60話 初夏の放課後
「……ん」
朝。
この眩しさは、朝。
「んー……」
伸びをする。
冬じゃないから、朝でもほんのり暖かい。
「んぅ」
謎の言葉を発しつつ、薄い掛布団をずらし、上体を起こす。
ベッドのふちに座り、枕元の時計を確認。
時刻は午前6時半、目覚ましが鳴る前に起きたのは久しぶり。
「よいしょ、っと」
立ち上がり、もう一度伸びをする。
カーテンと窓を開けて、部屋に陽の光を取り込みつつ、タンスから着替えを引っ張り出す。
「晴れたなぁ」
梅雨は過ぎ、6月の第二金曜日。
窓の外には、雲一つない青空が広がっていた。
◆
「おはよ、真菜」
「おはよーお兄ちゃん! 今日は早いね」
目が覚めちゃったんだよね、と口にする前に、真菜が続けて口を開く。
「あ、もしかして……彼女と登校デート、とか!?」
「はいはい、そうだね」
「テキトーに対応しないでよ~。むぅ……」
時々こういう冗談を言うから、今回もテキトーにあしらうことにした。
いつもは、ここで真菜が拗ねて、お母さんに軽く注意されて終わり。
でも、今日は違った。
お母さんもお父さんも、朝早くから仕事に出たからだろうか。
今日は、『続いた』。
「ねえお兄ちゃん、彼女作る気ないのー?」
「……ないよ、学校生活に集中したいからさ」
「それ、何年も前から言ってるじゃん、ホントは好きな人とか、いたりして──」
「真菜」
──言ってから、気付く。
かなり強めの口調になってしまっていた。
「早くご飯食べちゃって、片付けちゃおうか。今日はお母さんたちいないし、朝のうちにできることはやっておかないとね」
なるべく優しい声で、さっきのを忘れさせるように言ったのだけど。
「……ごめんなさい」
それだけ言って、ささっとご飯を食べ終え、2階の真菜の部屋へ行ってしまった。
◆◆◆
「そうだったんだ、それで真菜ちゃん、結構落ち込んでたんだね」
「色々気を遣わせちゃってごめんね、美月さん」
「ううん、気にしないで。落ち込んでる後輩のサポートをするのも、先輩の役目! なんてね」
放課後、文学部部室にて、机を囲み座りつつ。
昼休みに会った真菜の様子が変だと思ったらしく、美月さんは真菜に頻繁に声をかけてくれていたらしい。
だけど、落ち込んでいる理由は教えてくれなかったようで、真菜が部活に来る前に僕に直接訊いた……という流れだ。
「真菜ちゃんを叱ったのって、しつこかったから──だけじゃないよね?」
「まあ、その……うん」
やっぱり、三上さんには分かったみたいだ。
「僕が好きになる性別を『女性』に固定されてたのが、嫌だったのかも」
別に、僕の内面が女だから好きになるのは男性──なんてことを言うつもりは全くない。
けれど、今朝は明確に、僕のことを『男』として扱っていたから、つい口調が荒くなってしまったのだろう。
「ねえ、連宮君」
「なに?」
「連宮君は本当の自分のこと、家族には伝えないの? ──自分が伝えた時は、連宮君と高波さんに協力してもらうまで結構大変だったから、一概に『伝えた方がいい』とは言えないけどさ」
でも、と。
「伝えてからは、気持ちがすっごく軽くなったから。だから、連宮君はどうなのかな、って」
そう訊かれたけど、答えはとっくに出ている。
でも、それを行動に移せるかと言われたら。
「まだ、不安なんだ。理解されなくて、嫌われたらどうしよう、って思っちゃって。でも──」
◆
「うぅ……」
文学部部室前。
ここまで来たのはいいけど、このドアを開けたらお兄ちゃんがいる。
お兄ちゃんと会ったらちゃんと謝ろう──と思っていたけど、いざ部室を前にすると、やっぱり怖い。
怒られるくらいならいい。嫌われてたらどうしよう……って、ずっと考えちゃってる。お兄ちゃんのことだから、あたしを嫌いにはならないだろうけど、万が一ってことが──ああもう、泣きそう。
『──────』
部室から、お兄ちゃんと先輩たちの声。
話し終わったタイミングで入ろう。そう心に決めて、耳を澄ます。
◆
その『答え』が正しいのは、とっくに分かっている。
「本当の僕のこと、家族に伝えたい。伝えないままなのは──嫌だ」
伝えないまま終わるのは、嫌だから。
僕は、『僕』を伝えたい。
「……うん、連宮君の思いが聞けて良かった」
「色々準備してから話すつもりだから、時間はかかっちゃうかもしれないけど……」
「結果良ければ、ってやつだよ。連宮君には連宮君なりの伝え方があるはず。焦らない方がいいかもね」
「うん、ありがと、三上さん」
僕は僕のペースで。
一番大事なことを、再確認できた。
「伝えるときに力が必要だったら、協力するよー!」
「美月さん、……ありがと、本当に」
「えへへ、私も連宮君には幸せになってもらいたいからね。いつでも呼んで──ん?」
「──え」
美月さんが反応したのと同時、僕も気付いた。
──部室の外の廊下から、物音がした。
「──っ」
立ち上がり、部室前方──黒板横のドアを震える手で開ける。
そこには、
「真菜……」
真菜が、立ち尽くしていた。
◆
怯えているような、恐れているような。
そんな目で僕を見たのも一瞬。
「あの、お兄ちゃん、その、ごめんなさ、い」
一転し、今度は申し訳なさそうに、とぎれとぎれの言葉で謝る真菜。
真菜が謝る必要はないよ、と口にしようとしたけれど。
「今の、聞いてたの?」
僕の口から出た言葉は、慰めとは程遠くて。
真菜を余計に追い込んでしまう、そう思って訂正しようとしても、言葉が出てこない。
適切な言葉を探している場合じゃないんだ、そう分かっているはずなのに。
「あたし、最低だよね……」
「真菜、落ち着いて。別に怒ってたりとか、してないから。だから──」
「っ、──」
「え、真菜!?」
部室前から、走って逃げてしまった。
「どうしよう、追いかけないと──」
「待って、連宮君!」
「み、美月さん?」
走り出そうとした僕の腕を、美月さんが両手で掴む。
追いかけて話をしないといけないのに。
「連宮君、今、不安?」
「え……あ、当たり前でしょ、僕の内面のことを、真菜が──家族が知っちゃったんだよ、不安だって──」
「真菜ちゃんも連宮君と同じように、不安なはずだよ」
「っ、それは……」
僕の震えていた両手は、いつの間にか美月さんが握ってくれていた。
優しい声で、美月さんは話を続ける。
「真菜ちゃんはきっと、急に入ってきた情報に混乱してるんだと思う。そんな気持ちで連宮君と話しても──ううん、きっとうまく話せないはず」
「……う、ん」
「家でも会えるんだから、今はそっとしておいてあげよう、ね?」
「……うん、わかった」
手の震えは、なくなった。
少し冷静になったからだろうか、同時に、かなり動揺していたことにも気づけた。
「ごめん、美月さん」
「気にしないで。さ、部室に戻ろう? 『連宮君はまだかなー』って、三上さんが待ってるよ」
「うん。……ありがと」
うまく笑えないまま、部室へと戻った。
その日は結局、真菜は部室に戻ってこなかった。




