第2話 『浮遊』
「信じられん・・・」
そう呟いたのは誠司ではなかった。傍らに立つ初老に差し掛かった男性だ。誠司の父、そして、傍らに立つ母が涙を滲ませて口に手を当てている。
呆然とした様子の父の言葉はまさしく誠司の心の言葉を表していた。苦労して起こした体、その手には鏡が支えられている。看護婦にねだったのだ。
そこには僅かに無造作に髪が伸び、やつれてはいたものの、若々しい男性の姿。まだ少年といってもいい年頃の顔だった。日本を後にして少なくとも十年以上の月日が経っていた筈だ。自分がこんな若いはずない。それだけではない。長年、戦場を渡った誠司の躰は鋼の様に鍛えられていた。こんな貧相な筈は・・・・
「貴方が車に撥ねられて十五年も経つのよ・・・・眠った貴方だけが時間を忘れた様に若いままで・・・このまま目を覚まさなかったらどうしようって・・・」
母が膝をついて嗚咽を漏らし始める。
「・・・・恵美も、お前の妹も直ぐに来るはずだ。仕事、休み貰ったっていってたから」
父の声も震えている。鏡から手を離した。どうにも混乱しているし、考えるのが億劫になってきた。ベッドに仰向けに倒れる。腹筋などとうに衰えていて、ゆっくり横になるなど出来そうになかったからだ。
急に倒れた様に見えた誠司に両親が慌てて詰め寄る。
溜息が漏れた。どこから息が出てくるのか分からない程に長く、深い溜息だった。
「親父」
「っ・・・何だ」
「疲れたよ」
本当に疲れた。戦い続け、いつ終わるのか分からない程に守った城門もここには無い。誠司の言葉に勘違いした父が慌ててナースコールを押した。
何が起きたのかが分からない。しかし、これだけははっきりしていた。自分は帰ってきたのだ。日本に。
「来月には退院できるって」
ベッドの傍らに座る女性がそう言った。妹の槙原恵美だ。今年で25歳になるらしい。
目が覚めてから3ヶ月が経った。リハビリにより、大分身体能力を回復させた誠司に、担当医師は退院の許可を出した。
胡坐をかきながら、妹に買ってこさせた新聞を広げる。学生だったときは考えられなかったが、今になって大人たちが新聞を広げていた意味が分かる。ここまで世情に疎い事が不安になるなど思いはしなかった。
「なんだか、子供が新聞読んでるっておかしな光景だね」
驚くべき事に、誠司の容姿は事故にあった当時のままだった。実年齢はともかく、ティーンエイジャーがしかめっ面で新聞を広げる姿にくすりと笑う妹。
「・・・大分ブランクがあるからな。景気の浮き沈みとかはともかく、これもリハビリみたいなもんだよ」
そう、リハビリだ。傍から見ればついこないだ意識が戻った様に思える誠司であったが、その実、異なる言語体系で生活を営んでいたのだ。もっとも、ここ暫くは人と話す機会などありはしなかったが、日本語を忘れかけていた。今でも、気を緩めると向こうの言葉で話してしまいそうになる。
最初は活字を追うのに苦労したが、ここ数週間は大分読み進めるのも滑らかになっていた。
新聞の日付欄には2014年6月30日とある。日本を去ったのが1999年の、日付は不確かだが9月頃であったと思う。15年近く向こうにいた事になる。
もはや自分は32歳だ。中年に差し掛かっている。しかし・・・・
「ねぇ、退院したらどうするの?」
「ん? ああ、そうだな・・・・」
しばらく前に、厚生労働省の役人が訪ねてきた。どうにも、誠司の様な、長らく現実社会にブランクを抱えて社会復帰に一定のハードルを持っている者について支援する部署が設立されたらしい。公務員とは思えない程に低姿勢な中年男は、誠司に学校に通ってみてはどうかと提案した。
見た目はそこらの若者と変わりないのだ。学校に通う事はコミュニケーション能力の回復にもいいとの事。中身が中年に差し掛かっている誠司としては迷ったが、両親と妹がもろ手を挙げて賛成したので仕方なく首を縦に振った。
「でも、いいのかな。三十過ぎた高校生なんて」
「何言ってんのよ。中身は若いままでしょ。それに、来月からは一緒に通学だね」
