の番よ、小須田さん」
「えっ?」
「貴女の話を聞かせて? 強欲じゃない。私がいなくなってからの話。……楢木野麻梨香とのお話……」
見透かされている。その澄み切った暗闇のような瞳に、全て見抜かれている。
そう悟った。
「……好きです。私は、嘉手納先輩のことが。ずっと、好きでした。……なのに、楢木野先輩のことも好きなんです。おかしいんです、とても。好きが二つあるの、一つだけのはずなのに」
「そんなことないわ。二つあってもいいのよ、好きくらい。一つよりも、たくさんあった方が素敵よ。それだけ他人を愛してあげられるってことなんだから。それだけで救われる人もいるわよ、きっと」
「怒らないんですか? ……嘉手納先輩は、私が楢木野先輩を好きでも許すんですか?」
「ええ。貴女の心が正直に感じた感情よ。私が怒ることも許すことも出来ないわ。それともなあに? 小須田さんは怒って欲しかったのかしら? どうして私以外の人を好きだと言うの、って」
「そ、そんなことは!」
悪戯小僧の微笑みに、小須田羽菜は顔を赤く染める。
嘉手納真央子は人差し指を唇の前で立てて見せた。
「小須田さんがあんまりにも素直だから、私も今日は素直になるわ。これは誰にも話したことのない秘密よ。当人同士しか知り得ないお話。小須田さんにだけ、特別」
そう言って、彼女は小さく手招きをした。それに応じて、小須田羽菜は椅子ごと彼女のベッドに少し近付く。
それは耳打ちのように小さな声で、幼き日の内緒話のように。