水銀博士と乙女
いつのころでしょうか。北の方にある国の小さな町の外れに、随分と年をとった夫婦が暮らしておりました。二人はお姉さんとお兄さんのときから子どもが欲しい、子どもが欲しいと願い続けていましたが、とうとう授かることはありませんでした。
しかし真っ直ぐだった背中が弓のようにたわんで、黒髪が新しい雪みたいに真っ白に染まってしまっても、まだ諦めきれずにおりましたので、十五日になるといつも月のマリアにお祈りをするのでした。
ある日のことです。二人の住む町に、若い男の旅人がひとりやってきました。黒い山高帽子とインバネスを身につけたその人は、水銀博士という名のマリアさまのおつかいで、困った人が大好きなのでした。だから博士は町で一番大きなステーションから、迷うことなく夫婦の家に向かいました。そして家の前に着くと、トントン、トントン、扉を叩いていいます。
「お願いごとはございませんか。ございましたらお出でんください、私はマリアさまのおつかいです」
夫婦はそれを聞くと慌てて扉を開けて、これまでのことを打ち明けました。博士はその間中、二人が悲しそうな顔をすると、同じように悲しそうに、怒った顔をすると、また同じく怒った顔で頷いておりました。やがて夫婦が全部を話し終えると、水銀博士はほっと溜息をひとつ、ついてからいいました。
「まず旦那さんは、栗の木を植えなさい。難しいことはありません、土さえあれば何処でも良いのです。いいですか、これは旦那さんのお仕事ですよ。奥さんは花をつけたら、蜜をとってお飲みなさい。そうすれば、確かにお子さんが出来ますから」
そうして、魔法使いの博士は帰ってゆきました。二人はさっそく町の花屋で栗の木を買って、いわれたとおりに自分達の家の裏庭に植えたのでした。
それから一年が経つと夫婦には、お砂糖のような肌と林檎の頬を持つ可愛らしい女の赤ちゃんが生まれました。
「ああ何と愛らしい。こんな子はきっと世界中で一人きりに違いない! 赤ん坊のままでも、こんなに可愛いのだから、この先はもっと可愛くなるだろうよ」
夫婦は赤ちゃんを代わる代わる抱いて、あやしながらそう語り合いました。そしてその言葉は本当なのでした。
赤ちゃんが小さな女の子になると、また輪に掛けて可愛いので町中で大変評判になったのです。それは、綺麗な白いばらがやきもちで黄色くなって散りぢりになってしまうくらいだと、人々は顔を合わせると挨拶するみたいに囁きあいます。
そんな具合ですから、女の子のうわさは馬で駆けたはやさで、王子さまのお耳にも届きました。
「ほんとうにそれだけ美しいのなら、私も一目見てみたいものだ」
王子さまはわざと薄汚いぼろを身にまとうと、町に出て女の子の家に向かいました。そしてこっそり窓を覗くと、小さな太陽があるみたいなそれはそれは可愛い女の子が縫い物をしているのが見えたのです。
「この子は、何て娘だろう! このように美しい女の子はきっと世界中で一人きりに違いない!」
王子さまはすぐにお城に帰って、家来たちに女の子をお嫁さんにするということを告げました。そして次の日の夜には、その家来たちが女の子の家にぞくぞくとやってきて、女の子を将来王子さまのお妃さまにしたいと、夫婦に告げるのでした。
夫婦は飛びあがって大喜びしましたが、女の子はどうでしょうか。夫婦が不安そうに女の子を見ますと、女の子はスカートをちょっとつまんでお辞儀をしながらいいました。
「私は王子さまのお言葉どおりにいたします」
こうして小さな女の子は、王子さまの許嫁となって、仲良くしたのでした。めでたし、めでたし。
でも、本当のお話はここからです。
女の子は小さな女の子で、まだ乙女ではありませんでしたから、お城に行くのはまだまだずっとずっと先のことでした。王子さまは毎日遊びに来て下さいますが、女の子はお城に行く日が待ち遠しくてなりません。
「はやく明日が来ないかな。はやくお誕生日が来ないかな。はやく大人になりたいの」
そういって女の子は夜ごと月のマリアにお祈りをするのでした。
そんなある日のことです。女の子のいる町に、再びあの不思議な水銀博士がやって来たのでした。
博士は町で一番大きなステーションから、やはり真っ直ぐに女の子の家に向かいます。そして家の前に着くと夫婦がいないことを見はからって、トントン、トントン、扉を叩いていいました。
「こんにちは。お困りのことはございませんか。ございましたらお出でんください」
でも女の子は窓から、様子をうかがうばかりで一向に外に出ようとはしませんでした。知らない人が来たら扉を開けていけないと、夫婦――お父さんとお母さんに固くいわれていたのです。それでも博士は扉をトントン、トントン。
「欲しいものはございませんか。ございましたら、お出でんください」
女の子は何も答えません。トントン、トントン、トントント。
「お願いごとはございませんか。ございましたらお出でんください、私はマリアさまのおつかいです」
女の子は慌てて扉を開けました。
「あなたは本当にマリアさまのおつかいなのですか?」
「そうですとも。正真正銘私はマリアさまのおつかいです。だから誰か困っている人いれば、何かしなけりゃあならないのです」
「だったら私、いま困っていません」
