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あの日々は蒼き春  作者: つきもと みや
3/13

3 出会いと別れ ‐大野春美‐

 今思えばおかしなことばかりだったなと、ここ最近の出来事を振り返り春美は思う。同棲している彼氏が浮気をしていたことを知ったのは昨日のことだ。その日は大学の友人達と朝まで飲もうということになっており、彼氏の誠にもそう伝えていた。しかし何人かの子達が遅くまで飲めなくなってしまい、結局予想よりも早くにお開きになった。


「ただいまー……」


 寝ていたら悪いと思い、あまり大きな音を立てずにドアを開け、廊下の電気をつける。すると玄関に、自分のものではない女物の靴があった。まさかとは思ったが、信じたくなかった。

 ゆっくりと寝室のドアを開ける。するとそこには彼と見覚えのある女の人が布団の上で寄り添うように眠っていた。

 思いっきりドアを開けてやればよかったと思いながらも、春美はその場から逃げ出してしまった。サークルの活動を理由にここ最近デートに行かなくなっていたことも、夜は先に一人で寝てしまっていたことにも全てに納得がいった。

彼はもう私を好きじゃないんだ……。

 春美は辛い現実から目を背けたくて一人で居酒屋に入りお酒を浴びるように飲んだ。けれどお酒は春美の現実を忘れさせるどころか、ますます悲しい気持ちにさせていった。

 だいぶ酔ったところで、そろそろまずいと思い居酒屋を後にしたが、彼の待つ部屋に帰れないことを思い出す。どこかホテルでも探そうかと適当に歩き出した。

 ――とここまでが春美が覚えていたことだった。そのため、目を覚ましたときに視界に入ってきた見覚えのない天井に一瞬頭が混乱した。


「あれ……ここ……」


 むくりと体を起き上がらせると、そこは見たことのない和室だった。自分がどうしてこんなところにいるのか分からずに呆然としていると、その部屋の襖がガラガラッと開く。見るとそこには背が高く、髪の短い女の人が立っていた。


「あ! シュウ、起きてたよ!」


 その女の人はそう誰かに呼びかけると、春美のとこに駆け寄ってきた。


「あの、私……」

「具合大丈夫ですか?」


 女の人はよく見るとすごく整った顔立ちをしていて、春美は一瞬どきりとした。


「あ、はい……」


 少しだけ頭が重かったがそれは言わなかった。


「はぁー、よかったー。ところで昨日のこと覚えてますか?」


 昨日……昨日は……とそこまで考えたところで彼の浮気のことを思い出し、また少し気持ちが沈む。


「昨日は確か、お酒を……飲んで……そのあと、泊まるところを探そうとしたとこまでは覚えてるんですけど……」

「じゃあ昨日うちの前にいたのは覚えてない?」


 女の人にそう聞かれ、こくりと頷く。すると、


「そりゃそうだろ。昨日相当酔いつぶれてたし、俺らの声にも全く反応してなかったんだから覚えてるわけねーって」


 そう言って男の人がこちらへと向かって歩いてきた。


「あのさ、あんまし飲み過ぎると危ないから気を付けないとダメだよ。特に女の人なんだから。今回はたまたまうちの前に倒れてて、たまたまこいつが見つけたから良かったけど」

「ちょっと、シュウってば!」

「何だよ」

「起きてすぐの相手に、いきなりそんなこと言わなくてもいいでしょ」


 女の人はそう言ってくれたが、彼に言われたことは最もだった。それだけに春美は自分が恥ずかしかった。


「そう、ですね……、すみません。昨日はちょっと、いろいろあって……。あ、あの泊めていただいてありがとうございました。このお礼は後日改めてさせてください」


 そう言って二人に頭を下げた。


「いや、そんなお礼なんて……。それよりお風呂とか入りたくありません?今沸かしてるんですけど、よかったら」


 女の人はそう言うとにっこりと春美に微笑んだ。


「いえ、そこまでしてもらうわけには……」

「いいから入んなよ。酒臭いし」


 すかさずさっきの男の人が言い返す。そうかもしれないけど、そんなにはっきり言わなくても……。するとそれを察したように、女の人が春美の耳元で呟いた。


「あんな言い方してるけど悪気はないんだ。ごめんね」


 まるで自分のことのように彼女は謝った。



 結局春美は二人の好意に甘え、お風呂に入らせてもらうことにした。湯船に浸かりフーっと息を吐く。そのまま顔を上に向け、昨日の出来事を反芻し、そしてこれからどうしていくべきかを考えようとした。だが、頭が思い出すことを拒否してつい考えることをやめてしまう。

