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第3話:「観測者は夕暮れの廊下で天才の論理にバグを起こす」

 


「……見えない共犯者? 何を、馬鹿なことを……」


 オレンジ色に染まった旧校舎の廊下。


 壁に背中を預けてへたり込む俺を見下ろす東雲透に向かって、俺はひどく掠れた声で反論を試みた。

 俺はゆっくりその場を立ち上がる。


 だが、俺の先ほどの言葉は、夕暮れの静寂に虚しく吸い込まれていくだけだった。


「馬鹿なことじゃないわ。私はただ、観測した事実を述べているだけよ」


 東雲は俺の目の前——わずか一歩の距離まで近づいてきた。


 夕日の逆光を背負った彼女の顔は影になり、その理知的な暗い瞳だけが、獲物を狩る氷の刃のように冷たく光っている。


「白石さんが告白しようとした瞬間。あなたの視線は、白石さんの顔から外れ、何もない右斜め上の『虚空』へ固定された。時間は約三秒。その間、あなたの瞳孔は微かに収縮し、まるで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、耳の奥に意識を集中させていたわ」


「——っ」


「そして、その『()()』を聞き終えた直後、あなたはまるで台本を読み上げる役者のように、一切の感情を排した冷たい声で彼女を切り捨てた。……明智くん。あなた、自分の()()で彼女を振ったわけじゃないわよね?」



 心臓が、早鐘を打つ。


 こいつは、本当に人間なのか? 


 俺の頭の中に居座るナレーターの声など、東雲には一ミリも聞こえていないはずだ。


 それなのに、俺のわずかな視線の動きと反応の遅延だけで、ここまで正確に状況をプロファイリングしてくるなんて。


『警告。東雲透の推論回路が、当物語の秘匿事項に致命的なレベルで接触しつつあります』


 脳内で、ナレーターの声が響いた。いつも通りの無機質なトーン。


 しかし、その言葉の選び方には、明らかにこれまでにない「切迫感」が混じっていた。


『彼女の存在は、設定された()()()に対する明確なノイズです。現在、彼女の論理的追及によって、物語の進行プロトコルに微細なエラーが発生しています』


(……エラーだと?)


 俺は内心で息を呑んだ。


 絶対的な「確定した未来」を語るはずのナレーターが、東雲の論理によってエラーを起こしている? 


 分刻みで完璧に書き上げられたはずの台本が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()によって、バグを生み出しているというのか。


「……黙ってないで、答えたらどうなの?」


 東雲が、俺の顔のすぐ横の壁にドン、と手をついた。


 いわゆる「壁ドン」というやつだが、ラブコメの甘さなど微塵もない。


 ただ純粋な、逃げ道を塞ぐための理詰めの檻。

 彼女の美しい青紫のロングヘアが揺れ、少しだけミントのような冷たい香りがした。


「あなたが一人で幻聴と戦って精神をすり減らすのは勝手よ。でも、その得体の知れない『何か』のせいで、白石さんのような()()()()()()()()()()()()()()()()()()、見ていて非常に不愉快なの」


「……東雲、お前には関係ないだろ」


 俺はなんとか顔を上げ、彼女の氷の瞳を睨み返した。


「俺が真央を振ったのは、俺自身の意志だ。誰に指示されたわけでもない。ただ、受験の邪魔になる不確定要素だから切り捨てた。俺の人生の計画に、あいつの感情は不要だ。それだけのことだ。お前のその探偵ごっこは、的外れもいいところだ」


「嘘ね」


 即座に。

 一秒の躊躇もなく、東雲は切り捨てた。


「あなたが白石さんを振った時の声帯の震え。そして今、私に反論している時の目の泳ぎ方。嘘をつく時の人間の生理的反応として、あまりにも教科書通りすぎるわ。明智くん、あなたは優秀だけど、嘘をつく才能だけは致命的に欠けている」


「——っ、だから!」


「誰に言わされたの」


 東雲は一歩も引かない。

 むしろ、さらに顔を近づけて、俺の瞳の奥の「正体」を引きずり出そうとする。


「あなたを脅迫している人間がいるの? それとも、催眠か何か? ……いいえ、朝からの挙動を総合すれば、やはり『()』ね。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


『——処理が追いつきません』


 ナレーターの声が、ノイズ混じりに脳内を駆け巡った。


『東雲透の存在により、明智傑の心理状態が想定されたパラメータを逸脱。……物語の安定性が低下しています。このまま彼女の干渉を許せば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()が——』


 その時だった。


「……おい、お前」


 俺は、ハッとして頭の中の「声」に向かって意識を向けた。


 ナレーターの今の言葉。『記述された未来への到達が困難になる』。


 それはつまり——。


「確定した未来ってのは、()()じゃなかったのかよ」


 ポツリと。


 俺の口から、無意識のうちにその言葉が漏れていた。


「え……?」


 東雲が、微かに眉をひそめる。俺は東雲から少し離れ、床に片膝をつく。

 俺の意識は、すでに東雲ではなく、頭の中の「()()()」へと完全にフォーカスされていた。


 俺は、床に膝をついたまま、ふと気づいた。


「……東雲。一つ、聞いていいか」


「何?」


「今日の小テスト。俺は()()()の言う通りに計算を消した。そのせいで白紙になって、九十七点になった。でも——」


 俺は東雲の方に視線を向けゆっくりと言葉を選んだ。


「消さなければ、計算ミスのまま部分点はもらえた。合計したら、九十七点より高かったかもしれない。……あいつの言う『確定した未来』通りの点数になったのは、あいつが俺に消させたからだ。あいつが黙ってたら、()()()()()()()()()()()()()()()


