いざない、夢枕
「じゃあ、また明日」
「うん、また」
手を振って、彼女と別れる。
栗色の長い髪を揺らして、彼女は道の角へ消えていった。
直後。
悲鳴のようなスリップ音と、鈍く何かがひしゃげる大きな衝突音。
慌てて音のした方――彼女の消えた角の向こう――で僕が見たのは、ぐしゃぐしゃに潰れたトラックと、血溜まりに広がる長い髪だった。
葬儀はあっという間に終わり、僕は制服から着替えもせず。ただ呆然と、電気もつけずに自室のベッドに寝転がっていた。
あれから今まで、何をどうして過ごしていたのか。
何も思い出せない。
ただ、僕は生きていて、
彼女は――
「もう、いない……」
自分の口から出たかすれ声が、まるで他人のもののようだった。
辺りが暗い。いつの間にか眠ってしまったようだ。
一体何時なのだろう。
そう思って、枕元の時計を見ようとして、
誰かがいる。
どう言っていいものかわからないけれど、気配というのだろうか。無音でありながら無音でない、そんな部屋の音と僕との間に、何かが、誰かが存在している。
動けない。
いや、動こうと思えば動けるのかもしれない。でも、踏み切れない。そこにいる「誰か」の存在が、僕に行動をためらわせる。
じりじりと、引き伸ばされたように時間がすぎていく。
どう、すれば……。
ふっと、突然身体が軽くなった。音が遮られる圧迫感もない。
理由は明白。消えたのだ、そこにいた「誰か」が。
そして、微かな石鹸の香りが、僕の鼻腔をくすぐった。
いつも彼女がまとっていた、清潔な香りだった。
『じゃあ、また明日』
彼女と最後に交わした言葉を、聞いた気がした。
次の晩も、その次の晩も。
夜中にふと目が覚めては、枕元に「誰か」の気配を感じていた。
何をしてくるでもなく、何を言うでもなく。ただそこにいるだけ。
そして、仄かな石鹸の香りを残して消える。
身を起こして、姿を見てみようと思いもした。
だけど、なぜかいつも、指先程度しか動かせないのだ。
動こうと思えばきっと動ける。でも、それをしないのは僕だった。
見てしまったら、終わってしまうんじゃないだろうか。
……何が終わってしまうんだ?
『じゃあ、また明日』
石鹸の残り香とともに、僕はふたたび眠りに落ちる。
そうして、半月。
真夜中の「誰か」の存在は、半ば日常と化していた。
起きるでもなく、起こされることもなく。
ふっと、夜中意識が覚醒したときだけ。
枕元で感じる「誰か」の気配は、条件が重なれば必ず感じられた。
ただ、
なんだか近い。
初めて気づいた日よりも、明らかに距離が近い。
それは、僕と「誰か」が日に日に、物理的に近づいていることを示していた。
ふわりとただよう石鹸の香り。
さらりと、長い髪が揺れる音。
見てたしかめることはしなかったけれど、僕はもう、ほとんど確信していた。
会いに来てくれているんだ。
もう二度と会えないはずの、「彼女」が。
僕の手の届かない、どこかから。
僕も応えるべきだろうか。何かしたほうがいいだろうか。
本当に、彼女ならば。
彼女がそこにいるのなら。
一度思いついてしまったら、暗闇の中、気持ちは急くばかりで。
僕は応えたい。何かしたい。
どうしよう。どうすればいいだろう。
『ねえ』
声が。はっきりとした声が。
『いっしょにいかない?』
ああ、話しかけてくれた。聞き間違えじゃない、明確に、僕に対して!
「……どうすればいい?」
だから僕も、はっきりと言葉にした。
微笑む気配。思い出される、大好きな笑顔。
『手を』
うるさい鼓動を無視して、僕は天井に向かって手を伸ばす。
『いっしょにいこうね』
そして僕の手に、
なんだこの感触。彼女の手は、こんな……?
初めて「誰か」に目を向ける。わずかに見える影の輪郭は、どう見ても人間のものじゃない。
「ちょっと待っ――」
『い っ し ょ に い き ま し ょ う』
声も口調も、もはや彼女を思わせるものは何もなくて。
硬く冷たく大きな手が、僕を布団から勢いよく引きずりだした。
僕は、僕はどこで。
いつ、間違えた?