 彼と同棲していたあの部屋は、もともと彼の部屋だった。だから、出ていくとしたら春美が出ていかなければならない。けれど、新しい部屋を探す時間もお金も春美にはなかった。実家に帰ってもきっと家に居づらいだろう。夜遊びや男関係にうるさい親に嫌気がさして、黙って出て行ったっきり親と会っていなかった春美は実家にも帰りづらかった。


「どーしよ……。でもとりあえずは一回戻って荷物とか取ってこないといけないしな……」


 嫌だなーと呟き、春美はそのままブクブクと湯船の中に消えていった。



 お風呂から上がり、女の人が貸してくれた着替えを着てリビングに向かった。


「あ、サイズどう? ちょっと大きかったかな?」


 彼女の言うように、腕と足の部分が少しだけ長かったが、貸してもらえるだけでも有り難かったため、春美はブンブンと首を横に振った。


「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

「流石に下着は嫌かなと思って貸さなかったんだけど……」

「いや、そんな、嫌とかではないですけど、そこまでしてもらうわけには……。あの、この服も洗って返しますから」


 そう言うと奥の方で咳払いが聞こえた。


「あのー、一応男もいるんですけど……」


 あ、と思い出し急に恥ずかしくなる。そうだった、忘れてた。


「ああ、ホントだ。忘れてた、ごめんごめん」


 女の人はそう言って朗らかに笑う。そうやって笑う姿は一際可愛く見えた。


「ったく、ひでーなあ、せっかく飯作ってやったのに」


 テーブルの上には出来立てホヤホヤのオムライスが三つ並んで置いてあった。


「あ、もう出来てる! ねえねえ……あ、そういえばまだ名前聞いてなかったね。なんていうの?」


 女の人にそう聞かれ、大野春美ですと少し小さな声で答えた。すると、春美か……いい名前だねと彼女は優しく笑った。


「私は日野陽子っていうの。で、あいつは真田シュウ。高校からの友達なんだ」

「え? 二人付き合ってないの?」


 春美が驚いてそう聞くと、一瞬シュウの体がぴくりと反応した。


「付き合うわけねーだろ、こんな女と。俺そこまで趣味悪くないし」

「うわ、何今の感じわるーい」


 でも、じゃあなんで……。


「二人は友達だけど一緒に住んでる……ってこと?」


 春美にはにわかに信じられなかった。


「もともとここは俺のおじの家なんだ。しばらくの間家を空けるんで、その間に俺が住まわせてもらってんの。そしたらこいつしょっちゅう遊びに来やがって……」

「気づいたらここで一緒に住むようになってたんだよね」


 と陽子はシュウの言葉に被せて言った。でも、しょっちゅう遊びに来てて、そのうち一緒に住むだなんてことになるのだろうか? しかも異性同士で……。そうは思ったが、自分が口を出すことではないと思いそれ以上春美は考えることをやめた。


