13 あの日々は蒼き春 ‐真田シュウ‐
あの時のことは今でも鮮明に思い出せる。電車に揺られながら、ふと彼はそう思った。
あれからシュウと陽子と春美があの家で一緒に暮らすことは二度となかった。そして三人が会うことも。
三人で暮らさなくなった後のことをシュウはあまり覚えていない。それというのも、毎日が色をなくしたようにぼんやりとつまらないものに変わってしまったからだ。
けれど時は止まることなく、そしてまたシュウも同様に生きていかなければならなかった。それだけがただ残酷で、生きているようでどこかいつも心が体に追いついていないような、そんな気がしていた。
電車が会社のある駅に止まる。人ごみに押されながら開いた扉に向かって歩き出した。
今でこそこの光景を憂鬱だと思うようになったが、働き始めてすぐの頃は、今までのことを忘れたくて必死に仕事ばかりしていたせいか、息苦しい朝の通勤ラッシュでさえも苦ではなかった。
改札を出て歩き始めるとスマホが鳴っていることに気づく。慌てて電話に出ると、電話の相手は恋人の詩織だった。
「もしもし?」
「もしもし、真田くん? ごめんね朝早くに」
「いいよ、どうした?」
「あの……もう家出ちゃったよね? 実は手帳なくしちゃって……。もしかしたら真田くんちにあるかなって思ったんだけど」
シュウは持っていた黒いカバンの中から赤い色の手帳を取り出した。
「ああ、テーブルの下に落ちてたよ。今日会ったら渡そうと思って持ってきた」
「うそ、ホントに? 良かったー、ありがとう」
「いや、いいよ。それより朝会って渡した方がいいよな?」
「あ、じゃあ私会社のロビーで待ってるから、着いたら連絡してくれる?」
「わかった」
「じゃあ、よろしくね」
「……ん」
「……どうしたの?」
「いや、お礼はないのかなーって思って」
「え? ……あ、じゃあ今日ウチに来て。早く上がれそうだから、真田くんの好きなオムライス作って待ってるよ」
「まじ? やった」
「あ、でもそっちよりうまく作れないと思うからあんまり期待しないでね」
「じゃあ楽しみにして待ってる」
「あーもう、いじわる。じゃあ、また後でね」
「ああ」
電話を切り、また歩き出す。
その足取りは軽く、電話に出る前にあった気だるさはいつの間にか吹き飛んでいた。
あの日、二人と決別した日のことを彼はその後何度も後悔していた。そしてそのうち、あの決別は避けられなかったのだということに気付いたシュウは、二人と出会ったこと自体を後悔するようになっていった。
あの時陽子を受け入れなければ。春美に一緒に住もうと言わなければ……。そんなことばかり考えては落ち込み、忘れたくて、次第にシュウは仕事にのめり込んでいった。
そんな日々を過ごしていた時いつもそばに居てくれたのが同僚の詩織だった。彼女はシュウがみるみるやせ細り、顔色が悪くなっていくのを横で見ては、差し入れをしたり、時には話を聞いてあげたりしていた。そんな彼女をシュウは最初鬱陶しく思っていたが、次第に自分を心配してくれる彼女の存在が彼の中で大きくなっていった。そのうち会社の外でも会うことが多くなり、自然に二人は恋人同士になった。シュウはその時になってようやく陽子以外の人に対して恋愛感情を持つことが出来た。そうして彼は陽子がいなくても大丈夫な自分がいることに気がつき、ホッと息をついた。
今まで陽子のことは確かに好きだったと思う。けれど、それはもしかしたら彼女に依存していただけだったのかもしれないと彼は思うようになっていた。そのせいで春美にも随分酷いことをしてしまったと。だが、そうして二人と出会い、決別したことで彼は本当に好きな人と巡り会うことが出来たのだ。
会社のロビーに着くとシュウはスマホを取り出した。今着いたと詩織にメッセージを送り、彼はキョロキョロと辺りを見渡した。
「真田くん!」
その時後ろから詩織の声が聞こえた。振り返ると詩織がこちらに向かって駆けて来るのが見えた。
「ごめんね、慌てさせちゃった?」
「いや、大丈夫。それより、はい」
シュウはカバンから例の手帳を取り出し、詩織に手渡した。
「ありがとう~。やっぱり忘れてってたんだ」
「本当忘れっぽいよな」
シュウがそういうと、詩織はいたずらっぽい顔をしてニッコリと笑った。
その顔が一瞬陽子と重なる。だがそれを見てもシュウの心は穏やかだった。寧ろ懐かしいとさえ思えるようになっていた。
シュウはそんな詩織を見て優しく笑いかけた。
あの時、三人で過ごしていた時の自分と確かに違うことが一つだけある。それはこれから先何か大切なものを失ってしまうことがあったとしても、仕方のないことだと受け止めて生きていく覚悟ができたことだ。そうして失われた先にはきっと大切な何かが待っている、彼はそう信じれらるようになった。
そして彼は思う。あの日々は無駄ではなかったと。
シュウは拳を強く握り締めた。スウッと息を吸い込むと朝の空気が体全身に行き渡る。
「よしっ……」
「どうしたの?」
そう言って心配そうに自分を見つめる詩織を見ていると、シュウの心は随分と落ち着いた。詩織に会えて本当に良かったと彼は心の中で呟く。そしてどうかあの二人にもそう思える人がいますようにと心から願った。
「いや、なんでもないよ」
彼女を見てそう答えるとシュウは前を向いて歩き出した。
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