嵐
薄暗い空の下、大粒の雨が私達を襲う。
変装の旅人衣装は二人とも泥まみれで、濡れて重い。
私達は巨樹の間を縫うように、湿った苔を踏みしめる。
「陛下。お体は」
「大丈夫。先に進みましょ……」
雷鳴に声が霞む。
私達は蝋を染み込ませたレインコートのフードを深くかぶり、ただひたすら北を目指している。
船団は砲弾の的に等しい豪華客船を中心に構成されていた。一体どれだけの人々が犠牲になったのだろう。
私は足を滑らせ、水溜りに顔を突っ込む。
「誰だ」
不意に声を張り上げるルリエに、私は驚き目を見開く。
ルリエは私に言っているのではない。
顔面泥まみれの私は、ルリエの視線の方へ振り向く。
そこに銃を肩に掛けた仮面を被った子供の姿が見えた。
見慣れない服装をしている。銃も特殊な形状である。エルフだ。
私に戦慄が走った。
彼は木々に隠れるように、私を銃で狙っている。
「陛下っ」
ルリエが私とエルフの間に向かって走る。間に合わない。
銃声が響いた。
その途端、私の意識は暗転した。
―五時間前―
「霧が晴れます」
「陸地だ」
「一時の方向。距離およそ二万」
不意に窓から双眼鏡を覗いていた水兵が、声を張り上げる。
「おお」
軍靴が忙しなく行き交い、操舵室は騒がしくなる。
長い霧を航行し続け一週間。ようやく開けた霧の向こうで亡命先、リソレイユ自治州の大地が姿を現した。
私は皆に倣って双眼鏡で、リソレイユの大地を確認する。
「ほう。美しいわね、リューヌ」
「さようでございますね」
私はその美しさに目を奪われる。
リソレイユの地は深く木々の緑で覆われ、その上を鳥が群れを成し飛んでいた。
今世の大地に緑は少ない。地平線を埋め尽くすほどの緑は、リソレイユとエルランダ以外の地には存在しなかった。
「艦隊接近。戦艦四、重巡七。駆逐多数。三時方向。距離およそ五千」
別方向を警戒していた当直監視の水兵が、声を張り上げる。
それを受け、船長以下艦橋の士官らは観測員の伝えた方角へ双眼鏡を覗く。
「味方です。エルフ連盟旗を確認。エルフ所属の連合艦隊です」
「陛下」
船長が私に指示を仰ぐ。
我が帝国とエルフは親しき仲だが、軍事同盟は結んでいない。
「通信。ワレハ帝国避難船団ナリ」
「はっ。通信兵」
だが通信兵が操舵室を出る前に、エルフ艦隊を監視していた水兵が、声を上げた。
「エルフ艦隊、艦載砲、我が艦を指向しています」
砲声が響き渡った。
木切れが舞い、強い衝撃が私達を襲った。
「なんだ?」
操舵室が騒然となる。
私はリューヌの背に守られ無事だったが、見れば操舵室の硝子窓が一面砕け散っていた。
眼前の甲板に、エルフ艦隊の砲弾が着弾したのだ。
エルフは帝国と志を同じくする同盟国であり、友人であった。
だがその艦隊が皇帝の乗る艦船に向け砲弾を打ち込んだことは、もはや反逆以外の何物でもない。
「巡洋艦前へ。救急班は甲板の消火を急げ」
補佐官のリューヌが周囲の将校に指示を飛ばす。
私の乗る船は豪華客船を輸送特化に改装したものだ。木造の為、砲弾で簡単に穴が開く。
エルフ艦隊は砲火を止めようとはしない。ただ無言で我が船団に砲弾を打ち込む。
敵はおそらく、我が船団を待ち受けていたのだろう。
リソレイユは大丈夫だろうか? 既に敵に奪われてはいないだろうか。
「軽巡デートラヘ轟沈」
「重巡グローリア、主砲被弾、使用不可」
「軽巡メヒルートを前衛へ」
「重巡グローリア左舷に魚雷接近」
