表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

悪役令嬢は常連さんを忘れない -彼氏も職場も奪ってどうぞ。あたしが残した予約投稿ひとつで、清楚な後輩が居座る店から常連さんが消えるけど-

掲載日:2026/08/01

「うちの店、継ぐから」


 彼にそう言われて、あたしは就職活動をやめた。大学四年の春だった。


 それから六年、駅前の喫茶店で働いた。肩書きはアルバイトのまま。発注も、シフト表も、新人の教育も、店のSNSも、ぜんぶあたし。いつか二人でやる店になるはずだったから、片方を引き受けたつもりだった。


 その彼を、二年前に入ってきた後輩に取られた。


 悪いのはあたしだという話になっていた。髪が明るくて、声がでかくて、常連の子たちから「悪役令嬢」と呼ばれてる女。誰が悪役かなんて、はじめから決まってる。


 言い返せばよかった。でも、あたしは何も奪われてないことになってた。書面もない。就職しなかったのは自分の判断。並べるほど、みっともなくなる。


 だから一言も言わずに、引き継ぎを全部終わらせて、店を辞めた。六年分のノートも、全部渡した。


 八か月後の朝八時。あたしの誕生日に、予約してあった投稿がひとつだけ上がった。


 これは、奪われたあたしが、六年かけて覚えてたもので戦って、幸せになる話。



■タグ

悪役令嬢 ざまぁ 浮気 略奪愛 元カノ 職場恋愛 年上ヒーロー 一途 SNS 喫茶店 スカッとする話 ハッピーエンド 現代 女主人公 短編



────────────────────────



 引き戸が半分だけ開いて、そこから顔だけが入ってきた。店の中を見回して、客がいないのを確かめてから、やっと体が入ってくる。


 あたしから彼氏と職場を持っていって、あたしを「重い元カノ」にした子だ。


 カウンターのいちばん端に、コートも脱がずに浅く腰かけた。足元に荷物カゴが出てるのに、バッグは、あたしがさっき拭いたカウンターの上にどんと置いた。


「あかりさぁん」


 二年間、毎日聞いてた語尾だ。


「昔からの常連さん、どんどんそっちに行ってるんですけど。ひどくないですかぁ、あんな投稿」


 あたしは布巾を絞ってた手を止めなかった。止めたら、待ってたのがバレる。


 ぜんぶ、二年前の春から始まってる。



            ◇



 閉店後の店って、換気扇の音しかしない。


 あたし、神宮寺あかり。二十七歳。駅前の「マルニ」って喫茶店でバイトを六年してる。


 カウンターの端っこで、売れ残りのモンブランをフォークで崩してた。廃棄はスタッフが食べていいことになってる。ってか、あたしが勝手にそう決めた。


 スマホを出して、明日の朝に出す投稿を作る。うちのアカウントは六年前からあたしが一人で書いてる。@maruni_coffee。フォロワーは三万人ちょい。


 今日は雨だったから、閉店前に撮っといた傘立ての写真にした。ばらばらの傘が七本、ぜんぶ違う色で刺さってる。左から二番目の黄色いのは陸の。


 陸は雨の日には必ず来る。塾の迎えが遅くなる日は、お母さんが来るまでうちで待つ。それがあの家の決まりだ。代金は月末にお母さんがまとめて払っていくから、陸は値段を見ないでケーキを頼む。


 晴れの日はまっすぐ帰る。


 あたしがこの店に入った年、陸は年長だった。母親に手を引かれて、窓際でオレンジジュースを飲んでた。いまは小六で、宿題を持ってくる。先月から、小一の妹も連れてくるようになった。


「雨の日にだけ来てくださるお客様がいます。今日も来てくださいました。」


 打って、消して、もう一回打った。うまい文章じゃないけど、うまく書こうとするとだいたい嘘になるから、これでいい。


 朝八時にセットしてスマホを裏返す。うちの開店と同じ時間。店が開くのと一緒に上がってるのがいちばんいい。あたし朝ぜんぜん起きらんないから、六年ずっとこのやり方。


 厨房から水の音がしてる。沢渡さんが洗い物してる音。あたしより前からこの店にいる厨房の人で、三十五歳。ほとんど喋らない。六年いて、「沢渡さん」以外の呼び方をしたことがない。


「沢渡さーん、モンブラン食べちゃったけど」


 返事はない。かわりに水が止まって、また流れた。それが「いいよ」なのは六年でわかった。


 壁に写真が一枚、額に入って飾ってある。この店が開いたころのやつ。内装が古くて、エプロンも今と違う緑で、写ってる全員が笑ってる。左端があたし、髪はまだ黒い。隣が亮太で、その後ろで目を細めてんのが沢渡さん。撮ったのはお客さんで、ピントがずれてる。


