三話
「やっぱり、駄目でしたか…………」
永遠亭の兎は出迎えの言葉よりも先にそう呟くと、永琳に背負われた輝夜の形を見て、表情に影を落とした。だが、永琳の咳払い一つでその影も消え、今はどこからか担架を取り出して輝夜をそれに寝かせている。
……どれだけ考えてみても。今の兎の様子にしても。輝夜がこうなることを知らなかったのは、どうやら私だけのようだ。
帰り道は終始無言であった為に、私は未だに輝夜の身に何が起こっているのかを把握しきれていない。しかし、慧音はどうやら何かを知っている素振りを見せるし、兎の言動からも、輝夜の死は予測が出来たことであるようだ。…………つまり、私だけが何も知らずに、蚊帳の外にいるということだろう。
さっきとはまた違う兎が、私と慧音を客間へと案内してくれた。そして、中央に置かれた卓の上座に当たる部分に通され、私たちが座るのを確認してから、兎は一礼をして部屋を出ていった。
「なぁ、慧音」
「……何だ」
「一体、今、何が起こっているんだ」
その問いに慧音は答える素振りも見せず、ただひたすらに私から目を背けている。
「言いたくないのか? ……それとも何か、言えない理由でも」
ふるふると横に振られた首と連動するように、長い後ろ髪がゆらゆらと揺れる。それが落ち着いた頃に、慧音は顔を上げた。
「……私がいい加減なことを言って妹紅を惑わせてしまうより、あの薬師から子細を聞いた方が良い」
異質。この部屋は間違いなく異質だと思う。部屋には私と慧音、それに永琳と玄関で会った兎二人が、向き合うように卓を囲んでいる。だが、皆が皆俯いており、話すどころか身動き一つ取る者はいない。唯一動いているのは湯飲みから立ち上がる湯気だけであり、それがまき散らす煎茶の清々しい香りは、あまりにも場の雰囲気と食い違っている。
私の傍らには、空気を重くする主因……輝夜の遺体があった。
経帷子を纏い、布団に横たわる輝夜は、月の下で見た時と同じ無機質な微笑みを浮かべたままだ。ただ、あからさまに死人の扱いを受けている輝夜を見る度にどうにも居た堪れない気分にさせられて、私は極力、目の前の湯飲みを睨みつけていた。
「…………蓬莱の薬が、生成することも服用することも禁じられた“禁薬”であることは、知っているわね」
ぽつりと呟いた永琳の声は消え入りそうな程小さかった。だが、それに驚いて身体がぴくりと反応してしまう。
永琳は問いかけてきたにも関わらず、顔を上げる気配はない。視覚に訴えることも出来ずに、私は仕方なく「あぁ」と、気のない返事をした。
「不老不死。それを具現する蓬莱の薬は、諸処の理由により、禁薬とされる。また、月ではそれを服用した者には、罰が科せられる」
永琳は坦々と、蓬莱の薬について説明を始めた。
……そもそも、蓬莱の薬など製剤出来る者はほとんどいないらしい。また、禁薬である為にそれに纏わる情報も皆無に等しい上に、ただでさえ数少ない情報が全て正しいという確証すらない。更に、調合の難しい薬でもあり、その材料ですらも、簡単に手に入る物ではないそうだ。
月の頭脳とも呼ばれる永琳でさえ製剤は難行し、自身の作った未完成の蓬莱の薬に、輝夜の能力を合わせることで、何とか形になったらしい。
そんな蓬莱の薬を服用した輝夜、永琳への罰は、『永遠を生きること』だった。これは、何をしても死ぬことがない蓬莱人を罰する為に考え出された苦肉の策であり、かつ効果的な罰でもあるらしい。
永遠を生きること。それは人間が望むことでありながら、それに伴うのは苦痛ばかりである。それは私自身が身を持って体験しているのだから、間違いがない。
もっとも輝夜、永琳は月から逃げ出している為にこの罰は遵守する必要もないのだが、それでも一つのけじめをつける為に、新たに薬を作ることもなく、今までを過ごしてきたそうだ。
「それで……輝夜の死と蓬莱の薬と、何か関係があるのか?」
「……永遠に生きることが罰なのだから。それを解く薬もまた、禁薬とされているの。だから、今まではそれを作らなかった」
「そんな薬が……あったのか」
「いいえ、そんな薬は存在しないわ。蓬莱の薬でさえ作ることは難しいのに、それを解く薬なんて、誰しも作ろうとすらしなかった。でも、私と姫の力を用いればそれが作れてしまうから、改めて禁止にされたの」
