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31 訪れた異変

「ヴィルフリート!」


 その一声は、普段のエステルからは考えられない程に切羽詰まったものだった。


 いつもと同じように出勤して午前を過ごしたのだが、お昼休憩後席を外したエステルが慌てて帰ってきたと思ったら今までにない焦った声で呼ぶのだ。

 これにはエリクやマルコも驚いたようで、書類や本から顔を上げてヴィルフリートを見る。


 疑惑の視線に、全く心当たりがないヴィルフリートとしては首を傾げる事しか出来ない。

 普段のほほんとしているエステルがこうも焦燥も露にするなど珍しいし、ヴィルフリートはあくまで普段通りに仕事をしていたので何かしでかした覚えもなかった。


「はい、エステル様。どうかなさいましたか」


 宛がわれている席から立ち、入り口に立つエステルの元に向かうと、エステルはそのままヴィルフリートの手を引いて外に出る。

 急に手首を掴まれて戸惑ったものの、ここでは話せない事なのだとすぐに理解してエステルが誘うままに廊下を歩いていく。


 元々第二特務室は魔導院の端にあり人気が少ないのだが、更に人気のない方向にエステルは進む。

 立ち止まった時にはすっかり閑散としている場所に着いていた。人っ子一人居ない廊下の端。誰も通らないからと魔力灯は最小限、窓から差し込む僅かな陽光が照らす薄暗い空間だ。


「あの、エステル様?」

「……ヴィルフリート、あなた何をしたのですか?」


 何用だと問おうとしたら、エステルが制するように強張った声で問いかける。


 は? と声が出なかったのは幸いだ。

 何をした、と聞かれるという事は、よからぬ事をしたという前提がある。それだけの事が起こっているらしい。


 ただ、ヴィルフリートには全くと言っていい程心当たりがない。

 エステル関連ならば多少あるものの、それはエステルが望んだ事でありエステル本人が責める事はまずないし、何をしたと問う事もないだろう。


 一体何が、というのが顔に出ていたらしく、ヴィルフリートを見たエステルが少しぎこちない動作で懐から一枚の書状を取り出した。

 それをヴィルフリートの手に渡してくるので、読めという事なのだろう。


 折り畳まれたそれを開いて書かれた文字列に目を通して――流石のヴィルフリートも、固まった。


「……イオニアスから、召集がかかってます。筆頭魔導師の執務室に来るようにと」


 内容を端的に言葉にしたエステルは、自分で紡いだ言葉に余計に憂鬱になっているのか煩わしそうに眉をひそめている。

 ここまでエステルが不快感を露にするのは初めてで、ヴィルフリートとしてもどうすればよいのかわからない。


 何故自身が呼ばれたのか、理由は書いていなかった。

 ただ、筆頭魔導師の執務室に来るように、とだけ書いてある。ヴィルフリートが呼び出される理由などディートヘルム関連くらいしかないと自身では思うのだが、それならばディートヘルムは直接呼び出してきそうな気がするし、イオニアスの名前は使わないだろう。


 さっぱり意図が読めずに困惑するヴィルフリートに、エステルは俯いた。


「……どうして、いつもいつも」


 小さく呟いたエステルが側に居たヴィルフリートの胸にやんわりと頭突きしてくるので、一瞬どきりとしたものの、雰囲気はそんな浮わついたようなものではない。


 顔を上げたエステルが思いの外顔を青白くさせていて、胸の高鳴りはかき消え、今度は不安のようなものが滲み出てきた。


 エステルにこんな顔をさせるイオニアスとは、どういう人間なのか。そして、エステルとはどういう関係なのか。


「ヴィルフリート、今の私はあなたに何も言ってあげられません」

「……はい」

「あなたはイオニアスのところに行って、もしかしたら何かを聞くかもしれません。その事について、彼の言う事を信じるな、とは言いません。それはヴィルフリートの自由です。ただ……私の事を、信じて欲しいです」