「ねえ、春美さんオムライス好き?」

「うん……。大好き」

「よかった。よし、じゃあ一緒に食べよ!」

「……いいの? ありがとう」


 そう言って笑うと二人は嬉しそうな顔をした。



「本当にお世話になりました」


 春美はペコリと頭を下げた。


「いえいえ、でもこれからは飲み過ぎないようにしないとね」

「……はい、気をつけます」


 そのまま春美がそれじゃあと言って出ていこうとした時、


「もし駅まで行くんなら俺送ってこーか?」


 思いがけずシュウがそう声をかけたので春美は少し驚いた。


「え、いや、でも」

「そうだね、送ってもらいなよ。この辺入り組んでてちょっとわかりづらいし」


 陽子がそう言うとシュウは春美の肩をたたいて、ほら行くぞと声をかけた。


「あの、本当にありがとうございました」


 そう言ってもう一度陽子に頭を下げると陽子はヘラヘラと笑いながら、またねと手を振った。



「いやー、ほんとは車で送っていければ良かったんだけど」


 シュウは春美の少し前を歩きながら言った。


「いえそんな、送ってもらうだけでも申し訳なくて……」


 するとシュウがピタリと足を止め春美を見る。


「いくつ?」

「え?」

「歳、いくつ?」

「あ、二十です」

「なんだタメじゃん。んじゃ敬語禁止ね」

「え? いや、いきなりそんなこと言われても……」

「敬語一回につき罰ゲーム!」

「ば、罰ゲームってなんですか?」

「はい、今敬語使ったから罰ゲーム決てーい」

「ええ……」


 強引な人だな……。そう春美が呆れていると思いもよらないことを聞かれた。


「じゃあ、罰ゲームとして質問を一つ。……昨日いろいろあったって言ってたけど、それはもう大丈夫なの?」


 一瞬どきりとした。そういえばさっきそんなようなことを言った気がする。


「あ、えと、それは、ほんと、大したことじゃない……から、大丈夫」

「本当?」


 そう言ってシュウは春美の顔を覗き込む。少し日に焼けた肌に、くっきりとした眉毛、そして全てを見透かしているかのような鋭い目が春美の顔をじっと見つめる。そんなシュウの姿に思わず春美は目を逸らし、うんと頷く。心臓の鼓動がうるさいほどにドキドキしていた。


「なら良かった」


 シュウは二カッと笑いまた歩き始める。そんな小さなことまで覚えていてくれてたことに春美は素直に嬉しかった。


「……シュウさんよく覚えてたね、そんなこと」


 春美がそう聞くとシュウは途端に切ない顔つきになる。それが春美は少し気になった。


「あいつが……陽子がさ、気にしてたから。そのこと」

「陽子さんが?」

「うん、そう。女の子があんなに酔うなんて、よっぽどのことがあったんだろうって」


 なんだ、シュウさんが気づいたわけじゃないのかと、なぜか春美は少しだけがっかりした。


「そっか……いい人だね、陽子さん」

「ああ、あいつはいいやつだよ」

「シュウさんも、ね」

「えー、俺は違うよ」

「どうして? そんなことないよ。今だってこうして駅まで送ってくれてるし。二人共本当に優しいなって思う」

「褒めても何もでねーぞ」


 そう言って少しだけ顔を赤くしたシュウを、春美は可愛いと思った。


「てか、シュウでいいよ。俺も春美って呼ぶから」

 

 春美と呼ばれ、何だか耳がくすぐったかった。


「わ、わかった」


 シュウはよし、と頷き、春美を見て優しい顔で笑った。

 その時、春美はいつの間にか自分がシュウと自然に話せていることに気がついた。ついさっきまであった、初対面の人に対する緊張感はもうない。彼の言葉や態度の中に優しさがあるとわかり、シュウが少し違って見えた。そうして思わずシュウを見つめると目が合いそうになり、春美は咄嗟に顔を背けた。


「なに?」

「なんでもない」


 そっかと言いシュウはまた前を向いて歩き出す。そんな彼の姿を見ながら春美は自分の心が軽くなっていくのがわかった。シュウと話していると自然と気持ちが楽になる。そしてそれは、最近誠といても感じることのないものだった。



