一話
その日はいつもとなに一つ変わらない朝だった。
携帯電話のアラームでは起きず、目覚まし時計はその場でバシッと止めて終わる。母親のイラ立ちを込めたドスドスという足音に戦慄し、ようやく目を覚まして跳ね起きる。
適当に顔を洗って歯を磨いて、寝癖を簡単に直してから制服に着替える。ワイシャツのボタンはふたつ外して、ネクタイもちょっと緩め。ズボンも少し下げ気味で、きちんとは絶対に着こなさない。
朝食にマーガリンとジャムを塗ったトーストを二枚平らげて、オレンジジュースで流し込む。父さんが母さんに「いってくる」とぼそりと告げると、母さんは上機嫌に「いってらっしゃーい」と返す。十七の息子がいるとは思えない仲睦まじさに、いつものことながら辟易する。
中学生の妹は、部活の朝練でとっくに家を出ている。残っているのは帰宅部の俺と、専業主婦の母さんだけ。
通学用の青いリュックサックを背負い、掃除機を取り出す母さんに声をかけてから家を出る。近くの駅まで早足で七分。ギリギリのところで電車に乗り、ようやく一息つく。通勤、通学時間帯の車内は混み合っていて、身動きがまったく取れない状況。電車が揺れるたびに誰かの足を踏んでしまいそう。実際先ほども、知らないおっさんの足をぎゅむっと踏んだ。これがおよそ十五分続く。
そう。いつもと同じ朝だ。特別なことなんてなんにもなかった。俺はこのあといつものように学校にいって、授業だるいなーとか、早く遊びにいきたいなーなんて思いながら、一日を過ごすはずだった。
だけど、この日だけは違った。
学校の最寄り駅について電車から降りた次の瞬間、誰かに腕をぐいっと引っ張られた。驚いて振り返ると、さっきすぐ近くに立っていた他校の女子高生が、俺の制服をつかんでいた。
見たこともない子だった。ただ制服はここらじゃお嬢様学校として知られてる、私立桜花女子高校のもの。俺が通う偏差値中ぐらいの公立、四葉東高とは天地の差がある。学校の敷地が近くてよく電車に乗り合わせることはあるが、世界が違いすぎて話したことはおろか、近づいたこともない。
「あ、あの……」
突然のことにパニックになり、それ以上の言葉が出てこなかった。彼女は変わらず俺の顔をじっと見ている。よくわからないが、胸がドキドキしてきた。
初対面と思われる彼女は、美少女というわけではないが、可愛らしい顔立ちをしていた。さらさらした黒髪をまっすぐおろしていて、清楚なセーラー服と印象がぴったり合う。目がくりくりと大きくて少し丸い。チワワみたいに少し潤んでいる。ほんのりレンズに色がついたメガネがよく似合っていた。
いきなり知らない子に腕をつかまれてこっちもかなりビビっていたけど、彼女自身もオドオドしていた。いったいなんなんだろうと思いつつも、手を振り払えずにいた。たぶん、彼女の手が小刻みに震えていたからだ。
「あ、あなた……」
ようやく口を開いて出てきた声は、ややかすれ気味。それでも澄んだきれいな声であることはすぐにわかった。わけのわからない状況ながら、心臓だけがドキドキと高鳴る。さながら映画やドラマのワンシーン。ロマンチックななにかが始まりそうな予感。そう。たとえ次に彼女が発した一言が――
「こ……この人……痴漢ですっ!!」
……なんていう、不名誉極まりないものだったとしても。
「は、はあっ!?」
俺は驚いて声をあげた。
「なんなんだよ、いきなり!」
「で、電車の中で私のお尻触ったじゃないですか! すぐうしろにいたでしょ。窓に映ってたんだから!」
「知らねえし! 人を勝手に犯罪者呼ばわりすんなよ」
周りにいた人たちが、なにごとかと俺たちの方を見てくる。まずい。これは完ぺきに俺が疑われるパターンじゃないか? 逃げた方がいいのかな。
だけど彼女は、俺の腕をがっちりつかんだまま放そうとしない。むしろ俺が否定した直後から、力を強めている。見かけはか弱そうなお嬢様だったのに、ずいぶんと馬鹿力だ。
「おい、放せよ!」
「誰が放すもんですか、痴漢! あんたの名前と住所、あと学校名いいなさいよ。あとで訴えるのに必要だから」
「うった……!?」
そこへ人混みをかきわけて、騒ぎを聞きつけたらしい駅員さんがやってきた。うわぁ、さらに俺に不利な状況。
駅員さんは女子高生に腕をつかまれる俺を見て、俺をにらみつけた。
「今痴漢が出たって乗客の人たちから聞いたんだけど……。きみのことか?」
「ち、違うってば!」
慌てて否定すると、彼女が「まだいうか!」と腕をうしろに締めあげてきた。痛い痛い痛い!
