光の継承
人はなぜ争うのか。
もしその原因が、人類自身ではない何かによって残された痕跡だったとしたら――。
これは、ごく普通の会社員が、ある日突然、人類の未来を託されることになった物語です。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
世界二十カ国を飛び回る仕事をしている俺は、普段なら海外支店で深夜まで働いていることが多い。だが、日本にいるときだけは違った。差し迫った案件もなく、定時を告げるチャイムが鳴ると同時に席を立つことができる。
いつものように挨拶を済ませ、エレベーターの前に立った。
表示パネルの数字がゆっくりと降りてくるのを眺めていると、ふと隣に人の気配を感じる。
振り向くと、そこには新人の大友さんが立っていた。
「あ、大友さん。お疲れさま。今日は早いんだね。いつも山畑さんと遅くまで残ってるって聞いてたけど、大丈夫なの?」
彼女は少し驚いたようにこちらを見たあと、柔らかく微笑んだ。
「今日は大丈夫です。山畑さんには用事があるって伝えてありますから」
ちょうどその時、エレベーターが静かな音を立てて到着した。
俺たちは並んで乗り込み、一階へと降りていく。
狭い箱の中には不思議な沈黙が流れていた。気まずいわけではない。ただ、お互いに何か言葉を探しているような、そんな空気だった。
一階に着き、自動ドアへ向かいながら俺は声をかける。
「じゃあ、また明日。お疲れさま」
しかし返事はなかった。少しだけ不思議に思ったが、特に気にすることもなく会社を出る。夜風が頬を撫でる。街は仕事帰りの人々で賑わい、駅前の灯りがアスファルトに滲んでいた。いつもの帰り道を歩き始めた、その時だった。不意にスーツの袖が引かれる。振り返ると、大友さんがそこに立っていた。
「……どうしたの?」
彼女は何かを言いかけて、唇を閉じる。そして意を決したように顔を上げた。その瞳はどこか不安げで、助けを求めるように揺れていた。
「大林さん……少し、お話を聞いてもらえませんか?」
小さな声だった。けれど、その一言には切実な響きがあった。
「大林さんにしか相談できなくて……ごめんなさい、急に。でも……お時間、大丈夫ですか?」
俺は一瞬だけ言葉を失った。なぜ自分なのか。何を相談したいのか。そんな疑問は浮かんだが、それ以上に彼女の表情が気になった。今にも何かが零れ落ちそうな、そんな顔をしていたからだ。だから断る理由など、最初から存在しなかった。
「もちろん大丈夫だよ」
そう答えると、彼女は少しだけ安心したように肩の力を抜いた。俺は駅前の通りを指差す。
「あそこにカフェがあるだろ。落ち着いて話せるし、そこでゆっくり聞こうか」
彼女は小さく頷いた。
そして俺たちは駅へ向かうはずだった足を止め、夜の街へと並んで歩き出した。その相談が、俺の日常を大きく変えることになるとは、この時はまだ思いもしなかった。
店の扉を押し開けると、微かなベルの音が店内に響いた。俺たちは窓際の席に向かい、向かい合わせに腰を下ろす。
いつもなら仕事帰りにビールを一杯飲んで帰るのが習慣だった。しかし今日は違った。何となくそんな気分になれず、コーヒーを注文する。向かいの大友さんはオレンジジュースを頼んでいた。子供みたいな飲み物だな――そう言いかけて、やめた。これから相談を受ける相手に言う言葉ではない。
「えーっと、大友さんとこうして二人きりで話すのは初めてだけど……俺に相談って、山畑さんのことか?」
「いいえ、違います」
即答だった。
「じゃあ仕事のこと?それなら、山畑さんに話した方がいいと思うけど……俺に相談って、一体?」
大友さんは目を伏せた。視線が小さく揺れる。何かを迷っているようだった。だがやがて意を決したように顔を上げる。
「絶対に内緒にしてくれますか?」
静かな声だった。けれど、その言葉には妙な重みがあった。思わず息を呑む。軽い相談ではない――ハラスメント系の相談だと、そんな予感がした。
「わかった。誰にも言わないよ」
俺がそう答えると、大友さんは真っ直ぐこちらを見つめた。そして、静かに告げる。
「私、M87星雲から来たんです」
「……は?」
思考が止まった。
「絶対に内緒ですよ」
そのタイミングで、注文したコーヒーとオレンジジュースが運ばれてくる。奇妙な会話は、一旦中断された。目線を合わさずに湯気の立つコーヒーをひと口飲む。
熱さと苦みが舌を刺激した。考えを整理しようとしたが、むしろ混乱は深まるばかりだった。
――何なんだ、この流れは。
――どう反応するのが正解なんだ?
