第3話 『反転』
自意識過剰と言う言葉について考えてみよう。
金城奄美は指先でシャーペンを回しながら、教壇で熱弁を振るう教師をこっそり無視しながら頭の片隅で言葉を遊ばせた。そう、自意識とは何だ。
過剰と言うからには何かがはみ出ているのだろう。余計なのだ。男の癖に女と呼ばれて反応したり、自分で無いのに自分が呼ばれたかの様に振る舞う。馬鹿の癖に天才と聞いて自分の事だと勘違いをしたり。しかし、その逆はどうであろうか。天才の癖に天才と呼ばれても気が付かない。あるいは、馬鹿と言われて自分の事だと思う。
それは自意識が過剰なのではない。不足しているのだ。
もっとも、天才と呼ばれている人間の多くは自覚的だ。自らの才能が秀でている事を知っているし、知っているからこそ、才能を生かせる場所を見つけ、結果を残す。つまり、天才と言われる。
結論、自意識過剰とは他者の否定に他ならない。自らが才能あると信じる者を貶める蔑視の感情の発露。だが・・・・
「お、そろそろ時間か。じゃあ、男子は健康診断があるから保健室に向かいなさい」
奄美は腰を上げて、直ぐに降ろした。机の中からスマートフォンを取り出す。黒く暗転した画面に映るのは眼鏡をかけた少女の姿。
「おい、金城っ授業中に携帯を弄るんじゃない!」
いつの頃か、自分が女性に分類される事に違和感を持ち始めた。自我がハッキリし、成長と共に知識が豊富になって、それが性同一性障害というものを知った。
奄美は休み時間の喧騒を横切りながら女子トイレに入る。未だに女子トイレに入るのは慣れない。出来る限り人がいいない場所と時間を狙うが、授業の合間などは仕方なく教室が近いものを利用する。
鏡の前で熱心に髪の毛は薄く施したメイクのチェックをする少女達を横切る。私立の割には自由な校風であるが、進学校である事もあって派手な生徒はいない。薄いメイクと染めずにさりげなく整えたヘアスタイルが彼女たちにとっては親と学校が許す精一杯のオシャレだ。
用を足して洗面台に立つ。鏡には長い髪の間に小顔が覗く眼鏡の少女が居た。細い顎に通った鼻梁、ややつり気味な眼の容姿が中性的な美貌を醸している。母は若い頃は宝塚の男役で活躍した舞台女優で、父は普通の会社員だが、沖縄出身で掘りが深く背が高い美丈夫。正しく両親の遺伝子を引き継いだ事になる。
幼い頃は男の子とばかり遊んでいた。格好も似たようなものだった。だが、、五年程前に転機が訪れる。
奄美には姉が一人いる。三つ上だが、姉、明日香が五年前に交通事故にあって意識不明の重体になってしまったのだ。一命は取り留めたが、しばらく意識は戻らず、目が覚めても、二年程寝たきりの姉を見舞う時期があった。
両親は姉の死すら覚悟したらしい。が、残った妹の方は孫を産む気があるのかどうかすら分からない。不安に思ったらしく、以来、何かと服装を注意してくるようになった。両親の不安も分からなくは無かったし、自分が切っ掛けで家族が不仲になっても嫌だったので、装いは少女らしく見える様に改めたのだ。
姉は入院中の自分を見舞う妹がみるみる女らしくなっていく事に驚きを覚えたようだった。最初は恋人でも出来たのかと勘ぐってもきたが、直ぐに事情を察したらしい。その事について触れようとはしなくなった。
自分が性同一性障害である事は両親にも告げてはいなかったが、唯一、姉だけには話した。
教室に戻る途中、声をかけられた。
「奄美ちゃん、放課後は暇?」
気安げに声をかけてくるのは奄美と同じ容姿の少女だ。奄美と違い、髪の毛もショートで眼鏡もかけていない。快活な笑顔が印象的な陽性の美少女だった。
金城明日香、姉だ。
今年で二十歳になる姉が何故、高校生の格好をしているのかと言うと、長期入院のせいで三年程、勉学が遅れているからだ。奄美に比べてやや童顔の明日香は高校生といっても十分に通じる。一部の教職員以外、表向きは双子としてこの学校には通学している。
明日香はよき姉でもあり、友人でもある。
「・・・御免、今日は」
「えええっ、折角私も部活が休みなのに」
姉は何と陸上部と茶道部を掛け持ちしている。リハビリで始めたウォーキングが楽しかったらしく、それがジョギング、ランニングになるのは直ぐだった。茶道は顧問を務める古典担当の女教師が月に一回の茶会で菓子を振る舞ってくれるかららしい。
