【彼女はいなくなった、喪失】
◯
これは、断じて私の物語ではない。
ある桜の舞う春の夜。夢と錯覚するような幻想的な月下、その子は人知れず涙を流したと言った。
果たしてそれが真実がどうか、それは語り部たる私にもわかりはしない。
けれど、きっと彼女は悪女ではない。
こんな物語、この世には何ら必要のないものなのだろう。それでも私は、彼女の尊厳のため、この物語を書かざるを得ない。書きたくて仕方がない。
そして読者諸賢は、この物語を読まなければならない。
悪魔が世間を襲ったのか。それとも世間が悪魔を創り出したのか。君達が何に怯えているのか、私は明らかにしたいと願う。
小須田羽菜。彼女は果たして、悪女だったのであろうか?
◯
彼女は私の憧れの存在だった。
そしてまた、彼女にとっても憧れの存在だったことであろう。
艶やかに光る長い黒髪、眉が見えるほどの高さで真一文字に切りそろえられた前髪、力強い奥二重の瞳に、常に密やかな笑みを湛えるその口元。
異次元の住民のようにミステリアスなその子の名は、嘉手納真央子。
県内有数の進学校であり、小学部から大学部までのエスカレーター式の女学校である私立F女学院の高等部三年生だ。
ちなみに、校名については今後もイニシャルで記させてもらう所存だ。
嘉手納真央子は美術部に属していた。
本校において、美術部は大変人気のある部活動で、学内一の部員数を誇った。
中でもこの嘉手納真央子、そして高等部一年生の小須田羽菜の両名は、部内でもその才能を大いに振るっていた。
私や小須田羽菜を含める嘉手納真央子の後輩にあたる生徒は、少なからずとも彼女に胸を焦がしていたはずだ。
それは何も才能に対してだけではない。
嘉手納真央子は人格者であった。
故に、同性ながら彼女に好意を抱くものも少なくなかったと噂に聞いた。
何を隠そう。私もその一人であったことをここに告白する。
嘉手納真央子の所作は私の心を苦しめた。けれど、皆、わかっていた。
嘉手納真央子がその目で誰を追っているのかということは。
そう、それが小須田羽菜。彼女であった。
最初のうちは小須田羽菜に悋気したものだが、そのうち誰もそんな無益なことはしなくなった。
夕暮れの窓際に談笑を楽しむ二人を見ていると、まあそのなんと絵になることか。
小須田羽菜。
彼女についての記述も必要だろう。
その愛くるしい外見は、校内の男性教員にも評判が良く、また嫌みのない人柄故に同性にも悪い言われはされていなかった。
小柄で細身で、その幼い顔立ちに拍車をかけるお下げ髪が特徴的な素朴な少女。それが小須田羽菜だった。
また両親を早くに事故で亡くしており、祖父と二人で細々と駄菓子屋を営んでいたことも、彼女の評価をより高めたとも思う。
いわゆる同情票というやつだ。
私も彼女にそれを投票したものである。
こんなにも人に嫌われることを知らない子は、私のこれまでの人生で一度たりとも会ったことがない。
それほどまでに皆に好かれ、皆を好み、皆に平等に接する、心穏やかなまるで天女のような人間がこの世に存在したことが奇跡とも言えた。
前に私が美術部内の恋愛トラブルに巻き込まれた際には、それまで大した交流もしていなかったというのに小須田羽菜の方から声をかけてきてくれた。
「鷺ノ森さん、どうかした? スケッチ、あまり進んでいないみたいだけど……。部外者がこんなこというのは非常に無責任かも知れないけれど、私に手伝えることがあるならなんでも言って? 全力で貴女を味方するから」
第一に、こんな大所帯の部内で私のような下手の横好きで在籍している生徒の名を覚えていてくれたことに大変驚いた。
そして、そんな私の変化に気付き、親身になって話を聞いてくれたこと。
