二話
耳元で名を叫ぼうとも。肩を乱暴に揺すろうとも。彼女は目を開かない。痺れを切らして頬を叩いても、まるで反応がない。
輝夜が目を閉じてから、幾許かの時間が経つ。その為か、胸からの出血はどうやら止まったようだった。しかし傷口は再生することもなく、輝夜の四肢は私が抱くままに垂れ下がり、頭は首の据わらない赤子のように、力なく重力にかまけている。
“死”
その言葉が脳裏を過るが、理性がそれを打ち消そうと躍起になっている。
輝夜は蓬莱人。私と同じで死ぬことはない。傷を負っても再生する。消し飛んでも蘇生する。
私も今までに何度も死んできて、そして何度も殺してきた。木っ端に砕いて、燃やし尽くしたことも度々あった。その逆もまた、然り。
……それでも。私の意思とは関係なく、身体の再生は必ず起こる。僅かな時間の経過と共に、何一つ変わらぬ姿に再生する。…………はずなのに。
再度、輝夜の顔に目をやる。
血色こそ悪いものの、見ただけでは寝ていることと何ら変わりがない。もう一度叩いたなら、不機嫌な声を出して起き上がりそうな気もする。
……そう、有り得ないのだ。蓬莱人が、ましてやこいつが死ぬなんて、有り得ない。絶対に、有り得ない。
それだけ自分に言い聞かせているにも関わらず、“死”という文字が払拭出来ない。その文字を裏付ける何かを、無意識の内に頭の中で探してしまう。
だが、不老不死にとって死の定義など、有って無いようなものだ。その定義もどこかで聞いたような気もするが、この肝心な時に、それが思い出せない。
気ばかりが焦る中、輝夜の手を握ってみれば、温もりに満ちている。やはり、動くことがないだけで、とても死んでいるようには見えない。
……いや、死んでいるなんて、認めない。輝夜と私は同じ蓬莱人。私が死ねずに輝夜だけ死ねるなんて、おかしい。理不尽だ。
…………もしも。輝夜が死んでいるなら。薬の効果が切れたとでも仮定するならば。私だって、致命傷を負えば死ねるに違いない。
そう思い立ったがすぐに、私は抱き上げていた輝夜の上半身を草の上に寝かせ、握っていたその手を、彼女の胸元にそっと置いた。
地に膝をつけたまま、自らの胸に手をやる。輝夜の時と全く同じ。一発の弾が、心臓を貫くように。
これで死ぬことが出来れば、輝夜の死も認めなければならないだろう。もっとも、有り得ない話ではあるが。
…………。
……。
数える程に、空白の須臾だけが重なっていく。だが、私は胸に手を当てたままの格好で、固まっている。
……永く生きる間に、自らを殺めることにさえ躊躇いはなくなっていた。どうせ、死なないのなら。元通りになるなら。そう思えば平気で腹も切れたし、己の首をはねることも出来た。質の悪いことに、そういった自傷行為を楽しんでいた時期さえある。
それなのに。何故この一発に、これ程まで躊躇せねばならないのか。絶対に死なないと自らに言い聞かせても、手が震え、冷や汗が流れるばかりで、いつまでも踏ん切りがつかない。
己を安心させようと思考を巡らせれば巡らせる程に、目前に“死”の文字がちらつく。
もしもこの一発で、私も再生することなく、倒れたままだったら。認めたくはないが……それが、死ぬことだったら。
…………違う。そんなことはない。私はこれまでもこれからも、蓬莱人だ。不老不死で、不死身で。何度でも甦る。絶対にそうだ。間違いない。
薄く目を開き、静かに息を吸って肺に並々と空気を溜め込む。そして、軽く全身を強ばらせて、弾を撃った。
距離をあまり取らずして放った弾は私の胸を確実に捕らえ、めり込み突き刺さりそして、一つの風穴を空けた。
鮮血が迸り、それは飛沫となって舞いながら、ふつりと消える。傷口から漏れ出した血は腹部に、脚部に流れて、それが触れる箇所はあまりに熱い。その熱さの原因は、やがて膝元に血溜りを作って、何事も無かったかのように消えていく。
不老不死である蓬莱人でも、痛みはある。それももう慣れたものではあるが、やはり痛いものは痛い。だが、それが続く間は再生が続いているということでもあって、痛みを忘れる頃にはもう、傷跡すら見ることは出来なくなる。
……ご多分に漏れず、再生は順調のようだ。痛みは徐々に引き、心臓が再び脈を打ち始めたことがわかる。呼吸の度に零れていた空気は肺にしっかりと収まるようになり、気付いた時には、少し前と変わらぬ身体に戻っていた。
やはり、薬の効果は、切れていない。
ならば、何故。輝夜は目を覚まさないのか。横たわったまま、動こうとすらしないのか。……何故、傷口は塞がらないのか。壊れたまま、直らないのか。
…………呼吸と、脈。
慧音が確か、それを確認していた。人里で人間が死んだ時に、首筋に手を当てて、口元に頬を近付けて、それで。あまりにも暗い表情のまま、覇気のない声で、教えてくれた。
『この二つが無くなったら、それは“死ぬ”ということなのだ』と。
騙されるな。
輝夜が倒れているのは、私を欺く為。欺いて、油断させて、奇襲をかけてくるに違いない。近付いた私に、戸惑う私に、容赦なく弾幕を放つに違いない。心ではそう思っている。罠だ、近付いてはいけない、と。
だが、身体は私の命令を無視した。慧音の言葉を思い出した瞬間に、輝夜に駆け寄っている自分がいた。草に足を取られて転びそうになりながらも、脇目も振らず、一直線に。
「輝夜!」