 その後に小さく「どうか嫌わないで」と聞こえたのは、気のせいだっただろうか。

 かすかに震えたエステルがなぜだか泣きそうに見えて、ヴィルフリートはどうしていいのか分からずにそっとエステルの頭を落ち着くまで撫でた。




「失礼いたします。第二特務室室長補佐官ヴィルフリート=クロイツァー、召集に応じ参上しました」


 エステルと分かれて、ヴィルフリートは重たい気持ちを奮い立たせ筆頭魔導師の執務室の前までやってきていた。

 ノックの後に名乗り上げるものの、心境としては早く帰りたいというものが全てに勝っていた。


 何故呼ばれたかも分からない上、相手は全ての魔導師の頂点に立つ存在。好んで相対したい訳がない。


「入りたまえ」


 少しして、扉の向こうから聞き覚えのある声がした。

 イオニアスのものとは思えない重厚感のある声は、ヴィルフリートが苦手とする男のものだった。


 そういえば彼は筆頭魔導師補佐官だった、と思い出してやや渋い顔になるものの、それを扉の向こうまで持っていくつもりはなかった。


 静かに扉をあければ、部屋の奥に用意されたソファに座る男が居た。

 見掛けは、ヴィルフリートには分からない。

 紗を被っており、その下にうっすらと透ける、端整な顔立ち。紗といえ生地が厚めで、どことなく整ったものというくらいしか分からないが。

 髪は紗で正確には分かりにくいものの、淡い暖色系の髪色。ゆったりとしたローブから覗く手足は、引き締まったというよりは華奢な印象を抱かせた。


 彼が、筆頭魔導師イオニアスだろう。


「よく来たね、ヴィルフリート第二特務室室長補佐官。遠慮なく入るといい。……ああ、ディートヘルム、暫く席を外しておくれ。私は彼と話をしたい」

「かしこまりました」


 ディートヘルムは相変わらずの笑みで恭しく腰を折り、ヴィルフリートの横を通り抜けていく。

 すれ違った瞬間「踏ん張りたまえ」と応援なのか揶揄なのか分からない響きの呟きを落としていくものだから、ヴィルフリートは少々呆気に取られて固まってしまった。


 しかし突っ立っている訳にもいかず、一度腰を折り礼をしてからイオニアスの前に歩み、跪き頭を垂れる。


「初めましてだね、私はイオニアス。顔を上げてくれるかな」


 顔を上げると、先程よりも彼の顔が紗を通して見えた。


 完全には見えないが、女性と見紛うばかりのかんばせで――既視感を覚える。どこかで見たような顔立ちなものの、じろじろと見るのは失礼に当たるので注視はしないようにする。