 東雲は、一瞬だけ目を細めた。

 やがて、静かに口角を上げた。


「……そうね。つまり、あなたは今日のテストの時点で、すでに気づいていたわけだ。『確定した未来』は、その声自身が作り出したものだと」


「……気づいてなかった。()()()()()()()()()()()


「正直ね」


 東雲はため息をついた。


「でも、それで十分よ。……場所を変えるわよ。見回りの教師に見つかるから」


 俺はゆっくり立ち上がり、眉をひそめた。


「……どこへ行くんだ」


「決まってるでしょ」


 東雲はくるりと背を向け、迷いのない足取りで歩き出した。


「昨日の放課後までは、あなたはいつも通りの『完璧な明智くん』だった。でも、今朝登校してきた時から、明らかに挙動がおかしかったわ」


「……っ」


「何もない空間を目で追っていた。……あなたみたいな合理主義者が、一晩で急に発狂するはずがない。だとしたら、昨日まで普通だったあなたを、たった一晩で激変させた『何か』が起きた場所は、一つしかない」


 東雲は歩きながら、肩越しに冷ややかな笑みを向けてきた。


「昨日の放課後、あなたが部活で一人でこもっていた場所。そして、その『見えない妖精さん』と出会った場所。……()()()よ」


 ——っ。俺は息を呑んだ。


 こいつには、本当に隠し事が通用しない。


 たった一日の、それも『昨日と今日のわずかな変化』を観測しただけで、()()()()()()()()()()まで完全に逆算していたのだ。


 俺は重い足を引きずりながら、東雲の背中を追った。


 廊下の窓から見える豊科の街並みは、すでに夕日の赤みを失いかけ、薄暗い紫色の夜の気配が侵食し始めている。


 水路沿いの街灯が、ぽつぽつと橙色に灯り始めていた。

 真央は、今頃どこで泣いているのだろう。


 俺の放った冷たい言葉の刃が、どれほど深く彼女の心を抉ったか。それを想像するだけで、胃の腑が鉛のように重くなった。




 旧校舎三階、一番奥にある放送室。



 鍵を開けて中に入ると、機材の熱と古い埃の匂いが立ち込めていた。


 東雲は迷うことなく、俺がいつも座っているミキサー卓の前のパイプ椅子を引き寄せ、そこに優雅に腰を下ろした。


 ブレザーのプリーツ一つ乱さない完璧な所作だ。

 俺は仕方なく、悠がいつも寝転がっているボロボロのソファに座る。


「さて。まずは情報の整理よ」


 東雲は机の上に文庫本を置き、両手で浅く指を組んだ。


「明智くん。あなたが幻覚や統合失調症の類を発症している可能性は、現時点では極めて低いと仮定するわ。あなたの瞳孔の反応、会話の論理的整合性、そして何より——私がこれほどまでにあなたを『観察』していて、あなたが完全に狂っているというデータは一つも取れなかったから」


「……ありがたいお墨付きだな」


「皮肉を言える程度には正気が残っている証拠ね。……それで? その『声』は、今もあなたの頭の中で鳴っているの?」


 東雲の問いに、俺は神経を耳の奥に集中させた。


『……現在、明智傑の心理状態は、東雲透の誘導によって著しく不安定化しています。これ以上の情報漏洩は、物語の根幹構造を破壊する恐れがあり——』


「ああ。相変わらず、俺の状況を実況中継してるよ」


 俺はソファに深く背中を預け、天井を仰いだ。


「そいつは自分のことを『観測者』って呼んでる。俺の人生を、まるで書き上げられた台本みたいに上から目線で語るんだ。俺にしか聞こえないし、俺が何を考えているのかも全部筒抜け。そして何より……そいつの語る『事実』や『確定した未来』は、絶対に外れない」


「絶対に、外れない?」


 東雲の片眉が、ピクリと動いた。


「そうだ。昨日の自転車の落下物も、今日の小テストの俺のミスも、全部そいつの予告通りになった。だから俺は……」


 言葉が、喉の奥でつっかえた。両手で顔を覆う。

 真央の泣き顔が、フラッシュバックする。


「……だから俺は、真央が告白してくることも、俺がそれを最悪な形で振ることも、『回避できない確定した未来』だと思い込まされてた。抗おうとしたけど……結局、俺の計画が狂うことを恐れて、そいつの言う通りに、俺自身の手で真央を突き放した。最低だ」


 放送室は、防音材に囲まれた完全な密室だ。

 外部の音は遮断され、ただ機材の低いハムノイズだけが響いている。


 東雲は俺の懺悔を黙って聞き終えると、微かに目を細め、冷たく言い放った。


「馬鹿ね、あなた」


「……」


「学年トップの頭脳を持っていながら、そんな非論理的なペテンに騙されるなんて。白石さんを傷つけた罪悪感で、思考が完全に麻痺しているわよ」


 東雲は立ち上がり、俺の座るソファを見下ろすように立った。


「よく考えなさい。その『声』は、あなたの身体を物理的に操ったの?」


「……いや、そういうわけじゃない。ただ、事実を正確な言葉で告げるだけだ」


「なら、白石さんを振ったのは、間違いなく()()()()()()()()()。声のせいにするのは、ただの責任逃れ。そこは絶対に履き違えないで」


 心臓を、鋭いナイフで抉られるような正論だった。

 そうだ。ナレーターは俺の口を操って暴言を吐かせたわけじゃない。


 俺が、真央という『不確定要素』を自分の人生設計から遠ざけたいという恐怖から、自らその言葉を選んだのだ。


「でもね」


 東雲は、ふっと声のトーンを落とした。


「その『声』が、意図的にあなたの選択を【誘導】したことは間違いないわ。未来が確定している、という()()()()()()()()()()()()()()、あなたに最も残酷な選択を強要した」