 写真の下に手書きのシフト表。その隣のカレンダーの11月19日に、小さく丸。あたしの誕生日だ。


 木曜の午前は、奥のテーブルがママ友会に埋まる。うちが子どもを置いていい店だってことは、あの人たちのあいだで先に決まってた。


 マルニにはスタッフの誕生日にその人の写真を上げる決まりがある。これもあたしが勝手に始めて誰も止めなかっただけ。毎年1月2日、初売りの前に一年分まとめて予約する。全員分。バイトの子の分も。


 自分の分も、あたしが作る。


 ほかに覚えてる人がいないから。



            ◇



 髪は明るい茶色で、ネイルはいつも尖ってる。声はでかいらしい。自分ではふつうだと思ってるけど、よく言われる。


 常連の子たちからは「悪役令嬢」って呼ばれてる。


 由来は三年前の夏。どこかで飲んできたスーツの男が二人、涼みに入ってきて、窓際の女の子二人に絡みはじめた。陽菜と、その友達。当時は中学二年で、塾帰りにアイスティーを飲んでいく子たちだった。


 二人とも下を向いてた。片方はストローの袋を指先でちぎってて、もう片方は帰りたいのに、通路側に男が座ってるから出られない。


 あたしは伝票を持って、テーブルの横に立った。


「お客さん」


 声は、いつもより低く出した。腹から出すと、こういう声が出る。


「まだ、続けますかぁ?」


 男二人が同時にこっちを見た。片方が笑おうとして、あたしの顔を見て、やめた。


「その子たち、うちの常連なんで。お会計、千二百円です」


 伝票を置いた。笑顔は崩さない。目もそらさない。


 二人は何か言いかけて、金だけ置いて出てった。あたしは引き戸の外まで出て、背中に「ありがとうございましたー」と言った。


 それから戻って、あの子たちのテーブルにアイスティーを二つ置いた。


「おかわり。あたしのおごりだから、ゆっくりしてきな」


 席に戻ったら、陽菜がコップを持ったままこっちを見てた。


「今の、悪役令嬢みたいだった」


「なに、それ」


「漫画。ニコニコしながら人を追い出すの」


 それから、あたしのエプロンの名札を指した。


「名字も神宮寺だし。ぴったりじゃん、悪役令嬢」


 あだ名は三日で商店街に広まった。子どもが広めるのは速い。あたしも気に入って、否定しなかった。


 その日、閉店後の賄いにプリンがついてた。あたし、あのとき手が震えてた。沢渡さんに見られてた。


 でも沢渡さんは、なんにも言わなかった。



            ◇



 桐谷亮太。マルニのひとり息子で、二十八。あたしの彼氏で、付き合って五年になる。


 付き合いはじめたのはあたしが大学四年の春。あたしはその一年前、大学三年からここでバイトしてた。


 就活の話をしたとき、亮太が言った。


「うちの店、継ぐから」


 それだけ。それでもう話は済んだことになった。あたしもそう思った。だから就活やめた。書きかけのエントリーシートが二十枚くらいあったけど、捨てた。


 亮太は感じのいい男だ。マジで感じがいい。常連のお母さんたちに人気あるし、笑うと目尻が下がる。注文を間違えても、間違えたことを可愛く報告できるタイプ。ああいうの才能だ。


 都合の悪い話になると、必ずこう言う。


「まあ、いいじゃん」


 豆の仕入れ値が上がったときも、バイトが一人飛んだときも、あたしが「そろそろ籍のこと、ちゃんと話したいんだけど」って言ったときも。


 誕生日は毎年忘れられてる。忘れ方までいつも同じで、「あれ、今日って定休日じゃなかったっけ」って言う。定休日は火曜。11月19日が火曜だった年は、五年で一回しかない。


 でも、怒ったことはない。あたしが黙ると、亮太のほうが先に引くから。


 あのころは、それを優しさだと思ってた。


 あとで気づいたことがある。亮太は、言い返してこない相手にだけ強く出る。おどおどした高校生の子が伝票を間違えたとき、休憩室のドアを閉めて三十分説教してた。壁ごしに声が漏れてた。


