後編
その場は無事に逃げおおせ、ほっとした和佳であったが、放課後になって窮地に陥る事になるとはまさか夢にも思っていなかった。
「和佳ー。あれからどうなったのか、話してもらいましょうかあ」
にっこりと、それはそれは人の悪そうな笑顔を浮かべた琴巴が、じりじりとにじり寄って来ているのだ。
「ど、どうって」
「川崎と何をどう話したのか、あいつとどんな関係なのか、詳しく教えてもらいたいところなんだけど?」
じわりと嫌な汗が額に滲み、和佳の頬の筋肉がひくりと引きつった。
「どんな、って、去年同じクラスだったっていうだけなんだけど」
「そんな言葉じゃごまかされないわよ。いい? あの川崎よ? あんたがあいつを見ていたってのも信じ難いけど、あいつがあんたを見ていたってのもありえないくらいの事なんだから」
「そそそそそ、そんな事を言われても」
ずいっと迫り来る琴巴から、体を仰け反らせて逃げようと試みる。が、よく言えば粘り強く悪く言えばしつこいこの琴巴の性格から考えて、ごまかされてくれそうにない事だけは確かである。
「本田」
この状況から救い出してくれるであろう神の声とも言える声が、和佳の名を呼んだ。藁をも掴む思いでそちらを仰ぎ見た和佳は、それがとんでもない間違いだったのだと悟った。
「川崎、くん」
「帰り、つきあってくれ」
昼休みに逃げ出した事を根に持っているのか、いつにも増して仏頂面の川崎はその身に妙な迫力をまとい、とてもではないが断る事などできそうにない。
「ふうーん。へえーえ」
珍しい生き物を発見したとでもいうような琴巴の目つきに、和佳は頭を抱えたくなった。
「よし。今日のところは川崎に譲るわ。夜、電話するからね、和佳」
琴巴は笑顔でそう言って、和佳の鞄を手に取り和佳自身に押し付ける。その後ご丁寧にも川崎の方へと背中を押され、和佳は困りきった顔をした。
教室に残っていたクラスメイトたちの視線がこちらに集中していた事に、教室を出る直前に気付いた。川崎はそれだけ有名人で、例の噂もさることながら極端に口数が少ない事から、皆一様に好奇の目を向けずにはいられないようだ。
今夜の琴巴からの電話も怖いが、明日クラスメイトたちからなにを言われるかと思うと、和佳の気分はどんよりと曇るしかなかった。
追い立てられるように教室を後にした和佳は、川崎の後ろを三歩遅れてついて歩いていた。それだけでも学校中のあちらこちらからの視線を感じ、居心地の悪さと逃げ出したい衝動に必死に耐えている。
終始無言でいるのもおかしいかと思って何とか声をかけてみようと試みたのだが、一五六センチしかない和佳よりも二十センチ以上背が高い川崎の背は、案外がっしりとした肩幅も手伝い威圧感を感じるには十分だ。結局声をかけるきっかけもタイミングも掴めず、校門を出るまで見事にひと言も言葉を交わす事はなかった。
校門を出たからといっても同じ学校の生徒たちからの視線は絶えず、ようやく息を抜けたのは、信号を三つ越えてからの事だった。
「そろそろ、いいか?」
前を歩いていた川崎がその歩みを止め、半身を返してこちらを見て声をかけて来た。
「え? なに、が?」
「学校の中じゃ、俺と話すのは嫌だろうと思ったから」
その言葉に今まで無言だった川崎の真意を知り、和佳の顔にかあっと血の気が上った。
「あ、嫌とか、そういうわけじゃなくて、あの」
しどろもどろになって慌てて言葉を捜していると、ふ、と空気が柔らかくなった気がして、川崎の顔を見る。
「冗談だ。俺もあれだけ見られている中じゃ、話しにくかった」
学校では見せた事のない穏やかな笑顔に、和佳の心臓がどくんと大きく跳ねた。
口数が少なく無愛想だという事で、あらぬ誤解を受けやすい川崎は、実は必要な事ならちゃんと言葉を尽くす上に表情が豊かである。その事を知っているのが彼の身近にいるごく一部の人間に限られるため、不倫をしているなどという不名誉な噂を立てられているのだ。
その数少ない人間の中に自分が入っているのが、川崎にとって喜ばしい事なのかそれとも迷惑な事なのか。恐らく後者だろうと確信している和佳であった。
「あ、うん。それで、川崎君の話って、なに?」