 イオニアスはヴィルフリートと同年代らしいが、声からすると年下にも聞こえた。


「君の噂はかねがね聞いているよ。若くして一級魔導師に昇格したんだってね。ディートヘルムの気紛れに巻き込まれたみたいだけど」


 あれも困った男だね、と穏やかな笑みを浮かべたイオニアスに、ヴィルフリートは少しだけ安堵した。


 エステルが警戒するから余程の人物なのかと思えば、気性が荒そうとかそういう訳ではなさそうだ。ただ、底知れぬ何かを感じないといえば嘘になるので、安心は出来ないが。


「君も可哀想だね、折角討伐隊の一つの隊長候補にまで選ばれていたというのに、あそこに飛ばされて。環境が変わって大変だろうに。辞めたくならない?」

「……お気遣いいただきありがとうございます。ですが、どこであろうと仕事に手抜きはしませんし、最善を尽くすつもりです。辞めようとは思いません」

「そうか」


 ほんの少しだけ、空気が冷えた気がする。

 けれど、彼が浮かべる笑みは変わりない。


「しかし、折角才覚ある魔導師が現れたというのに、勿体ないだろう。君の才能はもっと生かされるべきだと私は考えているんだよ」

「生かす、ですか?」

「第二特務室では宝の持ち腐れだ、と言っているのだよ」


 その言葉に、激しく違和感を抱いた。


 宝の持ち腐れ、というならばヴィルフリートよりもエステルに相応しい。あれ程までに才ある女性は見た事がない。

 ……常にはらぺこでゆるふわマイペースではあるものの、能力的に言えば圧倒的にヴィルフリートよりも優れているのだ。エステルをどうにかする方が普通は優先な筈なのだ。


 その存在を口にしない、という事は、相当の理由がある。

 筆頭魔導師が存在を無視している、という事から推測出来るのは。


「君が良ければ筆頭魔導師付きにしてあげるけど……どうかな」


 穏やかな微笑みを浮かべた彼は、その実何の感情も宿していないように見えた。


「……いえ、恐れ多いです。慎んで辞退させて頂きます」


 彼は駄目だ。

 そう本能で察したヴィルフリートが丁寧に断ると、イオニアスは意外そうに首を傾げている。


 目先の益を優先する、とでも思っていたのだろうか。


 確かに、第二特務室配属前ならその手を取っていたかもしれない。

 けれど第二特務室で過ごした今、異動したいとも思わなかったし、イオニアスには裏があるという事に気付けた。素直に承諾出来る訳がなかったのだ。


「理由を聞いても良いかな?」

「筆頭魔導師付きは、実力で選ばれるものです。私にその実力があるとも思いません。私は若輩の身です、私のような力量の者がお側に侍る訳には参りません」

「いずれ筆頭魔導師を譲ると言っても?」

「それならば尚更です。私にはまだ筆頭魔導師の名を戴くような実力はありません」


 今なら分かる。

 ヴィルフリートは、まだまだ頂点に立てる存在ではない。エステルという存在が、胸に焼き付いている。

 彼女に追い付けもしないで何が筆頭魔導師だ。頂点に立つならば、誰よりも強くなくてはならない。エステルに劣っているのに、知らぬ顔でそんな立場にはなれない。


 それに……とても口には言えないが、今の仕事は、何だかんだ心地よかった。エステルの側に居てお世話するのも悪くない、そう思えるくらいには。


「……そうかい」


 真っ直ぐにイオニアスを見て答えると、イオニアスは少しため息をついて――愉快げに、唇の両端を吊り上げた。


「なんだ、あれのお気に入りだから取ってあげたかったんだけど……仕方ないか。野心があるって聞いてたんだけど、ちょっとがっかりかな」


 イオニアスの笑みが、今までの穏やかさが嘘のような、ある種の幼さと狂気を感じるあどけない笑顔に変わる。口許だけでそのはかりしれないなにかが浮かび上がるのだから、紗を上げれば明確に浮かぶだろう。

 どこかおもちゃに飽いた子供のような、そんな雰囲気があった。


 表情を崩すのを何とかこらえたヴィルフリートがただ目の前の男を見ると、紗の向こうでくすりと笑い声が零れる。


「ああ、今のは別に君が欲しくて申し出た訳じゃないよ、あれからおもちゃを取り上げたかっただけだから。君が自分で言った通り能力も筆頭魔導師になるには及ばなそうだし」


 単なる方便でお世辞だよ、と悪意があるのかないのか分からないが言葉だけなら残酷な言葉を告げた彼は、つまらなさそうに頬杖をつく。


 屈辱は、不思議と感じなかった。

 ただ、疑問だけが残る。


 イオニアスはあれからおもちゃを取り上げたかった、と言った。

 彼の示すあれ、というのはエステルの事だろう。それ以外、居ない気がする。


「……発言、よろしいでしょうか」

「構わないよ、言ってご覧」

「……あれ、とはエステル様の事でしょうか」

「そうだよ。それくらい分かるだろう」


 何を今更、とでも言いたげな声音に、少しもどかしくなる。

 エステルとイオニアスに何か関係があるのは薄々分かっている。ただ、それが何なのかまでは、エステルからは教えられていなかった。


 知りたい、と思ってしまうのは、どうしようもなかった。


「イオニアス様と、エステル様のご関係は」


 その問い掛けに、イオニアスが一瞬言葉を失った。


「……ふっ、あは、ははは! なんだ、あれ言ってなかったのか! お気に入りの男にすら自分の事を言えないとか傑作だね!」


 次の瞬間にはお腹を抱えて笑い出すものだから、ヴィルフリートは呆気に取られてその姿を見守るしか出来ない。

 ふるふると男性にしては華奢とも言える体を抱え込むように笑っている姿は、幼子のようにも見えた。ただ、幼子にしては随分と、悪辣であるようにも思えるが。


 エステルを馬鹿にされているのは分かるので表情を硬くすると、イオニアスはふと顔を上げる。

 ぞわ、と背筋が粟立ったのは、紗越しにも窺える笑みのせいだろう。


「そうだなあ……私から答えて後で絶望を知らせるのと、君の口から問いかけて泣きそうな顔をさせるの、どちらが良いだろうか。どちらにせよ楽しいと思うけどね」

「……イオニアス様は、エステル様の事がお嫌いなのですか」

「好きな訳ないだろう。疎ましくて恨めしくて呪わしいよ、顔を見るだけで不愉快になる。居なければどれだけ良いと思った事か」


 吐き捨てたイオニアスは、絶句するヴィルフリートに笑みを向ける。

 きっと、紗の向こうにあるのは、極上の笑顔だ。但し、込められたものは好意とは真逆のもの。


「第二特務室室長補佐官ヴィルフリート=クロイツァー。さて、これを見て君はどういう答えに辿り着くかな」


 顔を隠していた紗が、滑り落ちるように取り払われる。

 何の隔てもなくヴィルフリートの碧眼に映った姿に、ヴィルフリートは凍り付いた。


「ま、これ以上ちょっかい出すとディートヘルムが鬱陶しいし、良いか。下がって良いよ。私も体調が崩れてきたし」


 病的なまでの白さを誇る顔を空気にさらしたイオニアスは、本人の申告通り血の気が失せている。


 ただ、春色の前髪の奥に揺れるすみれ色の瞳が、顔色の悪さとは不釣り合いに生気に満ちた輝きを持っていた。

 中に宿るのは、好奇心と、嘲り。


「……君がこれをどう思うかは自由だけど、疑念の種は咲いただろう。さあ、悩むといい。私とあれの関係を、どうして互いに嫌っているかを、エステルは何を隠しているのかを。……一人で抱えて悩んでも、直接本人に問い掛けても良い。どちらにせよ、私はそれが楽しくて仕方ないからね」


 どこまでも愉快げな微笑みに、今度こそヴィルフリートは何も言葉に出来なかった。

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