表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/4

幕間:「白石真央は夕暮れの昇降口で世界が砕ける音を聞く【真央ちゃん視点】」

 


 走った。


 涙で視界がぐちゃぐちゃに滲んで、夕日に染まった旧校舎の廊下が、まるで血の海のように歪んで見えた。


 角を曲がり、階段を駆け下り、また角を曲がった。


 どこへ向かっているのかなんて、考えていなかった。ただ走った。足が動く限り、傑の声から遠ざかりたかった。


 心臓が、痛かった。走っているからじゃない。


 胸の奥が、まるで生木を裂かれるみたいに、ミシミシと音を立てて壊れていくのがわかった。


「……っ、う、あぁ……っ」


 声を押し殺そうとしても、喉の奥から悲鳴のような嗚咽が漏れた。


 どうして。どうして、あんなことを。

 廊下の壁を、指先が掠めていく。掲示板の文字も、消火器の赤も、全部ぼやけて意味をなさなかった。


 走って、走って、どこへ行こうとしているのかも、もうわからなかった。ただ、傑の声から遠ざかりたかった。あの冷たい声から。


 脳裏に、さっきの傑の顔が、言葉が、何度も何度もリフレインした。


『迷惑なんだよ』


 氷のように冷たい、突き放すような視線。計画通りに生きる彼が、最も嫌う『予定外のノイズ』を見るような目だった。


『受験期に感情的な話を持ち込むのは、合理的じゃない。……図書室も、弁当も、全部そのための布石だったなら、俺の時間を無駄にしたことになる。見損なったよ』


 私の、何年もかけて育ててきた、傑への想い。それは、傑にとっては「つまらない感情」でしかなかった。


「……違う」


 走りながら、アッシュグレーの髪を振り乱して首を横に振った。


 違う。違うよ、傑。


 打算なんてない。ただ……ただ、傑が好きだから。


 傑に、私の作ったものを食べてほしくて。美味いって、笑ってほしくて。


 昨日だって、火傷までして、何度も何度も作り直して……。


 左手の人差し指に貼られた、キャラクター柄の絆創膏をぎゅっと握り込んだ。


 昨夜、三回目の卵焼きを作り直している時に、うっかりフライパンの縁で触れた小さな火傷跡。


 痛みよりも「もう一回」の方が大事だった。明日の朝、傑がこれを食べてくれるなら——そう思って、何度でもやり直せた。


 今朝、美味いと言って食べてくれた時の顔は? 


 昨日、一緒に帰った時の、少し呆れたような、でも優しい声は?


 図書室で、私の手に触れた時の温もりは——あの指が絆創膏の上で止まった一瞬は? 


 傑は気づいていた。絶対に、気づいていたはずなのに——。


 全部、全部、私の勘違い? 


 傑は、ただの「幼馴染」の義務感で、私に付き合ってくれていただけ?


 私は、ただの「面倒な近所の子」でしかなかったの?


「——っ」


 一階の昇降口。


 誰もいない、薄暗い空間に飛び込んだ。


 自分の下駄箱の前に崩れ落ち、冷たいコンクリートの床に両手をついた。涙が、ポタポタと冷たい床にシミを作っていく。


 吐く息が震えていた。鼻の奥がツンとして、何度も何度もすすり上げた。


 嘘だと言ってほしかった。ごめん、今のなし、なんて、傑らしくない冗談を言って、追いかけてきてほしかった。でも。


 ——静寂。


 私の耳に届いたのは、追いかけてくる慌ただしい足音じゃなかった。


 階段の上から、ただ一つ、反対方向へと遠ざかっていく、静かで冷酷な上履きの音だけだった。


 傑は、来なかった。私が走り去ったあと、傑はただの一歩も、私を追いかけてはくれなかった。


 それが、()()


 それが、絶対的な()()


 私の世界は、傑を中心に回っていた。


 朝、「おはよう」って言って一緒に登校すること。


 傑が学年トップでいるのを、誰よりも誇らしく思うこと。


 悠くんに呆れる傑の隣で、いつまでも笑っていること。


 そんな、これからもずっと続くはずだった当たり前の日常が、傑の一言で、完璧に砕け散った。


「……っ、傑の、ばか……っ」


 拳でコンクリートを叩いた。痛い。でも、胸の痛みの方が、ずっとずっと強くて、感覚が麻痺しそうになった。


 もう、明日から、どうやって傑の顔を見ればいいの? 


 平坦な豊科の通学路で会っても、「おはよう」って、言ってもいいの?


 また、図書室で勉強教えてって、言ったら……迷惑?


「つまらない感情」なんて言われたのに。「見損なった」なんて言われたのに。


 なのに、どうして。


 どうして私は、今も。


「……どうして、まだ、好きなんだよ……っ」


 絞り出した声は、無人の昇降口に、虚しく消えていった。


 昇降口の開け放たれた扉の向こう、豊科の平野の彼方に、北アルプスの稜線を黒く縁取るように夕日が完全に沈んでいく。


 あの山を、いつも傑と並んで見ていた。


「雪、まだあるね」とか、「今年は寒いな」とか、なんでもない話をしながら。そんな些細なことが、全部宝物だった。


 薄暗い闇の中で、私はただ、戻ることのない「昨日までの日常」の残骸を抱きしめて、泣き続けることしかできなかった。


 ——でも。


 ただ一つだけ。


 傑があの言葉を言う直前、ほんの一瞬だけ、彼の声が揺れた気がした。


 氷みたいに冷たかったはずのあの声が、ほんの少しだけ、不自然なくらい乱れていた。


 それだけじゃない。


 図書室で、私の手が触れた瞬間——傑の指が、絆創膏の上で、ほんの一瞬だけ止まった。あれは、気づいていた人間の動きだった。


 それが何を意味するのか、今の私にはわからなかった。わかりたくないような気もした。


 でも、その小さな震えと、あの一瞬の静止だけが、まだ、私の胸の奥でくすぶり続けていた。

 消えろ。消えてしまえ。



 ——でも、消えないでほしい。



 そんな矛盾した願いを抱えたまま、私は暗い昇降口の床に、膝を抱えてうずくまり続けた。



 幕間 了



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