 あたしと沢渡さんの前では、ぜんぶ「まあ、いいじゃん」になるのに。



            ◇



 みゆちゃんが入ってきたのは二年前の春。


 早川みゆ、二十歳。色が白くて、話しかたが柔らかくて、初日から常連のお母さんたちを掌握してた。あたしが六年かけて覚えた顔と名前を、この子は三か月でだいたい笑顔にした。


 名前は覚えてなかったと思う。覚えなくても笑顔にできる子だったから。


 よく気がつく子だった。それは嘘じゃない。


 その年の夏、みゆちゃんが言った。


「あかりさぁん、あの投稿って、ぜんぶ自分で書いてるんですかぁ?」


 うん、って答えた。


「えー、大変じゃないですかぁ。アプリ使えば一発ですよ」


 次の週から、うちのアカウントの見た目が変わった。


 きれいだった。文字が揃ってて、色が統一されてて、写真の角が丸い。並べたときにちゃんと格好がつく。亮太は「すごいじゃん」って言ったし、常連のおばさんたちも褒めた。


 忙しい日は、写真も素材サイトのやつになった。湯気の立つコーヒー、木目のテーブル、窓辺の観葉植物。


 うちに観葉植物はない。


 あたしはそのとき、なんて言えばいいかわかんなかった。「それうちの店の写真じゃないよね」って言ったら、あたしのほうが嫌な女になる。実際きれいになったんだし。フォロワーもすぐには減らなかったし。


 だから何も言わなかった。


 よその店の投稿と並べたら、どれがうちだかわかんないと思う。



            ◇



 その年の秋から、貼ったシフト表が書き換わるようになった。


 あたしの字の上に、修正液。その上に亮太の字。みゆちゃんと同じ日に入るように、二回、三回、四回。


 あたしは何も言わずに、次の月のシフトを組んだ。修正液で消される前提の表を、自分の手で。


 1月の終わりの、火曜の夜。定休日だった。


 亮太があたしの部屋に来て、玄関で靴も脱がずに言った。


「おれたち、いっぺん終わりにしよ」


 意味が入ってこなくて、二秒くらい黙った。


「終わりって」


「みゆちゃんと付き合うことになったから」


 あたしは玄関の床を見た。あの人のスニーカーの、爪先のところが少し汚れてた。


「待って」


 声は、自分でびっくりするくらいふつうに出た。


「あたし、就活しなかったんだけど」


「うん」


「あんたが継ぐって言ったから、しなかったんだけど」


「まあ、いいじゃん。五年もいたんだしさ。よくやったほうだよ、おれら」


 よくやった。おれら。


「籍の話、何回もしたよね」


「したね」


「聞いてた?」


「聞いてたよ。でも、まあ」


 三回目だった。


 それから亮太は、店を継ぐ時期のこととか、父親が何て言ってるかを話しはじめた。あたしが目の前にいるのに、あたしのいない予定の話を。


 最後に、一個だけ訊いた。


「あたしの六年、なんだったの」


 亮太はちょっと考える顔をして、言った。


「助かってたよ、ほんとに」


 帰りぎわに、思い出したみたいに付け足した。


「あ、バイトは続けてくれていいから」


 あたしは、うん、って言った。


 言ってから、玄関のドアを閉めて、鍵をかけて、それから床に座った。


 靴も脱がないで、玄関のたたきに足を出したまま、あたしは泣いた。声を出したら隣に聞こえるから、口を手でふさいで泣いた。


 五年ぶんとか、六年ぶんとか、そういう単位じゃなかった。エントリーシートを二十枚捨てた日の分も、誕生日を五回忘れられた分も、ぜんぶ一緒に出てきた。


 鼻をかんで、顔を洗って、それで終わりにした。明日はシフトが入ってる。



            ◇



 二週間もしないうちに、店の空気が変わった。


 あたしが休憩から戻ると会話が終わってる。カウンターに入ると、みゆちゃんが少し離れて立つ。触られたら困る、みたいな立ちかたで。


「あかりさぁん、大丈夫ですかぁ? 無理しないでくださいね」


 週三くらいで心配された。心配されるたびに、あたしは無理してる人になっていった。


 噂の出どころは、一回だけ見た。休憩室の前を通ったとき、みゆちゃんが常連のおばさんに話してた。


「わたしは平気なんですけど……あかりさん、まだ辞めないみたいで。ちょっと、怖くて」


 声は震えてた。演技じゃない。この子は本気で、自分が怖がってる側だと思ってる。そういう子が言うから、話は速い。


 派手な女が若い子に彼氏を取られて、逆恨みして店に居座ってる。髪は明るいし、声はでかいし、あだ名は悪役令嬢。誰が悪役かなんて、はじめから決まってたようなもんじゃん。


