9話 高波佳奈美
帰宅して、制服から普段着へと着替えて、宿題を済ませる。
19時ぴったりに、父さんと母さんと自分の3人で夕飯を食べて、自分の部屋でゆっくりする。
いつも通り。だけど少しだけ──ほんの少しだけ変化した日常を、自分は過ごし始めていた。
「連宮君、か」
普段着で一切スカートをはかなくても、何も言われなくなった。
夕飯の時に、恋愛の話を切り出されなくなった。
「すごい人、だな」
全部連宮君のおかげ、と言っても過言ではない。
連宮君の言葉で、自分の両親の考えは、変わり始めた。
スマホを取り出し、電話帳を開く。
着信履歴にも、発信履歴にも、高波さんの名前がずらぁっと並んでいた。
「……ここに、加わるのかな」
連宮君や、根原君の名前が。
──うん、楽しみだ。
「……根原君、不思議な人だよな」
事情を知らないはずなのに、自分と連宮君が似ている、と言った人物。
イマイチ掴みどころがないけど、いい人には違いないだろう。
「ホント、面白い人たちだ」
高波さんに救われて、連宮君にも救われた。
だから、自分はまた、頑張れる。
だから──。
「痛っ……」
下腹部が痛むけど、これくらいの痛みなら、乗り越えられる。
乗り越えてみせる。
「──そろそろ、寝ておくか」
スマホの電源を切って、部屋の電気を消し、窓の傍のフローリングに直接敷いた布団へと潜り込む。
「明日、早く来ないかなぁ」
そう願いつつ、自分は眠りについた。
◆◆◆
朝か──え、朝?
「……うわぁ」
昨日、僕はあのまま寝ちゃったようだ。
学校の用意はしてあるし、時間は──いつも起きる時間と同じくらいだから、心配はいらなそう。
「って、スマホ……は大丈夫か」
電話帳を開いたままのスマホは、充電されっ放しで枕元に存在していた。
充電ケーブルを抜いたスマホを、鞄の横に付いている、チャック付きのポケットに入れて、僕は床に立ち上がった。
パジャマのままドアの前まで歩き、ドアノブを掴もうとして。
「……?」
ふと、フローリングの床に、一筋の光が差しているのに気が付いた。
「…………」
光を辿ったら、何かがあるような気がして。
ドアと正反対の位置に取り付けられた窓の傍まで歩き、少しだけ隙間ができていたカーテンを、バッ、と両手で開ける。
「……!」
春の、清々しい朝の光が、僕の視界を覆い尽くす。
窓から入り込んだ光は、『もう我慢しなくてもいいんだね!』と言うかのように、僕の部屋を一瞬で真っ白な空間へと塗り替えた。
「こんなに──」
こんなに、光は眩しかったのか。
こんなに、希望に満ち溢れていたのか。
「──そっか」
眩しすぎたから、僕は目を逸らしていたんだ。
希望が見えなかったから、僕はずっと、光を見ないようにしていたんだ。
ただ──僕が気付いていなかっただけなんだ。
「……ふふっ」
自然と、笑みがこぼれた。
こんな気持ちになったのは、初めてだ。
これも、彼らのおかげ──なのだろう。
「よし!」
今日も一日、頑張れそう!