やはり嘉手納真央子には彼女しかいないと思った。もし、嘉手納真央子が小須田羽菜以外の人間を隣に置くと言い出したなら、私は嘉手納真央子を軽蔑したことだろう。
小須田羽菜の微笑みには、マイナスイオンが含まれている気がした。
しかしながら、私は嘉手納真央子を中心に物事を考え過ぎていたことに気付く。
それは彼女の登場によって。
「小須田羽菜さんはおられるかしら?」
美術室を訪ねてきたその人は、この校内で最も有名なその人に他ならなかった。
楢木野麻梨香。嘉手納真央子のクラスメイトであり、テニス部のエース。そして何より、この市一帯で一番大きな医院 楢木野クリニックの一人娘という看板がより一層彼女を彩った。
病的なまでに肌の白い嘉手納真央子とは裏腹に、日々屋外で汗を流し、テニスに勤しむ彼女は健康的な肌色をしていた。
肩口までの日焼けした髪はいつもポニーテールにされ、ぴょんぴょんと歩くたびに揺れた。
才色兼備という言葉は、嘉手納真央子やこの楢木野麻梨香のためにあるのだと、私は感嘆したものだ。
「小須田さんなら、外に出かけましたよ。嘉手納先輩と一緒に」
パレットを洗いに廊下へ出ていた私の親友が、楢木野麻梨香の背後からそう告げた。その瞬間、楢木野麻梨香の紅顔が醜く歪むのを見た気がした。
すぐに笑顔を湛えたが、その時の恐怖を私は忘れない。
「そう。ありがとう。彼女が帰ってきたら、三年生の楢木野が探していたと伝えてくれる?」
「はい! 了解しました!」
満面の笑みで答える親友に私は呆れたものだ。気持ちいいまでに人懐っこい面持ちで親友に見送られた楢木野麻梨香の後ろ姿は、スラリと背が高く無駄な肉のないモデルのようであった。
L字を右に曲がり、その姿が見えなくなると、親友は昂奮しながら私の肩を叩いた。
「楢木野先輩だよ! やっぱり綺麗ね。ああ、小須田さんが羨ましい。嘉手納先輩と楢木野先輩に取り合われちゃって!」
「……取り合う?」
「そうよ。最近楢木野先輩、小須田さんの周りをうろちょろうろちょろ。嘉手納先輩といると膨れっ面。耽美な三角関係ね」
肩を竦めて、他人事と笑う親友にやはり私は呆れた。そして自分にも呆れた。
嘉手納真央子は小須田羽菜を選ぶだろう。では、小須田羽菜は?
楢木野麻梨香を選ばないなんて、誰が言えようか。
彼女もまた、小須田羽菜の隣が似合うのだ。
◯
ここから先は、例の事件の後、私が小須田羽菜本人から受けた独白を基に物語を進めていきたいと思う。
小須田羽菜は祖父と二人暮らしであった。それは先にも述べた通りだ。
しかし、それでは言葉が足りないだろう。小須田羽菜は祖父と二人で駄菓子屋 『たま』をやり繰りしていた。だが、その祖父との折り合いは良いとは言えなかった。
小須田羽菜の祖父は周囲でも評判の良い子供好きの優しいおじちゃんであったが、その優しさ故に小須田羽菜を厳しく育てていた。
両親がいないから駄目なんだ。
祖父に育てられたからできないんだ。
そんな心無い言葉に大切な孫が晒されるのは、胸が痛む。
そうならないために、なんでもできるように育て上げてきた。
けれどもそれが小須田羽菜の望んだ教育であったかどうかについては、考える頭がなかった。
祖父のその教育のおかげで、小須田羽菜はF女学院に主席で合格。奨学金制度を受け、本校に通い始めたのだった。
特段裕福な家庭ではない彼女がF女学院の名簿に名を連ねられるのは、紛れもなく祖父のおかげだ。
それは小須田羽菜も重々理解していた。
でも小須田羽菜が喉から手が出るほどに欲しがっていたのは、温度であった。
もっと暖かな家庭に笑いたかったのだ。
故に祖父との関係は中々深まらずにいた。
そんな小須田羽菜の心の隙間に入り込んだのが、嘉手納真央子だった。
中等部の三年間を、小須田羽菜は吹奏楽部で過ごした。担当楽器はトランペット。花形である。しかしそれを投げ出さなければならない理由ができた。