一拍置いてから、慎重に尋ねる。
「大友さんの相談って、故郷のことか?」
「私はM87星雲、バサタナアカル銀河、サエアーサ恒星系バルタ星の出身です」
「はぁ……なかなか面白い名前だね。ちょっと長くて覚えられそうにない」
「覚えなくていいです」
即答だった。突然始まった意味不明な会話に、どこまで付き合えばいいのか分からない。とりあえず話を合わせてみる。大友さんは淡々と続けた。
「新人研修が終わったので、もうすぐ迎えが来ます」
「はぁ。研修してたっけ?」
「私がこんな話をして、大林さんが『こいつ頭おかしいんじゃないか』と思うのも当然です」
「うーん、まぁね。正直、どこまでこの冗談みたいな話に付き合えばいいのか考えてた」
大友さんは気分を害した様子もなく続ける。
「地球での研修として、私はアメリカ、ロシア、フランス、イギリス、スペイン、中国、インド、サウジアラビア、オーストラリア、ブラジル、そして最後に日本を回りました」
「はぁ」
もはや相槌しか出てこない。
「全ての国を巡って、私は確信しました。聞いてくれますか?」
「あぁ。うん」
一応頷く。すると彼女は一瞬だけ目を閉じ、ゆっくりと言った。
「人類の心は、病んでいる」
その言葉を聞いた瞬間、なぜか店内の喧騒が遠のいた気がした。
「……まぁ、そうかもね」
思わず苦笑する。だが大友さんは笑わなかった。真剣そのものの眼差しで、次の言葉を口にする。
「私の代わりに、人類を助けてください」
「……は?」
本日二度目の「は?」だった。
「大林さんの記憶を辿りました。あなたは純粋で、悪意が少ない……まぁ、多少はありますが」
「おい」
思わず突っ込む。
「でも、あなたは正しい人間のひとりです。だからこそ、この話を信じてくれるはずです」
「いやいや、待て待て」
本格的に訳が分からなくなってきた。
「まず、この話が本当であることを証明します」
「何を、いったいどうやって?」
「私の能力の一部を、あなたに譲渡します」
その言葉に、とうとう吹き出してしまった。
「……あぁ、なるほど。ありがとう、大友さん。でももういいよ」
コーヒーカップを置きながら苦笑する。
「俺さ、会社で陰口叩かれてるのも薄々気づいてるんだよ。これは何かのドッキリだろ?」
大友さんの表情は変わらない。
「会社の連中が企んでて、大友さんもしぶしぶこの役をやらされてるんじゃないの?どこかにカメラでも仕掛けてあるとかさ。録音して後で笑い話にするつもりなんだろ?」
肩をすくめる。
「新人は損な役回りだね」
皮肉を込めてそう言った。その瞬間だった。大友さんが突然立ち上がる。
「真剣に聞いてください」
今までで一番強い口調だった。周りの客の目線が集まる。
「いや、俺は真剣に聞いてたよ。でも、ここまで馬鹿にされるとさすがに限界だな」
「わかりました」
大友さんは静かに言った。そして真っ直ぐ俺を見据える。
「ならば、実際に見せます」
言うが早いか、彼女は俺の腕を掴んだ。会計を済ませると、そのまま店を飛び出していく。半ば引きずられるように後を追う俺。向かった先は、人影のない公園だった。
夜風が静かに吹き抜ける。
見上げれば、月だけが何も知らないように街を照らしていた。
「大林さん。ここで私の本当の姿を、少しだけお見せします。」
「ちょっと待ってくれ。そういうのは苦手だ。」
思わず一歩後ずさる。だが大友さんは首を横に振った。
「勘違いしないでください。私の本当の“光の姿”です。」
「……」
意味が分からない。だが、ここまで来ると何を言われても驚かない気がした。大友さんは静かに左手を差し出した。そして掌を上に向け、ゆっくりと裏返す。
次の瞬間、右手で左手の爪を掴んだ。四本の爪が、不自然なほど簡単に剥がれていく。
「お、おい……」
思わず声が漏れる。爪の下から見えたのは肉ではなかった。皮膚でもない。わずかに開いた隙間から、眩い光が漏れ出していた。まるで身体の内側に太陽でも閉じ込めているかのようだった。さらに大友さんは躊躇なく左手の皮膚を引き剥がしていく。
人間なら悲鳴を上げてもおかしくない光景だった。だが彼女は顔色一つ変えない。やがて左手全体が光に包まれた。その輝きは凄まじかった。うす暗い公園全体が昼間のように照らされる。
まともに目を開けていられない。反射的に腕で目を覆う。それでも瞼の裏まで光が貫いてくる。このままでは目が潰れる。そう思うほどの強烈な光だった。どれほどの時間が経ったのだろう。数秒だったのかもしれない。
やがて光はゆっくりと収まり、恐る恐る目を開く。そこには、いつもの大友さんの左手があった。何事もなかったかのように。
「わかっていただけましたか。」
大友さんは静かに言った。
