嘘から出た黒死病(ペスト)~細菌兵器の冤罪で追放された元令嬢、手洗い・日光干し・猫の配備で辺境から国を救う~
学園の卒業記念夜会は、豪奢なシャンデリアの光で満ちていた。
その広間の中央で、わたくし――侯爵家の嫡女、エレオノーラ・フォン・ベルンハルトは、婚約者である第二王子レオンハルトから冷たく指を突きつけられていた。
「エレオノーラ! 貴様との婚約を破棄する!」
彼の腕には、桃色の巻き毛を揺らす男爵令嬢マリアがすがりついている。最近、殿下が目に見えて執心していた娘だ。
「……理由をお聞かせ願えますか」
「とぼけるな! 貴様は裏で禁忌の『細菌兵器』を密売していたそうだな。マリアが、その証拠書類を見たと証言している!」
広間が一瞬で静まり返った。
細菌兵器。毒薬ならともかく、この世界の一般的な貴族が「細菌」などという学術的な単語を知るはずがない。前世で医療従事者だったわたくしの背筋に、冷たいものが走った。
「根も葉もない言いがかりで、わたくしを陥れるおつもりですか」
「言い逃れは許さん! 貴様をベルンハルト家の後継者から外し、最北のクローネンベルク辺境伯領へ即刻追放とする!」
マリアが殿下の背後から、嘲るような笑みを向けてきた。
浅はかな娘だ。適当に聞きかじった物々しい言葉でわたくしを追い落とし、王妃の座を奪う腹づもりなのだろう。
だが――火のない所に煙は立たぬ。彼女はいったい、どこでその言葉を耳にしたのか。
「……謹んで、王命に従いますわ」
深く頭を下げ、その場を辞した。
追放の馬車に揺られながらも、わたくしは即座に動いた。生家に残した私財と商人の伝手を総動員し、王都周辺の情報を集めさせたのだ。
数日と経たずに、不穏極まりない凶報が届いた。
港町や王都の貧民街でネズミが異常な数で変死し、その後、人々が急な高熱を出して倒れているという。
追放から一か月。雪の残る最北の地、クローネンベルク辺境伯領に到着したわたくしは、登城するやいなや報告書を広げた。
若き領主、ジルベルト・クローネンベルク辺境伯――王家から疎まれながらも、実直に民を愛する武人は、眉根を寄せてわたくしの顔を見つめた。
「エレオノーラ嬢、単刀直入に聞く。これは真実か」
「はい。王都で始まっているのは、かつて世界を滅亡の淵に追いやった悪夢――黒死病、ペストの流行です」
わたくしは卓上の地図を指した。
「原因は、マリアの実家が関わっていた外国との密貿易船です。船内のクマネズミと、それに寄生していたノミが病原体を持ち込みました。彼女が口にした『細菌兵器』とは、密輸商人たちの間で囁かれていた病の噂を都合よく利用したものでしょう」
「どのような病なのだ」
「ノミに刺されたリンパ節が激痛とともに腫れ上がる『腺ペスト』、そして最も恐ろしいのは、咳や痰の飛沫で人から人へ感染する『肺ペスト』です。高熱と呼吸困難に陥り、血痰を吐いてわずか一日二日で命を落とします。菌が全身の血に回れば、手足が黒く壊死して息絶える……」
ジルベルトの表情が険しく引き締まる。
「治療の手立てはあるのか」
「薬師たちと抗菌薬の試作を進めていますが、まだ数に限りがあります。何より重要なのは、病にかかる前に防ぐこと――予防こそが最大の武器です」
わたくしは持参した防疫対策書を広げた。
「近代的な殺虫剤などこの世界にはありません。だからこそ、生活の根本を見直す必要があります。第一に、三密の回避です。密閉空間、密集場所、密接場面を徹底的に避けさせ、教会での集団祈祷などは即刻禁止してください。部屋は常に窓を開けて換気を行い、外から戻った際は石鹸による手洗いとうがいを義務づけます」
「うむ、すぐに布告を出そう」
「第二に、ノミとネズミの徹底駆除です。熱と日光に弱いノミを殺すため、全領民に衣服や寝具を天日干しさせ、定期的な熱湯消毒を推奨します。また、身体の清潔を保つために入浴や湯浴みを励行させてください。そして――他領や隣国から、ありったけの『猫』を買い集めて輸入してください」
「猫を?」
「はい。ネズミを捕獲し、街中に増やさないための最も確実な防壁となります。最後に、まだ感染していない健康な民の体力を底上げします。大根、人参、蕪といった根菜類や、柑橘類や野草からビタミンを豊富に摂取させ、滋養のある食事で免疫力を高めさせるのです」