距離は無かったはずなのに、既に息は上がっている。肩を揺さぶる手に込める力を、どうにも加減することが出来ない。主の言うことを聞かない私の身体は、必死に輝夜の名を叫んでいた。だが、先程と同じく反応はない。
……念の為に。慧音がやっていたように輝夜の首筋に手を置いて、頬を口元に近付ける。どうせ脈も呼吸もあるものだろうと高を括りながらも、それに反して、私の心内には微塵の余裕すら無かった。
…………だが、いくら待とうとも首筋に置いた手からは脈動を得ることが出来ず。鼻すれすれまで近付けた頬には、空気の流れすら感じず。
もしかしたら、脈を取る位置を間違えているのかもしれないと、確認の為に自分の首筋にも手をやってはみたものの。そこには、弱く、速いながらもきちんとした脈があって。
再度、輝夜の首筋に手をやった。脈のある場所を探し、何度も何度も手の位置を変えた。血管を越えて、何かの筋や気管の感触までわかる程に強く押した。それでも脈は、どこにも、ない。
「死んだ……のか?」
口からは自然と言葉が洩れて、腰が抜けたのかへたりとその場に座り込む。未だ、身体が言うことを聞かない。考えても、それが身体に伝わらない。身体が為すがままに、動くしかない。
「輝夜が、死んだ。……殺し……た」
暫く間、自らが発したはずの言葉を、理解出来なかった。
蓬莱人が死んだ。不老不死であるはずの輝夜が死んだ。私と違って、輝夜は死んだ。胸に穴が開いたから死んだ。血が出たから死んだ。心臓が止まって、呼吸も止まったから、死んだ。
何故心臓が止まった。何故呼吸が止まった。何故血が出た。何故胸に穴が開いた。何故。輝夜は、死んだ。
……それは、私が弾を撃ったから。一発の弾を、私が輝夜に向けて、撃ったから。
私が殺した。私が人を殺した。この手で殺した。輝夜を殺した。…………殺して、しまった。
この際、蓬莱人なんて関係ない。事実、輝夜は人間の死の定義に当てはまっているのだから。どれだけ待っても、再生しないのだから。
私の手が、私自身が、人を殺した。どれだけ永く生きようとも、その罪だけは犯したことは無かったのに。人間として、守ってきたことのはずなのに。私はそれを。……破ってしまった。
『殺したかったんじゃないのか』
心の中で、誰かが呟く。
……確かに輝夜は殺したい存在だった。毎日のように、死ねば良いと願った。殺して、殺して、殺して。それでも、あいつは死ななかった。
しかしその願望はたった今、私の手によって、現実となった。特に苦労することもなく、抵抗されることもなく。いとも簡単に、実現した。
……それなのに。願いは、叶ったはずなのに。心は、晴れない。
心に浮かぶのは歓喜でも後悔でもない――疑問だった。
……輝夜。
私がお前を殺したなら。お前はぶつくさ文句垂れながら、再生するんだろう。お姫様らしくもない目つきで私を睨みつけたまま、売り言葉に買い言葉を交わすんだろう。そしてまた二人で、殺し合うんだろう。
違うのか。それは私の、思い違いなのか……。
茫然と、月を見上げた。
遙か上空に漂う月はただただ燦然と輝いて。その光は、私が犯したことを鮮明に浮かび上がらせて。
今までに感じたことのない感情が溢れてくる。喜びでも悲しみでも、怒りでもない。さっきまでの疑問も、今やどこかに消え失せている。
……恐怖。その言葉がぴたりと当てはまる訳ではないが、思いつく限り、それがこの感覚に一番近い気がする。
そんな恐怖に似たものが、私の心を埋めていき。それが溜り、淀み、ひしめき合い、溢れそうになるけれど。……溢れると思う度にそれは虚無へと変わり果て、私の心を空にする。その内に空っぽになった私は、気付けば微笑みながら、月を見上げていた。
……ふと、こちらに近付く足音に気付いて、月から目を離す。
こんな、綺麗過ぎる満月の夜。妖怪共も騒ぎ暴れているだろうに、一体誰がこんな所まで来るのか。少なくとも、そこらの人間ではない。相当の力を持った妖怪か、それに類する者だろう。
「姫様……」
私に近付いてきた影は二つだった。その内の一つは私の目の前に座り、そう呟きながら輝夜の手を取る。無論、輝夜は反応しない。
「なぁ、永琳。……輝夜は、どうなったんだ」
私が問いかければ、永琳は輝夜の手を握りしめたまま、おもむろに顔を上げた。
……眼が、私を射抜く。
目が合った瞬間から視線を背けることは叶わず、それはじりじりと、私の網膜を焦がす。
「輝夜は、もう…………死んでいるわ」
余程強く唇を噛みしめていたのだろう。永琳の口元には、僅かに血が擦れた跡があった。
「でも……お前たちも、蓬莱人では」
「それは、話せば長くなるから。……まずは永遠亭に行きましょう。それに、姫様をこのまま放る訳には、いかない」
「でも……」
「永琳の言う通りにするんだ、妹紅。私も一緒に行くから」
慧音はそう言いながら、私の肩にそっと手を置いた。
…………今日と言う日が、おかしい。何から何まで、おかしい。
輝夜のことも然り、慧音が永琳と時同じくしてこの場に居合わせることも然り。
……徒党を組んでいるのだろうか。いや、慧音は断じてそんな奴ではない。慧音にこんな冗談が通じる訳がないし、手助けすらしないはず。ならば、本当に輝夜は…………。
永琳が横たわる輝夜を担ぎ上げようとして、姿勢を屈めて背中へと引きずりあげている最中だった。輝夜はされるがままに、右へ左へと揺さぶられている。
その姿に思わず、おぶりやすいようにと輝夜の横腹や背に手を添えた時に。……先程までは感じられたはずの温もりが失せていることに、気付いた。