「私は嘘を言っていません。大林さんを騙そうともしていません。」
全身から血の気が引いていくのが分かった。冗談ではない。ドッキリでもない。説明のつかない何かが、今、目の前で起きた。本能が警鐘を鳴らしていた。ここにいてはいけない。
逃げろ。
関わるな。
危険だ。
「ご、ごめんなさい。」
自分でも情けないほど声が震えていた。
「もう二度とあの会社には行きません。大友さんとも会いません。このことも誰にも話しません。だから……無事に家へ帰らせてください。」
すると大友さんは逃げ出そうとした俺のスーツの袖を掴んだ。意外なほど強い力だった。
「大林さん。だから誤解しないでください。」
その声に怒気はない。むしろ必死さが滲んでいた。
「私はあなたにお願いをしようとしているんです。」
大友さんは真っ直ぐ俺を見つめる。
「もう一度言います。」
一呼吸置いて、静かに告げた。
「人類を救ってください。」
結局、俺たちはもう一度向き合い、腰を据えて話をすることになった。夜風が木々を揺らし、公園には俺たち以外誰もいない。そんな静寂の中で、大友さんは淡々と語り始めた。
「約五万年前、M78星雲から地球へウル星人がやって来ました。」
どこか授業でも聞かされているような口調だった。
「ウル星人は憑依型の宇宙人です。知能を持つ生物に寄生し、その身体を操ります。身体が使えなくなると、新たな身体へと移るのです。」
俺は黙って聞いていた。いや、聞くしかなかった。
「ウル星人の大きさは、およそ百ナノメートル。地球の細菌よりも小さな存在です。」
大友さんの声だけが静かに響く。
「彼らは人類に寄生しました。そして脳を支配し、自分たちの思うままに利用していたのです。」
月明かりが彼女の横顔を照らしている。その姿はどこまでも真剣だった。
「しかし彼らは地球の多種多様な病原菌に適応できず、やがて絶滅したようです。」
そこで彼女は一度言葉を切った。
「ですが、ウル星人によって改変された脳の特性だけは残りました。」
静かな声だった。だが、その内容は恐ろしく重い。
「それが受け継がれ、攻撃性の高い現在の人類へと発展したのです。」
しばらく沈黙が続く。夜風だけが吹いていた。俺は頭を抱えたくなった。いや、抱えていたのかもしれない。目の前で超常現象を見せられた直後に、人類史を根底から覆す話を聞かされている。脳が処理を拒否していた。そして、ようやく絞り出した言葉は――。
「……えーと。」
俺は空を見上げた。月は相変わらず綺麗だった。
「もしかして俺、今、夢を見てるのか?」
話を続けていると、どこからともなくガラの悪いチンピラ風の二人組が現れた。ふらつくような足取りでベンチに近づいてくる。そして、品定めをするような視線を大友さんへ向けた。
「おぉ、いいねぇ。カップルでデートか?」
「幸せそうじゃん。しかも彼女、めちゃくちゃ可愛いし。」
男の一人がニヤニヤしながら言う。
「ねぇ、今から俺たちと遊ばない?」
しかし大友さんは二人を見ることもなく、何事もなかったかのように話を続けた。
「攻撃性が高いのもありますが、このような行動もウル星人の本能を引き継いだ結果です。」
そして静かに私を見る。
「大林さん。少しは理解していただけましたか?」
「おい、聞いてんのか?」
男が苛立った声を上げる。
「お姉ちゃん、デートしようって言ってるんだよ。」
私は立ち上がろうとした。だが、その瞬間。大友さんが私の肩にそっと手を置いた。
「少し、お見せします。」
次の瞬間だった。大友さんの瞳がゆっくりと上を向く。黒目が反転するように回転し、その目は神々しいほどの光を放ち始めた。私は息を呑んだ。チンピラ二人も言葉を失う。その光を真正面から受けた二人は、糸が切れた人形のようにその場へ崩れ落ちた。
数秒間。
眩い光が二人を照らし続ける。やがて光は消え、大友さんの瞳も元に戻った。まるで何事もなかったかのように。
「この二人から、ウル星人の本能を解体しました。」
淡々と説明する。
「大林さんのような、まっとうな人間に変わったはずです。」
すると地面に倒れていた二人がゆっくりと目を開いた。そして辺りを見回しながら困惑した表情を浮かべる。
「えーっと……ここ、どこだ?」
「俺たち、何してたんだっけ?」
先ほどまでの威圧的な態度は影も形もない。まるで別人だった。大友さんが優しく声をかける。
「明日も忙しいから早く帰らないとって話しながら歩いていましたよ。駅はあちらです。」
「あぁ、そうだっけ?」
「ありがとう。」
二人は軽く頭を下げると、そのまま駅の方へ歩いていった。私は言葉を失ったまま、その後ろ姿を見送る。大友さんがこちらを向いた。
「ねっ。」