巡洋艦から火柱が立ち昇る。
「伝令、カロリア近衛副隊長に伝言。〝準備せよ〟」
「はっ」
「陛下」
「どうしたの? リューヌ」
「今のうちに脱出を。護衛の巡洋艦の抵抗だけでは長く持ちません。その前に」
「陛下」
近衛副隊長のルリエが私の前に現れる。山岳部隊の装備だろうか。大きな背嚢を背負い、手にもう一つ持っている。
「準備は既にできております。隊長」
ルリエはリューヌにほほ笑む。
「頼んだぞルリエ。エリン王女の護衛を成功させた、お前の力を発揮しろ」
「はっ。必ずや我が命に代えましても。では陛下。小艇を用意してございます。参りましょう」
ルリエは落ちついた声で、私に背嚢を差し出す。背嚢の表にはランタンやつるはしが結わい付けられている。
兵を死地に置いて指揮官が逃げ出す。それは私が最も嫌う行為だ。だが、時としてそれをしなければならないときがある。今の私の体は、私一人の物ではないのだ。
「分かったわ。リューヌ、後を頼みました。私が脱出したら降伏しなさい。自決は許さない。いいわね」
「陛下も、ご武運を」
「皆もご苦労でした」
私の声に操舵室の皆は敬礼で答える。
私とルリエは操舵室を出た。甲板は既に幾つもの巨大な穴が開き、下の下の階まで覗けていた。医務室で眠る侍女のエミリは大丈夫だろうか。
「きゃっ」
眼前で甲板に取り付けられた対空砲が砲手ごと吹き飛び、空から血と鉄の雨が降り注ぐ。
ルリエが私を抱き包むように地面に押し付け、背中で私を守る。
「大丈夫ですか? 陛下」
「大丈夫。行きましょう。うっ」
私は思わず口を手で押さえた。
私の目の前に千切れた手首が落ちていた。生々しく破断面から骨が飛びだしている。
私は荒れる息を整える。一刻も早く脱出しなければ。
一人でも多くの兵を救うには、早く私が脱出しなければならない。
一秒の時間も惜しかった。
「行きましょう」
私は自ら立ち上がる。大丈夫。歩ける。
「船はこちらです。お手を。走ります」
ルリエは私の手を取り、砲弾が飛び交う甲板を走り抜ける。
「こちらです」
ルリエは右舷の端に海面に降ろされたロープを、手で滑り降りる。
ルリエは海面に浮かぶ小艇の上で私を誘う。時間は無いのだ。
私もルリエに倣い、ロープを滑り降りる。
滑るよりも落ちる私を、ルリエが受け止める。
「身を低くお伏せ下さい」
「分かった」
「出します」
ルリエはレバーを引くと、機関は黒煙を吹きながら進み始める。とても質素な機関。まるで漁船に積まれるそれのようだ。
しばらく海上を進んだところで、砲声が止んだ。私は振り返る。
遠ざかる船団に白旗が上がっていた。戦闘が終わったのだ。
エルフの艦隊が船団に近づいて行く。
「陛下?」
その途端、自力で立てなくなり、膝を折る。
私の為に、沢山死んでしまった。沈んだ軍艦には何百もの将兵が乗り組んでいた。
弾を撃ち込まれた輸送艦では貴族や臣民にも流血を強いてしまった。
「もうしわけありません陛下。陛下をお連れすることで精一杯で、船団を全滅させてしまい」
「良いの。貴官らは善戦したわ。事実、敵に奪われたけれど、船団の輸送艦を守り、乗員の命を救った。それで良いわ」
私は立ち上がった。リソレイユの海岸まで連なった巨樹の森が、眼前にまで迫る。
生き延びるのだ。帝国の皇として、帝国の皆を救うために。
それが今の私に求められる、皇の務めであるのだ。
10/19 小説本文を修正しました。シュクル陛下の言葉使いを大幅修正。