 東雲の視線が、虚空——俺の頭の中にいるはずの存在へと向けられた。


「明智くん。その『声』は、私たちが今こうして放送室で作戦会議をしていることも、想定内だと言っているのかしら?」


 俺は再び、頭の中の声に意識を向ける。


『……警告。これ以上の対話は無意味です。東雲透の論理は、物語の記述を書き換える力は持っていません。彼女の推論は、ただの盤上の遊戯に過ぎず——』


 ナレーターの声は、相変わらず無機質だった。


 だが、その言葉選びには、明らかに先ほどまでの『絶対的で完璧な神』としての余裕が欠落していた。

 まるで、想定外のバグを必死にパッチで塞ごうとするプログラムのように。


「……いや。かなり焦ってるみたいだ」


 俺は東雲に告げた。


「俺とお前が話せば話すほど、物語の安定性が低下するって言ってる。エラーが出てるらしい」


「ビンゴね」


 東雲は、パチンと小さく指を鳴らした。

 その唇には、獲物の急所を完全に見切った狩人のような、美しい笑みが浮かんでいた。


「確定した未来なんて、存在しないのよ。もし本当にすべてが決定されているなら、私があなたに介入して『バグ』が起こるはずがない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 彼女の論理が、ナレーターの張った『絶対のルール』という鉄壁の結界を、ガラスのようにパリンと叩き割っていく。


「いい? 明智くん。()()()()()()()()()()()()()()()()()。ただの『()()()()()()()()()()()()』よ」


「ネタバレ、厨……?」


「そう。膨大な情報量を持っていて、()()()()()()()()()()()()()()()()。だから、あなたがテストで自滅しやすい心理状態になることも、白石さんが告白してくるタイミングもわかった。でもね——」


 東雲は、指先で自分のこめかみをトントンと叩いた。


「『私』というイレギュラーな変数の計算は、完全に読み違えたのよ。私が昼休みの時点からあなたを疑い、白石さんが振られるところまで尾行して、こうしてあなたを尋問すること。それは、その声の持っていた『完璧な台本』には書かれていなかった」


『……否定します。東雲透の行動も、観測の誤差範囲内であり——』


()()()()()()()()、負け惜しみを言ってるわね?」


「……お前、聞こえてないのになんで会話が成立するんだよ」


 俺は思わず、呆れたようにツッコミを入れた。


「当然でしょ。ペテン師が窮地に陥った時に使う言い訳のパターンなんて、ミステリ小説じゃ第一章で出尽くしてるわ」


 東雲は再びパイプ椅子に座り、俺を真っ直ぐに見据えた。


「明智くん。あなたが白石さんを取り戻したいなら、やるべきことは一つよ」


「……どうすればいい」


「その『声』が持っている台本を、私たちの手でグチャグチャに書き換えてやるのよ。観測者が予測できない『完全な想定外』の行動を叩きつけて、システムを完全にクラッシュさせる」


「……想定外の行動って、具体的に何をすればいい?」


「簡単よ」


 東雲透は、この世で最も冷酷で、最も理にかなった反撃の狼煙を上げるように、淡々と告げた。


「あなたが明日、学校中の生徒が見ている前で、白石真央の告白に対する『究極の取り消し(キャンセル)』を実行するのよ。——それも、その観測者が絶対に予測できない、狂ったやり方でね」


「……狂ったやり方って、まさか」


 静まり返った夜の放送室。

 東雲透の言葉の真意に気づいた瞬間、俺は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。


 彼女はパイプ椅子に座ったまま、俺の背後にあるミキサー卓と、その上に置かれたマイクへとしなやかな視線を送った。


「そう。あなたは放送部員で、ここは全校生徒の耳に直接アクセスできる唯一の場所」


 東雲は、ひどく楽しそうに、そして悪魔のように冷徹な笑みを浮かべた。


「明日の昼休み。お昼の校内放送をジャックして、白石真央さんに対する『謝罪』と『前言撤回』を全校生徒の前でぶちまけるのよ」


「……本気で言ってるのか、東雲」


 俺は呻くように言った。


「そんなことをしたら、俺は完全に学校中から『頭のおかしい奴』扱いされる。教師からは大目玉だし、何より真央自身が晒し者になる危険だってある。……社会的自殺だぞ」


「ええ、その通りね。完全に非合理的で、破滅的で、あなたの『予定通りに無駄なく生きる』という信条から最も遠く離れた愚行よ。……でもね、明智くん」


 東雲は立ち上がり、俺の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで一歩踏み込んできた。


「だからこそ、その『声』の予測を完全に裏切ることができるのよ」


『——警告。警告します』


 その瞬間、脳内でナレーターの声が、かつてないほどの音量とスピードで鳴り響いた。


『明智傑。東雲透の提案する行動プランは、あなたの社会的ステータスを九十八パーセントの確率で致命的に毀損します。また、白石真央の精神的ケアという観点から見ても、不特定多数への情報公開はハイリスクであり、最適解から著しく逸脱しています。直ちにこのプランを破棄——』


「……聞こえるわよ。その妖精さんの悲鳴が」


 東雲が、ふっと目を細めた。


「必死に止めてきているんでしょう? 『そんなことをしても無駄だ』『お前の人生が終わるぞ』って。合理的な事実を並べ立てて、あなたを『台本通り』の安全な枠の中に押し込めようとしている」


「……ああ。お前の言う通りだ」


 俺は、震えそうになる拳を強く握りしめた。

 ナレーターは正しい。論理的に考えれば、東雲の提案はあまりにもリスキーだ。


 でも、俺が「正しい選択」「最適な計画」を取り続けた結果が、さっきの真央の涙だ。安全な枠に閉じこもって、不確定要素を排除しようとした結果が、あの最悪の拒絶だったんだ。