 一回だけ言い返そうとして、みゆちゃんの顔を見て、やめた。


 だって、あたし何もされてないんだよ。奪われたもの並べても、口に出すとみみっちくなる。籍を入れる約束してました。書面はないです。就職しませんでした。それは自分で決めたことです。


 黙ってるうちに、常連の何人かも目を合わせなくなった。


 木曜の奥のテーブルも、そのころから静かになった。お母さんたちは何も言わずに、来る回数を減らした。


 子どもたちだけは変わらなかった。何も知らないから、いつもどおり宿題を広げて、いつもどおり帰っていく。あの時間だけ、あたしはふつうの顔でいられた。


 一回だけ、沢渡さんがエプロンを外して厨房から出ようとした。亮太がホールにいた日だ。


 あたしが止めた。首を振って、それだけ。あの人がなんか言ったら、あたしが陰で泣きついたことになる。


 沢渡さんはエプロンをつけ直して、厨房に戻った。それから三月まで、一回も出てこなかった。


 悪役令嬢が、なんも言い返せなかった。



            ◇



 3月の終わりに、あたしはマルニを辞めた。


 引き継ぎは誰よりちゃんとやった。発注のサイクル、業者の担当の癖、冷蔵庫の下段が冷えすぎること、雨の日に傘立てを外に出すタイミング。ぜんぶノートに書いた。最後のページには、まだ残ってる予約の一覧も。日付と時刻まで全部。


 パスワードはもともとみゆちゃんも知ってる。写真を作るのがこの子で、上げるのがあたし、って分け方だっただけだ。だから渡したのは、これからは全部そっちで決めていいっていう話と、ノート。


 みゆちゃんはノートを両手で受け取って、「ありがとうございます、大事にします」って言った。


 口でも言った。


「予約、まだ入ってるやつあるから。一回見ときな」


「はぁい、大丈夫でーす」


 みゆちゃんはノートを開かなかった。表紙のまま、両手で持ったままだった。


 あたしは、二回言わなかった。


 帰りぎわ、バックヤードのゴミ箱の口から、あのノートの角が出てた。


 手が伸びかけて、途中で止まった。拾ってどうするんだろう、と思ったら、それ以上動かなくなった。


 ゴミ箱の前で、たぶん十秒くらい立ってた。それから、そのまま通り過ぎた。


 厨房から皿が出てきたのは、そのあとだ。賄いだ。もう店は閉まってんのに。


 横に小さい皿がついてた。プリン。焦げた砂糖のにおいがして、上に生クリームがちょんと乗ってる。


 沢渡さんはこっち見ない。ふきんで手を拭いて、換気扇のスイッチを切って、それだけ。


 六年間、あたしが平気なふりをした日にだけ、賄いに甘いものがついた。


 嫌な客を笑顔で帰した日。バイトの子に舐められた日。亮太に忘れられた誕生日。あたしが「べつに」って言った日に、必ず。


 あたしはそれを一回も口に出したことがない。沢渡さんも言わない。


 その日も、なんも言わずに食べた。



            ◇



 無職の4月は、思ってたより静かだった。


 昼まで寝て、起きて、履歴書を書く。六年、発注して、シフト組んで、新人教えて、アカウントを三万人にした。書けば書ける。ちゃんと埋まる。


 でも、面接で必ず訊かれるやつだ。なんで六年間、アルバイトだったんですか。


 答えは一個しかない。二人でやる店になるはずだったから、片方を引き受けた。あの人の人生に乗っかったんじゃない。


 それを一人で説明するところを想像したら、指が止まった。


 スマホを開けば悪口が流れてる。名前は出てないけど、うちの店のことだとわかる書き方で。派手な元カノがまだ店の近くをうろついてるらしい、とか。あたしもう三週間、駅の向こうに行ってないんだけど。