成績が悪くなり始めたのだ。
楽曲をものにしようと練習に励むたび、勉学に励む時間が削がれた。
無論、祖父がそれを許すはずがなく、三年の春に小須田羽菜は唐突に吹奏楽部を退部した。
けれど、小須田羽菜にとって部活動というのは日々を構成する中で重要な位置付けにあり、高等部に進級すると同時に美術部に籍を置いた。
そこで出会ったのが、二年先輩の嘉手納真央子。当初小須田羽菜にとって嘉手納真央子というのは、透明な壁の先にある薔薇のような存在だったという。
しかし、とある出来事を機に彼女達は、ただの先輩後輩の壁を越える。
五月の始めのことだ。まだ肌寒く、袖の長い服装が溢れた日のこと。
日も傾く夕暮れになるとその寒さは更に増し、夏の訪れを遠くに感じる。
小須田羽菜は家を飛び出していた。
部活動を終え、一時帰宅し、家に戻ったはいいものの、祖父に美術部に入部したことがばれ、軽い口喧嘩をしてしまったのだ。
心優しい小須田羽菜のことだ。はたから見てればちょっとした口喧嘩といえど、彼女にとってはその心に大きな虚しさと怒りと後ろめたさを蓄えるに足る出来事だった。
他に身内もおらず、仲の良い友達にも祖父との確執は話していない彼女がこの町で逃げ出せる場所といえば、学校のほかなかった。
一年一組の教室は鍵が閉まっており、担任により戸締りがされた後だった。仕方なく、小須田羽菜は美術室に向かった。
扉を開くと、その薔薇は凛とそこに佇んでいた。窓枠に腰を添えるようにして置き、肩越しにグラウンドを見下ろす、夕暮れに染められたその薔薇は。
「─────世界には、まだ私以外の人間がいたのね……」
嘉手納真央子は小須田羽菜を見ることもなく、そう呟いた。
小須田羽菜は息を飲んだ。そうして、一歩二歩と室内へ歩みを進める。
何が彼女をこんなにも美しくするのか、小須田羽菜にはわからなかった。
「……嘉手納先輩」
声をかけると、嘉手納真央子はやっと小須田羽菜に視線を移した。
口元に笑みを湛えると、体を窓から少し離した。
「誰かが来たんだとは思ったけれど、小須田さんだったのね。……嬉しい。来てくれたのが貴女で……」
「……先輩、ここで何をしているんですか? もう、下校時間はとっくに過ぎてます」
「あら。だったら、貴女だって。どうしてここにいるの? 下校時間はとっくに過ぎてるわよ」
ご尤もな返答に、小須田羽菜は顎を引いた。くつくつと笑う嘉手納真央子に少しの安堵を覚えつつ、彼女は適当な席に腰を下ろした。嘉手納真央子は自分の今の行いを叱りはしないだろうという安堵。そして高揚感。今から私は薔薇に指を伸ばすのだという高揚感。棘に刺されたとしても、それもまた快楽。
時計の針の音が、彼女達の会話を急かす。小須田羽菜は黙ったまま、舌の裏に溜まった唾を飲み込んだ。ネットリとして、喉に絡みつくようだった。もう、舌が上顎にくっつくんじゃないかとも思えた。
先に口を開いたのは嘉手納真央子。
声を発する前に、一度息を吐いたという。その消えるような息の音に、小須田羽菜は背筋を伸ばした。
「……私はね、時折独りなんじゃないかと思うのよ。この世界に。そう、嘉手納真央子という少女がただ一人だと」
悲しそう。寂しそう。いや、楽しそう。
嘉手納真央子の夕暮れに染まる横顔は、複雑な本音にまみれてよく見えなかった。小須田羽菜は目をしばたたかせる。
「……どういう意味ですか? 貴女はむしろ人に囲まれて生きている」
「そうね。恵まれていると思うわ。でも、恵まれているとつい欲張りになるのよね。強欲というの? 罪よね」
「強欲は罪ですか?」
「ええ。罪よ」
「どうして? 何かを欲しがるのは人間の真理です。欲しがらないと進歩は得られないと思いますが」