「もうここで大丈夫。送ってくれてありがとう」


 駅までの道は長いようであっという間だった。というのもシュウといるのが楽しくて、ついつい時間を忘れてしまっていたからだ。


「そっか? んじゃここでな」

「あ……」

「ん? 何?」

「れ、連絡先を……」

「ああ、そっかそっか」


 そう言うとシュウは肩にかけていたカバンからスマホを取り出した。


「ちょっと待って……。よし、いいよ」


 春美のスマホを持つ手が少しだけ震える。


「あ、来た来た。猫の画像のやつだよね?」

「おう、それ。近所のブサ猫。可愛いだろ? そっちのは平仮名ではるみってなってるやつだよな?」

「うん」


 すると春美のスマホにシュウから、登録完了! とメッセージが送られてきた。シュウは春美のスマホを覗き込んでよしよしと満足そうに頷く。そんなシュウの姿にまたもドキドキしてしまう。こんななんでもないことでさえ春美は嬉しくて仕方がなかった。


「次来るときさ、連絡くれたら駅まで迎えに行くから」

「本当? いいの?」

「いいもなにも次来るとき一人で来れんの?」

「……無理です」


 確かにシュウの言うとおりだった。家を出るときに陽子が入り組んでいると言っていたが、本当に駅に行くまでの道は複雑に入り組んでいて、春美の頭ではどう頑張っても一回で覚えることは難しかった。それになにより話に夢中で、道もへったくれもなかったというのが正直なところだった。


「じゃあ、お願いします」

「りょうかい」


 するとシュウはそのまま黙って春美を見つめた。


「な、何?」

「ん、ああ、いや。あいつそのTシャツよく貸したなと思って」

「え?」

「それ、あいつのお気に入りなんだよ」

「そうなんだ……」


 そう聞かされて改めて借りたTシャツを見てみる。猫のキャラクターが印刷された、シンプルで可愛らしいものだった。


「まあ、いいや。んじゃ、俺バイトあるしそろそろ行くわ。また今度な」

「うん、じゃあまた……」


 春美がシュウにむかって小さく手を振ると、それを見たシュウも同様に手を振り返した。そしてそのまま真っ直ぐ前を向いてシュウは人ごみの中へと消えていった。シュウがいなくなった後も、しばらくの間春美はその場から動けずにいた。



 さっきシュウと連絡先を交換した際に、誠から一通だけメッセージが来ていたことに気がついたが、何だか返事をする気になれず、そのまま気づかぬ振りをして彼の家に向かった。家に着くと鍵が空いていて、ドアを開けるとつい半日前に見たあの靴はもうそこには置いてなかった。


「おかえり」


 リビングのドアを開けると誠がこちらを見ずにそう言った。きっと何の連絡もなかったことに対して腹を立てているのだろう。けれど春美にはそんなことどうでもよかった。


「朝まで飲むとは聞いてたけどさ、なんで連絡のひとつも寄越さないわけ?心配するだろ?」


 よく言うよ。もう私のことなんて好きでもなんでもないくせに。


「私ね、昨日本当は一度帰ってきてたの」


 そう言ったとたん誠の体がピクリと動いた。


「へー……何時頃?」

「十一時」


 すると誠はようやく春美の方を向いた。


「もしかしてお前……」

「お楽しみだったみたいだから、邪魔しちゃ悪いと思って」


 精一杯強がったつもりだったが、途中から声が震えていた。そんな自分が情けなくて、春美はギュッと歯を食いしばる。


「……ごめん」


 謝らないでよ。


「あの子、確か同じサークルの子だよね?」

「……ああ」

「……好きなの?」


 誠は頷くこともなくただうなだれていた。けれど否定しないということはきっとそういうことなのだろう。春美はそれ以上なにも聞く気が起きなかった。


「別れようか」

「……」


 誠は何も言わない。春美はため息を一つつくと、クローゼットから旅行用かばんを取り出し、自分の荷物を入れ始めた。そんな彼女を見て誠が何か声を発したが春美には聞こえなかった。

 荷物を整理し終えるとそのまま玄関の方に向かった。誠は何も言わない。春美もまた何も言わず、そのまま家をあとにした。

 一年半付き合っても終わるのはあっという間なんだと春美は思った。

 けれど不思議とあまり落ち込んではいなかった。

 それはきっとあの二人に会ったからかもしれない。あんなに人から優しくしてもらったのは久しぶりだった。春美は二人のことを思い返し、なぜだか無性に泣きたくなった。

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