前編
まただ、と思った。
場所は学校の中庭。時間は昼休み。つまり昼食の時間である。本田和佳はできる限り平静を装いつつも、動揺を隠せないでいた。
彼女が視線に気付いたのは、今から一週間前。もしかするとそれまでにも向けられていたのかもしれないが、どちらかというと鈍感の部類に属する和佳が気付いたのが、つい先週の事だったのだ。
そわそわと落ち着きを失くした和佳の様子に、隣で弁当を食べていた友人の豊田琴巴が気付いた。
「もしかして、いつものあれ?」
その言葉に和佳が無言でこくこくと頷くと、琴巴がきょろきょろと周囲を見回す。緊張でがちがちになっている友人の代わりに、視線の主を探そうというのだ。
向けられる視線は温かい物ではなく、まるで刺すような鋭さを含んでいる。誰かから恨みを買うような覚えがない平和主義の和佳は、その視線を受けただけで体が強張ってしまうのだ。
窮状を見かねた琴巴が自ら進んでこの役を買って出たのは一昨日の事だが、未だ視線の主を特定するには至っていなかった。
琴巴は、初日はまあ仕方がないと言った。昨日はなぜだか悔しがった。そして今日は、何が何でも見つけてやるのだと息巻いている。当の本人である和佳よりも協力者であるはずの琴巴の方が、よほど事態に対して前向きと言えよう。
「んー。どっちの方向からか、見当つかない?」
そう言われてみても、元から鈍い和佳の事。とてもではないがそこまでは特定できそうにはなかった。
「だめ。わかんない」
そう答えた瞬間、琴巴がいきなり立ち上がる。
「見つけたわよ! そこの男、待ちやがれ!」
そう叫びながら走っていく後ろ姿を呆然と見送る事しかできずに、和佳は右手に持った箸を宙に止めたまま固まっていた。
経過する事五分余り。和佳の元に戻って来た琴巴の右手は、一人の男子生徒の上着の襟元をしっかり握りしめていた。二十センチ以上身長の差がある男子にも負けない脚力の持ち主である琴巴は、実は陸上部中距離のホープなのだ。
「捕まえたわ。こいつよ」
そんな琴巴にずいっと押し出されたその顔を見て、和佳の大きな目がさらに大きく見開かれる。なんともなれば、目の前にいるのは、和佳も知っている男子生徒だったからだ。
「川崎、くん?」
一年生だった昨年度和佳と同じクラスだったその男子生徒は、賑やかだったクラスの中では、異質なほどに口数が少なかった事を覚えている。だからと言って、物静かで存在感が薄かったというわけではない。むしろある意味、とても目立つ存在ではあったのだ。
「さあ。和佳を睨んでいた理由を白状しなさい!」
琴巴に言われたからというわけでもないのだろうが、呆然と見上げる和佳の視線を受け、川崎は煩わしそうに口元を歪めている。
「睨んでいたわけじゃない。見ていただけだ」
なんとか耳に届く程度の声でぼそりと呟くように答えた川崎の視線が、和巴の物と重なった。咄嗟に逸らしてしまえばよかったのだが、呆然としすぎていてタイミングを逃し、しばし対峙する形になってしまう。
和佳は恥ずかしさと気まずさから頬に熱を持った事に気付いたが、さらになぜか背中には冷たい物が伝っていた。
「だから、その見ていた理由を言えって言ってんのよ」
琴巴はそんな和佳の様子には気付かず、ずずいっと川崎に詰め寄っている。
「本田が、見ていたから」
「え」
相変わらず言葉少なに要点だけしか告げないその話し方は、同じクラスだった頃から少しも変わっていない。その事にほっとしながらも、告げられた言葉の内容に、和佳の肩がぎくりと跳ねた。
「はあ? なに言ってんの、あんた」
「本田が俺を見ていたから、俺も本田を見る事にした」
一重で切れ長の目でまっすぐに見つめられていると、まるで睨まれているかのように感じる。川崎の事をよく知らなかった頃は、たまたまこちらを向いていたというだけで取って食われるのではないかという勘違いをしそうになったほどだ。
だがその目つきは実は彼の特性で、深い意味などなくただ見ているだけなのだと、今の和佳は知っていた。
つまり、刺すような視線だと感じていたのは、和佳の思い違いだという事になる。さらにはこっそりと見つめていたつもりだったのに、川崎本人にとっくにばれてしまっていたのだ。
事情を解した和佳の頬が、さらに赤く染まった。
「和佳が? 川崎を?」
信じられないと言わんばかりに大きく見開かれた琴巴の目が、和佳に向けられる。川崎といえば、恐らく学校中で知らない者はいないのではないかと言われるほどに有名な男子生徒だったのだ。年上の彼女がいて、しかも人妻つまりは不倫だと。
そんな川崎を和佳がずっと見ていた上に、気付けなかった事がよほど解せないらしく、琴巴が口をあんぐりと開いている。
川崎と琴巴二人の鋭い眼光を浴び、和佳はいたたまれなくなった。