どきどきと小刻みに速く脈打つ心臓。確実に顔の赤味を増しているだろうと思ったが、自分ではどうする事もできない。せっかく川崎から声をかけて来たのに、機嫌を損ねて距離を置かれる事は避けたかった。
「まどかが、お前に会いたいって言っていたから」
「まどかさん、が?」
「迷惑だからあきらめろって言ったんだけどな。どうしても連れて来いって聞かないんだ」
困ったような、それでいて愛しい者の姿を思い浮かべるその表情に、和佳の胸にちくりと痛みが走る。学校ではもちろんの事、普段でも、川崎がこんな表情を見せる事は滅多にない。そしてそれはただ一つ、まどかという女性に対してのみ見せるものだった。
その事を知っている和佳は、なんとも言えない複雑な思いに表情を歪める。胸に感じた痛みが、大きくなった気がした。川崎が和佳を見ていたのは、まどかの希望を伝えたかったからで、そのためにこうして和佳に声をかけたのだと分かってしまったのだから。
「迷惑だなんて事、ないよ。わたしもまどかさんに会いたいって思っていたから」
そう答えると、川崎の表情には明らかにほっとした色が浮かんだ。
再び歩き始めた二人は、こんどはほんの僅かに距離を詰めていた。三歩分の距離が二歩分になっただけの違いなのだが、和佳にとってはその距離はとても大きな物だった。
「川崎君って、本当にまどかさんの事が大事なんだね」
前を歩く川崎は、当然の事ながら背中を向けている。だから今和佳の顔に浮かんでいる自嘲気味な表情に気付く事はない。その事がさらに、和佳の心を沈ませる。
川崎に気付かれないよう、和佳はこっそりと溜息を吐いた。
「あ? ああ、そりゃ、まあ」
なにを当然の事を聞くのかと言いたげなその答えに、口の中に苦い物が広がっていく。
「ってーかさ。ちょこちょこ顔を出しに来るって約束したのに、お前が来ないから俺がこんな事を頼まれたんだ」
「え。あ、うん。わたしもそのつもりだったんだけど、やっぱり行き辛いっていうか」
和佳の答えに、川崎の足が止まった。
「なんで。俊樹さんがいないからか?」
「うん」
こっくりと和佳が頷くと、川崎が大きな息を吐き出した。がりがりと頭を掻きながら、言葉を捜しているようだ。
「そのお陰で、俺が毎日呼び出されるわけだ」
「え。そう、なの?」
「そうなの」
怒っているわけではないらしい。その証拠に、眉尻が下がっている。どちらかというと困っているといった方がしっくり来る表情だ。
「でも、兄貴がいないのに新婚家庭にお邪魔するっていうのも気が引けるし」
「お前、あいつの性格、知っているだろう? 毎日毎日『和佳ちゃんはいつ来るの。むさ苦しい弟なんかよりも可愛い妹に会いたいのにーっ』とか言いながら、それでも俺を呼びつけるんだぞ? やってられるか」
不機嫌そうに歪んだ口元に、それが川崎の本心からの言葉なのだと分かり、和佳はぷ、と小さく吹き出した。
「んだよ。だいたい、お前がまどかとの約束を守っていれば、よりによって実の姉貴と不倫だなんて噂を立てられる事もなかったんだぞ」
眉根を寄せてますます不機嫌そうになった川崎に、緩みかけた和佳の頬が引きつる。
「だって、いくら兄貴の家とはいえ肝心の兄貴は単身赴任中だし、身内になったって言ってもまだほんの三ヶ月の事だし。そんなほとんど他人のわたしが押しかけちゃったら、まどかさんに迷惑かな、って」
だんだん言い訳じみて来た和佳の声は、尻つぼみに小さくなっていた。
川崎の両親は姉弟が幼い頃に離婚して、まどかが母親に川崎が父親に引き取られていた。音信は途絶えていたのだが、五年前に母親が病気で危篤状態に陥った際にまどかから
『こんな事を頼める義理じゃないんだけど、最期にひと目会ってやって』
と申し出があったのだ。父親自身は頑なにそれを拒んだが、川崎には
『親子なんだから、行って来い』
と快く送り出してくれた。
駆けつけた時に母親はもう虫の息で、言葉さえも交わす事ができなかった。それでも川崎の顔を見た母親は、苦しい息の下、僅かながらも微笑んでくれた。
結局そのまま母親は他界。通夜にも葬儀にも出席しなかった父親だが、当時高校生だったまどかを未成年だという理由で近くに呼び寄せ、経済的にも精神的にも支えていた。
