7 過ぎ去りし日の思い出② ‐日野陽子‐
あれから陽子は、学校であの女子生徒を見かけることが多くなっていった。というよりも、今までは気付かなかっただけで、本当は何度も見かけていたのかもしれない。けれど今でははっきりと陽子の目に彼女の姿は映る。まるでそこだけ色がついたみたいに。
陽子は気がつくと彼女を目で追うようになっていた。猫のキーホルダーがついた黒いリュックを背負い、フワフワの髪をなびかせながら、少し短いスカートを履いて歩く。そんな彼女の姿を陽子は少しずつ覚えていった。けれど声をかける勇気は出ず、ただボーッと見つめては、そのまま何もなかったかのように目を逸らす。そんなことを続けていると不意に彼女と目が合う時があった。すると決まって向こうはニッコリと笑いかけてくる。それを見て陽子も軽く頭を下げる。そういったことが度々あった。
ある日の放課後、陽子が図書室に向かうと、図書室の前の廊下に黒いリュックが置かれていた。見るとそのリュックにはあの猫のキーホルダーがついている。
もしかしてこれって……。
その瞬間、一気に胸の鼓動が高まった。
「あ!」
聞き覚えのある声が後ろから聞こえる。振り返るとあの女子生徒がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。陽子はやっぱりそうだったと心の中でつぶやく。
「なんだか最近よく見かける気がする」
「そうですね」
返事をしながらも、陽子はひどく緊張していた。心臓の音がやたらと煩い。
「今日も図書室?」
「あ、はい」
「そっか、すごいね。あたしなんて普段全然読まないから」
その言葉を聞き、陽子は不思議に思った。
「え、でもこの間……」
そこまで言うと彼女はしまったといった様子で眉を寄せ、陽子の言葉に被せるように言った。
「あー……あの時はちょっと色々事情があって……」
「そうですか……」
気にはなったが、陽子はそれ以上は聞かなかった。そして彼女の方も特にそのことについては触れてこなかった。少しだけ気まずくなり、陽子は必死に他の話題を探す。
「あの、このリュックってもしかして先輩のですか?」
知っていたが、わざと知らないフリをした。どうして知っているのかと聞かれるのが恐かった。
「うん、そう。さっきトイレ行くのにここ置いてったんだ」
「え、でもどうしてここに?」
「ああ、彼氏とここで待ち合わせしてるから」
「え? ここでですか?」
「いや、本当は教室で待ってようかと思ったんだけど、今日ってほら三者面談の日だから。それでパッと思いついたのがここだったんだよね」
「なるほど……」
この学校の図書室の前の廊下には、木製のベンチが一つ置いてある。なぜこんなところに置いてあるのかわからないが、確かに座って待つには丁度いいかもしれない。けれど、敢えてここで待ち合わせする必要もないように思えた。
「図書室で待ち合わせにはしなかったんですか?」
「しないよー。だって、図書室って基本静かだし。喋っちゃいけないみたいな雰囲気あるでしょ?それに話聞かれるのも恥ずかしいし」
「あの言いづらいんですけど……」
「なに?」
「この前図書室にいた時、先輩の話し声廊下から聞こえてきました……」
「ウソ! 本当に?」
そう言って彼女は頬を赤く染め、それを両手で隠した。可愛らしいその仕草に一瞬ドキッとする。
「あ、いやでも、そこまでじゃ……」
「それいつ? 何の話ししてた? あたし」
「いつ……。二回目に図書室で会ったときだから……」
「あ、もしかしてあたしが本返しに来たときかな?」
「あ、そうですね、その日です」
「えー、うわー、何話してたっけ~」
「なんか、麻美龍一の今回の話がどうとか……」
彼女はああと言った後、何かに気づいたように慌てて陽子の顔を見た。
「もしかして、話全部聞いてた?」
「あ、いや全部は聞いてないですけど、少し……。すみません」
「ううん、全然いいの! ごめんね。そうじゃなくて……。変に思われたかなとか……」
それはきっと陽子が気になっていたことと同じことを言っているのだろう。陽子は少しだけと返事をした。
「だよね、普通そうだよね。他の人に貸してる本を図書室で借りてたら不思議に思うのも無理ないと思う。うん」
「……でも、どうしてそんなこと……?」
陽子は相手の顔色をうかがいながら尋ねた。彼女は一瞬迷いを見せたが、そのまま話し始めた。
「……彼氏が麻美龍一の小説が好きで。それでこの前たまたま一人でいる時に本屋に寄ったら、新刊コーナーに麻美龍一の新作が置いてあったの。普段小説なんて読まないんだけど、好きな人の好きなものって気になるじゃない? だから……つい買っちゃったんだよね。でも何だか買って満足しちゃって……」
「もしかして、そのまま……?」
彼女は黙って頷く。
「……それで一週間が過ぎて、あたしもちょっと忘れかけてた頃に彼氏が麻美龍一の新作の話をしだしたの。読みたいけどまだ読めてないって。だからあたし買ったから貸そうか? ってつい言っちゃったんだよね」
「……まだ読んでなかったんですよね?」
「うん……。だから言ったでしょ? つい言っちゃったって。そしたらその後凄く嬉しそうな顔して、陽菜も麻美龍一好きだったっけ? とか言うんだよ。だからね、前に好きだって言ってたの思い出して買ったんだって言ったんだ。そしたらますます嬉しそうな顔して、どうだった? 面白かった? って……。その顔見てたらまだ読んでないって言いづらくなっちゃって……」
「それで自分が買った本を貸して、自分は図書室で借りて読んだってことですか?」
彼女は目線を下に逸らしこくりと頷く。陽子はそういうことだったのかと妙に一人納得していた。
「……何か先輩可愛いです」
「な、馬鹿にしてるなー」
「してないですって。本当に可愛いなと思ったから」
彼女はまたも顔を赤くして、両手で顔を隠すようにして覆った。そんな姿を見ながら、陽子はもし自分がそんな風にしてもらえたらどんなに嬉しいだろうと思った。そしてその相手が自分じゃないということがただひたすらに辛かった。
そんなことを思っていると、突然男の人の声が廊下に響く。
「陽菜! 悪い、ちょっと覗いてくつもりが遅くなった」
その声の主はガタイの良い色黒の男子生徒だった。彼はこちらに向かって小走りしている。
あの人が先輩の彼氏かな……。陽子は彼の姿を見て少し複雑な気持ちになった。悪い人ではなさそうだが、陽子は彼に対して良い印象を受けなかった。
「あー、やっと来たな」
彼女はそう言うと置いてあったリュックを肩に背負い、陽子を見て言った。
「それじゃあね」
「あ、さよなら……」
男子生徒と二人並んで廊下を歩いていく。その姿を陽子はただ見つめることしかできなかった。彼女がいた場所には微かに優しい香りが残っていた。