◆◆◆
今日も僕より早く来ていた根原君と話していると、昨日と同じ時間に、三上さんが教室に来た。
「おお、三上さん! おはよう!」
「おはよう、根原君。連宮君も」
「おはよ、三上さん」
──あれ。
昨日もそうだったけど、高波さんは一緒じゃないのかな。
「ねえ、三上さん」
ケンカとかだったら早めに解決した方がいいと思ったので、恐る恐る、三上さんに訊いてみる。
「ん? どうかした?」
「いや、高波さんは一緒じゃないのかな、と思って」
「……そういえば、昨日もちょっと遅かったな、高波さん」
三上さん、心当たりのなさそうな反応。ケンカとかではないみたい。
よかったけど、遅い理由は分かっていないし……。
「高波さんって、中学の時も早く来てたの?」
根原君も気になったらしく、三上さんに訊く。
「うん、毎日早く──自分と同じ時間か、それよりも早く来てたよ。自分より遅いのは、昨日が初めてかも」
「ふぅん、なるほどね」
根原君、何かに納得した様子。
「遅い理由、分かったの?」
「一応ね。確信はないから、言わないでおくよ。高波さん本人から直接聞いたことじゃないし、何より──憶測を話して、良い方向に話が進むことはほとんどないからね」
「そ、そう」
相変わらず、不思議な考え方をする人だ。
◆
1時間目の用意をして、トイレに行き、戻ってくる途中の廊下で。
「おっはよー、つれみー!」
「おはよ、高波さん。今日も少し遅いんだね」
「……あれ、気付かれてた!?」
「え?」
僕の言葉で、少し焦った様子の三上さん。
気付かれたくないことだったのかな。
「みかみんも気付いてたりする?」
「一応、気付いている──というか、僕が『高波さんと一緒じゃないの』って訊いたら、気付いたみたい」
「むぅ。仕方ない、みかみんにはとても話せないけど、つれみーになら話しておいてもいいかも」
「無理に話さなくても大丈夫だよ?」
話したくないことなら、話さないでいてほしい。
「ううん、いいの。つれみーには聞いておいてもらいたい話だし、そこまで大それた話じゃないから」
そう言って、僕を真っ直ぐに見つめて。
「──私とみかみんが初めて会ったとき、みかみんは一人っきりだった」
中学のときの話、か。
「つれみーには前に言ったでしょ? 私がみかみんに話しかけた理由。確かに、大人っぽいみかみんに惹かれて、話しかけた、っていう気持ちもあるけど、一番の理由は──寂しそうで、悲しそうで、ほっとけなかったからなの」
──そうか、その頃の三上さんは、秘密を自分一人で抱え込んでいたんだ。
「みかみんの秘密を知って、大変だったんだなって思って──それからなの、早く学校に行くようになったのは」
少しだけ恥ずかしそうに、高波さんは続ける。
「みかみんと同じか、それよりも早く。そうじゃないと、みかみんは一人っきりになっちゃうから。私以外のクラスの子にも、知らせておいた方がよかったのかもしれないけど、私みたいなのが少数派だ、ってのはなんとなく知ってたから、みんなには知らせなかった」
──じゃあ、なんで。
「なんで高波さん、昨日と今日は遅く来たの?」
「簡単な話よ。──もう、早く来る必要が無くなったから。みかみんに、『同性の友達』と『同じような秘密を抱える友達』ができたから。だから、私は遅く来たの」
嬉しそうに、しかしどこか悲しそうに、高波さんはそう口にする。
「でも、高波さんも……」
「うん、分かってる。みかみんが私のことも友達だと思ってくれてることは、ちゃんと分かってるよ。もちろん、私も今まで通りみかみんと接するつもり。つれみーたちには負けないよっ!」
「そう……よかった」
ホッ、と胸をなでおろす。
「それじゃ、教室に入ろう! いつまでもこんなところで立ち話、ってのも何だし。……つれみー、みかみんのこと、よろしくね」
「──うん!」
高波さん、ここまで三上さんのことを心配していたんだ。
いい友達を持ったね、三上さん。
◆◆◆
1日の授業が終わって、放課後は再び、三上さんと文学部を見学しに行った。
今日も終わり際に俳句を書くように言われたので、僕と三上さんは俳句を書いて、部長に提出した。
部長はしきりに『なるほど、なるほど』と呟いていたけど、何かが分かったのだろうか。
30分だけ見学して、部長たちが帰るタイミングで僕たちも帰った。
そして翌日、金曜日、入部届提出日。
「本当にいいの?」
「うん。自分も面白いと思ったから」
僕と三上さんは、文学部に入部届を提出した。
◆◆◆
「お、っと、──くそっ」
帰り道、家から10分ほどの公園のベンチに座り、俺は息を漏らした。
──駄目だ、何かがおかしい。
薬は飲んだ。病院には一昨昨日に行ったばかり。
異常は、出なかったのに。
「う、あ、っち……」
夕暮れの公園には、俺一人しかいない。
だから、いくら呻こうが、誰にも聞こえない。
──ここで死んだら、誰にも見つからないのかな、なんて考えて、ふと気づく。
「──弱気になり過ぎでしょ、俺……」
俺の身体を蝕んでいるのは、どこまで酷くなっても死には至らない病だ。
「……よし、落ち着いた」
中学に上がってからは、ここまで酷くはならなかったのに。
ここまで弱気になったのには、理由があるはずだ。
まあ、──間違いなく、『彼』が影響しているんだろうけど。
「連宮君、か」
ベンチから立ち上がり、初めてできた、俺の友達の名前を呟く。
大丈夫、もう、昔とは違う。
「……帰ろう」
鞄を持ち、座った拍子に曲がってしまったネクタイを元の形に戻して、俺はまた、歩き始める。
「病気なんかに、負けない……!」
かすれるような声で、俺は決意を口にした。