恵美は近所の高校で数学教師をしていた。評判も良いらしい。通う学校は妹の勤務する学校となった。
「あ、そろそろいくね」
腕時計に目をやってそう告げる恵美。ベッドの上から後姿を見送る。今日は金曜日で、窓の外を見れば陽が傾いている。彼氏だろうか。今日、見舞いに訪れた恵美は心なしかめかし込んでいる様に思えた。考えてみれば、妹も三十を手前にしている。結婚だってしていてもおかしくない年齢だ。
「・・・そうなれば、俺は叔父さんか」
病室は事情も鑑みて個室だった。入院費は高額な筈だが、珍しい症例という事で大学の研究機関から補助が出たそうだ。足がでた分については両親と、誠司をひいてしまった加害者の男が折半して支払っていたそうだ。
加害者の男とは一度だけ面会をしたことがある。冴えない容貌の中年男性だった。事故を起こしたせいで当時勤めていた会社は解雇されたそうだが、何とか立ち直って今では新たな職を得て家族も養っているらしい。目が覚めた状態の誠司を前に、涙を流して頭を下げてきた。
きっと、ずっと重荷だったに違いない。事故は不幸だった。むしろ、加害者こそ心のしこりは大きかっただろう。
誠司は彼にこう告げた。
『随分とご負担かけた様で申し訳ない。俺ももうじき社会復帰するし、事故の事は忘れて、貴方も人生を謳歌してほしいと思ってる』
彼は涙ながらに感謝の言葉を述べて病室を立ち去った。
謝られても感謝されも困るのだ。引きずられても困る。自分は他の場所で、確かに生きていたのだから。しかし、今のこの日本に、自分がただ十五年眠り続けていたこと以外を証明するものは何一つありはしない。
看護婦が病室に入ってきて病院食を配膳するとカーテンを閉めて去る。一人になって膳を前にぽつりと呟いた。
「嘘だっていうのか、俺が生きた戦場が」
声が震えた。訳も分からず涙が溢れてきた。
大したものだと、心の中で呟いた。視線は机上に鎮座するタブレット型携帯端末に指先を走らせる。自分の指の動きに応じてタッチパネルが機敏に反応する様は誠司にとってあまりにもSFチックだった。
身体機能がある程度回復したのを見計らって退院したのが一か月前の話だ。タブレット端末は妹の恵美が退院祝いにプレゼントしたもの。高価なものである事は容易に想像できたので最初は遠慮していたのだが、結局押し切られる形で受け取ってしまった。
遠慮の気持ちは直ぐに消えた。今では気が付けば朝から晩までいじり倒している。昨日などは携帯ばかり弄っている息子を快く思わない母親に窘められると言う、年頃の少年らしい(?)一幕まで披露してしまったくらいだ。
不意に後頭部に衝撃。
「!?」
「こら、槙原誠司・・・授業中に何をやっている」
見上げれば、教科書を丸めた状態で掲げながら、こめかみに静脈を浮かばせている女性の姿。
「私の英語の授業はそんなに退屈か。とにかく、携帯は帰るまで没収だ」
そこは学校の教室だった。
鐘の音を模した電子音が響く。教師が授業の終わりを告げると教室に弛緩した空気が広がる。時計を見れば12時40分。昼休みだ。
私立善光寺学園高等部。誠司が通う事になった高校だった。JR蒲田駅から直通のバスが通っている。誠司の自宅も蒲田直通の千鳥町駅に存在するので不便は感じないが、約三十分の道程に揺られた後に現れるのは見事なまでの都会の田舎だ。鉄道各線に囲まれてはいるもののどの最寄駅も均等に遠く、道も曲がりくねっている為に車にも走り難い。結果として、一般人からも企業からも、はてはバスを含むインフラからも嫌われたその地域は伽藍としていて、都市部にしては例外的に地価の安い地域として知られている。
善光寺学園を経営している学校法人も元々はバブル期に行われた土地開発に合わせて、教育サービスの需要を見込んで開校されている。あては見事に外れて、今では国から補助金を頼りに細々とした経営に勤しんでいるそうだ。
のろのろとした動きで教科書を引き出しに押し込んでいると、クラスメイトの少年がへらへらした顔で近寄ってくる。
「よ、今日も絶好調だったな」
「・・・何がだよ」