姓も家も違っても、親子は親子、姉弟は姉弟。元来寂しがり屋のまどかは事あるごとに川崎に会いたがり、川崎はそれを煩わしいと思いながらも姉の可愛い我侭につきあってやっていた。事情を知らない者から見れば、川崎が年上の女性と交際をしているように映った事だろう。
そんな姉の我侭も、本田俊樹という恋人ができてからは、回数が減って来てはいたのだ。しかし二年間の交際を経て結婚に漕ぎつけた直後に、俊樹の一年間の海外赴任が決定した。もちろんまどかも一緒に行くと言い張ったのだが、寂しがり屋のまどかが知り合いもいない見知らぬ土地で生活ができるのか。それを危惧した俊樹が、父親と弟、それに和佳や両親がいるこの地にまどかを残して単身赴任をする事で、事態は収まった。
和佳の兄の俊樹と川崎の姉のまどかが結婚したのは、今から三ヶ月前、和佳と川崎が一年生だった二月の事だ。その間に連日のようにまどかにつき合わされているうちに、事情を知らない者たちの間で不倫の噂が立ち、今に至る。
「だから、まどかはお前が妹になったのが嬉しくて仕方がないんだって。それに、義兄さんがいないからこそ、寂しくて仕方がないんだよ。寂しがり屋の甘えん坊だからな」
和佳の脳裏に、まどかの笑顔が浮かぶ。
「うん。そんな感じだよね」
「ところで」
川崎が距離を詰め、二歩が一歩になる。
「ここ最近、お前が俺の事を見ていた理由、なんだけど?」
ぎくりと和佳の体に緊張が走った。同時に鼓動が激しくなり、しまった、と顔に出る。教室に来られてから、琴巴の事があったり周囲の視線が気になったりと落ち着かなかったため、すっかり失念していたのだ。
「や、やだなー。べつに、見ていたわけじゃ、ないよ?」
無意識に、和佳の足が後退る。一歩の距離がまた二歩に。しかし川崎が間を詰め、二人の距離は一進一退を繰り返す。
「ふうん? でも俺、お前のその目のせいで、生きた心地がしなかったんだけど?」
にやり。小首を傾げた川崎の口角が上がり、なんとなく人の悪そうな笑みが浮かんだ。
「そそそそそ、それ、は、川崎君の、気のせい」
狼狽えながらもさらに後退しようとした和佳の二の腕を、伸びて来た川崎の手が掴む。
「あ? 気のせいで、俺は死にそうになったってわけ?」
「し、死にそうに?」
そのあまりにも予想外の言葉に、和佳の頬が引きつる。そんなに殺人的な視線を送った覚えはないし、ロボットでもあるまいし目にレーザー光線を仕込んでいるわけでもない。それでなぜ川崎が死ぬような目に遭うというのだろうか。
「そ。お前の目に射殺されかけたんだ。だから趣旨返しした」
川崎は、にやにやと薄気味の悪い笑顔を貼り付けたままだ。
「そんな事、言われても、わたし、なにも」
「なにも?」
「た、ただ、見ていただけで」
「見ていたっていうのは認めるんだな」
「ゆ、誘導尋問だー」
「お前が引っかかりやすい奴で助かった」
むー。と口を尖らせた和佳を見て、川崎が笑う。その笑顔を見て、和佳の心が僅かに弾んだ。彼がこんな表情を見せるのはまどかの前でだけだという事を知っているからこそ、その笑顔が欲しいと密かに心の中で願っていたのだから。兄の恋人の弟として紹介された時から。
「でもお前の視線でここを射抜かれたのは、本当だ」
川崎が指し示すのは、自身の胸。その意味をすぐには理解できずに首を傾げた和佳だったが、ややしてその答えに考えが至り、ぼ、と顔から火が出るほど真っ赤になった。
つまり、こっそりと見つめていたつもりだった視線の意味に、彼は気付いていたという事なのだ。
「噂の件も含めて、責任、取ってもらうからな」
「せ、責任、って?」
掴まれていた腕を突然引かれ、身構えてなどいるはずもない和佳は、あっさりと残りの一歩を踏み出した。
二人の距離がゼロになり、和佳の頬に柔らかで温かな感触を残してまた離れる。
「え。えええええーっ!?」
一気に三歩後退った和佳を、川崎が一転して真面目な顔つきでまっすぐに見つめて来る。
「えええーっ!? だって、だって、ありえない、よー?」
和佳は再び叫びながら、程近い距離からの川崎の視線に、心ごと体ごと、射抜かれた気がした。