確かに、今や多忙な姉の放課後が完全にフリーになる事なんて滅多になかった。
「・・・御免」
「ま、仕方ないか」
そう言って踵を返す。以前であれば、こんな機会でにはもっと姉はしつこかった。『やっぱり駄目?』と何度も聞いてきて。こんなにさっぱり引き下がる様になった理由を知っている。クラスに親しい友人が出来たのだ。
姉は周囲に自分の本当の年齢を告げていない。気さくで明るいので、周囲に人が常にいる様だったが、年上である事に負い目を感じて深くは踏み込めなかった様だ。それが最近、姉のクラスメイトになった転校生が切っ掛けで変わりつつあるらしい。
姉のクラスを通りかかった際に目にしたが、クラスで男女問わない友人たちと楽しげに話す明日香の姿は妹である奄美にとっても新鮮だった。本当に心の底から笑っている様だったから。
脊梁を感じていると、急かす様に予鈴が鳴った。
薄暗い室内だった。カーテンの隙間から洩れる陽の光が日中である事を示していたが、沈黙を保ったままの大型テレビもオフになったまま明かりを灯さない蛍光灯も人の気配を感じさせなかった。一般的な住宅の一般的なリビング。別段、珍しい光景ではない。両親共働きで子供が学校にでも通っていれば。実にありふれた光景だ。
しかし、部屋の中央、本来であれば家族が団欒で囲む食卓の前で佇むエプロン姿の中年女性がいた。ぶつぶつと何事かを呟きながら焦点の定まらない視線で足元に目をむけている。異常な様子の女性の足もとには明らかな異常が横たわっていた。
スーツ姿の男性が喉から血を流して倒れていた。まるで流れ出る血を抑える様に喉元に手をやり、恐怖と苦痛で目を見開いたまま閉じない。既に死んでいた。
女性の口から言葉が漏れる。
「へぢょられろられ、ぺすらというよんようじょろと」
それは既に文字列ともいうべきだった。日本語でも、ましてや外国語でも暗号でもない。規則性ゼロの言葉が静かな部屋に音となってまき散らされる。
「ぺぎぺぎ・・・・・」
女性の背中が膨れた。空気が入ったにしては鋭角な盛り上がり方を見せた後、遂にはち切れて中から除いたのは腕だった。しかし、女性本来の腕は両肩からぶら下がっている。まるで翼のように広がる。続いて腹、脚、首筋と膨れ、服や、肌の内側から腕が生えてくる。服が全て弾け飛んだ頃には全身から腕を生やすイソギンチャクの様になっていた。
もはや、その光景は女性の正気よりも見た者のそれを疑う様だった。
静かな室内に床が軋む音が響いた。半ば植物的に目を向けた女性が見た者は銀色の人影だった。板金鎧と呼ばれるものであろう。まるで中世から抜け出してきた騎士の様な姿。鎧も縁に金の装飾があしらわれていたりとどことなく気品を感じさせる。朱緞のマントを背負う姿に揺らぎなど優美ですらあった。しかし、観賞用の飾りではあり得ない。板金の厚さは明らかに実戦用のそれであるし、細かく刻まれた傷跡が少なくな戦火に晒された事を示している。
右手にカイトシールド、左手にブロードソードをぶら下げ、女性と視線を合わせた。と言っても、その顔は面貌に遮られて窺い知る事は出来なかったが、確かに鎧を纏う人物は女性に目を向けていた。
やがて、女性の方が沈黙を遮る様に呟き始めた。
「へるんぞへるんずほいほいようすは」
そして足に力を溜めて、鎧の何者かに目がけて跳びかかる。まるで獲物に喰いつく虫の様だったが、両者が交差する正にその時、女性が頭から股にかけて真っ二つに分かれた。ビシャ、と床に血をまき散らしながら着地する。痙攣しながら右と左でバラバラの動きをしていたが、やや経ってピクリとも動かなくなった。
残ったのは左手の剣を振り上げた姿勢のまま、刃から滴る血を浴びる板金鎧の姿だった。
「・・・終わったか」
くぐもった声が甲冑の中から洩れる。剣を床に突き立てた。籠手に覆われた左手が面帽を上げると、中から現れたのは若い女性、金城奄美の顔だった。周囲は凄惨な様相を呈していたが、その表情には恐れは見られなかった。
手で押さえてヘルムを耳に寄せる。
「こちら第五聖堂騎士ネステロヅゥ、対象を無力化しました。浄化作業の準備を願います」
無線だ。掠れた音と共に『了解』と奄美の耳元に届く。