そういうと博士はひどく悲しそうな顔をして、女の子を見ます。それを見ていると何だか悪いことをしているみたいに思えて、女の子は申し訳ないような気分になりましたので。
「けれど、……けれど、お願いごとならあります」
そう女の子は顔を伏せながらおずおずと、博士にいいました。それを聞いた博士は顔を赤くさせて、目をばちばちしながら喜びました。そしてどんなお願いごとなのか、女の子にたずねます。
女の子は自分が王子さまの許嫁であることや、早く大人になって王子さまのお城へ行きたいことなことを全て話しました。
その間、博士は赤くした顔を急に真っ青にして、穴みたいな目を開けたまま、頷くこともせずにじっと黙っておりました。そして全てを聞き終わると、博士は薄く笑いながら懐から何かを取り出しました。
それは握ったら隠れてしまうほど小さな瓶で、中には紫色の透き通った水が入っています。博士はそれを女の子に差し出していいました。
「あなたの家の裏庭に栗の木があるでしょう。そこから花をとってきて鍋で煮詰めてジャムを作りなさい。肝心なのは煮え立ったときにこの白いばらの花の蜜を入れるのを忘れないことです。いいですか、必ずですよ。そうすればきっと大きくなれますから」
そうして水銀博士が帰ってしまうと、女の子はさっそくいわれたとおりに森へ入り、栗の花をとってきて、鍋に入れました。そしてぐつぐつ鍋が煮え立つと、小さな瓶の中身を丸ごと入れてしまいます。さあ、これでジャムの完成です。女の子はすぐに匙で熱いままのジャムをすくって、口の中に入れました。
するとどうでしょうか。体中がじわじわ温かくなって、しまいには痛いくらいになりました。そして短かった腕と脚がぐんぐん長くなってゆきます。
ああ、私がのびる。私がのびる。どうしましょう。女の子は誰かに助けてもらおうと声を上げましたが、誰にも聞こえないようでした。
とうとう服の中に収まりきらなくなると、やっと体はのびるのを止めました。そして女の子はいまや女の子ではなく、ひとりの美しい乙女になっていました。
不意に誰かが扉を叩いて、女の子を呼びました。あの博士です。
「あなたは今から花嫁です。これを身につけて、お城へ行くといいでしょう」
水銀博士はほんの少しだけ扉を開けると、その細い隙間に腕を差し入れました。腕には満月の夜のような色のドレスがかかっているのでした。
乙女は喜んで、ドレスを着て家を飛び出しました。そのさまはまるで風みたいでしたので、すぐにお城までたどりつきました。
乙女は少しでもはやく王子さまにお会いしたくて、中に入ろうとしましたが、城の衛兵が目の前に立ちふさがって先には行かせてくれません。
「見ず知らぬ人をお城に入れるわけにはまいりません」
「私は王子さまの許嫁です。中に通して下さい」
乙女がそういうと衛兵は鼻で笑います。
「ふん。お妃さまはまだ小さくて、可愛らしい方だ。あなたみたいに大きな体などではありません」
自分がその人だといっても、衛兵は全然とりあってくれません。いいあっているうちに人が集まってきて、あっという間に王子さまのお耳に入るくらいになりました。
「一体何の騒ぎなのか。場合によっては、罰せなければならない」
衛兵はかしこまって、王子さまに乙女のことを申し上げました。王子さまは乙女をじろじろ見ると、目を吊りあがらせて仰いました。
「お前の首をはねてやる! 汚らわしい嘘吐き女め」
乙女は顔を土色にさせてぼろぼろ涙をこぼすと、その場から逃げだしました。誰もが乙女を捕まえようと服に手をのばしましたが、不思議なことに服はいつもするりと手からすり抜けていってしまうのでした。
どうにか家に帰ると、窓からお父さんとお母さんはテーブルに突っ伏して、泣いているのが見えました。
乙女は扉を開けて家の中へ入って、お父さん、お母さん、私です。あなたたちの娘です、といいました。
しかし二人は顔を真っ赤にして叫びます。
「私たちの娘が、おまえみたいに大きいはずがない!」
出ていけ、出ていけ、この薄ら汚い魔女が! そう叫びながら夫婦が手当たりしだいに物を投げつけるので、乙女はもう家には入れませんでした。
どうしてよいのかわからないまま、乙女がそこらぢゅうを歩き続けていると、いつの間にか見知らぬ広いところまで来ていました。そこは森の中の花畑です。乙女は疲れて、そこへ座りこんでしまいました。
見上げた空にはもう三日月が高い所まで昇っています。
「ああ、マリアさま。私にはもう何のあてがありません。どうかこの身を哀れと思うなら、私をこの野原の花に変えて下さい」
マリアさまはそのお願いごとを聞き入れたようでした。乙女の体はみるみるうちにかすんでゆき、とうとう消えて見えなくなってしまいました。しかしその跡には、ドレスと同じ暗い色の釣鐘のような花が残っています。
少しの間花は風の吹くままに揺られていましたが、やがて花畑に来た誰かに手折られてしまいました。その人はあの水銀博士でした。
「私は確かにマリアさまのおつかいですが、ジキタリスのマリアさまのおつかいなのです。残念でしたねえ」
博士は花に口づけると、満足そうに笑いながら、ひとこと呟くとその場を去りました。
「あなたは今から世界中で一人きりの私の花嫁です」
そして町からはひとりの女の子がいなくなったのでした。