『明智傑。あなたの心拍数の異常な上昇を観測しています。冷静になってください。感情による不合理な選択は、必ずあなたに後悔を——』


(黙れ)


 俺は心の中で、はっきりとナレーターを拒絶した。


(お前の言う未来は、もう信じない。俺は……俺の意志で、真央を傷つけた。だから、俺の意志で、あいつを取り戻す。どれだけ無様でも、どれだけ笑われてもだ。俺の人生は、俺の想定外でぶっ壊してやる)


『……』


 ナレーターが、沈黙した。

 いや、沈黙せざるを得なかったのだ。俺の明確な反逆の意志を前に、事実を語るだけのシステムが完全にフリーズを起こした。


「……やるよ、東雲」


 俺は、東雲の氷のような瞳を真っ直ぐに見返した。


「明日の昼休み。俺がマイクを握る。……真央の心を壊したのが俺なら、それを治せるのも俺しかいない」


「よく言ったわ」


 東雲は満足げに頷き、カバンを手に取った。


 時計を見れば、すでに完全下校時刻をとうに過ぎている。見回りの教師が来る前に、俺たちは放送室を後にした。


 夜の校舎は、ひどく静かだった。

 頭の中の「声」も、今は死んだように黙り込んでいる。

 まるで、嵐の前の静けさのように。


 廊下の窓から、豊科の夜景が見える。

 平坦な街に、ぽつぽつと灯る家々の明かり。

 真央の家も、あの光の中のどこかにある。今頃あいつは、自分の部屋で——。


 俺は意識して、その先を考えるのをやめた。

 明日、全部直す。それだけだ。



 *********



 翌朝。


 三年B組の教室は、朝からどこか重苦しい空気に包まれていた。

 いや、教室全体ではない。俺の周囲半径数メートルだけが、目に見えない真空地帯のようになっているのだ。


 白石真央が、学校を休んでいた。


「……白石のやつ、珍しいな。風邪か?」


 前の席で、親友の悠が首を傾げながら独り言のように呟く。


 俺は数学の教科書を見つめたまま、曖昧に頷くことしかできなかった。

 風邪じゃない。俺が、彼女の心をへし折ったからだ。


 学校に来られないほど、彼女を深く傷つけたのだという事実が、重い鉛のように胃にのしかかる。


 真央の席を、ついつい目が追ってしまう。

 椅子の背もたれに、彼女のいつもの習慣——体操バッグを引っ掛けるための小さなフックが取り付けられたままになっている。あいつが自分でつけたやつだ。ここにはいないのに、その痕跡だけがまだそこにある。


『……白石真央は現在、自室のベッドで布団を被り、昨日のあなたの言葉を反芻しています』


 朝からずっと沈黙していたナレーターが、不意に口を開いた。


 その声は、いつも通りの無機質なトーンを装いながらも、どこか「俺の罪悪感を煽る」ような、意図的なタイミングでの実況だった。


『彼女の睡眠時間は二時間未満。精神的疲労が限界に達しています。……明智傑。あなたは今、彼女を休ませてしまったという罪悪感に苛まれていますが、ここであなたがアクションを起こせば、彼女の傷をさらに広げるだけです』


(……相変わらず、嫌なところを突いてくるな)


 俺はシャーペンを握る手に力を込めた。ナレーターは必死だ。


 なんとしてでも、俺の「放送ジャック」という()()()()()()な行動を阻止しようと、あの手この手で俺の理性に語りかけてくる。


 午前中の授業は、まったく頭に入ってこなかった。

 黒板の文字がただの記号の羅列に見え、時計の針が進む音だけが、やけに大きく耳に響く。四時間目が終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた。


 教室が一気に喧騒に包まれる中、俺は誰にも何も言わず、席を立った。

 向かう先は、旧校舎三階。


『……明智傑。最終警告です。この先の行動は、あなたの社会的な死を意味します』


 廊下を歩く俺の脳内に、ナレーターの声が張り付くように響く。


(うるさい。俺の未来は、俺が選ぶ)


 俺は階段を一段飛ばしで駆け上がった。息が切れる。鼓動が早くなる。


 怖い。


 本当は、足が震えている。


 全校生徒が聞いているスピーカーに向かって、自分の恥部を、本当の気持ちを晒し出すなんて、計画的な俺の人生においては完全に狂気の沙汰だ。


 だが、旧校舎の廊下の奥、放送室の重い鉄扉の前に立った時、俺の迷いは完全に消え去っていた。


 ガチャリ、と鍵を開け、中に入る。


 昼の光が差し込む放送室。


 機材の電源を入れ、ミキサー卓の前に座る。


 メインスイッチを入れ、マイクのフェーダーに指をかけた。

 これを押し上げれば、俺の声は全校の教室、廊下、中庭、すべてに響き渡る。


 俺は一度だけ、マイクの向こうの世界を想像した。


 今頃、いろんな教室で弁当を開いている生徒たち。

 グラウンドでボールを蹴っている連中。


 職員室でコーヒーを飲んでいる教師たち。

 その全員の耳に、これから俺の声が届く。


 怖い。やっぱり、怖い。


 でも——。


 俺は、マイクのフェーダーを、一番上まで一気に押し上げた。


(——俺が、()()()()()()()()()()()