髪を短く刈り込んだ背の高い少年だった。少年、山崎タケルは誠司の肩を叩きながら。言葉を続ける。
「お前のぶれなさには感服するよ。で、今日は何に夢中になってた?」
「・・・・大沢在昌の『天使の牙』・・・・電子版買って落としたんだ」
十五年ぶりに戻った日本には、誠司がいた頃には無かったものが沢山生まれていた。高度な電子機器はもとより、小説や映画などの文化的な作品群の拡充は津波のように鮮烈だった。
現実と区別のつかない程のコンピュータグラフィック、もはや仮想現実と言っても過言ではないビデオゲーム。
山崎少年とは転入以来の仲だ。席は窓際一番後ろの誠司のひとつ前。前後という事で話す機会も多い。特に映画の趣味が似通っていた事もあって話がよくはずむ。
因みに、通っている学年は二年次だ。妹の協力もあって猛勉強した結果、その学年が適当という事になった。誠司としては一年からやり直しても良かったのだが。
「ああ、あれ名作だよな。知ってるか、映画化もされてるんだぜ?」
「え、そうなのか?」
「まあね、でも見ない方がいい。俺は大沢たかおが好きだから見たけど、原作と俳優以外には価値のない映画だった」
「あ、やっぱここにいた」
不意に声がして顔を向けると、二人組の少女がこちらに歩いている姿だった。昼休みという事もあって喧騒に満たされていたが、少女の声は澄んでいてよく通る。
「何だよ、金城」
「さっさと学食いこうよ。席が埋っちゃうじゃない」
金城と呼ばれた少女は蓮っ葉な物言いでそう返した。金城明日香、山崎タケルと同じ陸上部に所属しているらしい。小柄ながらもスラリと通った背筋、猫の様な大きな瞳のやや童顔ながらも整った面立ち、スポーティーなショートヘアが印象的な少女だった。
「まったく、昼休みは食堂で集合って約束したじゃん。もう、五分も過ぎてんだよ。男が女待たせんなよ。乙女かっての」
「な、ちょっと遅れたくらいで文句言いやがって・・・」
タケルがムッとした様子で抗弁する。二人とも本気で喧嘩するわけではないが、こうなると収まりつくまでが長い事を短い学生生活で悟っていた。
「続きは食堂でやろう」
誠司がやや疲れた調子でそう言うと、二人そろって口を尖らせながら不承不承黙った。その様子を横目に表情に現れない様に心の中で苦笑した。彼らは新たに得た友人たちだった。
食堂の席にはまだ余裕があった。既に昼時でかなり賑わってはいたが、食堂自体が広いのだ。そもそも、誠司の通う私立善光寺学園は高等部の他に中等部を備えている。加えて、建設当時は大学の併設も予定していた為、校内の設備自体がかなり大掛かりな規模となったいた。もっとも、中等部の学生は親が作った弁当を持参するものが多く、高等部の生徒も半分以上は右に同じ。主たる顧客として期待されていた大学生達は、そもそも大学の設立が後ろに倒れていて存在自体がないとういう状況。
ラーメンコーナーに並んでいた誠司は注文していたラーメンを受け取ると先に席についている筈の友人二人を探す。麺類という事もあって時間がかかってしまった。
辺りを見回していると、窓際の席で明日香がこちらに手を振っていた。
「随分かかったね」
「すまん、こんな時間かかるとは思わなかった・・・・て、あれ?」
一人増えていた。
明日香の隣で赤いフレームの眼鏡をかけた少女が会釈する。細い顎に通った鼻梁、ややつり気味な強気の瞳の容姿が歳に不釣り合いな美貌を醸している。髪も長く、女性的な容姿をしているにも関わらず、どこか中性的な雰囲気の少女だった。
(宝塚とか似合いそうだな。男役とか)
「・・・金城奄美、です」
「ん、ああ、槙原誠司だけど。て、金城?」
「ああ、その娘、私の双子の妹なのよ」
あっけらかんと笑う明日香に驚く誠司。双子の姉妹がいたとは初耳だった。
「あれ、言ってなかったっけ?」
「そういや言ってなかったかもしれないぜ。俺達にとっては今更な事だし」
当然、タケルは知っていたらしい。知り合って一か月も経って知らなかったことについて続きを補足した。
