幕間:「白石真央は夕暮れの昇降口で世界が砕ける音を聞く【真央ちゃん視点】」
走った。
涙で視界がぐちゃぐちゃに滲んで、夕日に染まった旧校舎の廊下が、まるで血の海のように歪んで見えた。
角を曲がり、階段を駆け下り、また角を曲がった。
どこへ向かっているのかなんて、考えていなかった。ただ走った。足が動く限り、傑の声から遠ざかりたかった。
心臓が、痛かった。走っているからじゃない。
胸の奥が、まるで生木を裂かれるみたいに、ミシミシと音を立てて壊れていくのがわかった。
「……っ、う、あぁ……っ」
声を押し殺そうとしても、喉の奥から悲鳴のような嗚咽が漏れた。
どうして。どうして、あんなことを。
廊下の壁を、指先が掠めていく。掲示板の文字も、消火器の赤も、全部ぼやけて意味をなさなかった。
走って、走って、どこへ行こうとしているのかも、もうわからなかった。ただ、傑の声から遠ざかりたかった。あの冷たい声から。
脳裏に、さっきの傑の顔が、言葉が、何度も何度もリフレインした。
『迷惑なんだよ』
氷のように冷たい、突き放すような視線。計画通りに生きる彼が、最も嫌う『予定外のノイズ』を見るような目だった。
『受験期に感情的な話を持ち込むのは、合理的じゃない。……図書室も、弁当も、全部そのための布石だったなら、俺の時間を無駄にしたことになる。見損なったよ』
私の、何年もかけて育ててきた、傑への想い。それは、傑にとっては「つまらない感情」でしかなかった。
「……違う」
走りながら、アッシュグレーの髪を振り乱して首を横に振った。
違う。違うよ、傑。
打算なんてない。ただ……ただ、傑が好きだから。
傑に、私の作ったものを食べてほしくて。美味いって、笑ってほしくて。
昨日だって、火傷までして、何度も何度も作り直して……。
左手の人差し指に貼られた、キャラクター柄の絆創膏をぎゅっと握り込んだ。
昨夜、三回目の卵焼きを作り直している時に、うっかりフライパンの縁で触れた小さな火傷跡。
痛みよりも「もう一回」の方が大事だった。明日の朝、傑がこれを食べてくれるなら——そう思って、何度でもやり直せた。
今朝、美味いと言って食べてくれた時の顔は?
昨日、一緒に帰った時の、少し呆れたような、でも優しい声は?
図書室で、私の手に触れた時の温もりは——あの指が絆創膏の上で止まった一瞬は?
傑は気づいていた。絶対に、気づいていたはずなのに——。
全部、全部、私の勘違い?
傑は、ただの「幼馴染」の義務感で、私に付き合ってくれていただけ?
私は、ただの「面倒な近所の子」でしかなかったの?
「——っ」
一階の昇降口。
誰もいない、薄暗い空間に飛び込んだ。
自分の下駄箱の前に崩れ落ち、冷たいコンクリートの床に両手をついた。涙が、ポタポタと冷たい床にシミを作っていく。
吐く息が震えていた。鼻の奥がツンとして、何度も何度もすすり上げた。
嘘だと言ってほしかった。ごめん、今のなし、なんて、傑らしくない冗談を言って、追いかけてきてほしかった。でも。
——静寂。
私の耳に届いたのは、追いかけてくる慌ただしい足音じゃなかった。
階段の上から、ただ一つ、反対方向へと遠ざかっていく、静かで冷酷な上履きの音だけだった。
傑は、来なかった。私が走り去ったあと、傑はただの一歩も、私を追いかけてはくれなかった。
それが、答え。
それが、絶対的な事実。
私の世界は、傑を中心に回っていた。
朝、「おはよう」って言って一緒に登校すること。
傑が学年トップでいるのを、誰よりも誇らしく思うこと。
悠くんに呆れる傑の隣で、いつまでも笑っていること。
そんな、これからもずっと続くはずだった当たり前の日常が、傑の一言で、完璧に砕け散った。
「……っ、傑の、ばか……っ」
拳でコンクリートを叩いた。痛い。でも、胸の痛みの方が、ずっとずっと強くて、感覚が麻痺しそうになった。
もう、明日から、どうやって傑の顔を見ればいいの?
平坦な豊科の通学路で会っても、「おはよう」って、言ってもいいの?
また、図書室で勉強教えてって、言ったら……迷惑?
「つまらない感情」なんて言われたのに。「見損なった」なんて言われたのに。
なのに、どうして。
どうして私は、今も。
「……どうして、まだ、好きなんだよ……っ」
絞り出した声は、無人の昇降口に、虚しく消えていった。
昇降口の開け放たれた扉の向こう、豊科の平野の彼方に、北アルプスの稜線を黒く縁取るように夕日が完全に沈んでいく。
あの山を、いつも傑と並んで見ていた。
「雪、まだあるね」とか、「今年は寒いな」とか、なんでもない話をしながら。そんな些細なことが、全部宝物だった。
薄暗い闇の中で、私はただ、戻ることのない「昨日までの日常」の残骸を抱きしめて、泣き続けることしかできなかった。
——でも。
ただ一つだけ。
傑があの言葉を言う直前、ほんの一瞬だけ、彼の声が揺れた気がした。
氷みたいに冷たかったはずのあの声が、ほんの少しだけ、不自然なくらい乱れていた。
それだけじゃない。
図書室で、私の手が触れた瞬間——傑の指が、絆創膏の上で、ほんの一瞬だけ止まった。あれは、気づいていた人間の動きだった。
それが何を意味するのか、今の私にはわからなかった。わかりたくないような気もした。
でも、その小さな震えと、あの一瞬の静止だけが、まだ、私の胸の奥でくすぶり続けていた。
消えろ。消えてしまえ。
——でも、消えないでほしい。
そんな矛盾した願いを抱えたまま、私は暗い昇降口の床に、膝を抱えてうずくまり続けた。
幕間 了