 説明しなきゃいけない時点で、もう終わってんじゃん。



            ◇



 5月の連休明け、知らない番号から電話が来た。


 沢渡さんだった。声を聞いてもすぐわかんなかった。電話で話すの、六年で初めてだったから。


「おれ、マルニ辞めました」


「え」


「今日、最後でした。それで、見てほしいものがあって」


 説明はそれだけだった。住所だけ送られてきた。


 三丁目の、シャッターの下りた元・釣具屋。その前で待ち合わせた。沢渡さんは鍵を持ってた。


「二年、不動産屋を回ってました。ここは先月決めました」


 中は埃だらけで、奥に業務用のオーブンだけが新しく入ってた。


「菓子の店にします」


 あたしはしばらく黙ってた。この人が六年間あの厨房で何を考えてたのか、何ひとつ知らなかった。


「あの」と、沢渡さんが言った。それから五秒くらい黙って、


「うち、菓子だけだと回らないんで」


 プロポーズでもなんでもない。人手が足りないって話だ。


「時給いくら」


「や、その。店長やってください」


「店長って、雇われのほう? それとも金出すほう?」


「雇われで。金はぜんぶおれが出します。物件も機械も、もう払いました」


「じゃあ、なんであたしなの」


 沢渡さんは、たっぷり黙った。埃をかぶった床を見て、それから言った。


「店長が必要なんじゃなくて」


 いったん切れて、もう一回はじまった。


「神宮寺さんがいる店を、やりたかったんです。ずっと」


 それから、床を見たまま付け足した。


「言えなかったんです。おれが言ったら、店を出してやるから来いって聞こえる気がして。断られたら、一人でやるつもりでした」


 耳が赤くなってた。三十五の男が。


 あたしは笑った。声出して笑ったの、三か月ぶりだった気がする。


「口下手にもほどがあんでしょ」



            ◇



 店は11月のはじめに開いた。カウンター六席とテーブル三つ。沢渡さんが焼いて、あたしが回す。マルニでやってたことと同じで、違うのはあたしに肩書きがあることだけ。開けて二週間、客は日に数人だった。それでも来た人の顔は、ぜんぶ覚えた。


 11月19日の朝八時に、それは投稿された。


 その日は水曜で、朝から店の中に焼き菓子の匂いがこもってた。沢渡さんがオーブンを開けるたび、焦げた砂糖の熱い風が厨房からカウンターまで流れてくる。客は二人。窓際で新聞を広げてるおじさんと、レジの横でずっとスマホを見てる女の子。あたしは砂糖壺に補充しながら、この壺、口が広すぎて湿気るなと思ってた。


 昼を回っても、来たのは三人だけだった。


 今日が19日だってことは、朝から知ってた。あの写真が投稿されることも知ってた。ただ、せいぜい、みゆちゃんが慌てて消すだけだと思ってた。八か月たってる。誰ももう、あたしのことなんか。


 四時を回ったころ、引き戸ががらがらと鳴った。


 陸だった。後ろに妹の実花と、陽菜と、あと二人。晴れてんのに、陸だけ黄色い傘を持ってる。この子は雨の日にしか来ないことになってるから、傘を持つ。持ってれば雨ってことになるらしい。