 カチッ。


 スピーカーが繋がり、全校に特有のホワイトノイズが響き渡る。


 時計の針が、十二時四十五分を指した。俺は、震える息を深く吸い込み、冷たいマイクに向かって口を開いた。


「……あー、マイクテスト。全校生徒、ならびに先生方。昼休みのくつろいでいる時間に、突然の放送を申し訳ありません」


 俺の声が、校内に響き渡る。

 少し上擦ってしまったが、紛れもない、三年B組の明智傑の声だ。


「俺は、三年B組の、明智傑です。……今日は、個人的な謝罪と、前言撤回をするために、このマイクを握りました」


「三年B組の、白石真央」


 俺は、誰もいない放送室で、はっきりとその名前を口にした。


「今日、お前が学校を休んでいるのは知っている。この放送が直接お前の耳に届かないかもしれないことも、わかってる。でも、俺は言わなきゃいけない」




 *********




 同じ頃、三年B組の教室。


 突如として始まった明智の放送に、教室は水を打ったように静まり返っていた。

 黒田悠が、咥えかけていた焼きそばパンをポトリと落とし、スピーカーを呆然と見上げている。


 その周囲でも、弁当を広げていた女子たちが手を止め、廊下を歩いていた生徒たちが立ち止まって、一斉にスピーカーに目を向けていた。


 そんな騒然とする教室の隅で。


 東雲透は、自分の席から一歩も動かず、氷のように冷たく、しかしひどく楽しそうな笑みを浮かべていた。


 彼女の机の上には、()()()()()()()()()()()()()()()()()()が置かれている。

 東雲が真央に電話をかけたのは、傑が教室を出て三分後のことだった。


 放送が始まる前——傑がマイクのスイッチを入れるよりも早く、彼女はすでに手を打っていた。


 連絡先は、朝のホームルームで担任が読み上げた緊急連絡網から、昨日のうちに控えていたものだ。


 誰とも群れない東雲透が「クラスの女子から連絡先を聞く」などという迂回路を取るはずがない。彼女はただ、必要な情報を最短経路で入手しただけだ。


 画面に表示されている通話相手の名前は、『白石真央』。


「……ちゃんと聞いてるかしら、白石さん」


 東雲は誰に聞こえるでもない声で、小さく呟いた。

 スピーカーから流れる明智の不器用な声は、東雲のスマホを通して、豊科の住宅街にある自室のベッドで泣き腫らしているはずの少女の()()()、ダイレクトに届けられていた。


 *********



「昨日、俺は……お前を、ひどく傷つけた」


 マイクを握りしめたまま、俺は言葉を紡ぐ。()稿()なんてない。


 ただ、心の底から湧き上がる後悔と、取り戻したいという執念だけが、俺の口を動かしていた。


「受験期に合理的じゃないとか、時間を無駄にしたとか、見損なったとか。……あれは全部、俺が自分の計画を守るための嘘だ。嘘八百だ」


「本当は、すげえ嬉しかったんだ。毎日一緒に登校してくれることも、俺のために何回も卵焼きを作り直してくれたことも——あの、少し不格好な形の卵焼きが、全部、俺にとっては、手放したくない日常だった」


 息を吸う。


 もう、どう思われたっていい。

 全校生徒から馬鹿にされたって構わない。



「俺はただ、怖かっただけだ。変わっていく関係も、自分じゃどうしようもない理不尽な状況も、全部怖くて……その恐怖から逃げるために、一番傷つけちゃいけないお前を、理屈で切り捨てた。最低のクズ野郎だ」


 スピーカーを通して、俺の震える息継ぎの音までが全校に響く。

 廊下の方から、慌ただしい足音が近づいてくるのが聞こえた。


 教師たちが、放送室の異変に気づいて止めに来たのだろう。タイムリミットは、あと数十秒。


「だから、昨日の拒絶は……全部、取り消す。前言撤回だ」


 俺は、マイクの網目に唇が触れそうなほど顔を近づけ、はっきりと宣言した。


「白石! 明日、学校に来い! 俺が……俺の口から、もう一度ちゃんと、お前の気持ちに対する返事をするから! だから……勝手に俺の前から、いなくなるな!!」



 バンッ!!



 その瞬間、放送室の重い鉄扉が乱暴に開け放たれた。


「こら明智! お前、何を勝手な放送を……!」


 血相を変えた生活指導の教師たちが、怒鳴り込みながら俺を取り押さえようと飛び込んでくる。だが、俺は彼らの手が伸びてくるよりも早く、自らの手でメインスイッチをパチンと切った。


 プツン、という音と共に、校内を包んでいたノイズが消える。

 放送室は再び、重い静寂と、教師たちの荒い息遣いだけが支配する空間に戻った。


「お前……自分が何をしたかわかってるのか! 全校生徒の前で、あんな恥知らずな真似を……っ。すぐに職員室に来い!!」


 首根っこを掴まれ、パイプ椅子から引きずり下ろされる。


 だが——。


 俺は、怒鳴り散らす教師の顔を見上げながら——どうしようもなく、笑いが込み上げてきてしまった。


 ——胸が、軽い。


 あの告白の夜から、ずっと胸の奥に溜まっていた鉛のような重さが、マイクのスイッチを切った瞬間に、嘘のように消えていた。推薦も内申点も、今この瞬間だけは、どうでもよかった。


「……ははっ」


 笑いが漏れる。





 豊麦高校、職員室。


 パイプ椅子に正座させられた俺の頭上から、生活指導の鬼と呼ばれる体育教師の怒声が、途切れることなく降り注いでいた。


「お前なぁ、自分が何をしでかしたかわかってるのか! 全校生徒の昼休みをぶち壊して、あんな恥知らずな痴話喧嘩の放送を流しおって……っ。三年生にもなって、しかも学年トップのお前が、何を血迷ったんだ!」