「駅員さん。この人、車内で私のこと触ってきたんです」
「やってないっつの!」
駅員さんは俺と彼女を交互に見ていたが、やがて彼女に向ってうなずいた。
「わかった。とりあえずその男の腕を放して。こっちで対処するから」
「でも……」
「勇気を出していってくれてありがとう」
その言葉で、ようやく彼女は俺の腕を放した。数分にわたり締めあげられていた手は、少し痺れていた。
俺は恨みも込めて彼女をにらもうとしてやめた。彼女は震えていた。よくよく見ると唇をかみしめ、顔は赤く染まっていた。目には涙も浮かんでいるし、泣きはじめる寸前の顔だった。
見ず知らずの人間に触られたら、そりゃあ怖いに決まってる。そんなの当然だ。
だがしかし、これは完全なる冤罪だ。というわけで、引き続き俺は無罪を主張します!
「お、俺はなんにもやってないよ。電車から降りたら、急にその子が腕をつかんできたんだ」
だけど、駅員さんは俺の話を聞く素振りなんて見せない。蔑むような目で俺を見下ろすと、冷たくいった。
「とにかく、向こうで話を聞くから。警察に連絡するかはそのあと決める」
「け、警察!?」
「痴漢は立派な犯罪行為だからな。そうするのが当然だろう」
いやいや、だから俺なんにもやってないし! 無実だから! 濡れ衣だから!
その時、こちらを見てひそひそささやいていた野次馬の中から、こそこそ抜け出そうとしているやつが見えた。そうだ。俺が電車に乗った時、あいつの足を軽く踏んじまって謝った。あの時にはすでに、彼女が近くにいて……。
考えが最後までたどり着く前に、俺は駅員さんの手を振りほどいて走り出していた。慌てて逃げ出す男めがけて全力疾走し、そして――階段を駆け下りる相手に向かって飛び蹴りした。
「てめえが痴漢かぁ――っ!!」
ゴッと、足裏に確かな手ごたえ(足ごたえ?)。同時に逃げた痴漢野郎は階段から落ちた……下から三段目だったけど。俺も着地して、その男の胸ぐらをつかんだ。
「おい、あんたがやったんだろ? おかげでこっちが疑われたじゃねえか」
「ひっ」
「ひっ、じゃねえし」
いい年こいて男子高生におびえる痴漢野郎を、追いかけてきた駅員さんに引き渡した。うしろにはあの女の子がまだいる。駅員さんはまだ驚いた顔をしていたけど、痴漢野郎が自白したおかげで、俺への疑いが晴れた。
痴漢騒ぎのせいで、登校時間まで気づくと残り十五分を切っていた。学校までは走って十分。急げばギリ間に合う!
駅員さんに見送られて、俺は駆け出した。だが改札口を出たところで、背後から声をかけられた。
「あの!」
振り返ると、さっきの女の子が立っていた。もう泣いてはいないようだが、眉間にしわを寄せて、難しい顔をしている。
遅刻寸前の俺は、少しぶっきらぼうに「なに?」と聞き返した。途端、彼女はびくりとする。自慢じゃないが俺の顔は、そんじょそこらのヤンキーよりは怖いらしい。
「さ、さっきの……ごめんなさい。勝手に疑ったりして」
「あー……。別にもういいよ。疑いは晴れたんだし。あんたも犯人つかまってよかったじゃん」
「う、うん」
「じゃ、気をつけてね」
最後に手を振って、俺はまた学校に向けて走った。頑張った甲斐あって、チャイムが鳴る二分前には、どうにか教室にたどり着いた。
いつもと変わらない朝のはずだった。だけど今日は(思わぬハプニングもあったけど)、特別なことが起きた。
あの女の子、結構可愛かったなー……。名前ぐらい、聞いといてもよかったかも。
少々シリアスなあらすじですが、内容はそこまで重々しくはないと思います。
この作者の作品ですから( ̄ー ̄) ドヤッ! \(-_-)って、おい!
この作品は毎日夜9時に更新をさせていただきます。
それでは皆様、また明日<(_ _)>