 その陸が、花束を抱えてた。ガーベラとかすみ草の、ちょっとしなびたやつ。セロハンの折り目が潰れてて、だいぶ長いこと抱えて歩いてきたんだってわかった。


「あかりさん、こんなとこにいたの」


 あたしは布巾を持ったまま突っ立ってた。喉の奥で、変な音が鳴った。


 この子たちを見るのは八か月ぶりだ。あたしが辞めてから、一回も会ってない。


「これ見て、来た」


 陽菜がスマホを突き出した。画面の角がひび割れてる。


 開店したころの写真だった。古い内装、緑のエプロン、笑ってる三人。あたしと、亮太と、沢渡さん。マルニの壁にかかってる、あの一枚だ。額のガラスが少し反射してる。


 その下に、一行だけ。


 きょうはあたしの誕生日です。


 みゆちゃんは写ってない。まだ入ってなかったから。


「もう消えてるけどね」と陽菜が言った。「昼には無くなってた。誰かが慌てて消したんだと思う。朝のうちにスクショ撮っといた」


 それから画面を指した。


「これ、あかりさんが書いてたんでしょ。去年から文章が変わってたもん。ずっと変だと思ってた」


「六年ぶん、ぜんぶあかりさんだったの」


「で、マルニ行ったの。今日、あかりさんの誕生日だから。毎年あそこで渡してたし」


 布巾が手から落ちた。拾わなかった。


「そしたら、いないって言われた。みゆさんが出てきて、辞めましたけど、三月に、って」


「おれ、何回も訊いたんだよ」と、陸が言った。「あかりさんは今日いないのって。そしたらみゆさん、毎回にこにこして、今日はいないんです、シフトわかんなくて、って」


「八か月、それ。誰も、辞めたとは言わなかった」


 陽菜が、椅子の背を掴んだまま言った。


「ごめん。もっとちゃんと訊けばよかった」


「お店の人がそう言うから、そうなんだと思ってた。八か月も、そう思ってた。かっこわるいよね」


 あたしは首を振った。振ったつもりだったけど、ちゃんと動いたかわかんない。


 陸が花束を突き出した。腕がまっすぐ伸びてなくて、途中で少し曲がってる。ずっと抱えてきたから、疲れてるんだと思う。


「持って帰るのも変だから。八か月ぶんだと思って受け取って」


 受け取ったら、思ってたより重かった。水を吸わせてあるせいだ。商店街の花屋がちゃんと包んでくれてる。子どもの小遣いで買える値段じゃない。五人で出したんだと思う。


 あたしはしばらく顔が上げられなかった。


 その間ずっと、マルニのアカウントには毎日きれいな写真が上がってたはずだ。角が丸くて、文字が揃ってて、湯気の立つコーヒーの。人は写ってない。名前も出てこない。


 何度も通って、何度もそれを見て、そのうえで訊いて、それでもわからなかった。この子たちが悪いんじゃない。わからないようにできてたんだから。


 鼻の奥がつんとして、あたしは天井を見た。


「泣いてる」と実花が言った。


「泣いてないし」


「悪役令嬢が泣くなよ」と陸が言った。


「泣いてないっつってんじゃん、ガキんちょ」


 声がひっくり返って、それで五人が笑った。陽菜は椅子を引きながら笑って、陸は笑いながら傘を傘立てに突っ込んだ。晴れてんのに。


 あたしはその日、店の甘いものを残らずこの五人に食わせた。金はちゃんと取った。まけたら、この子たちに悪い。



 子どもたちは次の日も来た。その次の日も来た。連れも来た。マルニからここまで、歩いて三分。


 12月に入るころには、焼き菓子が三時までに売り切れるようになった。沢渡さんは何も言わずに、仕込みの量を二回増やした。


 亮太から電話が三回あった。出なかった。留守電には、いつもの声が入ってた。


「まあ、いいじゃん。戻ってきてよ」


 消した。


 もう、よくない。



            ◇



 みゆちゃんが来たのは12月の火曜、二時すぎだった。


 いちばん客のいない時間で、しかもマルニの定休日。来るなら火曜の午後だろうな、とは思ってた。


 布巾をたたんで、ミルクを鍋に入れて火にかけた。何も言わなかった。ミルクは焦がすと終わりだから、鍋から目を離せない。おかげで、そっちを見なくて済んだ。


「昔からの常連さん、どんどんそっちに行ってるんですけど」


 鍋の底に小さい泡が立ちはじめた。


「お母さんたちも来なくなって」


「若い子は来るんです。写真撮って、一杯飲んで、それで終わり。席は埋まるんですけど」


「木曜の奥のテーブル、いまは別のお店に集まってるみたいで」


 頭の中で、勝手に計算が回った。回転はいい。単価は落ちる。ケーキが出ないから原価率だけ上がって、豆は余る。夕方のいちばん静かな時間に座ってくれる人が、いなくなったってことだ。