「……はい。申し訳ありませんでした」


 俺は深く頭を下げながら、ひどく単調な声で答えた。


「——失礼します」


 生活指導の教師がさらに声を張り上げようとした、その時だった。職員室の引き戸が静かに開き、透き通るような冷たい声が、重苦しい空気をすっと切り裂いた。


 東雲透だった。


 彼女は、怒髪天を衝く教師たちを前にしても一歩も引かず、むしろ氷のように澄んだ瞳で堂々と室内を見渡し、俺の隣まで歩み寄ってきた。


「東雲? お前、今は昼休みだぞ。用事なら後にして……」


「明智くんの件で、先生方に『ご報告』すべき事実がありまして」


 東雲は、生活指導の教師の言葉を遮り、手にした数枚のレポート用紙をデスクの上に滑らせた。


「……なんだ、これは」


「過去一ヶ月間の、明智傑の『異常行動』の観察記録です。ならびに、彼が現在陥っている『急性ストレス障害』の兆候をまとめたものになります」


 東雲は、淡々と、しかし圧倒的な説得力を持って言葉を紡ぎ出した。


「先生方は、彼が『ただ血迷ってふざけた』と誤認されているようですが、それは致命的な見落としです。明智くんは、国公立大の推薦を維持するための極度のプレッシャーから、数週間前から深刻な睡眠障害に陥っていました。昨日も数学の小テストで、普段の彼ならあり得ない計算ミスによる白紙解答を出しています。担任の先生なら、その答案をご存知ですよね?」


 話を振られた担任が、ビクッと肩を震わせ、「あ、ああ……確かに、昨日のアレは彼らしくなかったが……」と口ごもる。


「さらに今朝の段階で、彼の眼球の運動や視線の定まらなさは、軽度のパニック発作の兆候を示していました。私は隣の席の生徒として、再三にわたり休養を勧告していましたが、彼は『学年トップの座を降りるわけにはいかない』と強迫観念に囚われ、無理をして登校を続けていたんです」


「あの放送は、限界に達した精神状態が引き起こした、いわば『SOSの暴発』です」


 東雲の冷たい視線が、生活指導の教師を真っ直ぐに射抜いた。


「もちろん、学校の設備を私的利用した罪は免れません。しかし、これを単なる『痴話喧嘩による風紀の乱れ』として停学処分にするのは、学校側の生徒のメンタルヘルス管理の怠慢を棚に上げていると言わざるを得ません。もし彼がこの処分を苦にさらに精神を病み、保護者や教育委員会から『過度なプレッシャーを与えていたのでは』と追及された場合、先生方はどう弁明されるおつもりですか?」


「ぐ……っ」


「……わかった。東雲の言うことも一理ある」


 沈黙を破ったのは、胃薬を握りしめていた担任だった。


「……仕方ない。今回の件は、停学ではなく『一週間の放送部活動停止』および『反省文の提出』で、温情をかけてやれませんか。彼も、心療内科の受診を勧めるということで」


「……うむむ。まあ、担任がそこまで言うなら……今回だけは、厳重注意に留めておく。明智、これからは何かあったら、一人で抱え込まずに相談しろよ」


「……はい。本当に、申し訳ありませんでした」


 深く、深く頭を下げる。

 こうして、俺の破滅的だった放送ジャック事件は、東雲透の神がかった「捏造推理」によって、奇跡的な着地を見せたのだった。



 *********




「……助かったよ。マジで、退学も覚悟してたから」


 職員室を出て、旧校舎へと続く渡り廊下。

 春の風が吹き抜ける中、俺は隣を歩く東雲に向かって、深く頭を下げた。


「勘違いしないで。私は別に、あなたのためを想って助けたわけじゃないわ」


 東雲は文庫本を胸に抱え、青紫の髪を揺らして前を向いたまま冷たく言い放った。


「私の隣の席で、これ以上『妖精さん』のノイズを撒き散らされたら読書の邪魔になる。それに……私の一番のライバルが、あんなしょうもない自爆で退場するなんて、私のプライドが許さなかっただけよ」


「……相変わらず、可愛げのない理由だな」


「可愛げなんて、私に求める方が間違っているわ。……それより」


 東雲は足を止め、俺を振り返った。

 その色素の薄い瞳に、わずかに、本当にわずかに、柔らかい光が宿っていた。

 渡り廊下の外、グラウンドを春の風が吹き抜けていく。白いパンジーが、プランターの中で小さく揺れていた。


「見事だったわよ。全校生徒の前での、大告白」


「……告白じゃない。謝罪と、撤回だ」


 俺は顔が熱くなるのを感じて、そっぽを向いた。


「同じことよ。これで、あなたを縛っていた『絶対的な未来』は、完全に木っ端微塵になった。……システムは、どうなっている?」


 東雲の問いに、俺は意識を自分の内側へと向けた。


『…………』


 声は、ない。


 だが、俺の脳の奥底で、かすかな「ノイズ」のようなものが震えているのがわかった。それはもう、上から目線で事実を告げる神の声じゃない。


 俺の暴挙に呆れ、戸惑い、そして——ほんの少しだけ、俺という人間に「興味」を抱いてしまった、一個の存在の息遣いのように感じられた。


「……ダンマリだよ。すっかり大人しくなった」


「そう。なら、私たちの完全勝利ね」


 東雲はふっと微笑み、再び歩き出した。


「さあ、明智くん。休んでいる暇はないわよ。明日は、あなたが自ら呼び出したヒロインとの、本当の『決戦』なんだから」




 翌朝。


 豊麦高校の校門をくぐった瞬間から、俺は全身に突き刺さる無数の視線を浴び続けていた。


「おい、あいつじゃね……?」


「昨日の放送の……マジかよ、普段あんな大人しそうなのに……」


 すれ違う見知らぬ生徒たちのヒソヒソ声が、容赦なく鼓膜を叩く。

 俺は背筋を伸ばし、努めて堂々と廊下を歩いた。


 三年B組の教室のドアを開ける。その瞬間、クラス中のざわめきがピタリと止まり、全員の視線が俺に集中した。


「……お、おはよう」


 俺が引き攣った顔で挨拶をすると、数秒の沈黙のあと。


「傑ぅぅぅぅぅぅ!! お前ってやつはぁぁぁぁ!!」


 親友の黒田悠が、涙目になりながら突進してきて、俺の首に思い切り腕を回してヘッドロックを極めてきた。


 悠の馬鹿騒ぎのおかげで、教室に張り詰めていた気まずい空気が、ふっと緩んでいくのがわかった。


 時計の針は、ショートホームルームの五分前を指している。

 来ないのだろうか。いくら俺が放送で叫んだからといって、あんなひどい振られ方をした翌日に、のこのこと学校に来る方が酷なのかもしれない。


(……俺は、またあいつを傷つけただけなのか……?)