その一言に私は反応できなかった。
「私が大林さんに渡したい能力は、これです。」
静かな声が続く。
「彼らの記憶へ入り込み、チンピラになる原因となった記憶の暗黒面を消し去ったのです。」
夜風が木々を揺らす。私は黙って聞いていた。
「それらの暗黒面は、ウル星人の痕跡として人類の脳の奥に根強く残っています。」
「中には数多くの痕跡を持つ人もいますが、彼らの場合は一つだけでした。」
そして真っ直ぐ私を見つめる。
「大林さんには、人々の記憶へ入り込み、ウル星人の痕跡――悪となる記憶を少しでも消し去ってほしいのです。」
私はただ大友さんを見つめていた。頭が追いつかない。だが、不思議と彼女が嘘を言っているようには思えなかった。
「引き受けてもらえますか?」
現実感を取り戻すまで少し時間がかかった。それでも私は答えた。
「……良く分からないが、一先ず、わかった。」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
「けど、俺に全人類を治せるとは思えないぞ。」
苦笑する。
「七十億人だぞ?」
大友さんは小さく頷いた。
「わかっています。」
「だから仲間を増やしてほしいのです。」
「世界中に仲間を増やしてください。」
私は首を傾げた。
「じゃあ、何で大友さんは今まで仲間を作らなかったんだ?」
「私は新人研修で地球へ来ているだけです。」
少しだけ困ったように笑う。
「研修生の立場で、そのような活動をすることは禁止されています。」
「先ほどお見せした行動も本来は禁止です。」
そして少しだけ空を見上げた。
「ですが、引き継ぎのための行動と言えば、おそらく罰せられないでしょう。」
私はしばらく考え込んだ。そして覚悟を決める。
「……わかった。」
「でも、どうやったらそんなことができるんだ?」
すると大友さんの表情が少しだけ柔らかくなった。
「能力を引き継いでくださるんですね。」
「あぁぁ、うん。」
深く息を吐く。
「やってみるよ。」
大友さんは私の両手を握った。そして聞き取れない言葉を静かに唱え始める。まるで呪文のようだった。すると不思議な感覚が全身を駆け抜ける。生まれた時から知っていた能力を思い出したような感覚。他人の記憶へ入る方法を、本能的に理解している気がした。
「大林さん、私を見てください。」
「そして記憶を探ることを念じてください。」
言われるまま大友さんの顔を見つめる。
その瞬間。
世界が一変した。視界が泡に包まれる。まるで洗濯機の中に放り込まれたような感覚だった。無数の泡が流れていく。一つひとつが記憶だった。
光り輝く存在たちがこちらへ何かを語りかける泡。
黄色く輝くバルタ星が遠ざかっていく泡。
宇宙空間を駆け抜け、地球へ降下する泡。
アメリカの学生たちと笑顔で会話している泡。
次々と流れ込む膨大な人生。私はその中を漂っていた。やがて不安が込み上げる。このまま戻れなくなったらどうする。その瞬間だった。視界の奥に大友さんの顔が現れた。
「うわっ!」
気が付くと、公園に立っていた。
「戻ってきたようですね。」
大友さんが微笑む。
「私の記憶にはウル星人の痕跡はありません。ですから、黒く光る記憶は見えなかったはずです。」
そして続ける。
「黒く光る記憶こそがウル星人の痕跡です。その暗黒面を見つけたら、手を交差させてください。スペシャール光線を放てますので、それで排除できます。」
私は黙って頷いた。
「記憶世界から出たい時は、戻りたいと念じれば戻れます。ちなみに今、あなたが私の記憶を見ていた時間は約二秒です。どれだけ長い記憶でも、十秒以上かかることはありません。」
夜空を見上げながら彼女は言った。
「通勤電車の中でも、周囲の人の痕跡を少しずつ排除してください。そして善良な人を見つけたら、仲間に誘ってください。海外へ行った時も同じです。」
その瞳には希望が宿っていた。
「地球人の幸せのために。いつの日か、この星は争いのない世界になるでしょう。」
翌日。
大友さんは出社してこなかった。昼礼で課長から報告があった。急な事情により退職したという。理由は誰も知らない。だが私は知っていた。彼女が本当に帰るべき場所へ帰ったことを。
そして――。
今日から私の任務が始まる。人類に残されたウル星人の痕跡を消し去るための、長い旅が。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
もし本当に人の心の中に「悪意の痕跡」が存在したら。そして、それを消し去る力があったなら。世界は今より少しだけ優しくなるのかもしれません。
そんなことを考えながら書いた短編です。楽しんでいただければ幸いです。