「それならそれでいいんだけれどもね。私の欲しいものはそれを得たところで何の進歩も与えてはくれないのよ、きっと。だって、終わりは終わりだもの。終了。そこから始まる物語なんて何もないわ。一人称で進むお話なら尚更ね。だったら、何も知らずに笑ってる方がお幸せって話じゃない?」
嘉手納真央子という少女は、時折こうして小須田羽菜を困らせるような言葉を吐いた。つらつらとあたかも意味ありげに、静かな微笑みを拵えて。
「けど先輩は、それでもそれを欲しがるのでしょう?」
「ええ、もちろん。欲しがるわよ」
「……よくわかりません」
「でしょうね。……小須田さん。貴女はどうなの? 欲しいもの、あるの?」
問われて彼女は身を硬くした。
自分は何が欲しいのか。
何を得たいと思っているのか。
果たしてそれが手に入るのか。
「私は……」
心の中で育てた強欲が喉のあたりを頻りに撫でる。
口から外に出ようと喉元で蠢くその不快感に、彼女は唇を噛んだ。
「怖がってばかりいちゃ、得られないわよ。私のように。認めてあげなさい。少しは今より楽になれるはずよ」
小須田羽菜の脳裏に浮かぶのは、幼い頃から何度も思い描いてきた光景。最早焼き付けすぎて焦げ臭くもある。苦い、黒い、寂しい光景。
昼間の縁側。緑の香りが鼻をついて、太陽に目を細めたら、視線の向こうに見えるのは背の高い二つの人影。
皎皎たる景色に笑顔を見せるのは、他ならぬ小須田羽菜である。
「羽菜ー!」
自身を呼ぶ声は聞きなれた優しげな母のもの。大きく手を振り、ロングスカートの裾を緩やかな風に揺らしている。
色の白い肌、細い手足。だけどその顔だけが思い出せない。靄がかかって、よく見えない。
「羽菜、今日は羽菜のお誕生日だから、何でも好きなもの食べさせてやるぞ! 肉がいいか? 刺身がいいか?」
羽菜を抱き上げ、大きく空へ掲げる腕は逞しく賑やかな父のもの。ぎゅっと腕の中に抱きかかえられると、頬擦りをされ、チクチクと無精髭が痛い。
大きな背中に、煙草の匂い。だけどその顔だけが思い出せない。靄がかかって、よく見えない。
「それ、パパが食べたいだけだよね? もう、今日は羽菜の誕生日なんですからね! 羽菜が食べたいものを食べるんですよ」
「わかってるよ。なぁ、羽菜!」
こんな日が本当にあったのか、欲しがる心が作り出した夢想なのかは判然としない。それでもこの光景は何度となく目にしてきた。否、そのような感覚に苛まれてきたと言うべきか。
今はもういない父と母。そしてその愛を一身に受け、幸せそうに包まれて笑う幼き日の私。そんな眺めに小須田羽菜はこれまで何度、その小さな胸を傷付けてきたことか。
欲しがっても意味はない。
そんなものに進歩はない。
今更どんなに手を伸ばしても、終わってしまったものから物語は生まれない。
一人称で進むお話なら尚更。
もう一度、あの景色に戻れることはないのだ。だったら、ならば。欲しがることで傷付くことがわかっているなら。
彼女はそれを欲しがっただろうか。
何も知らずに、何にも気付かずに。
知らないふりして。気付かないふりして。そうやって笑っていれば、お幸せって話なのだろうか。
小須田羽菜には祖父がいた。折り合いが悪いとはいえ、家族がいた。
自分は恵まれているとわかっている。
けれどそんな生暖かい場所に息をしていると、更に欲しがる心が現れる。
ああ、もしこの家に父母もいたなら。
いいじゃない。おじいさまがいるなら。
そう言う人もいるだろう。それでも強欲になる。ああ、祖父でないなら、と。
「……今、どんなことを考えていたの?」
嘉手納真央子のその台詞に、小須田羽菜は我に返った。びくりと肩を震わせ、短く吐息を漏らす。小須田羽菜を見つめる嘉手納真央子の瞳は、研がれた刀のように鋭く、いやに光を帯びていた。
「私は……私は、私が欲しいのは……」
家族? 平穏な暮らし? 優しい家庭?