「知らなくても無理ないかもしれないな。奄美ちゃんは特別進学科だからさ。俺達、普通科とは授業も変える時間も全然違うし。奄美ちゃん、頭いいもんなー」
「そんな事ないよ」
恐縮する奄美にへらへら笑う友人二人。そう言えば、自分の通う高校には普通科とは別に難関大学合格を目指した進学コースが併設されている事を思い出した。体育科もあるが、学科等で合同授業もあるそちらとは違い、特別進学科は教室もカリキュラムも授業時間数も普通科や体育科とは異なる。会う機会が無かったのも無理ないかもしれない。
因みに明日香は体育科だ。タケルは自分と同じ普通科。
「ほら奄美、ちゃんと自己紹介して」
「姉さん、さっきやったでしょ?」
「槙原君、今、面白い本探してるんだって、本好きの奄美ちゃんから一言アドバイス!」
本、その一言で初めて奄美が真正面から誠司の事を見た。
「槙原君、本が好きなの?」
「ん、んん、まあ、そだね」
「どんな本読んでるの?」
どことなく、今までの落ち着いた印象と異なる様だ。僅かに身を乗り出してすらいる。
タケルが横から口を挟んだ。
「さっきはタブレットで天使の・・・・何だっけ」
「・・・『天使の牙』」
「大沢在昌!?」
大きい声を出して、周囲の注目が奄美に集まる。奄美は気にした様子も無かった。
「・割とハードボイルドなのが好きなんだね」
「ほら、アドバイス」
「分かってるよ・・・・そうだね、だったら深町秋生がお勧め」
「へぇ、どんな本?」と何故かタケル。
「ああっ」
奄美の瞳が輝く。
「血と硝煙だらけの、人がゴミみたいに死ぬハードコアっ。私、そういうのが大好きなんだ!!」
誠司がそれを眼にとめたのは自宅で週刊誌を広げている時だった。最近は新聞もよく読むが、芸能面や政治面をスキャンダラスにすっぱ抜いたものも目を通す様にしている。最初は現代の常識に対応するための情報収集の一環だったが、俗なものから確信を突く様な鋭い考察が多い雑誌もあり、今では趣味の一つにすらなっていた。
芸能面を捲ると、ページ半分程つかって半裸の若い女性が扇情的な姿勢を取っていた。『進藤有紀、遂にAV解禁!?』随分前に一世を風靡したアイドルグループの一人がポルノ女優として再スタートを切るという内容だった。誠司も知っている。十五年前に丁度売れ始める頃合いでよくテレビにも取り上げられていたからだ。
そう言えば、当時のクラスメイトに件の進藤有紀の熱狂的なファンがいた様な気がした。彼はこの記事にどんな感想を抱くだろうか。
(まあ、買うだろうな)
もしかしたら結婚しているかもしれない。家族の目もあるだろうが、きっと何とかして手に入れようとするだろう。そんなくだらない事を考えていると、ページを捲る手が止まった。
『東京都港区でバラバラ殺人事件』
港区高輪の住宅街で殺人事件が起きた事を報じていた。高級住宅街ともいえる件の一軒家で発見されたのはその家に住む時田雄二(三十五歳男性)とその妻、時田美佐子(29歳女性)の遺体。他に、両人の者ではない左右の腕が十数組転がっていたとの事だ。遺体を見聞した警察の発表によると、夫は妻の手により殺害されたもので無理心中も考えられたが、妻の遺体が明らかに他殺だったとの事。また、腕のみが残された不自然な遺体(?)の事もあり、更なる操作を云々。
「物騒な事だな」
「何、どうしたのお兄ちゃん」
年上の妹が手元を覗き込んでいる。仕事から帰ってきたばかりらしくスーツ姿だ。
「ああ、その事件?」
「知ってるのか?」
事が起きたのは一か月ほど前、誠司が退院と復学の直後でばたばたしていた時らしい。平素で有ればそれなりに騒がれた筈の事件だったが、同時期に大物政治家の汚職献金問題が報じられて目立たなかったらしい。
妹が自室に戻って行った。
雑誌を横に放り投げると天井を見上げた。テレビもつけていないリビングには自分一人、だった。暇を持て余している筈なのにテレビをつけようとは思えない。気になる事が有ったからだ。
先程、話題にした殺人事件。それには隠された暴力、暴力を隠そうとする匂いを感じたからだ。