口が乾いたのだろう。永琳は湯飲みを手に取ると、湯気すら立たなくなった茶を飲んだ。そして、溜め息にも似た吐息を一つ落としてから、話を続ける。
「姫が、その禁薬を解く禁薬を作ってくれと言い出したのは、半年程前のこと。今日みたいな満月の日に、あなたとの殺し合いから帰ってきてすぐのことだったわ。『この身体を元に戻す薬はないのか』と。当然、私はその理由を尋ねたわ。自身が望んだ不老不死を、何故手放すのか、と。そしたらね、貴女……妹紅の名前が出てきたのよ」
「私……の」
「妹紅を人間に戻してやりたい。姫は迷いなくそう言ったわ。妹紅が蓬莱人になった、蓬莱の薬が地上に至った原因は、我侭を通した私にあるのだと。だから妹紅が蓬莱人であることを嫌うならば、人間に戻してやりたいと」
…………半年前。未だに、記憶は新しい。思い起こせば、永琳の話が自身の記憶に重なる部分も少なくはない。
あいつと最後に弾幕を張ったのが、半年前の出来事だった。
あの日は勝負がつかなかった。私も死に、あいつも死に。再生を繰り返しながらもお互いに手が尽きて、自然に弾は止んだ。
日頃であれば、あいつは私など見えていないかのように帰途につく。その日も同じように私に背を向けたあいつに、私は何を思ったのか、声をかけてしまった。いや、正確には独り言であったが、それがあいつの耳に入ってしまったのだ。
別に何か言いたかった訳でも、用があった訳でもない。それどころか、声を出そうとすら思っていなかった気がする。
……私は一言、『何で私まで蓬莱人にならなければならなかったんだ』と、呟いた。
自業自得だと理解している癖してそんなことを言ってしまった自分に、後悔したことを覚えている。さらに、“輝夜に聞こえていませんように”と祈ったにも関わらず、歩む足を止めた輝夜を見て、気落ちしたことも覚えている。
おもむろに踵を返してこちらに向かってくる輝夜に、再び殺されることを覚悟した。私はやり返す気力すら湧かず、呆然と輝夜を眺めていた。
“人間に戻りたいの?”
輝夜は私の顔をまじまじと見据えて、そう呟いた。予想外のことに私は戸惑いつつも、「当たり前だ」と返した。
そう。と、輝夜はたった一言だけ残すと、再び踵を返して私から遠ざかる。その日、放心状態で見つめる私を、輝夜が振り返ることはなかった。
……輝夜が弾幕を張らなくなったのは、それ以来のことだ。あいつは弾を撃つ代わりに微笑みを絶やさず、そして帰る直前になって一言だけ、「人間に戻してあげましょうか」とだけ言い残すようになった。その度に罵倒して追い返してはいたが、帰り際に浮かべる悲しげな表情を見る程に、私の心が闇へとずり落ちていくのを感じていた。
「薬自体は姫の協力もあって、すぐに完成させることが出来たわ。姫はあなたとの決闘の日は必ず、胸にその薬を忍ばせて出かけていた。そして、いつもいつも、暗い表情のまま帰ってきた」
言葉が、出ない。
「でも、今日だけは違った。姫は薬を手に取って、そして、飲んだの。“私が死ぬ身体になれば、妹紅も信じてくれるでしょう”って、笑いながら出て行った。“妹紅に飲ませるから、もう一つ薬を作っておいて”と、私に言い残して」
“人間に戻してあげましょうか”
私は輝夜を罵倒した。
“仲直り、しましょう?”
私はその言葉を切り捨てた。
“私が謝るから”
私は理解すらしようとせずに、輝夜を、殺した。
私は蓬莱人になんて、なりたくなかった。不老不死を解く薬は、輝夜が勝手に作った。殺されることを覚悟でその薬を飲んだのもあいつ。あいつの自業自得、因果応報。全部あいつが悪い。
そのような言い訳だけが次々と浮かんで、理性によって打ち砕かれる。それでも本能は、私の罪を否定する。
何をどう言い訳しようとも。今までの出来事をどう解釈しようとも。私が撃った弾により輝夜が死んだことは、最早変わらない事実なのだ。それがわかっているだけに、自分へも他人へも、かける言葉が見つからない。
ただ、自問自答を繰り返す中で一つだけ浮かんだ疑問を、私は永琳に怖ず怖ずと投げかけた。
「……私を、憎んでいないのか」
永琳は僅かに顔を上げて、私と目を合わせる。
「……もう、ずっと前から。姫様から“妹紅が何をしようとも彼女を憎むな”と言われているの。だから、あまり、気にしてはないわ」
僅かに、片方の兎が嗚咽を漏らす。
それに混じってぼそりぼそりと呟く永琳の瞳は、褐色をした何かが淀み、渦を巻いているかのようだった。