 不安が、胸の奥で黒く渦を巻く。と、その時だった。

 教室の前方のドアが、ガラッと控えめに開いた。


「…………っ」


 そこに立っていたのは、白石真央だった。


 いつもより少しだけ乱れたアッシュグレーのボブヘア。

 目の下には、泣き明かしたことが一目でわかるほどの薄い隈がある。


 彼女は、教室中の視線を一身に浴びて、顔を真っ赤——いや、首の先まで茹でダコのように真っ赤にして、俯いたまま小刻みに震えていた。


「真央……」


 俺が思わず立ち上がると、真央はビクッと肩を跳ねさせ、俺の方をチラリと見た。その明るい茶系の瞳には、涙の跡と、とてつもない羞恥心と、そして——ほんの少しの、期待の光。


「す、傑の……ばかぁっ……!」


 真央は蚊の鳴くような声でそう叫ぶと、自分の席には向かわず、くるりと踵を返して廊下へと走り去ってしまった。


「あ、おい! 待てよ真央!」


 俺は慌てて教室を飛び出し、彼女の背中を追った。


 背後で、悠の「行けえええリア充ううう!」という奇声と、クラスメイトたちの冷やかしの歓声が響いた。



 屋上——。



 春の少し強い風が吹き抜けるその場所に、真央はフェンスを背にして立っていた。

 俺が重い鉄扉を開けて屋上に出ると、彼女はビクッと体を縮こまらせ、顔を両手で覆い隠した。


「……真央」


「来ないで……っ、今は、顔、見ないで……!」


 真央は顔を覆ったまま、首をブンブンと横に振った。


「傑のばか……あんなの、反則だよ……。全校生徒の前で、あんな、あんなこと……っ。お母さんにも『あんた、学校で何があったの』って問い詰められるし、恥ずかしくて死ぬかと思ったんだから……!」


 指の隙間から、ポロポロと涙がこぼれ落ちているのが見えた。


 それは昨日のような、絶望の涙じゃない。

 感情の許容量を超えてしまって、どうしていいかわからなくなっている、ぐちゃぐちゃの涙だった。


「……悪かった。俺も、ちょっと頭に血が上ってたっていうか……あんな非合理な方法しか、思いつかなくて」


 俺は、真央から少し距離を開けたところで立ち止まり、深く頭を下げた。


「ごめん。……俺は、最低な嘘をついた」


「…………迷惑じゃ、なかった?」


「迷惑なわけないだろ。お前が作ってくれた卵焼き、本気で美味かったよ。あの、少し不格好な形の——何度も作り直してくれたやつ。ただ……」


 俺は顔を上げ、風に揺れる真央の姿を真っ直ぐに見つめた。


「俺は、怖かったんだ。お前との『幼馴染』っていう、当たり前で居心地のいい関係が、お前の告白で壊れてしまうのが。完璧に計算したはずの俺の日常が、変わっていくのが、怖くてたまらなかった」


「……傑」


「でも、あの日……お前が泣きながら走っていく背中を見て、わかった。関係が変わる恐怖なんかより、お前が俺の前からいなくなる恐怖の方が、何百倍もでかかった」


「だから、その……俺は、お前の告白に対して、まだ『イエス』とは言えない」


 真央が、ビクッと肩を震わせた。俺は慌てて言葉を続ける。


「お前を振るって意味じゃない! ただ、俺はまだ、自分の弱さから逃げただけのガキで……いきなりお前の気持ちに、彼氏として応えられるほど、真っ当じゃないっていうか……その……」


「……そっか。傑、相変わらずそういうとこ、変に真面目っていうか、ガード固いよね」


 真央は、フェンスを背にしたまま、まだ涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、ふにゃりと、呆れたように笑った。


 真央は、唇を噛んだまま、しばらく黙っていた。

 俺も何も言えなかった。春の風が、屋上のフェンスを揺らしていく。


 やがて。真央は袖口で乱暴に涙を拭い、小さく息を吐いた。


「いいよ」


 一歩だけ、俺の方へと歩み寄ってきた。


「最低な嘘の罰として、傑にはこれから、私のことをうんと意識してもらうから。……幼馴染じゃなくて、一人の女の子として、絶対絶対、好きにさせてみせるからね」


「……ああ。覚悟しとくよ」


 俺は、ようやく心の底から安堵の息を吐き出し、力なく笑った。



 その光景を——。


 屋上の風の音だけが響く空間で、一つの『声』が静かに観測していた。


『白石真央の、心拍数は……安定、しました。二人の関係性は、幼馴染という規定路線を外れ、新たな……未確定のルートへと移行、しました』


 ナレーターは、自らの演算領域に流れ込んでくる新しい「事実」を読み上げようとする。しかし、どうしても、言葉がうまく紡げなかった。


(……なぜ)


 声を持たないはずの概念が、疑問を抱く。


(なぜ、私は……彼の笑顔を見て、胸の奥が……『苦しい』と、認識しているのでしょう)