「亮太は?」


「……お店に、あんまりいないんです。お父さんとも揉めてて」


 そう、と言って、あたしは火を弱めた。それから、鍋を見たまま聞いた。


「いつからだったの」


「……え」


「亮太と。いつから」


 答えは返ってこなかった。


「去年の夏でしょ」


「……なんで」


「シフト表、修正液で消された日、ぜんぶ覚えてるから」


 みゆちゃんが息を吸う音がした。あたしはまだ、そっちを見てない。


 膜が張る手前で火を止めて、カフェオレを作る。それからスティックシュガーの箱に手を伸ばして、三本抜いた。


 二本半じゃなくて三本。この子は最後の半分をいつも余らせるくせに、二本だと足りないって言って結局もう一本開ける。二年間ずっとそうだった。


 カップをカウンターに置いた。ソーサーとカップが当たって、小さい音がした。


「まだこれ、好きでしょ」


 みゆちゃんの手が止まった。


 カウンターに置いたバッグの持ち手を握ったまま、カップを見て、あたしを見て、もう一回カップを見た。まばたきの回数が増えてる。


「……なんで」


「なんでって」


 あたしはカウンターに肘をついた。


「二年いたじゃん、あんた」


 その顔を見て、ああ、と思った。


 この子はいま初めて、あたしが自分の何を知ってるのかを考えたんだ。二年間、一度も考えたことがなかったんだ。考える必要がなかったから。


「ねえ、みゆちゃん」


「……はい」


「あんた、マルニの常連さんの名前、何人言える?」


 みゆちゃんは口を開いた。息を吸う音がした。それで、閉じた。


 あたしは指を折りはじめた。


「陸。妹の実花ちゃん。陸はアイスココアの生クリーム抜き。陽菜ちゃんは去年から砂糖やめてる。木曜の朝に来る親子は保育園の前に寄るから、ホットは絶対ぬるめ」


 片手が終わった。もう片方を折りかけて、やめた。


「まだいるけど、指が足りないや」


 みゆちゃんは何も言わない。カウンターのバッグの持ち手を、指の腹でこすってる。


「言えないでしょ」


「……そんなの、覚える必要ないじゃないですかぁ」


 早かった。あたしが言い終わる前に返ってきた。


「うん」


 あたしはうなずいた。


「だから、みんな行っちゃったんじゃん」


 みゆちゃんの顔から、あの柔らかいものが一枚ずつ剥がれていった。眉のあたりから先に落ちて、口元だけ形が残ってる。笑おうとしてるんだけど、うまくいってない。


「あんたの投稿さ」


 あたしは言った。


「きれいだったよ。ほんとに。あたしのよりぜんぜん」


「じゃあ」


「誰のことも書いてなかったけどね」


 厨房から、泡立て器がボウルに当たる音がしてた。沢渡さんは出てこない。


 カフェオレの湯気が、みゆちゃんとあたしのあいだで細くなっていく。


「……先輩が勝手に辞めたんじゃないですかぁ」


「そうだね」


「わたしのせいじゃない」


「うん、そうだね」


 みゆちゃんの肩が上がって、下がった。息が浅い。


 あたしはカップを指で少しだけ押しやった。押されたぶん、ソーサーが乾いた音を立てて動く。


「でもさ、みゆちゃん」


 あたしは、この一年ずっと喉の奥に置いてた言葉を出した。


「あんたが欲しかったの、亮太じゃないでしょ」


 バッグの持ち手を握る指に、力が入った。


「あたしの場所でしょ」


 みゆちゃんは何も言わなかった。言えなかったんだと思う。


 あたしは自分の声が思ってたより低いのに気づいた。怒鳴りたいわけじゃなかった。怒鳴ったら、噂どおりの女になる。


「あげたよ、ぜんぶ。引き継ぎもしたし、パスワードも渡した。あの店の回し方も紙に書いた。回せなかったのはそっちじゃん」


 返事はない。カフェオレは一口も減っていない。


「それとさ」


 これだけは言っとこうと思ってたことを、あたしは言った。


「亮太ってさ、あんたの前だと、けっこう大きい声出すでしょ」


 みゆちゃんの目が、初めてまっすぐこっちを向いた。


 目が合ったのは、この日が初めてだった。ううん、二年間で初めてだ。


「あたしには、五年で一回も出せなかったけどね」


 顔に出た。眉が動いて、それから口の形が変わって、笑おうとするのをやめた。


「……亮太さんのお父さんに」


 みゆちゃんの声が、初めて小さくなった。


「SNS、もう触るなって言われました」


「そう」


 あたしは、それだけ言った。


 カフェオレは、まだ湯気を立ててた。


 みゆちゃんは一口も飲まずに立ち上がった。椅子の脚が床をこすって鳴って、カウンターのバッグを引ったくるみたいに取った。


「……先輩、性格わる」


 語尾が伸びていなかった。


 この子の声を、あたしは初めて聞いた気がした。二年一緒に働いて、初めて。


「知ってる」


 引き戸が乱暴に閉まった。


 カウンターの向こうの椅子を、しばらく見てた。座面がまだ少しへこんでる。


 謝られなかった。それでいい。謝られてたら、こっちが悪者になるとこだった。


 それから三日して、久しぶりにあのアカウントを開いた。一回だけ。


 いちばん新しい投稿の日付が、二週間前で止まってた。


