スープの最期
澤井さんが何の前触れもなく私の家にやって来たのは、桜の花びらが散る日だった。突然の訪問に戸惑う私に幾度か謝りつつ、澤井さんは悠々とリビングへと向かった。度々、在来たりなお世辞を言っていたが、私は相槌すら打たずに、澤井さんの背中を不審に見つめる。
「突然やって来て、どうかしたのですか?」
リビングに入ると同時に私は尋ねた。澤井さんは頭を掻きながら、相も変わらず断りもなく椅子に座り、また一つ下手くそなお世辞を口にした。まるで私が無理に言わせているように、顔をくしゃりと歪ませて放たれるお世辞は、嫌味にも聞こえる。澤井さんは目をうようよ踊らせた後、頭を抱えた。そして、ぶちぶちと何かを呟き、彼が落ち着くまで時間がかかった。その間、私は昼御飯の残りのスープをよそって、澤井さんの前に置き、引きだしからスプーンを取り出した。
「こんなものしかありませんけど……」
澤井さんは何も言わずに、スプーンでスープを掬い上げ、薄い唇の間へひらりと流し込んだ。私は向かいの椅子に座り、その様を眺めていた。ひらり、ひらり、とスプーンが皿と唇を行き来する。
「菜津子ちゃんの作るスープはいつも美味しいなぁ……」
にっこりと優しげな笑みを浮かべて、澤井さんは言った。私はそれが直ぐに嘘だと確信し、嫌味の一つでも言ってやろうと思ったが、言う事は出来なかった。最後の一口を掬い上げた時に、澤井さんは突然ぼたりぼたりと涙を流し始め、ついにはスプーンが皿の上に落下してしまった。それでも澤井さんは唇をぶるぶる震わせて、目を固く瞑り、眉間に縦皺を寄せて泣き続けていた。
「泣く迄、我慢して食べなくても……」
「泣く程、美味かったっ……」
冷めきったスープを出したのに、彼は何故泣く程美味い等と言うのか。何となく、予想はついたが、黙っていた。
「僕は今日、死にに行く……」
「泣くぐらいなら、今日は止したらどうですか?」
「それでも、行く」
「最後の晩餐はせめて、美味しいものを食べてはいかがですか」
「だから僕は、君の所へ来たんだよ」
澤井さんは私の兄の友人だ。彼はよく私の家に兄と共に訪れ、このスープを食べてはよく残していた。
兄が言った。「澤井がスープを全部食べ切ったら死ぬ前だよ」と少しばかり笑いながら。初めは意味が分からなかったが、どうやら澤井さんは自殺志願者なのだと理解した。そんな彼が兄にそう笑って話し、それを兄が私に笑って伝えた次第だ。
「私、澤井さんがどうして死にたいのか知りませんから、どうすれば止められるのか分かりません」
「それで良いんだ」
涙が止んだ澤井さんは、寂しげに言った。涙がばたばた落ちてしまったスープは、最後の一口分、虚しく皿に残っている。もう飲めたものではない。時計の針が一心に鳴き続ける中、私と澤井さんはジッと身動きすらとらずに、涙の溜まった皿に目線を落としていた。
「好きだったんだ、君のことが」
顔を手で覆いながらの告白は、恐ろしく低音で籠っていた。彼を止めるべきだ、と一瞬脳裏を走り抜ける。きっと後悔する、とも感じている。気付けば、私の方が泣き出して、赤ん坊のようにわんわん声を上げて、嗚咽して、告白の返事はしないまま、ひたすら泣き続けた。彼はずるい人だ。ずるすぎて、涙が止まらない。
「美味しかったよ、スープ。ありがとう。本当に、ありがとう。……そろそろ、行ってくるよ」
「あなたは、ずるい方です」
「最後なんだ。大目に見てください」
パタパタ、廊下を歩く音が小さくなっていき、ドアが締まる音がひとつ。部屋には私とスープだけが虚しくとり残された。
今朝、兄から電話があり昼はスープを作っておくように言われた。兄は澤井さんが今日死ぬことを知っていたのだろう。兄ですら止められなかった彼の自殺願望を、私が止められるはずがない。そんなことがあれば、私は彼の人生を大きく変えてしまったようで居た堪れない。
澤井さんは、止めてほしかったのだろうか。何故、泣いたのだろうか。何故、今日なのか。疑問は浮かんで、シャボン玉のように直ぐに消えていった。
澤井さんが死んだかどうかは知らない。兄は教えてはくれなかった。あの日から3日後に男性の死体が発見されたそうだが、それが澤井さんのものだったのかは私には分からない。
久々の投稿です。お時間を取らせてしまい失礼しました。
まだまだ拙い文章です。これから精進して行きたいです。
2007.5.11