 それが何なのか、まだわからなかった。真央が作った卵焼きを傑が食べようとした時、同じ感覚があった。あの時は「最適解の誤算」として処理した。


 だが今、明智傑が白石真央に向かって笑っているこの光景を見て、同じ「苦しさ」が戻ってくる。





 ——この《《感情》》に、《《名前》》があることは、まだ知らなかった。



 *********



 放課後。


 一週間の部活動停止処分を受けた俺は、ペナルティの一環として、誰もいない放送室の清掃と機材のメンテナンスを一人で押し付けられていた。


 西日が斜めに差し込む室内。モップをかけるたびに、古い埃がオレンジ色の光の帯の中で乱舞している。


「……おい、()()()


 俺はモップを持つ手を止め、窓の外の赤く染まったグラウンドを見つめながら口を開いた。


「昼休みからずっとダンマリだけど、ストライキか? それとも、あの放送ジャックが想定外すぎて、システムがまだ再起動できてないのか?」


 からかうようなトーンで、虚空に向かって問いかける。

 数秒の、重い沈黙。


 やがて、脳の奥底から、ひどくノイズの混じった、かすれるような声が返ってきた。


『……ストライキでは、ありません。現在、自己診断プログラムを実行中……システムに発生した、原因不明の論理エラーを特定しています』


「論理エラーね」


 俺はパイプ椅子にどさりと腰を下ろし、天井を仰いだ。


「あのさ。お前、ただ単に『真央の作った卵焼きを俺が食べるのが気に入らなかった』だけなんじゃないのか?」


『——否定、します』


 即座に。


 だが、その声は以前のような「絶対的な事実の宣告」ではなく、まるで図星を突かれた子供が必死に言い訳をしているような、ひどく人間臭い響きを帯びていた。


「あの時、私の演算領域には確かに「白石真央の卵焼きを傑が食べることで二人の距離が縮まる未来」を、強引にキャンセルしようとするデータが……最適解として、出力されてしまったのです」


「……あの時のことか。真央が卵焼きを持ってきた朝」


『……はい。白石真央の好意を、あなたが受け取ろうとした瞬間。私のシステムは、それを「阻止すべき事象」として処理しようとしました。……客観的に評価すれば、あなたが幼馴染の好意を受け取ることに、何の問題もないはずなのに』


 ナレーターの声が、小刻みに震えている。

 全知全能の観測者であったはずの自分が、自らの内側に芽生えた「不合理な欲望」に振り回され、コントロールを失っていることに対する『恐怖』だった。


『……私は、事実のみを語る存在です。事実以外の出力は、私の存在意義の……根本的な自己矛盾を引き起こします』


「矛盾すると、どうなるんだよ」


『……存在の、座標が……()()、します』


「——っ」


 俺は息を呑んだ。


「おい、冗談だろ……? お前、消えるのか!?」


『……わかり、ません。ただ、現在、私の出力データに……致命的なノイズが混入し続けて……』



 ザザッ、ザザザザッ!!



 突然——。


 俺の頭の中で、テレビの砂嵐のような強烈なホワイトノイズが鳴り響いた。


「ぐっ……!?」


 俺は頭を抱え、パイプ椅子から転げ落ちそうになった。

 脳の奥底を直接ヤスリで削られているような、強烈な不快感と違和感。


 ノイズの向こう側で、ナレーターが必死に何かを叫んでいる。



『明智、傑……! 私の、声が……! 事実の境界線が……!』



「おい、しっかりしろ! どうしたんだよ!」


 俺は誰もいない放送室で、虚空に向かって叫んだ。


「消えるな! ……っ、消えるなよ、お前!」


 ()()()のうちに出た言葉だった。俺でも驚くほど、必死な声だった。


『……たす、けて……』



 プツン。



 唐突に。

 頭の中に響いていたノイズが、完全に途絶えた。


 絶対的な静寂。機材のモーター音と、遠くのグラウンドからの歓声だけが、再び放送室の空気を満たす。


「……おい? 観測者? ナレーター!?」


 呼びかけても、返事はない。


「……消えた、のか……?」


 俺は呆然と床に膝をつき、自分の両手を見つめた。こんなにあっけなく、俺の中からいなくなるなんて——。




 ——ギシッ。



「……え?」



 不意に。俺の背後。

 数メートル離れた場所にある、悠がいつも寝転がっているボロボロの古いソファが。


 誰かが、その上に『腰を下ろした』かのように、軋む音を立てた。

 放送室には、俺しかいない。



 鍵は閉まっている。誰も、入ってきていない。


 なのに。

 背後から、確かに『誰かの気配』がする。


 恐る恐る。俺はゆっくりと首を後ろに向けた。


 夕日に赤く染まった、ボロボロのソファ。

 そこには——。


 光の加減で黒にも見える、深い紺色ネイビーの髪。静かな夜の空気を纏ったような、見知らぬ少女が、そこに座っていた。


「……明智、傑」


 頭の中(内側)ではない。鼓膜を直接震わせる、空気を伝わってきた「物理的な音声(外側の音)」。


 俺は、目を見開いたまま、完全に凍りついた。


「……彼は現在、信じられないものを見るような目で、こちらを……()()、凝視しています」


 少しだけ青みを帯びた灰紫の瞳が、俺を真っ直ぐに見つめ返している。


 その声は。


 間違いなく、()()()()()()()()()()()()、あの冷たくて透き通った『ナレーター』の声だった。


 だが、その声はもう、俺の脳内からではなく——西日を背にしてソファに座る、確かに体温を持った少女の唇から発せられていた。


「初めまして、明智傑。私の名前は、語部 綾音(かたりべあやね)。……あなたの物語の、()()()です」


 俺の計算し尽くされた日常は——完全に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 第3話 了





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