小須田羽菜は迷った。
多分どれも違うからだ。
なら、自分が欲しいのは。
あの光景の名前は。
「私は……大声で涙が流せる場所が欲しいのです。心の休まる、温かな場所が欲しいのです。意味もなく、理由もなく、ただ無条件に私を愛してくれる人が欲しいのです。突き放すことなく、綺麗事を並べるのではなく、黙って抱きしめてくれる優しさが欲しいのです。大きな背中と優しい声に囲まれて、不安もなく、明日に希望を持って眠りについてみたいのです。失敗を叱り、成功を喜び、悩みに同調し、共に歩んでくれる人が欲しいのです。美味しいご飯を作って、お家で待っていてくれる人が欲しいのです。休みの日に車を走らせて、どこか遠くへ遊びに連れて行って欲しいのです。点数の悪いテストを隠してみたいのです。お小遣いをおねだりしてみたいのです。誕生日に私の好きなものを一緒に食べてくれる人が欲しいのです。運動会には手作りのお弁当が食べたいです。朝はアラームではなく、私ではない誰かが朝ご飯を作る音で起きたいのです。私のことを心配してくれる人が欲しいのです。私の将来を真剣に考えてくれる人が欲しいのです。家の中に温度が欲しい。時に温かく、時に冷たく。喧嘩をしてもいいのです。それでわかり合えるなら、喧嘩もしてみたいのです。会話に温もりを感じたいのです。決して多くは望みません。たったこれだけでいいのです。強欲でしょうか、罪でしょうか。嘉手納先輩……私はそんな世界に生きたいのです」
嘉手納真央子は嘲笑った。
顔を真っ赤にした小須田羽菜を見て、鼻息で笑い飛ばした。
嘲笑。馬鹿にしたのだ。
「そんなもの強欲とは言わないわ。誰にでも与えられて然るべきものよ。……けどね、小須田さん。きっと貴女にそれが与えられることはないのでしょうね。だから私達は立ち止まるしかないのよね。欲しがった先に進歩なんてないんだから。そうやって一人、進んでいく人波に取り残されていくのよね……」
本来、誰にでも与えられて然るべきものが誰かの人生において欠落してしまったというのであれば、では彼女達はその欠落した穴を何で塞げばいいのか。
答えは簡単だ。互いがそこに愛を注ぎ込んで蓋をしてしまえばいい。
それは美しく儚く脆く柔く。指先を掠めただけでも、音を立ててみるみる崩れ去るような不安定な口約束。
それでも彼女達はそれに縋った。
「だったら、小須田さん。取り残された者同士、置いて行かれたその世界の片隅で、汚い路地の隅っこで、二人で舐め合いましょうよ。私が貴女のために、温度のある場所を作り出してあげる」
「先輩……。でも、私は先輩に与えられるものは何もない」
「貴女はここにいてくれるだけでいいわ。こうして、私と他愛もないお話をしていてくれれば」
「それじゃあ、私が納得できません」
「……生真面目な子」
嘉手納真央子は唇を突き出し、顎に白魚のような指を添えた。しばらく考える素振りを見せると、悪戯っ子のようにわざとらしく笑みを湛え、「そうだわ」と声を弾ませた。
「こうしましょう。私に貴女を描かせて頂戴!」
「え? いいんですか?」
文字通り、高嶺の花であった嘉手納真央子に自らを描いてもらえるなど、小須田羽菜にとってはご褒美でしかなかったが、嘉手納真央子の「私は貴女を描きたいの」という台詞に小須田羽菜は首を縦に振ることとなった。
それからというもの、小須田羽菜と嘉手納真央子は授業が終わり、一時間の部活動を終えると、帰路につく女生徒を見送り、人知れず二人きりの時間を持つようになった。
そのうち、嘉手納真央子が小須田羽菜に帰宅を促しても、彼女はその命に背くようになっていった。
無論、そんなことをして彼女の祖父が黙っていることはなかったのだが、たとえ家の中でどんないわれをしようとも美術室に行けば先輩がいることを思うと、小須田羽菜は笑顔で祖父の叱咤を受け入れられた。
その異様な孫娘の対応に祖父はやがて彼女を叱ることすら避けるようになったそうだ。気持ちが悪かったのだろう。怒っても怒っても、ただずっと遠くを見て笑みを浮かべる我が孫娘のことが。
◯