ジルベルトは迷うことなく立ち上がり、印章を握りしめた。
「全軍、全役人に通達する! 領境に防疫線を敷け! エレオノーラ殿の指示に従い、換気、手洗い、日光干し、そして猫の配備を直ちに実施せよ!」
辺境伯領の動きは迅速だった。
領境には検疫所が置かれ、避難民は二週間の経過観察を受けた。街中では布団がずらりと干され、石鹸の香りと湯気が立ち上り、至る所で猫たちがネズミを見張った。食卓には温かい根菜汁が並び、民は規則正しく清潔な生活を送った。
咳を伴う初期症状の者がいれば即座に個室へ隔離され、試作の抗菌薬が慎重に投与された。徹底した予防措置のおかげで、辺境伯領内での爆発的な感染拡大は完全に防ぎ込まれていた。
一方、王都はまさに地獄絵図と化していた。
「神の罰だ」と教会に数千人がすし詰めになって祈りを捧げたことで、肺ペストの飛沫感染が爆発。都市機能は麻痺し、死体が路地に転がる惨状となっていた。
ある吹雪の日、領境の検疫所に一台のボロボロの馬車が転がり込んできた。
護衛もおらず、泥にまみれて這い出てきたのは――変わり果てた姿の第二王子レオンハルトだった。
「た、助けてくれ……! エレオノーラ……ッ!」
かつての傲慢な面影はどこにもない。首筋のリンパ節は赤黒く肥大し、激痛に脂汗を流している。
馬車の奥からは、マリアの激しい咳が響いていた。吐き出された布には、泡立った赤い血痰がべっとりと付着している。
「王都はもう終わりだ……! マリアが仕入れた高級毛皮に、ネズミがついていたんだ! あいつが病を持ち込んだ元凶だった! 俺は騙されていたんだ! お前が病を治す薬を持っていると聞いた! 頼む、王妃にしてやるから俺を救え!」
防護服を纏い、顔布で口元を覆ったわたくしは、検疫所の柵越しに二人を冷徹に見下ろした。
その隣には、重厚な外套を羽織ったジルベルトが、侮蔑の眼差しを向けて立っている。
「お断りいたします、レオンハルト殿下」
「な、なぜだ……!? 見捨てる気か!」
「わたくしは『細菌兵器を密売した大逆人』なのでしょう? 身に覚えのない罪で追放された身です。それに、わたくしたちの領地が平穏なのは、魔法のような特効薬があるからではありません。日々の手洗い、換気、衣服の日光干し、滋養のある食事――民一人ひとりが地道な予防を積み重ね、自らの命を守ってきた結果なのです」
「そんな貧乏くさい真似ができるか! 早く特効薬を寄越せ!」
「傲慢も極まれりだな」
ジルベルトが低く、威厳に満ちた声で割って入った。
「自ら贅沢に溺れて病原を招き入れ、三密を避ける分別も持たず逃げ出してきた者に、優先して与える薬など我が領には一滴もない」
ジルベルトは検疫官たちに鋭く命じた。
「二人を最果ての隔離棟へ連れて行け。手厚いもてなしなど望むな。規則通りの隔離と診察を行い、手洗いをさせ、根菜の粥を食わせろ。助かるかどうかは本人の生命力次第だ。罪の裁きは、生き延びた後に司法が行う」
「離せ! 俺は王族だぞ! おい、触るな、うつすなァ!」
見苦しく喚き散らすレオンハルトと、血を吐きながら力なく崩れ落ちるマリアは、衛生兵たちによって引きずられるように隔離所へと運ばれていった。
その後、体制を整えた辺境伯軍と医療部隊は王都へと進駐した。
街中に猫を放ち、密集を解き、衣服を熱湯消毒させ、ビタミン豊富な食糧を配給して衛生観念を根底から叩き込むことで、猛威を振るった黒死病はようやく終息へと向かった。
生き残った国王は己の不明と息子の愚行を恥じて退位。
感染源の密輸に関わった男爵家は断絶となり、一命を取り留めたものの重い肺の障害を負ったマリアは、生涯を修道院の隔離病棟での労役に費やすこととなった。
そしてレオンハルトは王籍を永久に剥奪され、地方の開墾地で土にまみれてネズミ獲りと下水清掃に従事する刑に処された。
復興の進む王都の青空の下、新国家の指導者として推戴されたジルベルトが、わたくしの手を取った。
「エレオノーラ。君の知識と、民の命を第一に考える強い心が国を救った。どうかこれからも、俺の隣でこの国の未来を支えてくれないだろうか」
「喜んで、ジルベルト様」
清潔な風が吹き抜ける街を見つめながら、わたくしは微笑んだ。
派手な奇跡や都合のいい魔法などなくても、正しい知恵と日々の地道な積み重ねこそが、最も強い盾となるのだと確信しながら。