「あ、あの。ごめんなさいっ!」
二人に向かってぺこりと頭を下げた和佳は、その場所から逃げ出すべく、体を反転させる。だがそこで弁当箱を広げたままだった事に気付いてしまい、逃げ出すタイミングまでをも失ってしまった。
「ああ、なるほどね、そういう事なの」
驚きから一転、腕組みをして妙に納得している琴巴を前にして、和佳は思わず心の中で突っ込まずにはいられなかった。なにがなるほどで、どこがそういう事なのかと。
「お邪魔虫は消えるから、お互いきちんと話し合って、誤解を解きなさいね」
手早く弁当を片付け、琴巴がさっさと背を向ける。和佳がそれを引き止める暇もあらばの素早い行動であった。
呆気なくもその場に取り残された和佳は、気まずさと共に気恥ずかしさで逃げ出したくて仕方がない。川崎の視線が相変わらず自分に向けられている事には気付いていたが、向かい合うにはかなりの努力と根性が必要なようだった。
「え、と。お久しぶり、でいいのか、な」
あまりの気詰まりに、和佳が突破口を開こうと試みる。
「学校で毎日、顔を見ているだろう」
川崎が不機嫌そうに、僅かに口角を上げた。彼には珍しいその表情に、和佳の心が微かながらにも浮上する。現金なものだと思うけれど、嬉しいものはやはり嬉しいのだから仕方がない。
「それは、そうだけど。でも、話をするのは、久しぶりかな、って」
「ああ、まあな」
元々口数が少ない川崎相手では、順調に会話を続ける事さえも困難だ。和佳はその事を身をもって知った気がした。
「まどかさん、元気?」
「ああ」
和佳の問いかけに答えながら、川崎が花壇を囲むブロックに腰を下ろした。目線だけで空いている隣を示し、どうやら和佳にそこに座れと促しているらしいと気付く。
「川崎君の噂の相手って、まどかさん、だよね?」
少し考え、和佳は膝上のスカートの裾を気にしながら、川崎から少しだけ離れた位置に座った。一応見えてもいいようにスカートの中に短いスパッツを穿いてはいるのだが、それでもやはり恥ずかしさがあるのだ。
「そうらしいな」
そんな和佳の様子を見て、川崎がくすりと笑う。滅多に見ない彼の様子に、和佳は思わずじっと見つめてしまった。もちろん川崎の答えに反応しての事でもあるのだが。
「いいの?」
「べつに。いちいち説明して回る方が面倒だから」
「でも、川崎君もまどかさんも、辛く、ない?」
「あいつが気にすると思うのか?」
和佳の脳裏に、件の女性の穏やかで蕩けそうな笑顔が浮かぶ。いつも前向きでポジティブ思考のまどかは、和佳の憧れだった。
「しなさそうだよね、たぶん」
「たぶんじゃなくて、しないんだよ」
呆れているような川崎のその言葉には、けれど確かに優しい響きが含まれていた。つきん、と小さな痛みを感じたが、それを隠すかのように和佳が笑みを浮かべる。
「そんな感じ、だね。うん」
できるだけ不自然にならないように表情を作っているのだが、事あるごとに琴巴から
『和佳はなんでもすぐに顔に出るよね』
と言われているだけに、その成果にはすこぶる自信がない。必然的に視線どころか顔をも川崎から逸らせる事になるが、隣り合って座っている今の状況ならば、怪しまれる事もないだろう。そう踏んでいた。
「本田に聞きたい事がある」
しかしどうやら川崎は、和佳に視線を向けたままらしい。声の向きでなんとなく分かり、和佳はお尻の辺りがむずむずするような心地悪さを感じた。もちろん川崎に他意はないのだろうが、彼の切れ長の目から鋭い視線を向けられているというだけで、和佳の思考を混乱させるには十分だったのだ。
「え。な、なに?」
「本田が俺を見ていた理由」
その言葉に、和佳の心臓が大きく跳ね上がった。直球勝負とでも言うべきか、そこが川崎らしいと言うべきか。
「み、見てたのは、川崎君のほうじゃない!」
「お前がずっと俺を見ていたから、意趣返し」
意趣返し。その言葉の意味を思い出そうと、頭の中の数少ない語彙を片っ端から探す羽目になった。もっと分かりやすい言葉を選んでくれればいいのにと、川崎の責任ではない事を十分理解しつつも逆恨んでしまう和佳である。
そしてようやく思い出した言葉の意味に、和佳の顔から血の気が引いた。
意趣返しとは、復讐や仇討ちの事である。ただ気になるから見ていただけなのだが、まさか恨みを買ってしまっていたとは。
本気でいたたまれなくなった和佳は、その場に勢いよく立ち上がった。
「ご、ごごごごごめんな、さいいいいいっ!!」
そして長く尾を引く謝罪の言葉を残し、その場から脱兎のごとく逃げ出した。自他共に認める運動オンチとは思えないほどの、見事な逃げっぷりである。
声をかける事さえも忘れていた川崎がほどなく我に返り、
「なんなんだ、あれは」
と呆然と呟いた。