夏も終わり、秋も深くなって来る頃には、二人の関係はさらに奥へ奥へと向かい、小須田羽菜はやがて嘉手納真央子の前で自分を曝け出すようになっていた。
曝け出す───それは、心の中を触れさせるとかそんな曖昧なものではなく、もっと物理的な。そう、実際に纏うものもなく、その柔らかな素肌を曝け出していたのだ。
嫌らしいことではない。だって、嘉手納真央子のその指は、決して小須田羽菜には触れないのだから。掠めることもなく、そしてきっと、触れたいとも思っていない。触れれば、彼女の苦しみをより大きなものとしてしまうから。そんな無責任な行為をするわけにはいかない。たとえどんなにお互いが望んでいても、嘉手納真央子にはできっこない。
「……嘉手納先輩。今度紅葉狩りでも如何ですか? この近所にある公園横の通り、凄く綺麗なんですよ。この前知り合いに教えてもらったんです!」
「そう。いいわね、紅葉狩り」
寒さに耐えた小須田羽菜に、嘉手納真央子は毛布と暖かなレモンティーを差し出した。美術室の端にあるキャンバスには、憂いた顔をした生まれたままの小須田羽菜のデッサンがある。
裸婦を描いてみたいというのは嘉手納真央子の長年の夢でもあったが、自分を描くのも気が乗らないため、小須田羽菜に願った次第だ。こんな願い、他の子にはできはしなかった。それほどまでに小須田羽菜という女性は、嘉手納真央子にとって特別な存在だったのだ。
無論、私だって叶うなら先輩に描いて欲しかった。そのためなら裸にだってなれただろう。それでも嘉手納真央子にとって小須田羽菜でなければいけないというのなら、私は身を沈めるしかなかった。
彼女達の間に流れる空気を吸えるものは、二人以外にいなかった。その空気の存在に気付いていたのは何も私だけじゃない。むしろ、美術部員の中で知らない人の方が少なかっただろう。知った上で皆身を沈めたのだ。肩を竦めて、顎を引いて、一歩後退るのだ。
嘉手納真央子と小須田羽菜は恋仲。
皆がそれを黙認した。
「ねえ、ところで小須田さん。その知り合いというのは、男性?」
「いえ……女性ですけれど」
「どなた? 私が知ってる人かしら」
「ええ。知ってると思います。嘉手納先輩と同じクラスだと仰っていましたから。テニス部の楢木野麻梨香さんです。ご存知ですよね? 嘉手納先輩同様、有名な方ですし」
「……ああ、そう……あの子」
嘉手納真央子は目を伏せた。
長い睫毛が白い肌に寄り添う。感情の読み取れない視線に一抹の美しさを感じつつ、小須田羽菜は問いかけた。
「やはりご存知でしたか。楢木野先輩、嘉手納先輩のことはよく知っていると仰っていましたよ。仲良しなんですね」
無垢な微笑みに、嘉手納真央子はより一層目を伏せる。たちまち眉間に皺が寄り、苛立ちが彼女の体を襲っているのだと気付いた時には遅い。
「仲良しなんかじゃないわよ」
「……そうなんですか。まあ、見解の相違は往々にしてありますよね。AはBを恋人だと思っていたけれど、BはAをただの友人だと思っていた、みたいなことは」
「……そうね。あるわ、よく。そういうことは。往々にして」
二の腕を摩る素振りをして、嘉手納真央子は適当な席に座った。そして前髪を掻きあげた。小須田羽菜は息を飲んだ。
「紅葉狩りはやめにしましょう。それより、今度隣町の美術館で個展があるのよ。貴女も好きだと言っていた新進気鋭の若手画家のものよ、行くでしょう?」
「……ええ。行きます」
「じゃあ、細かな予定はまた後日。この美術室で」
「はい。また後日」
しかしその後日は、いつになっても来なかった。嘉手納真央子がF女学院から姿を消した。何も言わずに、ただ美術室に未完成のデッサンを残して。
小須田羽菜ですら、何も聞かされずに。
ただ忽然と。急に。突然。前触れなく。消えた。いなくなった。学校から。町から。
しかし、世界は回り続ける。
誰かの心の内にその存在が刻み付けられたまま、それでも世界は時を刻む。
そういうものだ。その程度のものだ。
小須田羽菜は放課後になっても、美術室に行くことはなくなった。
そして代わりに、昇降口からグラウンドへと続く階段に座ったままでいた。