五年程前だろうか。姉が交通事故にあった事が原因で両親と不和な時期があった。男の子みたいな恰好ばかりしていた奄美は抗議の意思を示すべく家出を試みた事が有った。
家出初日の夜に化け物と出会った。今日のそれとは違った、全身に目玉が埋め込まれた様な姿の化け物だった。逃げ回っていたところを今の自分と同じような格好をしている者に救われ、紆余曲折あって彼らが属する組織の一員となった。
以来、戦い続けている。
面帽を再び降ろしてリビングを出る。玄関から外に出ようと階段を横切ると、階段の踊り場から自分を見下ろす人影の姿。十歳ほどの少年だ。情報によればこの家の次男だ。自宅に見知らぬ者が異様な格好をして現れた事に目を剥いて驚いている。
奄美は内心で舌打ちをした。これは明らかに後方支援を請け負う班のミスだ。情報によれば標的と被害者以外誰も居ない事になっていたのだ。
奄美は少年に剣を向けた。
「目を閉じ、耳を塞いで額を床にこすり付けていろ。そうすれば命だけは助けてやる」
低く、ドスを聞かせて脅すと、少年は理解に数瞬を要した後に踊り場で背を丸めてその通りにした。後方支援班による浄化作業、証拠隠滅の際に保護されるにしても、今、リビングに向かわせて父の凄惨な死と母と判別がつかない程に化け物に成り果てた肉塊を見せるのは不憫だった。
玄関のドアに手をかけながら、何も聞こえていないだろう少年に向けて呟く様に言った。
「・・・負けるなよ」
事件現場となった家を出ると直ぐ近くに証拠隠滅や後始末を役割とする者達が詰めるトラックが止まっていた。乗り込んで装備を預け、セーラー服姿に戻るとその場を後にする。
途中でタクシーを拾うと、運転手が胡乱な目を向けてくる。女子高生がエラそうにと言ったところか。気にせず最寄駅を告げると、車は発進した。
シャワーを浴びたかった。激しい運動はしていないが、“仕事”は生命の危機と共に極度の緊張を強いる。全てが終わった後にやってくる疲れを洗い流したかった。
あの化け物が“吸血鬼”と呼ばれている事を知ってから五年の月日がたった。お伽噺に出てくる様な華麗さも、知性や品などありはしないが、奴らはいつの頃からかそう呼ばれていたらしい。似ているのは人の血肉を啜る事があるくらいか。
思えば、あの頃の自分は荒んでいた。男の格好をしたりして、殴る蹴るの喧嘩なぞ日常茶飯事だった。親との折り合いが悪くなって家出したその日も職質かけてきた警官から逃げて路地裏に迷い込んだ時だった。
顔以外の全身に目が埋め込まれた様な化け物に、奄美は自分の記憶にある限り、初めて絹を裂いた様な悲鳴を挙げてしまった。逃げ惑い、道中で多くの人々を巻き込みながらそれでも生き長らえ、金の装飾が施された白銀の甲冑騎士に出会った。
もし、自分が真面な女性としてのメンタリティを持っていたら一目ぼれしていただろう。その人物は、今日自分が成したよりも遥かに手際よく、鮮やかに化け物、魔人を斬殺した。
後に知った話だが、彼の纏う甲冑、聖鎧布は人に人ならざる力を齎し、魔を打ち滅ぼす力を与えると言う。保護された先で偶々居合わせた組織のリクルーターは言った。
『君みたいに吸血鬼と遭遇して生き残った人間など稀だ。ましてや正気を保っているなど』
勧誘を受けたのだ。当時、奄美の属する組織は、そう言った若者を半ば青田買いの様な形で引き入れる事を頻繁にやっていた。もし、拒否をするのならば記憶を消すとも言った。方法は分からなかったが、手段は確かにあったのだろう。
迷うことなく頭を縦に振った。その潔さと勢いのよさにリクルーターが驚いたのを良くお覚えている。探していたものが見つかったような感慨だった。
組織に入り、実戦経験を積んで聖鎧布の装備者に選ばれたのが二年程前だ。奄美にとって、それらの装備者になる事は組織に入った目的でもあり、夢でもあった。一言では言い表せない。
タクシーが駅に着いた。繁華街近くの賑やかな通り。遠くに、見知った人影を発見。
「・・・姉さんだ」
姉、明日香の姿だ。周囲に何度か見かけた事がある彼女の友人たちの姿がある。
「・・・お客さん?」
運転手が会計を急かす。お釣りを受け取ってタクシーの後姿を見送るころには姉の姿が分からなくなっていた。