 営業時間も、いつのまにか一時間短くなってた。


 写真は素材サイトのコーヒーカップだった。湯気が立ってて、木目のテーブルに置いてある。


 最後まで、どこの店なのかわからない写真だった。



            ◇



 厨房から沢渡さんが出てきた。


 手を拭きながら、閉まった引き戸を一回だけ見て、それからあたしを見た。沢渡さんは何も聞かない。六年、一回も。


 あたしはカフェオレのカップを取って、流しに捨てた。砂糖三本ぶんの甘いやつが、排水口に吸われて消えていく。


 カップを洗いながら、あたしは笑ってた。笑ってるのに気づくのが、自分でも遅れた。


「バレた?」


 沢渡さんは、ふきんを持ったまま黙ってる。


「ヒヒヒ」


 この人にしか見せたことない笑いかたで、声が出た。


 あの子が来る日を待ってた。砂糖を三本入れるのも、名前を言う順番も、頭の中で何回も並べ替えてた。


 二回言わなかったのも、わざとだ。一回は言った。それを聞かない人の面倒まで見るのは、もうあたしの仕事じゃない。


「だってさぁ」


 あたしは水を止めた。


「あたしのこと悪役令嬢って呼んでたんだから、トーゼンっしょ」


 沢渡さんは何も言わなかった。責めもしないし、笑いもしない。


 かわりに、皿を出した。


 プリンだった。焦げた砂糖のにおいがして、上に生クリームがちょんと乗ってる。


 濡れた手をエプロンで拭いて、その皿を見た。それから、ずっと聞かずにきたことを聞いた。


「……なんで今日、甘いのなの」


 沢渡さんはふきんをたたんで、置いて、それから言った。


「試作なんで。マルニにいたときから、ずっと」


 あたしはフォークを持ったまま、その顔を見た。


「じゃあ、味見役、六年あたしだったってこと?」


「はい」


 あたしが平気なふりをした日を、この人はぜんぶ数えてたことになる。


 なんて言えばいいかわかんなかった。喉のあたりが変になった。


 だから、いつもみたいに悪態をついた。


「……そういうのはさ、言うんだよ、ふつう」


「すみません」


「言えよ、六年も」


 最後のところで声がひっくり返った。


 沢渡さんはそれには答えずに、エプロンのポケットから何か出して、カウンターに置いた。指が少し震えてた。


 名刺だった。刷ったばっかりで、角がまだぴんとしてる。店の名前の下に二行。上が「店長 神宮寺あかり」、その下に小さく「製菓 沢渡冬吾」。


 六年もらえなかったものが、印刷されてた。


 この人の下の名前は、契約書でも口座の名義でも見てる。知ってた。ただ、声に出して呼んだことが一回もなかった。


「……冬吾さん」


「はい」


 沢渡さんは耳を赤くしてうつむいた。三十五の男が。


「冬吾さん。エプロン、粉ついてる」


 手を伸ばして胸のところを払った。触ったのは六年で初めてだ。沢渡さんは動かなかった。息も止めてたと思う。


「あの。店が落ち着いたら」


 また五秒くらい黙ってから、続きが出てきた。


「飯でも、どうですか。その、仕事の話じゃなくて」


 あたしはフォークを置いた。


「六年かかってそれ?」


「……はい」


「落ち着いたらって、いつ」


 沢渡さんが、ふきんを握り直した。


「……今日、閉めたあとでも」


「じゃあ今日」


 沢渡さんは、うつむいたままうなずいた。首だけ、二回。それから厨房に戻って、鍋を落とした音がした。


 あたしはプリンをすくって口に入れた。


 舌の上で溶ける前に、鼻の奥が痛くなった。甘かった。泣くほど甘かったから、今日も平気なふりをしてたってことになる。


 外で引き戸ががらがら開いた。


「おい、悪役令嬢。いつものケーキくれ」


 陸だった。今日は手ぶらだ。後ろに実花もいる。


「うっさい。悪役じゃないわ」


 あたしはフォークを置いて、エプロンで手を拭いた。ついでに顔も拭いた。


「あと、晴れてんのに来たじゃん」


「べつに。ここ、近いから」


 ショートケーキを二つ出して、実花のぶんだけフォークを小さいのにした。ココアも温める。


 代金は月末。マルニのときと同じにした。お母さんにはもう話してある。


 この子の名前も、傘の色も、通ってる塾も、妹が牛乳を先に飲むことも、ぜんぶ覚えてる。


 出してから、カウンターの端をスマホで撮った。しなびかけた花束と、空になったプリンの皿と、一本も刺さってない傘立て。


 うちの新しいアカウントは、フォロワーが四十二人。三万人までは、また六年かかる。


 でも、書くことはもう決まってる。


「雨の日にだけ来てくださっていたお客様が、晴れた日にも来てくださるようになりました。」


 打って、消して、もう一回打った。


 明日の朝八時に上がるように、日時を指定する。あたし朝ぜんぜん起きらんないから、ここはこの先も変わらない。


 厨房で、オーブンのタイマーが鳴った。


作品を読んでいただき、ありがとうございました。少しでも楽しんでいただけましたら、ブクマ・評価で応援していただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